2-2.第13層 -ユングの丘-


「あ……あぁああっ!」

 声が勝手に出てくる。叫びたい。叫ばなきゃどうにかなってしまいそうで。

 頭が痛い。目が熱い。空気が怖い。肌がひりつく。


 出さなきゃ。外に出さなきゃ。爪で頭皮を削り、そのまま顔に、頬の肉を食い込ませる。痛い。でも頭の中はもっと痛い。この痛くて苦しいのを早く外に……早く!


 両腕を掴まれたような感覚。そのまま顔から引きはがされたと同時、重みが――目の前の彼女が抱き着いてきた。


「ぃや……だ、あ、あぁぁ……!」

「大丈夫。だいじょうぶだから落ち着いて」


 離れたい。怖い。怖い! おかしくなる……っ。

 なのに力が強くて、ただ手足をじたばたすることしかできない。抵抗できない。頭の中のぜんぶを抜きたいのに、彼女の体と両腕で包まれているからそれができない。


 嗚咽が止まらない。喉にたんが絡まる。目の前の服に沁みついたぼくの体液が、自身の肌をも濡らす。赤子みたいな鳴き声が部屋に響いている。泣けば泣くほど、溺れそうになる。そのたびに抱きしめられる力が強くなる。苦しい。


 なのに、諦めたようにぼくの力は抜けていく。息を吸うほど、冷たかった体に熱が戻っていく。中身の悪いものを抜いていないのに、段々気持ちが落ち着いていく。


「息を大きく吸って……吐いて。もう一回吸って……吐いて」

 女の子がずっとそう囁き続けていたことに気付いた。空っぽの頭に入るその言葉に、自然と従う。草花の柔らかい匂いがする。

 ちぎれんばかりに張り詰めた糸が緩むような。でも、緩めば緩むほど、抑え込んできたものが溢れてきた。


「ごめんね、あなたの身になにがあったのかわからないの。でも、もう怖いことはないから安心して」

「……せて」

「え?」

「ぼくを……しなせて」


 止まらない。抑えたいのに抑えたくない。ぐちゃぐちゃになった頭も何もかも全部、肌に感じる温もりに委ねたい。

 ぜんぶ、捨てたい。


「おねがい、だから……っ、ぃぐっ、も゛う、生きたくない。いぎたぐないよ゛ぉ……っ、ぁあ、あぁあああっ、あぅあぁあ゛……ッ」


 もうどうでもよかった。感情を失えばどれだけ楽だったか。こんなに苦しいなら心なんて要らなかった。いまさらこんな得体のしれない温かみを知ったところで、ひ弱な心は火傷する。痛い。でも手放したくない。


「……本当につらいことがあったんだね」

 撫でられる感覚で、さらに涙が溢れてくる。喉が枯れて切れそうなのに、まだ叫びたがっている。


「大変だったね。よく、がんばったね。……いっぱい泣いて、いっぱい吐き出して」

 もう忘れてしまったはずの感情は、残酷にもこの心に土足で踏み込んでくる。それがたまらなく苦しくて、でも、嫌悪感はなくて、なんというかよくわからない。わからないけど、どうしてだかこの時間がいつまでも続いてほしいと思った。


   *


 ふとした風の涼しさに光が目に入ってくる。

 太陽の香り。眠っていたんだ、ぼく。

 揺れる白い前髪。両開きの窓から木の葉が入ってくるのが視界にちらつく。そして、栗色の髪がなびいている少女の安堵した顔が見えた。


「おはよ、アリー」

 そう言われた気がした。するとおでこに乗っていた濡れタオルを取り、手のひらを当てる。やわらかい。ちょっとだけ冷たいけど、そのおかげで目が覚めてきた。


「うん、熱も引いたみたい。よかった」

「ずっと、診てくれて、たの……?」

 そう言ったつもりだったが、少女は……ランネさん、だっけ。その人はくすりと笑い返した。嘲笑でも何でもない、無垢な笑顔だった。

「それは気にしなくていいこと。いまはアリーのおなかを気にした方が良いかもね」

「……?」


 くぎゅるるる……と大きめの音がおなかの中から聞こえた。胃腸がうねるような違和感に、ぼくは空腹感を思い出す。

「ほら、鳴った」

 いたずらに笑う彼女に、なんだか恥ずかしい気持ちになる。ちょっとだけ布団の中に顔半分を埋めた。

「シチュー食べる? パンもあるよ」


 用意された食事は質素なものだった。

 ベッドの傍に置かれた小型のテーブルと料理が盛り付けられたプレート。味付けもされていない丸いパンをかじる。なにかの麦でできているんだろうけど、それ以外も混じっているような。バターの風味がない。


