第5話 外伝 自粛妖刀

某県の県道、見渡す限りの田んぼ。四羽の烏がカカシを無視して畑の向こうへ飛んでいった。

 農家が稲を植える光景を帯刀たてわきだるまは見飽きていた。

 東京にいたときは田んぼは珍しかったが北上して埼玉県に入るとこんな風景ばかり。埼玉県を出ても同じような風景。

 丁髷ちょんまげのようなポニーテールが風で靡く。旅行の服装とは思えない、スーツと白衣。そして下駄。竹槍でもある杖をついてだるまは北上している。

 急ぐ旅程ではない。確固とした目的地があるわけでもない。探し物を見つけるまで帰らないつもりだし、見つけても東京に帰る理由も、ない。

 風景には飽きていたが気分は高揚していた。歩いているだけで晴れやかになるものだ。

 鳥の声は耳を塞いでも聞こえそうなほど騒がしい。遠目に見える森からは野生の気配を感じる。民家までが自然の一部のよう。平和で、平坦だ。

 旅の途中で稲が育つ様も、刈り入れも見れるだろう。気分が良ければ手伝わせてもらうかもしれない、そう思ってだるまは小さく笑った。自分には似合わないのに、愉快だ。

 更に三十分ほど歩く。もう野良仕事をしている者はいなかった。目の前から男がこちらに。足取りがふらついているのでだるまは緊張。

 頭から血が流れている。

「おい、どうした?」

 大きな声だったが、男は聞こえていないらしい。意識がはっきりしていないのだ。だるまは男に駆け寄る。血だらけの男は倒れてしまった。

 頭だけではなく胴体も血と汗で濡れていた。

 だるまはシャツを脱がして容態を診る。打撲と切り傷だ。

「これなら死にはしない。熊でも出たのか?」

 白衣をちぎって止血帯にする。

「人斬りだ。辻斬り……」

 そう言って男は気を失った。

「辻斬りだと……?」


 救急車と共にパトカーも来た。だるまは参考人として任意同行。取調室に連れていかれた。なんとまあ、ドラマのような部屋ではないか、とだるまは考える。

 刑事が入ってくる。雰囲気が悪くなる。当然ではあるがこちらを信用していない。

 刈り込んだ頭、老けた目、使い古したような顔。疲れた刑事だ。

「もう一度名前を言え」

 不躾だが、簡潔さに好感がもてた。

「帯刀だるま」

「職業は」

「無職」

「住所は」

「不定」

「お前の戸籍を調べた。『帯刀だるま』の名前でだ」

 刑事はいらつきを隠そうともしない。

「帯刀だるまは死んでいる。二百年も前に!」

「同姓同名の誰かだろう。俺がよぼよぼの爺さんに見えるか、刑事さん」

 だるまは両手を頭に乗せて椅子によりかかる。

「同姓同名などいなかった! 本名は!?」

「やれやれ。こんなことになるなら新しく戸籍を作るんだったよ」

「まだしらばっくれるのか? 何を隠してる?」

「俺が誰か、それが事件と関係あるのかい」

「お前は第一発見者だ。関係者だ。その身元を調べるのは当然だろうが」

「当然調べたわけだ。すると帯刀だるまなる者は西暦二千年に行方不明になっていた」

「二百年も生きているわけがない。つまりお前は偽名を使っているということだ」

「そう思うなら報告書には名無しの権兵衛とでも書いとけよ」

「そうはいくか」

「まあ座んなよ、刑事さん」

 だるまは机を指で突っつく。

 刑事はだるまを睨みつける、そしてため息をついてだるまの正面に着席。

「刑事さん、名前を聞いても?」

邑楽異聞おうらいぶんだ」

 実際この男が犯人であるという可能性は低い。任意同行に抵抗もせず、持ち物検査にも協力的だった。事件に興味のある様子はむしろ事件に関係のない人間だから、と思わせる。 

 凶器を持っていないというのもあるが、犯人にしてはあまりにも真剣に応急手当てをしていた。

 刑事の勘をあてにするなら、この男は無関係。しかし無関係にしてはあまりにも怪しい人物だ。

「くそ、事件は別に謎なんてないのにお前は……」

「単に居合わせただけの俺の方が不思議だと。ところで邑楽刑事。怪我人の方はどうだ? 俺の見立てじゃまず死にはしないだろうが」

「まだ意識を取り戻していない」

「それは残念だ。被害者の証言があれば進展になったろう。不思議なのは辻斬りにしては凶器が刃物らしくないということだ」

「なんだと?」

「数十年研いでない刃物ならあんな傷になるだろう。それよりは熊の爪に近い、と思う」

 邑楽はだるまの顔を真っ直ぐ見た。

「切れ味が鈍過ぎる。竹刀でしこたま打てばあんな風になるだろう」

「医師もそう言っていた。何故わかった?」

「邑楽刑事も薄々わかってるだろう。俺が剣術家だということ。だから無関係に思えないんだ。ちなみに俺は防具なしのヤツを竹刀で打ちまくったことがある」

 頭がいい。邑楽は警戒する。

 だるまの言う通り、警察官ならだるまを一目見ただけで武術の達人と見抜ける。物腰が一般人のそれではないからだ。

 持ち物検査に引っかかっていれば今頃留置所行きだ。

「帯刀、あんたは犯人をどう思う」

「素人ではない。剣術家だな。というか剣道家だ。面、胴、小手こて、そして喉だけに打ち込んでいるから」

「それは俺も思った。犯人は剣道のルールを守っているみたいだよ」

「だが凶器は竹刀だろうか?」

「……なんだ?」

「竹刀の傷なら一目でわかる。実際にはまず獣の爪に見えたんだ。打撲に混ざった切り傷はなんだ?」

 赤く腫れあがった傷、そこから切断されていた。二種類の傷があった。

「この手の犯罪で共犯はあり得ない。ホシはそうなると二つの凶器を使ったことになる。ナイフと竹刀、というような」

 バカな、そう言うのをだるまは堪える。犯行の特徴は剣道のルールだ。犯人がナイフなど使うとは考えにくい。しかし、さらに考えにくいことがある。

「打撲痕と切り傷の痕跡が一致している。突飛な考えだが、邑楽刑事。犯人は刃物を仕込んだ竹刀を使ったんじゃないかと俺は思うんだよ」

 剣術家として被害者を見るとそうとしか思えない。

 なんともいえない、という表情で邑楽はだるまを睨む。警察官が入ってきた。警察官はだるまをちらりと見ると刑事に報告。

「邑楽刑事、アリバイの確認ができました」

「ご苦労。書類をくれ。退がっていいぞ」警察官は退室。邑楽は書類を確認した。

「容疑者がいたのか?」

「お前のアリバイだよ。一昨日は埼玉県の北紅きたべに市のホテルにチェックイン。午後七時から翌午前八時まで。その前日は埼玉県の東樅木ひがしもみのき市で工事のアルバイト。午前五時半から午後六時まで。その前のアリバイは確認できず、か。ふん」

 邑楽刑事の言葉にだるまは衝撃を受けた。衝撃を隠すこともできなかった。

「あれが最初じゃない? 何度も起こってるのか」

「ご明察、探偵サン。俺たち警察がピリついてたもう一つとの理由がこれさ」

「……なんと。さらに興味が湧いてきたよ。邑楽刑事」

「興味だと? 面白半分で首を突っ込まれちゃ迷惑だよ。お前ならわかるだろ。」

「いいや」短く否定するだるま。

「竹刀とはいえ、剣に関わる事件なら俺の探し物の手がかりになるかもしれん。邑楽刑事、他に情報は?」

「アリバイがあるってことは無関係ということだ。部外者に情報は流せん。釈放するからどこなりと行っちまえ。お前の情報は封印することにする。見なかったことにするというわけだ」

 お前も見なかったことにしろ、と言いたいのだ。

 だるまは立ち上がった。

「どこに行く?」

「外へ。釈放すると言ったろう。その後どこに行こうが俺の勝手だ。お前がそう言ったんだぞ、邑楽刑事」

「捜査の邪魔をしたら本気でぶち込むからな、忘れるなよ、サムライ野郎」

「ご心配なく。俺が偶然あんたらのそばで捜査について独り言を呟いても、それはあんたらには関わりのない事だ。あんたは最初の事件について、俺の前で呟いたりはしないのかな?」

 忌々しい、そう言って邑楽は取調室の鍵を鍵を開けた。


「それで、これからどうする、サムライ」

「もう一度現場を見たい。俺が被害者を見つけた場所じゃなく、被害者が斬られた現場を」

 二人は警察署のロビーを通る。田舎ではあっても忙しいらしい、制服の警察官が出入りしている。

「特に目ぼしいものは見つからなかった。なもんで被害者の証言が欲しいんだが、誰も目を覚まさないんだ」

「……殺された被害者は?」

「いない。今のところは。だがエスカレートしている。最初は切り傷なんて無かったんだ。次はどうなるやら」

 邑楽刑事の言葉でだるまも危機感を共有した。

「目を覚まさない。四人の被害者いずれも?」

「そうだ。最初の被害者はそろそろ意識を取り戻すと医者は言っていたが、ああ全身しばかれたらそりゃ眠り姫にもなる」

 警察署を出ると女性と鉢合わせた。若くて少し細い。この辺りでは見かけない派手な服装。

「邑楽刑事」

宝千寺ほうせんじさん」と邑楽。

「父が目を覚ましましたのでお伝えに来ました」控えめな口調。服装と逆に古めかしい女性だ。だるまほどではないが。かすかに防具の悪臭がする。剣道家か。

「本当ですか。噂をすればだな、だるま。宝千寺さん、こちらは事件の関係者で帯刀だるま、だるま、こちらは最初の被害者、宝千寺 幸村ゆきむら氏のご令嬢の宝千寺雅美まさみさんだ」

