1-3.呪い
「あった、ここだ」
思わず声が弾んだ。ようやくたどり着いた嬉しさに、一種の安堵を覚えている。
大きなドーム状の建造物。広場ともいえるここは様々な人が歩いており、店舗も並んで一層にぎやかだ。
総合産業者間職業別組合局、通称"ギルド"集会所。国によってその意味合いは様々だが、ここでは多様な職業をひとつの巨大な組織として運営し、仕事を斡旋してもらうところだ。
互助会とは異なり、各塔層主の管理下にあるようで、かつ手に職をもつ民の生活保護や作業の安定化のためにお互いが手を取り合って助ける仕組みらしい。そのため個人で事業を設立するような重い負担はない。信頼はできるはず。
また、15歳以上の雇用機会を確保するための施設でもあるので、無職となったぼくにうってつけだろう。ただ、不器用で無愛想な子どもがやっていけるか自信はないけど。
そのとき、またもぶつかる感覚が背中から感じる。
「ぼーっと突っ立ってんじゃねぇぞ」
「すっ、すみません……っ」
下げた頭を上げたときには「ったく」と言いながらも大きな背中を見せて去ってしまった。自分が邪魔なんだという感覚が胸を押しつぶしてくる。
大きな剣、プレートの鎧。あの風貌は確か、"冒険者ギルド"の会員。
正式には未開地開拓・魔物狩猟業――世間一般では冒険者ギルドでまかり通っている職人業なんだっけ。軍事や国内の治安維持に務める騎士団や、国内の動植物の採集や捕獲ないし駆除に務める採捕師とは異なり、特定区域の自由な活動を認められた特殊ギルドとも称されているらしいけど、縁のないぼくにはよくわからない。
とはいえ、この国を"外部"の"
でもああいう人ばかりじゃないよね。きっと騎士道を貫いたような強くて頼れる、やさしい人もいるはず。もしそんな人と結ばれたら。あわよくばぼくも冒険者みたいにみんなの役に立つ人になれたら。
「……なに考えてんだろ、ぼく」
小さな溜息を一つつき、俯く。
妄想したところで仕方がない。そんな高等な職にありつけるほどの能力はぼくにはない。機転も膂力も、体力だってないんだから。
でも、前に調べた限りだと、登録費と市民権、
そこでなら日雇い派遣の日々を送る段階を踏むことなく、生活費をまかなえるだけのお金は稼げられるし、未曽有の下層区でも錬金工房があるならまだ落ち着けるだろう。
まだ望みはある。よし、と胸に手を当てて、意を決した時。
さっきのとは比較にならないくらいの強い衝撃がぼくの貧弱な体を倒した。
「――あぅっ」
防護性の高いローブとはいえ、痛みはあった。どんくさい動きで起き上がると、手元にトランクがないことに気が付く。ハッとし、走り去っていった人の姿を追うと、その片脇に見覚えのある荷物を抱えていた。
「え、ま、まって。かえして……っ」
そのトランクの中には換金証と必要書類が!
よろめきながら立ち上がり、後を追う。でもとんでもなく早くて、あっという間に影も形も見えなくなった。それでも直感を信じて、複雑な町の通りと人混みの中を走る。坂を下り続ける。下水道から漏れる煙を被っても構わない。
汗だくになり、白い前髪の毛先から汗が伝う。肺が痛い。心臓が痛い。足が痛い。おなかが痛い。でも、あれがないとぼくは――!
