シロガネ ~ストリートゴーストは電子と踊る~

多部栄次(エージ)

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 なんてことない一瞬が、俺の心を奪った。


 秋のはじまり。暑さが残るも少しだけ涼しい風が、教室の窓から吹いてはクリーム色のカーテンを揺らした。


 その茶色の地毛がサラ、と流れるも、本人は気にしない。肩や背中まで続くそれは艶やかで、やわらかい光沢がこちらの目にも届く。


 つまらなさそうな人だとは思った。思えばどのグループにも属さず、ひとりが常。スマートさの欠片もないでかいヘッドホンを付けてぼーっとしてるか、時代遅れの紙媒体の本を読んでいるだけ。


 いかにも「私に声をかけるな」と言っているような雰囲気に誰も近づいていない始末。当然、野球部に入っている自分にとって、放課後残っているような人とは無縁だと思っていた。


 今日はたまたまだ。3年の先輩らの引退後、初の練習試合で全治3か月の怪我をした。それでも自分のできることを探して部活には顔を出していた。だが、同期や後輩に抜かされていく惨めさに、逃げ出したくなって仮病で休んだまで。


 腐っていく感覚は自分でもわかっていた。全力で熱をぶつけられなくなった自分に、嫌気がさしていた。つまらないと感じたそんなときに、窓際の彼女の姿が目に入った。

 

 小柄な細身の体であれ、少しだけ膨らんだ胸と反った背中が女性らしさを醸し出す。夏服のカッターシャツからすらりと生える細い腕。強く握ったら折れそうな指が紙をめくる。こすれる音が、二つ隣の耳にも届く。その動作だけでこうも見とれるものなのか。日焼けなど無縁に思えるきめ細かく健康的な肌と、小さい鼻。つんと結んだ唇は鬼灯のように赤く柔らかそうで。視線を落としたときの瞼と睫毛でさえも網膜に焼き付いた。


 しかし飽きたのか、そっと本を閉じる。組んだ両腕を机に置き、左頬杖をついてはふと窓の外を見つめていた。


 思慮深くて、寂しそうで。とても綺麗で。

 ここではない遠くを見ているようで、それが心を惹きつけた。

 体を動かしていないのに、緊張してもないのに、この心臓が跳ねるように激しく動いている。

 もっとあいつのことを知ってみたい。笑っている顔を見てみたい。

 あの横顔に、俺は惚れたんだ。


 ノイズが走る。


 途端、思い出したかのような嫌悪感が腹の底から喉奥へ込みあがる。嗚咽に混じり、胃液と血反吐が足元のにぶちまけられた。垂れる銀のリングネックレスが、吐瀉物にまみれる。


 赤松圭一郎あかまつけいいちろうはゆっくりと顔を上げる。巨大な瓦礫で磔にされた両腕に感覚は残っていなかった。ひび割れたナノデバイス含有アスファルトで膝をつく下半身にも力が入らない。


 色彩の境界は曖昧になり、画面ディスプレイが乱れたように視界が割れる。現れては消えるバグった立体投影ホログラム。白黒する大都市の景色。反転する高層ビル群。それが自分の頭の中で起きていることなのか、この世界で起きていることかは判別できない。あるいは、その両方か。


 先鋭的な高層都市は架橋する立体道路と共に、表面から剥がれ落ち、空へと分散しては液状に溶けていく。夏の如き快晴の空は崩壊を受け止める海。豊かな緑やアスファルトからあふれ出てきたパイプラインと土壌岩石は白灰化し空舞う雪の結晶となる。


 砂嵐の音がたびたび耳をつんざく。鼻腔を満たすは下水と芳香臭。舌はひりつくように辛く、酸っぱい。全身の皮膚の裏で無数の何かが蠢く感覚を恐れた脊椎は、筋肉を芯から冷たくしていく。 


 現実を逃避するように、彼の頭蓋の内に詰まる脳が溶けるような快楽を与えようとした時だ。


「この現状は自業自得と言わざるを得ない。選択せず、逃げ出した結果がこれなのだからな」


 氷のように冷たく、力強く言い放ったのは白銀を長髪に帯びた仙姿玉質の若き女性。真紅に染まる瞳は冷徹に青二才を見下していた。


 白濁する混沌の世界に相反するかのような黒のロングトレンチコートを揺らし、アスファルトにこびりつく乳液を黒艶のヒールブーツで踏んでは前へと歩を進めた。


「これが最後だ」


 白く繊細そうな右手で、彼の首は強く押さえつけられる。足掻く力もない。目も耳も鼻も、麻痺していく。心臓も押さえつけられたように、鼓動が弱まっていく。


「選べ。自分自身のために楽を伴い死を受け入れるか、他者大勢のために苦痛と不条理を伴い死の狭間で生き続けるか」


 せせらぎのように心地よくも筋が通り、重さを感じる凛とした声が、赤松の意識を白髪の美女に向かわせる。彼の顔は赤に濡れ、幾多の生傷が目立つ。至る所に滲み浮かぶ痣はまるで体の悲鳴を可視化したような。


 麻痺した口からはあふれかえった血と唾液が垂れる。今にも死を迎えそうな様子に、目も当てられないだろう。


 だが、その瞳だけは燃え盛るような渇望を放っていた。

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