 雅美の視線は不信を物語っている。それを邑楽も察したらしい。

「いや、こいつはアリバイがしっかりしてるんです。犯人ではない」

「……そうですか。失礼しました、帯刀さん」

 雅美は頭を下げる。

「いや、怪しいのは事実。災難ですね、宝千寺さん」

「本当に。父が目覚めてほっとしましたよ。それで邑楽刑事が話を聞きたいだろうからお知らせに来たんです」

「わざわざありがとうございます、宝千寺さん」

 小娘相手にいやに腰が低いのが不思議だ。宝千寺とはこのあたりの有力者だろうか。

「これから病院へお話を伺いに行きますが、宝千寺さん、この帯刀も同行させていいでしょうか?」

「構いませんが、何故?」

「結構頭が良さそうでしてね、もしかしたら彼の意見が参考になるかと」

 雅美は興味深そうにだるまを見た。

「刑事さんがそう仰るなら、どうぞ。えっと、帯刀……」

「だるまです。帯刀だるま。宝千寺さん。剣道をされるんですか」

「わかりますか。帯刀さんも?」

 経験者というのは立ち振る舞いでわかるものだ。しかし雅美の実力はだるまの注意を引くほどだ。

「随分強いですね。できれば腕前を見せていただきたい。いつか」

 一瞬はにかむように笑い、だるまに挑戦的な目を向けた。

「いいですよ。その時は帯刀さん、あなたの剣も見せて欲しいです。うちの道場に案内しますから」

「師範でしたか。どうりで」

「宝千寺さんは師範代だ。宝千寺道場は有名なんだよ。うちのモンもここで剣を習ってる。オリンピック選手も輩出してテレビも来た。知らんのか?」

「最近ニュースを見てなくてね」

 誤魔化した。放浪生活が長くてろくにテレビを見ていないなんて言えない。

「もしかして宝千寺道場の師範が、最初の被害者か?」とだるまは思い当たる。これから面会に行く?

「そうです。一週間前、父は道場で何者かにやられました。手酷い大怪我を負わされて。数日してから二人の門弟も同じように。宝千寺道場の評判は……はあ」

 ため息をつく雅美は年相応に見えた。

「評判も問題だが、そうなると犯人の腕前はとんでもないことになる」とだるま。

「それだけに特定も容易ではあるよな。幸村さんよりも強いヤツを探せばいい」

「この辺りでは父より強い人なんていませんよ」そう言って意味深な視線をだるまに向ける雅美。こんな時でもだるまの腕に興味があるらしい、剣術家のサガだな、そう思いながらだるまは話を逸らす。

「その幸村氏に会いに行くんだろう。案内しろよ、邑楽刑事」

 

 これが患者の姿なのか。包帯でぐるぐる巻きにされ、左腕、左足は骨折している。顔面の大半も包帯で隠れている。

「宝千寺先生、お話を伺いに参りました」病室の前で邑楽は深々と頭を下げる。彼も宝千寺道場の門弟なので当然か。 

 幸村は右手で天井を指差した。起こしてくれというジェスチャー。声も出せないらしい。

 邑楽がその通りにしてやると片方だけの目で弟子を見て頭を下げる。

 ベッドのすぐ横にメモとペン。雅美が用意したのだろうか。

 ベッド横の椅子に刑事が腰掛ける。彼はだるまを紹介した。

「こちらは事件の目撃者で捜査に協力している帯刀だるまさんです。信頼できますので気にせず話してください」よくも信頼できると言えたものだ。だがそうした方便を顔色一つ変えずに言えるのだから優秀な刑事だ。

「犯人はどんな……」幸村の口が包帯で塞がっているのを見て刑事は質問を変えた。

「犯人は男性でしたか?」

 幸村は頷いて肯定。

「背は高い?」

 少し間を置いて肯定。

「名前を聞きました?」

 首を振る。

「襲われたのは道場でですか?」

 肯定。邑楽刑事は幸村がどこかで襲われ、現場から道場まで運ばれたという仮説を持っていたらしい。

「犯人は、一人ですか?」

 その声が震えているのをだるまは見逃さなかった。刑事の恐怖を理解する。単独犯だとすれば当然幸村を倒すほど強いということになる。

 地元一強い剣道の師範を病院送りにする単独犯よりは複数犯のほうが警察は気が楽になるのだろう。

 幸村はまた反応を遅らせた。そして横に首を振る。

「複数犯?」とだるまが声を上げる。

「二人ですか?」

 否定。

「三人ですか?」

 否定。

「四人?」

 否定。

「五人?」

 幸村は頷いた。

「全員男性ですか?」

 そう聞いただるまの方を向いて、幸村は首背した。

「犯人と面識はありましたか?」と邑楽刑事。

 幸村は否定。

 ペンとメモは最後まで使われなかった。


「おかしいと思わないか? 被害者と面識のない五人組が剣の達人を竹刀で袋叩きにするなんて」

 病院に停めていたパトカーに寄りかかり邑楽はそう言った。

「五人もいれば確かに力量差は埋められる」そう言うだるまを雅美は見守る。

「薄気味悪くなってきたぜ。剣道経験者ばかり狙う組織犯罪だと?」

「一応聞くが物盗りの可能性は? 何か盗まれては?」

「何も。何も盗まれていない」

「犯人は新撰組かもな」新撰組は一人の敵に対して最低三人で戦っていた。

「つまらない冗談はよせ、帯刀」

「つまるところ、複数犯という事実と犯行目的の不可解さの乖離が犯人像をぼやけさせているんだ」

 そこがポイントだ、とだるま。

「釈迦に説法だったかな? 邑楽刑事」

「複数犯なら目的によってまとまる。今回のように犯行目的が不明瞭なら逆に目的を共有できるわけがない。確かにな」と刑事は答えた。

「新撰組なら都の治安を守るという目的がありましたけど、父は不逞浪士ではないですし」

 調子の外れた雅美のジョークに二人は笑う。笑い事ではないけれど。

「次は現場検証だな。いいですかな、宝千寺さん」

「ええ、どうぞ、我が家へ」


 事件現場、宝千寺道場は未だ立ち入り禁止、黄色いテープが貼られている。広い道場に入り三人は神棚に礼をする。周囲は鑑識の人間が遺留品を求めて這い回っていた。

「父が倒れていたのはあそこです」

 雅美が指差したのは入り口から最も遠い試合場。鑑識の人間もそこに集中していた。

「大きいな……」

 こんなに大きい道場なら知らないわけがない。立地にそぐわず敷地も設備も充実した立派な道場。世捨て人をやっていた頃に急成長したのだろう。

「本当に知らないのか? どういう生活をしてるんだ」と邑楽。住所不定が事実なら無理もないが。

「新型インフルエンザの流行で何年も自粛してましたからね、うちは。知らないのも仕方ないかと」 

 雅美は苦笑。

「うちは短期間で大きくなりました。でもそれは才能のある選手が何人も門弟にいたからです。父も結構強いですけど、由緒正しかったり、キャッチーな売りのある道場じゃないんですよ」

「堅実な経営と幸運のおかげ、というわけだ。しかし宝千寺さん。非科学的なことを言うけれど、この道場、雰囲気が大分違いますな」とだるま。

「雰囲気だ? だからどうだというんだ」不満そうに邑楽が声を上げる。雰囲気で犯人探しをされたらたまったものではない。

「神聖さと凶気きょうきがこの道場にはある。そう思えてならない。事件には無関係かもしれないが、とにかく普通ではない」

「おい帯刀、無関係ならやめろ。いきなり怪しい霊媒師みたいなこと言いやがって」

「……ふむ。道理だな、刑事さん。今は捜査をしなければ」

 そう言うだるまの手を雅美は掴む。邑楽が目を丸くしている。

「……どうしたんです?」

「え? あ、いえ、なんでもないです……」

「待って下さい、宝千寺さん。今貴方は何か帯刀に言いたいことがあったはずだ。だから引き留めた。隠し事はしないで頂きたい。刑事の俺には特に」

「隠し事なんて。ただ凶気と言われて変な事思いついただけで」

「変な事とは?」

「最近は私もたまに不吉な空気を感じるんです。それでもしかしたら父も凶気にあてられて凶行に走ったのか、と思っちゃって……。妄想ですよね」

「あれだけの大怪我をして犯行は無理でしょう。だいたいそれじゃ宝千寺さんを襲ったのは誰かということになる」

「襲ったのは誰か? それは簡単だ。三人の被害者だよ、刑事さん」

「……なんだと?」

「もちろんそんなわけがない。宝千寺の師範は病院送りの重傷なのだから。しかしその境界条件を無視した場合は、順序としてまず三人が師範を襲い、逃げ延びた師範が復讐をした、という物語が成り立つ」

「空論じゃないか」

「時には寄り道もいいものさ、ちなみに宝千寺さん、お父上はどれくらい強い?」

「最強ですよ。被害者三人は全員父の弟子ですが、誰も父に勝てません。私だって歯が立ちません」

「仮に被害者全員が一斉にかかれば?」

「それなら流石に勝機があります。彼らが勝ってあの大怪我を負わせれば、父に犯行は不可能になりますが」

「そうですね。俺はただ、お父上にも興味があっただけです。手合わせしてみたかった」

 それは無理だろうとだるまは予測。幸村が全快するまでこの村にいるとは思えなかった。話を聞くだけで相当の腕前と想像できただけに惜しい。

「とにかく目的だ。剣の達人を襲って、警察官まで襲って、連中が得られるものはなんだ?」邑楽が言う。

 だるまはその疑問に答える用意があった。しかし言葉にできない。その動機はアンモナイトのように古くさいものだったから。邑楽刑事は聞いても一笑に付すだけだろう。

 あまりに古い。俺の知らない情報のせいで間違った仮説を立てただけだろう。

「刀剣類も貴重品も、通帳だって盗まれていないんですよ。なんていうか、普通じゃないって印象です」と雅美。

「……刀剣?」

 そうだ。事件に意識が行って本来の目的を忘れていた。

 かつて、だるまは研究の過程で悪魔『メフィストフェレス』と遭遇した。

 三人の研究仲間と共に苦闘の末メフィストフェレスを倒しただるまだったが代償も大きかった。メフィストの最期の呪いで不老不死になり、さらに記憶障害をわずらい廃人一歩手前。

