2-5.自壊する僕と私のユーフォリア

※多少のグロテスク、病み描写注意


――――――――――――――――――――


 視界のすべてが砕け散る。

 腰かけていたベッドも泡沫のように消えてなくなり、地面に打ち付けられる。

 視線。見上げると、数人の影がぼくを囲っている。


 ……誰?

 ルドベック部門長ディレクター

 それとも、お父様?

 真っ黒な蝋顔料クレヨンでぐちゃぐちゃに塗りつぶされた人影の数々は、赤い口唇を憎々しく開く。


「なぜ女として生まれた」

「なぜこんなこともできない。皆は普通にできるというのに」

「その顔を見ると虫唾が走る」

「錬金術しか取り柄のない、可愛げのない女だよ全く」

「錬金術師なんだからできて当然でしょ」

「その錬金術も成果がでないんじゃ本当になにもできないじゃん」


 老若男女の声。

 頭が。潰れる。脳みそ。痒い。耳を閉じても響いてくる。

 嫌……いや。やめて。これ以上は。

 ごめんなさい。

 ぼくが悪かった。ぜんぶぼくが悪かったの。だからもう……やめて。

 

「おまえに何ができるんだ?」

「おまえは無価値の人間だ」

「白毛女はいるだけで迷惑なんだよ」

「私は苦しかったのだよ。もう君の指導をするのは耐えきれなくてね。だから死を選んだ。君のことは決して許さない」

「姉様、僕が呪いで苦しんで清々した? どんな気持ちで僕のこと見てたの? なぁ、卑怯者」


 やめて! 気持ち悪い。わたし、あぁ、嫌。嫌ぁ!

 皮膚を這う無数の黒い蛆と蝿に貪られていく。払っても払っても溢れる血と共に湧いてくる。肚から喉奥、そして口へと、蠢く感覚は嘔吐することで紛らわす。どす黒い血肉と胃液に濡れた手や足元。そこから湧き出る黒く冷たい水に呑まれていく。

 動けない。痛いよ。冷たいよ。なにも見えない。

 溺れる。


「おまえが殺した」


「人殺し」


「人殺し」


「人殺し!」


「人を殺しておいてよく息を吸っていられるよ」


 神様、おねがいだから……。

 なんで。わたしは。


「あんたなんか産まなきゃよかった」

「おまえは我々の子ではない」


 生まれてきたの。


   *


「あ゛あ゛あっ、あぁっ、ぇあ、あ゛あぁあ゛あ゛あ゛ぁあ゛あ゛あ゛!」


 暗い。

 なにも見えない。

 聞こえない。

 寒い。

 こわい。

 こわいよ。

 わたしじゃない。これはわたしじゃない!

 おまえは誰だ。

 出てけ。

 早く出ていけ!

 無能!

 人殺し!

 不幸にしかできないおまえなんかが!

 幸せになっていいはずないんだ。


「お゛え゛ぇえ゛っ、げぁぁ、うぇ……かは、ぁあ゛――お゛ぼァっ」

「アリー……!?」


 熱い。酸っぱい。臭い。止まらない。中、痛い……痛いイたいイ゛タい!

 体の中に何かがいる。蠢いている。気持ち悪い。頭の中にも。目が破裂しそう。外に出したい。楽にして。楽に、らくに……!


「か……はっ、あ゛ぁ……ぇ」


 しんじゃえ。しんじゃえ、しんじゃえしんじゃえっ、はやくしんじゃえよ!

 ほらはやく! さっさとしねよ!


「やめてアリー! 落ち着いて!」

「――ぇはァ! はぁっ、ぁはァ……っ、ああっ、あ゛あああぁああ゛あ゛っ!」


 放して。もう少しで楽になれそうだったのに。なんで邪魔するの。

 こいつは悪い子なんだ。こいつ、わたし、わたし、こいつ、わたし、わ、わる、悪い、悪い、悪い。わたしは、悪い子、悪い子なんだ。だから、だ、だか、だから、いいい生きていちゃいけないんだ!