 前菜はいずれも乾燥させた穀物と何かの種、駒切にされた色とりどりの干し果物や干し野菜のミックス。サラダと似たものだろうか。サクサクとしてて、独特な甘み。


 ランネという人はそこにミルクを入れて混ぜている。ぼくも真似をし、木彫りのコップに入っていたミルクを前菜の入った深底の器に流しいれる。水分を吸ったフレーク状のそれらは、意外とおいしく感じた。どこか動物臭いミルクのクセが抜けている。


「ん~我ながら最高の出来! やっぱりおいしいものをおなかいっぱい食べるのが一番だね!」

 シチューのごろごろとした具材を頬張り、幸せそうな顔を彼女は浮かべる。手当された頬やこめかみの部分が多少痛むも、食べることに問題はなかった。


 口を大きく開けないと入らないくらいの野菜や芋、そしてお肉。しかし火はしっかり通っていてくたくたになっており、とろりとしたホワイトシチューが染み込んでいる。これまでの食卓で食べたような味付けはなく、舌に物足りなさを感じる。でも、なんともいえない奥深さがあって、あったかい。それが全身に沁みわたる。


 食べたことのない異物のような違和感があるのに、ストンとそれを容易に体が受け入れている。人として本来忘れていたものを思い出したかのような。


「おいしい?」

 ふときかれた言葉に、こくりとうなずく。火照った感じが頬にも伝っている。反応したぼくを見るなり、彼女はシチューのようにとろけた笑みを返した。なんて嬉しそうな顔をするんだろう。

「ふふっ、よかった」

「あの、ありがとう、ございます。その、助けて……下さって」

「えへへー、お礼を言われるほどのことはしておりませぬよ~」


 嬉しそうなまま変な言葉づかいで謙遜の振舞いをする。シチューにお酒……入ってないよね。そのあとの会話まで考えておらず、誤魔化すように風が吹いてくる方へと視線を向けた。


 壁にかかっていた振り子時計はお昼過ぎ。朝じゃなかったんだ。それに日付はどれくらい進んだんだろう。

 机と本棚も古臭く質素。植木鉢と花瓶の葉や花がゆらゆら気持ちよさそうに揺れている。

 右手奥の両開きの窓は交差した格子で補強されているわけでもなく、鉄の留め具で固定された木の板で開閉するだけ。下層区の建物も窓ガラスだったはず。それに喧噪な音もない。賑わう人の声の代わりに、鳥のさえずりが耳を澄ましてようやくわかるくらい。

 煉瓦や加工石、漆喰ではなく、石積みや木材が主体の建造物も珍しい。気になったぼくは食べる手を止め、少女に問いかける。


「それで、あの、ここ……って、い、いったいどこなんですか……?」

「ん、ここ? ここはね、"ユングの丘"だよ。あなたはもしかしてあの"塔の国"から来たの?」

 はじめて耳にする地名。でも塔の国って、ぼくのいたアンヘルカイド国のこと? 外を見ても澄んだ青空とちょっとした木々が見えるだけだ。


「ユングの丘……? それって第何層に」

「層? んーごめんね、それはよくわからないわ」

 ぞっとする。プレートの上にスプーンを落とした。この国に階層の認識がない者はいない。いるとすれば、国外の人か、あるいは――。


「まさか――っ」

 思わず体が動き、ベットから転がり落ちるように出ては窓の淵へと手を伸ばす。止めようとした少女だけじゃない、引き留めんばかりにわずかに痛む体やふらつく足に構わず、外の世界を覗き込んだ。

 ベッドからは空くらいしか見えなかった。だが、その反対側――あった。


 右手の空に聳え立つ山のようなピラミッド型巨塔。雲も被り、頂上は見えない。あの塔の表面に無数の町が張り付いており、その輪郭は山稜のように明確でありつつもどこか朧げだ。あまりの巨大さに、距離が掴めないからだ。

 あれが、ぼくのいた国。こんな全景を収められる階層は、国内でただ一つしかない。


「"第13層"……。うそ、でしょ……!?」

 国外ではない。だが、どうせなら国の外の方がよかっただろう。

 巨塔と国外の土地の間に位置する最下層区域。この地域があるから、人々は自由に外へ出られず、故に冒険者稼業が発展している。


 国の郊外区――異類異形の魔獣ケダモノひしめく一番危険な場所に、ぼくはいる。

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