 研究仲間も己を見失ったのだろう、だるまが正気に戻った時は行方知れずになっていた。

 そして、だるまの刀。

 だるまが鍛え上げた七振りの刀剣、『七福神』、その内四振りが散逸していた。初めのうちはだるまも気にしなかった。傑作とはいえ、既に完成した作品に拘る理由は彼になかった。

 永遠を一人で過ごすなど容易い、そうたかをくくっていたが、しかし永い放浪生活(都内)に飽きただるまは失った仲間と七福神を探す旅をすることにした。

 自分と同じく不老不死になっている仲間は二人。もう一人は死んでいるだろう。

 目的を果たそうと果たすまいと関係ない、俺には無限の時間があるのだから。

 目的はあれど期限はなく。剣道場や刀剣を扱う骨董品店を調べながら当てどもなく旅をしていた。

「すまないが、そのコレクションを見せてくれないか」

「事件に関係あるんだろうな?」

 刑事に釘を刺された。

「それより帯刀、現場を見て何か気付いたことは? 宝千寺さんも気になることはありませんか?」

「……そもそも見ず知らずの人たちを道場まで迎えるというのはどんな状況でしょう。父なら一目で相手の力量を測れたはずです」雅美がだるまの力を初見で見抜いたようにだ。

「ほとんど無防備に五対一の形になるのは不自然だと」

「そうです、帯刀さん。父の言葉はどこか、無理があるかと」

 むう、と刑事が唸る。

「宝千寺さんが偽証したとおっしゃる? 何故?」

「その答がここにあるといいんだが」

 試合場を一瞥し、警察の書類をだるまは読み込む。書類に書かれていることを要約すると、遺留品はなし、となる。周囲を調べたところ、鑑識が見逃した手がかりもなさそうだ。不自然なところのない立派な道場。

「道場に落ちてる毛髪を全てDNA検査に回して犯人の毛髪を特定してみるか」

「あのな、帯刀。確かに落ちていた毛髪は全て鑑識が持って行ったよ。だがDNAに関わる捜査は人権侵害と紙一重だ。限りなくクロい容疑者がいて、それ以外に証拠がない。そんな時だけ許可されるんだ。お前の意見は問題外」

「現場にないなら、玄関や敷地の外は。なにかあるかな」

「そこも調べてるよ。今のところなにも見つかってないが」

「ここから玄関まででもか、邑楽刑事」

 手がかり。情報。それらがないとこうも行き詰まるのか。解けない問題は久しぶりだ。

 三人は道場を出て廊下を調べながら玄関まで。

 五人どころか二十人でも利用できそうな玄関だ。靴箱は四つ。百人分は収まりそうだ。

 玄関から見て右側、道場の反対側の扉から懐かしい匂いがした。それに厳粛な雰囲気。

「宝千寺さん、あの部屋は」そう扉を指差す。

「いい勘ですね、帯刀さん。あそこは刀剣の保管庫です。見学しますか」

「是非とも」

 雅美が鍵を開ける。

 殺風景な和室。三つの壁に所狭しと日本刀が飾られている。奥の壁の鉄の扉が異質。

 その周囲にも剣が架けられている。

 だるまは絶句。唾を鳴らす。

「こりゃ凄いな」と邑楽刑事。

「ここに入るのは初めてだ」

 日本刀に慣れ親しんだだるまだからこそわかる、ここにあるのは業物ばかりと。

 だるまは右側の壁に架けられている最も近い一本を見た。

「宝千寺さん、抜いてもいいですか?」

「どうぞ」

 納められていた刀身を眺める。僅かな歪み、刃の造形には迷いがあり、刃紋は洗練されていない。

「これは?」

「父の習作です。それが最初の一本ですね」

「道理で完成度が……。いや失敬」

 言いながら鍔や柄を調べる。

「父は捨てられない気質でして、失敗作も処分しないんです」

「実験結果を記録しない学者はいない」

 感情のこもっていない声音、邑楽と雅美はだるまを見る。それでだるまは我に帰る。夢中になっていたらしい。

「失敗したからといってなんでも捨ててしまっては進歩してもどこがどう進歩したのかわからない、ということは往々にしてあるさ。お父上は正しい。蒐集家としてもだ」

 そう言って次の刀を点検する。

「実験? 何者なんだ、お前」

「剣術家、刀鍛冶、学者だ。研究者だった」

「三足の草鞋ですね。ご専門は?」

「専門はありません。すべてです。つまり統一理論の研究者でした、宝千寺さん。これもお父上の作品ですか?」

「右側の壁の半分が父の作品です。残りはこの村にいた刀鍛冶の作品ですね。それで、統一理論とはなんですか?」

「文字通りの意味です。全ての理論体系を統合する試みでした。未完成のまま失敗してしまいましたよ。あ、これは少し良くなってますね」

 さらに三本目を抜く。

「完成度も作風も違う。お父上は保守的ですね。だが自分を信じずに行動ができる、そう、自己と信念を切り分けて行動できる人だ」

 四本目を。

「そうです。普段は堅苦しい頑固な人ですけど、試合になると奇抜な手を繰り出したりするんです。刀を見てそこまでわかるんですか」

 刀身に目を向けたままでだるまは答える。

「そんなところです。一本目と二本目を比べれば作者の意識がどこに向いていたかわかります。二本目と三本目を比べればその人の指向性が朧げに見えてくる。四本目でそれが確信になる。お父上には、親近感が湧きます」

 刀を元に戻して奥の剣をとる。そして村の刀鍛冶が鍛えたという一振りを抜く。

「! これは見事な!」

 その刀は完璧な反り、厚みは少し薄い。刃から峰まで余さず滑らかに処理されている。刀身全てで光を反射しているかのような存在感。その造形は、人の血を拒んでいるような気高い美しさだった。

「父が言うには、天才だったそうです。鴉張野葉巻あばりのはまきという方でした」

「天才か。わかります。俺と同等の刀鍛冶が今もいるとは。……だった? その鴉張野氏は亡くなられたのですか?」だるまは振り向く。

「二年ほど前、上京していきました。この村では生活できませんもの」

「だからって東京には刀工の仕事があるモンなんスかねえ」不思議そうに邑楽刑事が呟く。

「東京には人も金も集まるからな。趣味人も」とだるま。

「素晴らしい腕前だ。是非会ってみたかった。これは?」

 次にだるまがとったのは実用性を捨てた祭祀用の作品だった。

 刀身から枝分かれするように六本の刀身が生えている。

「七支刀、か」

「見事でしょう。この辺りには奉納できる神社なんかないのでうちが保管させてもらってるんです。事実上うちの資産ですね」

「継ぎ目がない。単一の鋼を七支刀の形にしたのか。刀と同じように。七支刀ってこう作るのか……」だるまの頭脳は回転を止めていた。目前の美術品に心を打たれたせいだ。名残惜しそうに七支刀を戻す。

「宝千寺さん、奥の部屋は?」

 だるまがそう言うと雅美は鍵を開けて二人を奥へ案内した。照明をつける。

 広く埃っぽい部屋。奥には外に出られるシャッター。ガレージのようだが、はるかに広い。

 なんの部屋かだるまにはわかった。

 炭と土と鉄の香り。左手に大きな炉。やっとこ。

「鍛冶場か!」

 初めての場所なのに、だるまは懐かしさを感じた。元の鞘に収まる、そんな言葉を連想する。俺のいるべき場所は鍛冶場なんだ、天啓に近い確信。

 なにも考えずに一本鍛えたい。そんな衝動を堪える。

「随分、楽しそうだな……?」

「そうですね、邑楽さん。帯刀さん、どうしました?」

「いや、なんでもありません。職業病みたいなもんです。よく手入れされてる鍛冶場ですね」

「はあ……。刀造りは父の数少ない趣味でして。この鍛冶場はよく手入れしてましたよ」

 奥に置かれているやっとこの隣に見たことのあるハンマー。

 だるまは駆け出し、そのハンマーを持ち上げる。

 うるしを塗って光を反射する黒。デザインは丸みを帯びて装飾性を表現。握りやすいように柄は細い。なぜ、こんなところに?