「どうしよう……どうしよう、どうしよう!」
なんでよりによってあのトランクに大切なものを入れたんだ。後悔の念が自責として頭を締め付ける。
ついに限界を迎え、倒れ込むように壁に寄りかかる。息を吸うだけで精いっぱいだ。
視界がぼやける。走ること自体が久しぶりだ。体が悲鳴を上げるのも無理はない。
服や日用品、これまで貯蓄してきた資金の小切手どころではない。錬金術師のライセンスやギルドに提示するための研究資料と研究履歴書、そして申請に必要な証明書等の書類までも盗られてしまった。あるのは
あとは
「え、え? ……あれ?」
服のあちこちを叩く。
お財布がない! もしかして落とした……? あるいは盗られた? だとしたらいつ。
「そんな」
お財布までなくしちゃった……。
膝を落とし、俯く。本日何度目かわからない涙が、勝手に溢れてくる。誰にも聞かれないように、煩わしく思われないように嗚咽を必死に堪える。口を両手で強く押さえつける。息ができなくなるくらいに。
「……っ、……っ」
こういうときって、騎士団のところに行けば……嫌だ。あんなところ二度と行きたくない。ぼくが訳を話したところでどうにかなるはずがない。
そう思いながら周囲を見渡す。
「ここ、どこ……?」
必死に追いかけていたのもあって、目印となる建物がわからない。似たような道ばかりなので、来た道すら記憶があいまいだ。
「恵みを……お恵みを」
ふとそんな声が聞こえ、横を見る。いつからいたのか、それとも気付かなかっただけなのか、ボロボロの服を着た老人がこちらに手を伸ばしてきていた。
「ひっ」
体に鞭を打ち、その場から逃げる。追っていないか後ろを確認し、前を向いた瞬間、ばったりと人に出くわし、ぶつかりそうになる。
「おおっとっと」
「すっ、すみません!」
「いやぁいいよいいよ全然。それよりぃ……」と粘ついた声が耳に触る。ぼくの背丈まで腰を落として、にやついた目をこちらに合わせようとしてきた。
「君、いまひとりかい? ちょっとばかし話を聞いてくれるだけでいいんだけど――ってちょ、おい! 逃げんじゃねぇ!」
もう嫌だ。この町はどこもかしこも危険が多すぎる。逃げても逃げても、人、人、人。しかも恐い人ばかりだ。
上層区の方がまだ安全だった。ここは弱かったらすぐに食べられてしまう弱肉強食の世界とそう変わらない。助けを求めたい声も抑えた。どうせ叫んだところで、誰も助けにはこない。そんな気がしたから。
路地裏の入り口で、壁を背に膝を抱える。日の光がなくなり、ちょっと涼しくなった。空が曇ってきたみたい。
途方に暮れていたぼくのおなかが鳴る。そうだった、お昼は急いで支度していたからあんまり食べてないんだっけ。あとからどこかのお店で食べようとして……お金なくしちゃって。
鞄から非常食のビスケットを取り出す。家畜の乳と
それを一枚食べたとき、クィー、とかわいらしい鳴き声が傍で聞こえた。右下へと目を落とすと、白い毛むくじゃらが――いや
。
特別珍しくはないが、貴族の愛玩用として飼われているものしか見たことがなかったので、こんな人混みの多い町でも見かけるとは思わなかった。綺麗な白毛をしていて、どこか親近感がわく。
「おなかすいてるの?」
ビスケットをもっていた手を執拗に嘴でこすりつけ、かぷかぷと甘噛みしてくる。ビスケットを粉々に割り、手のひらを皿代わりに野良の鳥獣に食べさせる。前足の鉤爪で手にしがみつき、必死についばんでいるのが可愛らしい。自然と笑みがこぼれた。
「君もぼくとおなじだね。これからどうしよっか」
路地裏の外の通りへと目を向ける。さっきよりも古めかしく、煤臭い。誰かの吐瀉物やごみも転がっている。
ふと目に入ったのは客引き。露出の多い妙齢の女性が数人、男を侍らせては古い建物の中へと連れ込んでいた。本当にああいうのがあるんだ、と逆に感心を覚えた。水商売の看板を見るも、すぐに首を横に振った。
それだけはいやだ。そもそも、ぼくにそんな魅力も体もない。
「……」
ふと、今まで気にもしていなかった水たまりが目に入り、顔を覗き込む。そこに映る自分の顔はひどくやつれていて、白い髪も伸びっぱなしでぼさぼさだ。白い肌も荒れてくすんでいるように見えるし、なにより
そして、子どもみたいに小さく、やせっぽちな体。ふと匂うホルマリンと硫黄が混じったような臭さに涙が出てきそうになる。
灰白の瞳が潤む。光と涙が混ざり、淡い青色にも見える。それはお母様と同じ……瞳の色。
ああ、自分の姿が大嫌いだ。
「消えたい……」
膝を抱え込み、ぽつりとつぶやく。けど、さすがに目の前の白い鳥獣には通じない。首を傾げ、つぶらな瞳を向けるだけだった。包み込むように、優しくなでるも、その手は震えていた。
貴族としても追放、職場からも追放。ライセンスもお金も住むところもなかったら、浮浪者とそう変わらない。背嚢の中身を換金したらそれなりの額になるのかな。
「教会や孤児院なら……たすけてくれるかな」
でも、大人はどうだったっけ。15歳以上は受け入れられないという制限があったようななかったような――いや、ダメだ。この白い髪ではきっとぼくのことを拒絶する。
いつまでもここに居るわけにはいかない。
じゃあね、と白い鳥獣の子どもとお別れし、ふらりと立ち上がる。宛もなく歩き始めたとき、ふと大きな影がぼくにぶつかった。
「きゃっ」と思わず声が出る。身が凍るような罪悪感。本当にここは人が多い。またも迷惑をかけたと謝ろうとしたとき、舌打ちが頭上から響いた。
「どこ見て歩いてんだクソガキがァ!」
途端、腹部に強烈な痛みが走る。一瞬の浮遊感も背中の強烈な衝撃で忘れ去る。木材が壊れるような音とともに、体が硬直したまま石畳に体と顔をぶつけた。
食べたばかりのビスケットが胃液や唾液と共に吐き出る。肺から出るばかりの空気は吸えず、ぱくぱくとしか口が動かない。飛び出そうになった眼球からは涙がこぼれてきた。
少しの距離の先、上から野太い声が聞こえた。3人の男性。姿はぼやけて見えない。眼鏡もどこか飛んでしまったようだ。
「おいおい、あれ女だぜ? 容赦ねぇなおい」
「所詮乳もねぇガキだ。さっきの女の方がまだやりがいあったろ」
「俺は全然ありだと思ったんだけどなー、首輪付けたら
「それはどうかと思う」
男たちの荒々しい笑い声が遠ざかっていく。
おなか痛い。苦しい。うまく息ができない。
助けて。見捨てないで。誰か。
なんでぼくはこんなに苦しいの。
神様はいないの?