「やめ゛て! こないでぇ! いや、いゃあああっ!」

「痛っ、私よ、私! ランネ! アリーの友達! アリー、私を見て! ッ、アリー!」


 わたし、悪い子だから。しあわせになっちゃいけないのに。

 なんであたたかいの。なんで。なんでやさしくするの。なんで。

 やめてよ。抱きしめないでよ。

 わたし、もう。しにたいのに。

 このあたたかさがほしくなってしまう。


「もぅ、しません……もうしま゛せんがらぁ……あぁうあ、ゆるしてぇ……っ、あ゛ぁっ、はぁ……ごめ、なさ……ごめん、なさぃ……う゛ま゛れて、ごべんなざいぃ……っ」

「だいじょうぶ。だいじょうぶだよ。ほら、私がいるから」

「っ、ひぐ……ぃぐ……っ、ひゅう、ぁは、あぁぁっ、ぉえ゛……っ」

「ゆっくり息を吸って……吐いて……」


   *


 月明かりが床と机をやさしく照らしているのを、ただぼーっと見ていた。

 どこからが夢で、どこまでが現実なのかわからなかった。でも、今は間違いなく現実だと信じたい。

 ベッドの上でランネさんに強く抱きしめられながら、ぼくはただ深呼吸を繰り返す。

 カモミールの香りが彼女から漂う。乾いた涙と鼻水が皮膚に張り付く。胃液まみれの口がちょっと痛い。

 どれほどの時間が経ったのだろう。


「落ち着いた?」

 囁く声が、どこか心地いい。落ち着く声。でも、申し訳なかった。シーツも毛布も、彼女の服も吐瀉物と血で汚してしまったから。


「ご、ごめ゛……っ、ひっぐ、服、はぁ……きたなく、しちゃった……」

「いーのいーの。きたなくないし。すっきりした?」

「……すこし」

「じゃあもっと吐いていいよ」

「……それは、その、さすがに」

「なんで? 私は全然問題ないよ。申し訳ないなんて気持ちをアリーが抱える必要なんてないんだから」

「でも」

 温もりが離れる。ギィ、とベッドの軋む音。薄暗くても、月明かりで幽かに見える彼女の表情は穏やかだった。


「困ったときはお互いさま。私も辛いことがあったらアリーが私を支える。それでおあいこ。これならどう?」

「……わかった」

 まるで赤子に微笑みかけるような。そんな笑顔を向けられたら、何も言えなくなる。


 もじ、と体を動かし、ちょっとだけ目を逸らす。そんなぼくの挙動を察したのか否か、もう一度ぎゅっと、彼女はぼくのやせっぽちな体を抱き寄せてくれた。さびしいって気持ちを読まれてしまったようで、恥ずかしかった。

 ランネさんの手、あたたかい。ふしぎなあたたかさを感じる。


「ねぇ知ってる? "暗い夜ほど満天の星が見える"。つらくて怖い暗闇でも、見上げればたくさんの光が照らしてくれている」

「……」

「でも、その日が曇っていて雨が降っている夜なら、一緒に手を握って、あなたが泣き止むまで傍にいる。いつまでも傍にいる。だから大丈夫」


 それを聞いたのが最後だった。疲れて眠っていたであろうぼくは、気が付くと朝を迎えていた。よく眠れたようで、すっきりしている。おかしい、汚したはずのシーツも毛布も綺麗だ。


「おっはよーアリー! 渾身の朝ごはんができましたぞよーっ!」

 あれは夢だったのかな。あの夜といま扉から飛び出てきた元気な少女が同一人物とは、一瞬だけだが思えなかった。


「体の具合は大丈夫?」

「うん、だいぶ……よくなった、かも。体も、もう……いた、痛まない、かな」

 そう言うと、よかった、と太陽みたいな笑顔を彼女は向けた。

「じゃあご飯食べたら外に出てみる? アリーにね、たくさん見せたいところがあるんだ」

 窓の外を見れば晴天。

 青い空に虹がかかっている。

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