大黒天だいこくてん!?」

「知ってんのか、帯刀?」

「知ってるもなにも、俺が作った戦鎚だ」

「……なんですって?」

「一昔前、俺は七本の剣を鍛え上げたんだが、故あってそのうち四本が散逸してしまった。こいつは、大黒天はその一つだ。なぜここに?」

「武器を四本も失くしたのか? 管理責任はどうした?」

「返す言葉もない」

 邑楽刑事の剣幕に意外にも素直な態度をとるだるま。

「旅の目的、それは紛失した四本の武器を回収し、研究仲間を探すことだ」だるまは二人の目を見て言う。

「そのハンマーは鴉張野さんが刀造りに使っていたもので父が譲り受けたものです」

「鴉張野とかいうやつ、変わっているな。大黒天は武器であって鍛冶用じゃないんだが。宝千寺さん。俺はこの大黒天が欲しい。譲ってくれないか」

「それは、父に聞いてみないことには」雅美は答えにくそう。

「そうでしたな。ではこういうのはどうか。俺が事件の犯人を特定します。引き換えに大黒天を頂きたい。お父上にそう直訴させてほしい」

「……なんですって?」

「素人になにができるんだ、帯刀よ」

「まあ見ていろよ、邑楽刑事」大黒天を戻してだるまは笑う。

「下手人は逃げる素振りを見せていない。被害者の条件も絞り込めている。見つけるのは簡単だ。剣の達人だろうから確保は難しいだろうが」

 そう言ってだるまは炉を覗き込む。作りかけの刀剣をやっとこで持ち上げる。

「見つけるのは簡単? 誰が犯人だ?」

「宝千寺さんのお父上を斬れるほど腕の立つ奴」邑楽の皮肉にだるまは簡潔に答える。

「この村にあと何人いるかな。アリバイも鑑みればさらに絞れるだろう」

「でも父を斬ったのは複数犯でしょう? それなら腕の差は埋められますしアリバイだってお互いを庇い合えるわ」

 だるまは真っ直ぐに雅美を見た。見たというより睨んだというべきか。

「帯刀さん、あなたが父に直接交渉してください。私の一存でハンマーを、『大黒天』をさしあげるわけにはいきまけん」

 だるまは満足して微笑む。

「それで結構。必ず下手人を捕まえてやりますよ。だがその前に宝千寺さん、この辺りで食堂なんかありませんか? そろそろ夕飯の時間だ」


 雅美、邑楽刑事と蕎麦を食べ、だるまは雅美に誘われてバーへ入った。

 かつては駄菓子屋だったという小さいそのバーは、宝千寺剣道場の隣に建っていた。

「ママ、おかわりくれ」

 無口なママは邑楽刑事にもう一杯カクテルを作ってやる。邑楽刑事の目は焦点が合わなくなりそう。

 その隣でだるまはウィスキーを飲んだ。

「いけるな。美味いウィスキーは久しぶりだ」そもそも酒自体久しぶりだ。もう一度口をつける。

「この村で作ったお酒です。氷は新潟からなんですよ、ね、ママ?」

 にっこり笑ってママは頷く。

「単なる地産地消でないわけだ。いいものならなんでも受け入れる度量には舌鼓を打てる、もとい、好感が持てるな」

「お酒は久しぶりです。美味しい」

「宝千寺さんもか? まあ妙な事件が起こってるのに呑気に酒など飲めんか」

「それだけじゃありません。新型風邪ウィルスが流行って自粛しなきゃならなかったでしょう」

「ああ、そんなのもあったな。あれは凄かったな。ウィルスの流行で社会機序の変化する様は、言い方は悪いが興味深かった。専門家にとっては最高の実験だったろう」

 世界中で流行った新型ウィルス。感染を防ぐために不要不急の外出を控えるように要請された。

 ワクチンの開発と流通に伴うトラブル、病院は大勢の急患で処理機能の限界を迎えた。ウィルスの出所に関する荒唐無稽な陰謀論はインターネットでしか存在感を示さず、むしろ物言わぬ重病者の死のニュースにかき消されがちだった。

 感染爆発の衝撃は体力のある若者の死生観に影響を与えた。新型ウィルスの勢力が拡大する一方で次々に編み出される人類の感染予防策を突破できなかった他のウィルスは絶滅するほかなかった。

 政府の緊急事態宣言は三年続いて、一週間前に解除されたばかりだ。

 元の生活を取り戻した、とは言えない。政治と経済の動揺は限りなくホームレスに近い生活を送るだるまに影響らしい影響を与えなかった。

 日雇いのアルバイト中に見るテレビで新型ウィルスの情報を集め変化していく社会の様子を楽しんだものだ。

「ここに飲みにくるのはだから久しぶりなんです」

「そうか。そういえば飲食店は特に打撃を受けたんだっけ。ママさん、景気はいかが?」

「ぼちぼちですね。あれは本当に大変でしたよ。ダンナさんがウチのお酒を楽しんでくれりゃ、景気がよくなるかも」

「ふっ」

 短く笑ってだるまはグラスを一気に呷った。雅美とママは驚いた。

「もう一杯くれよ、ママ」

 だるまが差し出した空のグラスを見てママは笑い、ウィスキーを注ぎなおす。琥珀色のウィスキーを半分ほど飲むだるま。喉が焼けそう。

「ウィスキーもたまにはいいもんだ。芳醇で結構」

「普段は飲まないんですか? 強そうなのに」

「強いがね。その日暮らしの生活なもんで酒は手を出しにくいんだ。それにウィスキーよりは日本酒が好みだ。ウィスキーは、昔の悪友を思い出す」

 ルシアン・オブライエン・ハーレムルートは酒の好みに頑固ではなかったが、故郷のウィスキーを好んでいた。酒もいろいろあるけれど最後に辿り着くのは、そう言ってグラスを傾けたものだ。

 ルシアンは賭けてもいい、ロクでもないことをしているに違いない。どこにいるのか、なにをしようとしているのか、わからなくともそれだけは確信できる。

 記憶を取り戻して真っ先に奴を探し出さなかったのは多分、不可解な信頼があるからだろう、そうでなけれは俺は単に奴と関わりたくなかったからになってしまう。

 ルシアンから逃げることは許されない。あいつを日本に招いたのは俺なのだから。

 とはいえルシアンが俺に責任を生じさせるような悪行乱痴気をやるかといえばそうでもない。

 奴も俺を信頼しているだろうからだ。ルシアンは俺を怒らせて楽しむだろうが、俺に刀を抜かせる真似は多分すまい。

 さもなければ責任を持って斬るしかない。ルシアン。

「顔が怖いですね、帯刀さん。その悪友って人、そんなに悪者なんですか?」

 そう呼びかけられて現実に戻るだるま。

「ええ、才能は誇らしいが性格は忌まわしい、そういう男です。タチの悪い危険人物」そう言ってウィスキーに口をつける。

「その人も剣を?」

 だるまは笑った。

「なんですか……?」

「笑ってすみません。あいつが剣を振るっているところを想像したらおかしくてね。あいつは剣道なんかしませんよ。一本創ってやったけど、まるでダメ。くくく」

「よくわからない人ですね。どういう友人なんですか?」

「もし見かけたら目を合わさず逃げるべき男です。女の敵にして人類の敵。人類の敵の天敵。そうだ、奴を日本に連れてきたときの話をしましょう」


 アメリカでスカウトしたルシアンと一緒に日本行きの飛行機に乗った時のことでした。

 どこからの飛行機かとかいつ頃の話なのかは故あって話せません。

 ルシアン・オブライエン・ハーレムルート、それが奴の名前です。

「理論体系の証明不可能命題を、別の理論体系を用いて説明し、その集合をもって統一理論とする、純粋理論としては貴殿の仮説に異論はない。それで全ての学問が終わるだろう。全て。しかし興味があるのは、その実践が社会にどんな影響を及ぼすかだ。そもそも影響が人間社会に留まるのか」

「その予測をして欲しくてあなたをスカウトしたんだよ。結局社会に影響を与えるのは理論ではなく人の心理だ。認知心理学は専門だろう、ドクター・ハーレムルート」

「長ったるいから苗字で呼ばれたくない。ルシアンと呼んでくれ」

「……日本語が上手だな」

「調べなかったのか? 吾輩、日本贔屓なのだよ。心理面の分析をするなら貴殿の統一理論をよく精査しなくてはなんとも言えん。ただ、その理論を理解できる人々が何割いるやら」

「平凡人たちはメカニズムもわからないパソコンや携帯端末を使いこなしているじゃないか。問題にならないよ」

「フム、そうかも。しかし、貴殿の統一理論にもやはり証明不可能命題が生じるのでは? ゲーデル曰く理論体系は必ず己のなかに真偽判別不能の命題を持つ。貴殿の研究は不完全性定理の克服にあるとみたが如何に?」

「研究を進めればそうした問題が出てくるのは必至だ。その問題は理論を不可知概念界にシフトさせることでクリアできるはずだ。理想化するんだ」

「人間に知覚可能な概念は必ずなんらかの矛盾を孕む。理論畑の魔道士などは、だから完璧な概念は人間に知覚不能な場にあるはずだと推論した。ドクター・帯刀、『魔道』も履修済みか」

 飛行機が離陸して五分ほどした頃でしょうか、俺たちが研究の話をしているとき、中央の通路を挟んだ座席の男が立ち上がって銃を振り上げたんです。驚きましたよ。

「我々は、アイルランド解放戦線である! この飛行機は我々がハイジャックした! 抵抗しなければ安全を保証する。全員座席を立つな! 我が祖国アイルランドは長年邪悪なる英国の圧政に苦しんできた。我らは今こそ独立し、北アイルランドを奪取、祖国の悲願を全うするものである。しかしそのためには資金が必要である。つまり我々の目的は諸君の身代金だ!」

 IRAはとっくに消滅してる? まあこの話はルシアンの人柄を説明するためのもので、実際の団体名は伏せるため、便宜上IRAにしておこうというだけです。他意はないですよ。

 その男はルシアンと同じく白人でした。体格も結構いい。かなり興奮していて危険だったな。

 まさかハイジャックに居合わせるとは思ってもみなかったけれど、次に起きたことは更に度肝を抜かれました。ルシアンが勢いよく立ち上がったんです。

 俺は窓際、隣のルシアンは通路に面した座席に座っていて、つまりテロリストとは通路を挟むくらい。至近距離で奴は、その、ふざけだしたんです。

「吾輩はァ、イングランド解放戦線であるゥ! アイルランドに圧政を敷くという圧政からイングランドを解放するために立ち上がったのだ! というのもアイルランド人というやつは頑固で働き者であり、信心深く大酒飲みだ。彼らの辞書に緻密という言葉はなく、今なお辞書を見たことのない者もちらほら。隣人としてこれほど迷惑な人種はなく、ためにイングランドは多額の税金と労力、イギリス人が持つ怠惰と妥協を好む兄弟愛の封殺を持って圧政を敷くよりなかった!」

 テロリストも俺も、乗客やキャビンアテンダントも馬鹿みたいにルシアンを見ているほかありませんでした。天才科学者と見込んだ男がテロリストの前で血迷うなんて予想できないでしょ? 