「……あ゛ぁ、あ゛」
あぁ、本当にこの町は。この国は。
腐ってる。
「――ぅがふっ」
耳鳴り。
その男が血反吐を吐き、街路と自身の口周りを汚した。
途端、全身を
数秒に思える、一瞬の唖然。
そして、伝播するように。
その周囲の人すべてが首や喉を抑えながら、石畳へと倒れた。目を白く剥いては
感じた。
心のどこかがどろりと溶けたような。
自分でない感情の羅列が一気に流れ込んできたかのような。
それらがひとつに混ざり、黒く濁ったような。
電撃的な、流動的な、波動的な意識の遠ざかりと揺らぎ。見開いていた眼球と萎縮していた脳がつぶれそうな痛み。この胸の得体のしれない気持ちの悪さ。思うようにできない呼吸。
それが、吸い出され分散していくような。
知っている。
この感覚を、ぼくは
「え……ぁ」
やってしまった。嘘だ。
もうしないと誓ったのに。
違う。わざとじゃない。ほんのちょっとだけだった。ほんの一瞬のはずだったんだ。
苦しんでほしいと
阿鼻叫喚が鼓膜を痛める。通りかかりの人たちがこの場の異常に気付いたようだ。
居ても立っても居られない。自分までおかしくなる。
そう立ち上がろうとしたときに物音が鳴る。
「おまえがやったのか」
そんな声が聞こえた気がした。
「――ッ」
逃げろ。
逃げろ。
逃げろ!
「待て!」
確認するまでもない。一刻でも早く、この場から立ち去りたい。
ぼくじゃない。ぼくじゃないんだ。
後ろから追いかけてくる声。迫る足音。なんで逃げた。怖かった。捕まったらどうなる。背中が重たい。フードが取れた。白い髪が目に入る。視線。やめて。見ないで。放っておいて。
走り慣れていない足はすぐに捻り、筋を痛める。
小さな肺ははち切れそうで。空気を欲しがる喉も乾ききってただの管と化す。
何度も壁や資材、人にぶつかるこの体はそのたびによろけ、転ぶ。擦りむく腕や膝。泥まみれの顔。いたい。くさい。そんな目で見ないで。
もう、誰も構わないで。
「どうしてこんなことをした」
「憎かったのか」
「罪もない人たちを襲ったのか」
「さっきもそうやってあの場の全員を苦しませればよかったじゃないか、なぁ"人殺し"」
「――やめてぇっ!」
走りながら叫ぶ。重たいだけの背嚢を脱ぎ捨てるように道端に置いていく。捕まるくらいなら安いものだ。
咄嗟に目に入った資材置き場へと駆け抜ける。木材や鉄骨が組まれた、町の淵の建設現場。吹きあがる風も構わず、狭く高い鉄板の通路を走――。
足を踏み外したような。地面にぶつかる衝撃はなく、それがかえって不快感を生じさせる。
「え」
その下は――奈落。
10層? 11層? 第何層かもわからない。ただ、彼方の広大な町に、ぼくのちっぽけな体が吸い込まれていく感覚だけが背中から感じた。
轟々と呻る風の中、ぼくの意識が闇に飲まれつつある。皮膚が笑う。骨が嗤う。
どんどん小さくなる上層の町並み。だけど、時の流れを遅く感じ、思考も驚くくらいクリアになっていく。
これでようやく解放される。最初に思ったのがそれだった。
いっそ、このまま楽になれるなら本望だった。もうこれ以上、誰も苦しませたくない。生まれるべきじゃなかったんだ。生きるべきじゃなかったんだ。誰かを幸せにしたいなんて。幸せになりたいだなんておこがましいこと、考えるべきじゃなかったんだ。
魂を司る死に神様。どうかぼくを……わたしをこの世から連れ去って。
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