「なれど時代は変わった。英国は決然たる意志によって、己の腕を斬るごとく、アイルランドへの干渉を一切中止する、つまるところアイルランドから独立するものである」

「貴様、バカにしているのか!」

「まさか! アイルランド、これほどイギリスの頭を悩ませている国はない。アイルランドとは生きている社会問題、戦う社会問題だ。そのタフネスとロマンチシズムと執念でイギリスに痛手を負わせ続けたアイルランドをバカにしようか!? 吾輩はアイルランドからの完全な独立を実現するため目前の貴殿アイルランド人をブッ殺す。それがイングランド解放戦線の宣戦布告である! ゴッドセーブクイーン!」

「なにがイングランド解放戦線だ!」

 テロリストはいきなり発砲しました。ルシアンはひらりとかわしたが、射線上にいた俺はそうもいかなかった。撃たれるのは初めてだったな。左肩に一発です。本当に痛かった。

「ぐあっ!?」

「大丈夫か帯刀! 傷は浅いぞ!」

「そ、そういう台詞はチラリとでも傷を見てから言え……!」

 するとルシアンは俺に顔を向けました。

「問題ない。貴殿の生き死には吾輩が決める」

「なんだ?」

 ルシアンはまたテロリストを睨みつけました。

「貴殿の進退も吾輩が決める。レプラコーン君」

「誰がレプラコーンだ!」

 テロリストは再度ルシアンを撃とうとしましたが、彼の腕はルシアンに捕まれていました。

 物凄い力だったようで小さく呻きながらテロリストは拳銃を落としました。

「吾輩のズッ友に素晴らしい贈り物をありがとう」

「今日会ったばかりだろうが」と俺。

「つまらないものですがお礼の品を召し上がれ!」

 ルシアンはテロリストを全力で殴りました。それでテロリストは沈黙、のびました。彼の右頬はへこんでいましたよ。

 そのアイルランド人を担ぎ上げてルシアンはコクピットの方を顎で指しました。

 我々はコクピットへ。

「まずいことになったな。ドクター・帯刀」

「ああ、ハイジャック犯が単独というのは考えにくい。客席で演説をぶつ余裕があるんだ、コクピットにリーダー格がいるだろう」

「それは当然のこと。そうではなく、吾輩は成り行きでハイジャック犯を殴り倒してしまった。つまりハイジャック犯をハイジャックしたということだ」

「……うん?」

「となるとこの機をハイジャックした吾輩、このレプラコーン君の後を継いでアメリカ政府に身代金を要求しなければならぬ仕儀しぎとなった」

「いやその理屈はおかしい!」

 立ち止まるとルシアンはドアを蹴破りました。 

「NHKでーす! 受信料払ってくださーい!」

 イギリス人がアイルランド人に機上で受信料を要求するのだから笑ってしまいますよね。

 中にはパイロットが左右の席に二人。ハイジャック犯も二人でした。

 概ね予想通りの人数です。

「吾輩はアイルランド解放戦線解放戦線である!」

 またルシアンが戯言を始めました。テロリストたちは驚いたようで無言でした。

「アイルランドを解放するために貴様らは多くの犠牲を払ってきた、それは敬意に値する。なればこそ貴様らをこの苦役から解放せんために吾輩は立ち上がった。もう国家のために窮屈な思いをしなくともよい。汝の欲するところを為せ! まずは無線だ。そこのパイロット、アメリカ国際空港に繋げたまえ!」

 アホのルシアンが身代金を要求しようとしたので彼の横腹を殴って制圧しました。担いでいたテロリストと一緒にルシアンが倒れるのを待たず、俺は残りのテロリストも沈黙させました。

 羽田空港に着いた俺はその後、隠蔽、交渉、説明、陳謝、取引、根回しに一週間費やしました。

 ルシアンという男は放置しておくと幾何級数的に物事をややこしくしていくヤツなんです。

 いいですか、宝千氏さん、時代がかったスーツで体格のいい金髪の白人を見かけたら目を合わさないようにして逃げてください。

 騒がしい男だからすぐわかるはず。


「……冗談ですよね?」

 雅美はだるまの話を消化しきれず、そう言うのがやっとだった。

「俺もルシアンにそう言いましたよ。冗談だよな、とか、冗談じゃねえぞとかね」だるまはウイスキーを飲む。

「それで帯刀さんは旅をしてるんですね。ルシアンさんを探して」

 放置しておけば危険と面倒を撒き散らす狂人を確保するために。

「他にも探したい研究仲間がいます。『大黒天』のような探し物もね。ルシアンは急いで探さなくても大丈夫かな」

「何故です?」

「あいつがふざけだしたらすぐにわかる。ルシアンが大人しくしてるのはもう一人の研究仲間とつるんでるからだ。俺の妹の、帯刀まくら」

「妹さん? 妹さんも連絡がつかないんですか」

「そうです。ま、あいつも大人だ、心配はしてませんがね。それにルシアンと相性がいい。あのアホに物怖じしないヤツだから。俺がルシアンたちを探してるのは結局、懐古趣味に過ぎないんです」

 だるまの言葉、その端々から異質さを感じる雅美。仲間とどれだけ会っていないのかわからないが、会いたいと思うようになるまでちっとも気にしていなかったと、そう言っているように雅美は感じた。多分邑楽が目を覚ましていて話を聞いていたら雅美と同じように思ったろう。

「ママ、おかわりください。しかし新型インフルエンザか。宝千寺さんは感染したんですか」

 雅美は寂しそうに首を振った。

「私は、大丈夫でした」

「雅美ちゃんはねぇ、最後の全国大会に出られなかったのよね」

「ママ、私は気にしてないったら!」

 酔っているのか、雅美の声は大きい。

「剣道の大会? 何故出られないんだ?」

 雅美はだるまの方を向く。

「集団感染を防ぐために自粛しようということになったんです。今年から就職活動ですから、去年が最後の大会だったんですよ」

「……大学の剣道大会か」

「おにいちゃん、知らなかったのかい? スポーツ大会やらお祭りやら、イベントはみんな自粛で中止になったんだよ」

 だるまは笑って誤魔化した。そういえば、そんなニュースも聞いたかもしれない。自分で思ってるより、浮世離れしたようだ、俺は。

「気の毒にな、宝千寺さん。ほら、もう一杯飲めよ」

 雅美のグラスに日本酒を注ぐだるま。

「ありがとうございます」雅美は美味しそうに飲み干した。

「大会か。強いんですね、宝千寺さんは。出場できなくて悔しかったでしょう?」

「ふふ。だるまさん、どうですか、これから一試合?」

 一瞬の沈黙。だるまは雅美の目を見る。

「雅美ちゃん?」

「大丈夫ですよ、ママ。これくらいで酔いません」

「本当に?」そう聞いたのはだるまだ。

「ええ。お酒の限界はわかっているつもりです。久しぶりに体を動かしたいわ」

「まあ、そこまで言うなら」

「ちょっとおにいちゃん、駄目だよ!」

「ご心配なく。怪我させたりしませんよ」

「すごい自信ですね、帯刀さん。ますます楽しみになってきましたよ」

 また雅美は上品に笑う。

 だるめは立ち上がり雅美に手を貸す。

「はは! 酔ってないですって!」

 席を立った雅美は確かにふらついたりしない。

「ママ、支払いは邑楽さんによろしくね」

 そう言われてママは完全に潰れている邑楽刑事を見る。邑楽は幸せそうに眠っている。いびき一つかかない、深く優しい眠りだ。

 手を振って店を出る雅美の後をついていくだるま。


 剣道の防具を着けるのは久しぶりだが着け方を忘れはしない。

 自分でも驚くほど滑らかに装着できた。だるまには客用の、滅多に使われない防具が渡された。防具特有の匂いがかすかに。

 俺は最強だ。だるまは確信する。少なくとも剣術と剣道では。極め切った剣に未練はない。はず。

 しかし俺にこびりついた僅かな愚かさが、今も剣道場への郷愁を生み出している。

 あらゆる不合理を削ぎ落としたまえ。世界で最も鋭いオッカムの剃刀でも切れない愚かさがあるのなら、だるま、それは貴殿の本物なのだ。それだけは捨てるなかれ。

 そう言ったのはルシアン。

 捨ててはいけない、捨てられない本物、ルシアンが持つそれを、だるまはわかっていた。

 思考を切り替える。

 白衣を背負って更衣室から道場へ。雅美は防具を着けて待ち構えている。

「……二刀流ですか」

帯刀斬刃流剣術たてわきざんじんりゅうけんじゅつは二刀流が基本」二本の竹刀を軽く上げるだるま。

「宝千寺さんのフラストレーションを、見事真っ二つにしてみせましょう」

「それは楽しみです」

 白衣を畳んでだるまは雅美に相対する。

 二人は位置につき、屈んで、切先を触れ合わせて、構える。

 だるまは一歩引いて様子を伺う。雅美は半歩進む。

 それに応じてだるまは素早く右へ。雅美の利き手は右、その反対へ移動。惑うことなく雅美は距離をとった。

 なるほど、これが全国レベルか。ほんの二秒ほどのやりとりでだるまの若者への不信は取り除かれた。

 剣道など衰退するばかりだ、そんな偏見が俺にあったのだとだるまは自覚。

 左の剣で小手を放つ。雅美は瞬時に防御。右の剣による連撃を想定してだるまに密着。

「!」

 二人は離れる。仕切り直しだ。

 剣道において二刀流は珍しい。本来両手で振るう竹刀を片手で扱うのだから単純に握力、腕力を要求される。高度な技術を要求され習得が困難。加えて二刀流を教えることのできる剣道家が少なくなったことでますます二刀流が減るという悪循環になっていた。

 雅美も二刀流選手戦ったことは数えるほどしかなく、負けたことがない。宝千寺道場では二刀流を学ぶ弟子もいない。

 実戦で勝とうと思えばとんでもない練習量が必要であるために敬遠されるのが二刀流であるはず。

 だがだるまは違う。

 両手に刀を握って生まれてきたのではと思わせる、全くの自然体。

 実戦に耐える力量と実戦を重ねてきたとわかる立ち振る舞い。

 研究者などとんでもない大嘘じゃないか。

 侍だ。

 初めて出会った。

 そうか。私は侍と立ち合っているのか。

 雅美の全身から血が下がる。

「は!?」

 だるまの放った面、胴の連撃を咄嗟に受ける。

「この!」

 竹刀を弾いて再度距離をとる。少しふらついて構えを整えるだるま。

「真剣で戦いましょう、なんて言わなくて良かった」

「そう言っていたら、今頃あなたは真っ二つでしたよ、ストレスごとね」 

「……人を斬ったことが?」

「殺したことはありません。しかし、いつかは決断しなければならなくなるでしょう」

 真剣な声音。彼は本気だ。人を斬れる人間なんだ。

「『私とは住む世界が違う』。そう思ったでしょう?」とだるま。

「え?」

 構えたままにだるまは語る。

「しかし遅かれ早かれ、あなたも俺と同じ世界に足を踏み入れることになる。この場で俺が止めなければね」

「私が? まさか……」ひきつるように笑う。

「連続辻斬り事件の犯人はあなたなんだ。雅美さん」

 だるまの指摘、というより弾劾に雅美は驚いた。

「被害者は全員剣の心得がある。だから犯人の目的は腕試しだと思われた。しかもお父上を倒すような達人だ」

「確かに自信はありますけど、父さんには勝てませんよ」

「そう、加えて打撲と切り傷という二種類の痕跡から犯人は複数人と思われた。事実お父上は五人組にやられたと言っていました」

「卑怯ですね。流石に五人もいれば父さんにも勝てるでしょうが」

 いやいや、とだるまは首を振る。

「ところが五人組となると矛盾が出てきます。犯人像に。現代で腕試しに人を斬ろうと考えるのは尋常じゃない。それは雅美さんもわかるでしょう。そうした尋常でない動機というのは共有しにくいものです。加えて犯人は定められた部位にしか攻撃していない。小手、面、胴、突き。集団で一人を滅多打ちにする連中にしてはルールに厳しいと思いませんか? そう考えると、本当に複数犯なのか疑わしくなる」

「父さんが嘘の証言をしたと、帯刀さんは言うのですか?」雅美は声を上げる。

「そう仮定すると犯人は更に限られてくる。お父上は何故偽証を? 庇ったからだ。犯人はどうやってお父上を倒した? 立ち合うことそれ自体がお父上を動揺させたからだ」 

 雅美は、自分の体が言うことを聞かなくなっているのに気付いた。それほどの衝撃。

「この町に犯行が集中しているのは犯人が住んでいるから。ここらの使い手を簡単に探し出せたのは道場の関係者だから。蛇の道は蛇ですよ」

「待って!」ほとんど悲鳴に近い雅美な声。

「竹刀と真剣の二種類の傷痕があるのはどう説明するんですか?」

 だるまには仮説がある。その仮説はしかし、物証があるでもなく、邑楽刑事が聞いても納得しないほど現実離れしている。

「それは……、本人に直接聞けばわかること」

 身に覚えのない雅美は笑ってしまう。乾いた笑い。怒るべきだろうに、何故かできない。

「全国大会は残念でしたね。さぞ悔しかったでしょう。やり場のない怒りを感じられたはずだ」とだるま。

「新型インフルエンザによる自粛は多くの人々の人生を狂わせたはず。催事の中止による経済的損失。またどれほどのスポーツマンがその努力を無駄にしたか。一日ほどの付き合いですが、普段からさまざまな我慢をしていると俺は見抜きましたよ。あなたは道場の一人娘として周囲の期待に応え、また自らの意志で剣士としてストイックな生活を続けてきた。それなのに晴れ舞台といえる全国大会がフイになったんだ」

「…………」

「宝千寺さん、あなたは耐えきれなかったんだ。爆発した。無理もないと思いますがね」

「でも……私じゃない。本当です。どうすれば信じてくれるの?」

 自粛に対する憤懣ふんまんについてはだるまが正しい。

 それでも凶行に及んだ覚えなどない。それに。

「私には防具もつけてない人を斬る、、なんてできません。それに被害者は皆、私の友人なんです。道場の仲間。それをどうして斬らなければならないの?」

「あなたは、人を斬れる。茶番は終わりだ。出てこい。雅美さんの中に『いる』んだろう?」

 すると雅美は構えを解き、面を外した。頭の手拭いと共に放り投げる。長い黒髪が踊る。

 彼女の目はそれまでと違っていた。静かな憎しみと闘志をたたえた、侍の目。

 この道場を包んでいた凶気の主。

 雅美は右手の竹刀をゆっくりとだるまに向けた。

「俺が誰だかわかっているようだな。帯刀だるま」

「名前までは知らんがね。なんというんだ?」

「考えたこともなかったな。ふん。『村正』とでも呼んでもらおうか」

 村正の言葉を聞いた途端、だるまは強力な錯覚に襲われた。

 自分に向けられている竹刀が喋り出したかのように感じられる。

 雅美の口が動き、声も彼女から発せられている、そうわかっていても、その竹刀から目が離せない。

「俺は付喪神つくもがみ。竹刀の付喪神、村正だ」雅美の目はますます鋭くなる。

 大事に使われた道具は九十九年経つと神になると言われる。それが付喪神だ。しかし村正の言葉はだるまが予想したものでははかった。

「お前は雅美さんの閉塞感が引き金の、人工人格のようなものだ。新型ウィルスの自粛風潮と大会中止がきっかけの。付喪神なわけがない。なにが『宝千寺』の『村正』だ」

 だるまは声を荒げた。村正は竹刀に投影された雅美の副人格に過ぎない。

 アメリカに、よく似たヴィランがいる。『デビルピース』。だるまの推理はそのヴィランから着想を得たものだ。

 付喪神だって?

 非科学的と否定はしないが、かといって現象の説明に妖怪変化を持ち込む理由はない。

 どこまでいってもだるまは研究者だ。

「確かにこの女の閉塞感、大会に出られないという無念と俺は無関係ではない。ある日雅美に握られた俺は、『俺がいる』ということを理解し、己の存在意義を知った。人を斬ること」

 殺気が膨れ上がっていく。

「戦いたいという雅美の想いと俺の斬りたいという殺意が呼応し、俺は雅美を乗っ取った。好きな時に雅美の肉体を奪えるようになった。しかも雅美はそれを覚えてもいない」

 村正は雅美を笑う。

「付喪神か、雅美のもう一つの人格か? そんなものはどうでもいい。ただ雅美と、その苛立ちと共に斬って斬って斬りまくる。それが俺の全てよ!」

 弾丸のように飛び込んできた村正の突きをかわしてその竹刀を右の竹刀で薙いだ。

「!?」

 その手応えは慣れ親しんだ竹刀のそれではなかった。重い。刀か。刀を竹刀で叩いたような感触。

 この手応えといい村正の声の出所といい、村正の気迫に飲まれて錯覚を起こしている。

 村正の、違う、雅美の『村正』という妄想があまりにも強いのでだるままでほとんど村正を認めてしまいそうだ。

 被害者に切り傷があったのもそれが原因だ。プラシーボ効果。 

 強い暗示が実際に身体を傷つけたり反対に傷を癒す現象。

 魔道には共感が不可欠である。心の底から魔道を肯定するその意識作用自体が魔道を構成する重要な歯車なのだ。

 いつかルシアンが言ったことだ。

 雅美、村正と対峙した被害者は雅美たちの、特に村正の『我は真剣である』という意識に共感して打たれた部位に切り傷を生じさせてしまったのだ。

 竹刀であると認めながらその刃を否定できない。今のだるまもそうだ。

 一つの暗示でも複数人がそれを共有するとなると、その効果はより強くなるとルシアンは言っていた。雅美、村正、だるま。

「まさか何人も斬った理由は、多くの人間に文字通り自分を刻み込むことで己の存在を現実にしようとしたからか? そうした承認がお前を確かな存在にするというのは考えられる」

 だるまの推測を村正は一笑に付した。

「俺は俺よ。付喪神。妖刀。村正。他人の承認などいるか。必要なのは強敵の死。それが俺の存在意義よ」

 承認などいるかと村正は言ったが、だるまは自分の推測を否定できなかった。少なくとも警察は犯人を実在する人間だと思っている。被害者たちも目を覚ませば村正の存在を認めるだろう。そうした共有幻想は村正の刃をより鋭くするだろう。共有幻想の中では村正は現実だ。

 二重人格か付喪神かは関係ない。下手をすれば雅美の人格が村正に押し潰される可能性もある。

「お命頂戴!」

 村正の袈裟斬り。太刀筋まで別人。本物の殺気。不幸中の幸いか、村正の足運びは雅美のそれより遥かに未熟で、予測が容易だ。

 余裕を持って回避、カウンターを打とうとして思いとどまってしまう。

 雅美と村正、どちらを攻撃すべきか、と。

 村正は自身の隙を消すように防御、だるまは離れる。好機を逃した。

「実に見事な腕前、感服いたす。しかし土壇場でためらうようでは俺を斬ることなど、とても」

「どうもそのようだ。これは……、殺す覚悟がいるかな」

「当然至極」

 ゆっくりと歩み寄る村正。

 実のところ、雅美を殺すまでもない。しかし別の問題が。 

 雅美を叩けば、当然だと肉体を攻撃することに。村正を叩けば、いわば本体、村正の精神を叩くことになるだろう。それは下手をすれば、雅美の心を傷付けることに他ならない。

 決定打はどちらか?

 肉体か精神かの選択がだるまに閃きを与えた。

 だるまは試合場から抜け出し竹刀を放った。

「逃げるのか!?」

 そして畳んであった白衣に手を入れた。

「逃げる? 馬鹿を言え、妖刀!」

 その手の中には刀。村正は目を見開く。

「な、どこに隠していた!? その白衣に隠しておく場所など!」

「『ハンマーポケット』という収納技術でな。物体から大きさや質量といった情報を排除して理想概念化させ、持ち運べるようにする便利な四次元ポケットさ、さて……」

 それまでの竹刀の扱いとは全く違うというようにだるまは抜刀する。

 彼の表情は素人が初めて真剣を抜くときのよう。それほど危険なのかと村正は訝った。

 村正にはなんの変哲もない刀に見える。装飾も地味で無個性だ。鴉張野葉巻の作品の方がはるかに斬れそうだ。

「これが俺の奥の手。七福神最高の一振り、斬想剣ざんそうけん、『弁天丸べんてんまる』。お前を両断する剣だ」

「はっ! 虚仮威しだ! 刃文だけは見事だが一山いくらの凡作よ。俺とて刀を何本も見てきたからな!」雅美の目を通して。

「何本も見てきたか。村正、お前は侍に近いから、あるいは弁天丸の真価を見抜くかと案じたが、それは杞憂だったようだ」

 弁天丸を正眼に構えるだるま。彼は勝利を確信。

「念の為聞いておこう。村正、俺についてくる気はないか?」

「なに?」

「お前は稀有けうな存在だ。昔俺は生きている刀を作ろうとして失敗した。だからこそお前に興味が湧いた。俺と七福神を探す旅をしよう。好きなだけ相手をしてやる」

「雅美を連れてか?」

「お前が宝千寺さんから独立するまでここで待つさ。俺の弟子になれよ。最強の剣士になりたくないか」

 握手を求めるように手を伸ばす。それを村正は鼻で笑った。

「お断りだ。斬る相手を選ぶようではつるぎが廃るというもの」

「村正、わかっているだろう? お前では勝てない。だが俺に師事して帯刀斬刃流を学べば別だ。お前はまだ誰も殺していない。いくらでもやり直せる。その力を正しいことに使え!」

「くどい!」

 村正の一喝。

「まだ誰も殺していないだ? 武士道とは殺すことと見つけたり! 死とは『斬らぬ』ことと見つけたり! ここで貴様におもねれば、俺こそ一山いくらの凡作となる。それよりは貴様と立ち合い、花火のように散るが花道! 帯刀だるま、改めて、いざ尋常に!」

 村正が構える。

 一瞬でだるまは村正を諦めた。雷よりも速い決断。

「いざ尋常に、勝負!」

 三歩走って飛び蹴りを放つだるま。

「なに!?」

 横に飛んでかわす村正。双方が横に剣を薙ぐ。村正と弁天丸が切り結んだ。

「ちぃ!」

 振り向いただるまの手を狙う。

「小手ェェイ!」

 霞のようにぶれ、だるまは村正をかわした。いや、それは攻撃だった。

「小手ッ!」

 小手で体勢を崩した村正、雅美の手を狙う斬撃を避けるのは不可能。むしろ雅美の腕を弁天丸の方へ振る。

「!!」

 雅美は斬れない。斬り合いをしているのは村正の方、、、、であって彼女ではない。雅美はある意味でなにも知らない女だ、斬れようはずがない。

「隙ありッ!」

 だるまに差し出した手を捻り、攻撃に転じる村正。

 崩した体勢を利用した面など容易く予測、だるまは回避。

「それは、卑怯じゃないか? お侍さんよ」

 雅美を盾にする卑劣を非難するだるま。

「なに、雅美を斬る度胸があるか、試してみたくなったのよ。それによく言うだろう、死中に活を求めるとな」

「死ぬのは宝千寺さんだろ」

「雅美とは一連托生故問題なし」

「それはお前の事情であって宝千寺さんはお前なしでも生きていけるだろうが」

 苦肉の策、実力差を埋めるための小細工か。いや、おおかた無我夢中の行動だろう。

「敵を選ばす手段を選ばずか。タチが悪いな、村ま、さ……?」

 村正が弁天丸を凝視している。

「やはりその剣、なにかおかしい。切り札にしては普通過ぎる。それに……?」

 そうなのだ、とだるまは口を歪める。

「帯刀斬刃流は二刀流。俺は新しい二刀流の研究をしていた。二振りの剣は同時に振るべきか? 一つの目標に向けるべきか、それぞれ別の目標を斬るべきか、とな。そして俺は、同時に一つの太刀筋を斬る双剣を創れないかと考えたんだ。お前にそっくりだろう?」

 竹刀の実体、骨肉を斬る妄想。

「そう、空想上の剣とそれを現実に象徴する実体剣、二振りの剣を全くの同座標に収めることに成功したんだ」

「……そんな馬鹿な」村正は狼狽える。

「来る日も来る日も実体剣を鍛えながら瞑想するように心中で空想剣を鍛えた。空想剣がはっきりと見えるようになり、ついには握った感触と重さをも感じられるようになった」

 刀身はもちろんのこと、つば、柄、鞘の細部に至るまでだるまは空想でデザインし、それとそっくり同じ剣を鍛え上げた。

 同じだ。村正は悟る。

「だ、だが何故? 見事な仕事ではあるが、実体と空想を重ねることになんの意味が?」

 それでは一刀流ではないか、と村正。

「さっき言ったよう同じ部位を二振りで斬る研究、というのもあるが、本命は純粋な好奇心さ。空想上の剣ならばもしや、空想を、概念すらを斬れるのでは、とな。帯刀斬刃流の悲願真髄は『合戦』そのものを斬ることでね。それなら概念を斬れる刀を創れば、ということさ。宝千寺さんの妄想であるお前を斬るのにこの斬想剣はぴったりだ」

「……なるほど、竹の鞘竹刀に収まった空想を斬るのにうってつけだな」

「正に。この世にそっくりさんは三人いるというが、これほど酷似した剣を見るとは思わなかった。さて、お前は村正を凡作といったが少し考えてみろ。お前がイメージする剣よりも弁天丸は『普通』のはずだ」

「イメージしろだ? 俺の気を散らす作戦か」

「自惚れるな青二才。お前を斬るのにそんな小細工はいらない。さあ見ろ」

 自慢げに弁天丸をかざすだるま。


「これこそ剣の観念イデアに最も近い剣。鋼でできた普遍よ。世人の稚拙な想像より遥かに理想的な刀なのだ、わかるか?」


「……!」

 だるまの言葉が腑に落ちて言葉を失う。形を持った理想?

 そう、言われてみれば、違和感はそこにあった。村正の想像する刀よりも弁天丸は普通過ぎる。その理由はまさに弁天丸の普遍性にあったのだ。 

 普遍とはつまり欠点がないこと。完璧に近い概念。

 長過ぎず短過ぎず、鋭過ぎず鈍過ぎず、重過ぎず軽過ぎず。

 最強の剣がまさか、ここまで没個性とは。

 だるまも弁天丸も小さく見える。豆粒のように。

 強力な錯覚。

 だるまが遠い。剣が届かないほど。間合いを詰められない。

 村正の、いや、雅美の足が止まる。その事実に村正は怒り狂う。

 届かないから、強いから、勝てないから。

 それで立ち止まっては、それは死より屈辱だ。その屈辱と共に歓喜の念が湧く。

 こんなに見事な刀に斬られるなんて、と。

「笑っているな……?」

 一歩、村正は進む。

「おおよ。運命すら感じるわ。竹刀に宿った想念の剣たる俺を斬るのが剣に宿った想念の剣なのだからな。今日は死ぬにはいい日だ。短いが良い人生だった」

「短い付き合いだったが、お前はいい剣士だったよ。しかし」

 だるまは一歩退き、足に力を込める。腰を落とす。

「宝千寺さんを解放してもらうぞ、村正」

「言うに及ばず!」

 二人は跳躍、今度は雅美を盾にせず、村正はその刀身を弁天丸に晒す。全身全霊、村正の最速の斬撃だった。

 鋭く耳障りな金属音。衝撃、力では負けないはずのだるまも体勢を崩した。

「くっ、なんの!」

「死ねぇ!」

 村正が吠え、己を振り翳して跳ぶ。

「めぇぇぇぇぇぇん!!」

 渾身の唐竹割りをだるまは弁天丸で受け流す。

「こ、この……!」

 村正の切先が床に刺さる。いよいよ真剣じみてきた。

 剣を抜いた村正の腕を狙うだるま、村正は剣を翻してこれを迎撃、火花が散る。火花?

 村正の幻想が力を持ち始めている!

 金属音、床の切断、火花。

 焦るな。だるまは自分に言い聞かせる。

 勝てる。宝千寺さんも救える。 

 世にも稀な剣豪の卵を斬って。

 一瞬の躊躇いを斬り捨てて、だるまは弁天丸を振るう。さらば。

 もとより真剣を斬って初心者と扱われる帯刀斬刃流、己を真剣と思い込んでいる竹刀を斬るのは容易かった。

 刀身の半ばから断たれた村正の半身が床に落ちる。今度は刺さらなかった。ただの竹刀だ。雅美が膝をつきうつ伏せに倒れる。

「負けを認めたか」とだるま、その声は暗い。得難き剣客を喪った虚しさに囚われている。

 倒れ伏したままで村正は雅美の目でだるまを見る。

「そのようだ……。もう体を動かせぬ」

 人間に例えるならもろに胴切りを受けた形なのだろう、そう想像してしまった村正はその感覚を雅美の肉体に反映したようだ。嫌でも負けを認めざるをえまい。

「聞いていいか、だるま?」

「なんだ?」だるまの声は不快感で震えている。

「もしや雅美にしこたま酒を飲ませたのは、このためか?」

「そうだ。酒で宝千寺さんの意識を弱らせた。お前が出てきやすいように。古来よりあやかしを誘き寄せ、弱らせるのに酒はよく使われたからな」

 雅美が無意識に村正を認め、警察やだるまから隠そうとしていたら、とだるまは推測し、彼女の精神を弱らせるためそれとなく酒を勧めていた。

「お前もよく飲んでいたではないか」

 雅美の意識があるときも村正は外界を意識できるらしい。

「あれでもセーブしていた方だし、実は俺には超回復能力がある。道場に着いた頃にはアルコールは分解しきっていたよ」

「くく、タヌキめ。全て手のひらの上だったか」

「まあな。お前を気に入ったのは想定外だったがね」

「うむ、誰もが俺を捜したが、俺を認めた見つけたのはお前だけだ。だるま」

 だるまは息を吐く。

「もっと誇れ、だるま。これでも俺は一端いっぱしの侍よ。この時代に真剣試合ができる、望外の喜びではないか」

「そうだよ! 俺も侍だ。お前の言う通りだ! お前と戦えて、お前を殺せて、嬉しいよ!」

「……だるま」

 殺せて。

 村正は雅美の顔で微笑む。 

「止まるなよ、だるま。己の欲するように生きよ。心の底より湧き上がる想いに忠実であれ」

 黙れ、もうそうしている、そうは言えなかった。村正の言葉一つ一つをだるまは惜しんだ。村正の方を見ると泣いてしまうかもしれない。

 感情をシャットアウトしよう。

 もう一度深く息を吐いた。弁天丸を納刀して白衣の中へ。

「そう。剣を鈍らせる憂鬱など斬り捨ててしまえ。斬って斬って……斬り捨まくれ」 

 そう言った雅美は竹刀を放し、目を閉じた。

 測ったように扉が開けられる。

「お前ら俺に支払いさせやがって……、なんだ? だるまお前、なにしてる?」

 丁度いいとこに、とだるま。

「たいしたことはない。辻斬りを一人、殺したところだ。とりあえず救急車を呼ぼう」

 思考停止を秒で済ませ邑楽刑事は病院へ連絡。

 今晩は警察署で過ごすことになりそうだ。


 二日後、だるまは釈放された。邑楽刑事に事件の説明をしていくうちに扱いは容疑者から重要参考人に変わっていった。

「真偽がどうであれ、裏をとるまでお前を帰すわけにはいかん。わかってくれるよな」

 邑楽の言葉を否定しなかった。裏をとるとは雅美から話を聞くということだろう。あるいは意識を取り戻した被害者から証言をとったか。

 となると俺の釈放は宝千寺さんの覚醒を意味するわけだ。

 警察署から病院へ。病院を出るとだるまは北を目指した。道場に入り『大黒天』を返してもらって。

 だるま一人で雅美の父、幸村に会い、交渉した。

 前に会ったときよりかなり快復している。頭部の包帯もとれて精悍な顔を見せていた。

幸村は物腰柔らかい印象を与えようと努力していたが、剣士の剣呑な雰囲気は隠せていない。雅美や邑楽刑事の評にそぐわない達人だ。

 事件は解決したと言うと幸村は娘の安否を尋ねた。

 彼はやはり娘を庇っていた。知っていて刑事に黙っていた。

 雅美は精神疾患というべき状態であり鑑定は必要だが十中八九心神喪失で無罪になるだろう。最悪でも書類送検で済ませる。そう邑楽刑事に確約させたと話すと、幸村は安心した。付喪神など報告書に書けるわけがない、心神喪失とする以外にない、と邑楽刑事は言ったものだ。

「邑楽くんたちには無駄な仕事をさせてしまったよ」と幸村。

「ま、無理もありますまい。家族を思っての偽証ですからあなたの罪も軽くなるかと」

 これでも地元の有力者だしな、と幸村は返事する。雅美を案ずる人物は幸村だけではないということだ。

 娘に潜んでいた魔を祓うその代価が『大黒天』一つなら安いと父親は笑った。


 この町に用はもうない。

 駄菓子屋だったパブのママに挨拶をしてしばらく歩く。

「帯刀さん!」

 振り向くと雅美。

「もう行ってしまうんですか?」

「目当てのものは手に入れました。事件も解決しましたしね」

 懐から大黒天を取り出すだるま。あんな大きな戦鎚をどうやって?

「事件のこと、邑楽さんから聞きました。私が犯人だったのですね」

「視点を変えればそうとも言えます。法的にはそう見なされないでしょうが」

「私、皆さんに、父さんにどう謝れば……」

「ああ、それは法律では答えられない領域ですね」

 再び大黒天をしまう。

「少なくともお父上はあなたを庇った。事件を迷宮に封印してでもあなたを守ろうとしたんです。ならばあなたの心の向くままに振る舞えばよろしい。たぶん、お父上も助けてくれるでしょう。そうだ。俺じゃなくてお父上を頼ればいい」

 被害者たちにこの親子は謝ってまわるだろう、そうだるまは想像する。

「もう、私、誰にも顔向けできない……」

 雅美は顔を歪ませる。

 雅美に、だるまは失望する。晴れ渡る青空を見上げる。

「甘ったれたことを言わないよう。剣士でしょうが」

「…………」

 剣士だろう、そういった周囲の期待が村正誕生の一要素であるのを思い出してだるまは言葉を選ぶ。

「ま、聖ペテロも恥ずべき罪を犯しましたが、それでも鶏は鳴いたのです。朝になるってことです」

「それ、聖書の話ですか?」

「いや、昔ルシアンのヤツが引用したなにかですな。ともかくその罪悪感とは関係なく時間というものは経つんです。いつまでもくよくよしていると寝坊してしまいますよ」

 剣をとる者なら雑念など斬り捨てろ。小さい頃、父が剣について初めて教えた言葉だ。

「これから、ご迷惑をかけた皆さんに謝ってきます。それが済んだら、帯刀さん、私を連れていってくれますか?」

「ははははは!」

「き、気持ちよく笑いますね。なにかおかしいですか?」

「いやなに、実は昨夜村正をそう誘ったんですがね、すげなく断られたと思ったら宝千寺さんがついてくると言うから。はは」

「村正って、私の別人格ですか」

「その通り。しかし宝千寺さん。家はどうするんです? 道場は。村正はあなたから独立できそうだったし家族もいない。だから誘えたんだ。しかしあなたは」

「道場は……」

「確かまだ大学生でしょう。就職活動もしていると言った。せっかく道を踏み外さずに済んだのに自分から『裏社会』に足を踏み入れることはない」

 だるまは彼女の家の方を指差した。帰れと。

「己の本性を剥き出しにする危うさをあなたは知った。抜き身の剣など誰も欲してはいない。宝千寺さん、あなたは人々の期待通りの娘として振る舞ってきた。それは人として正しいことだ。俺や村正のように誰にも存在を認められない、社会から孤立した者になってはいけない」

「私は」と雅美。

「帯刀さんのようになりたい。強い剣士に」

 最強の剣士に。

 思考を放り出して雅美を見つめる。

 予想してしかるべき、予想外の言葉。

 まるで村正。

 それが彼女の真の望みなのか? 汝の欲するところ?

 だるまはまた笑う。

「よし。ゲームをしましょう」とだるまは提案。

「まずはお父上を説得すること。俺はこのまま東京に戻ります。あなたを待たない。お父上の了承を得たら東京の俺を探す。そうしたらまた剣を探す旅に出る」

「私と一緒に?」

「正に。また試合をしましょう。ゲームの制限時間は……」

 二十年くらいか、そう言いかける。あまり長いと雅美の時間を無駄にしてしまう。

「五年にしよう。五年をかけたかくれんぼだ。ま、隠れる気はないけれど、なんといっても東京は広い。探偵を雇ってもよろしいぞ」

 よく探すんですな。だるまはそう笑い、手を振って別れた。 

「さようなら。また会いましょう、帯刀さん!」

 今まで押し殺してきた雅美の本性が鞘から抜かれた。 

 その意志は小さくなっていくだるまの背中を追おうとしていた。


 振り向いてももう雅美はいない。かなり歩いたろう。

 東京に戻ってどうするか。残りの剣は恵比寿えびす布袋ほてい、そして毘沙門びしゃもん

 七福神の優先順位は低い、反面ルシアンを探したいだるまだ。

 寂しいからではない。目を放していると不安になるからだ、今頃なにを思いついているか、予想もつかない。

 そんなことを考えていると、左手の森から風を切る音。

 足元に矢が刺さっている。

 一瞬緊張するがすぐに矢文であることに気付く。

「戦国時代なのか、この辺は」

 言いながら文を読んでみる。


 緊急召集令

 帯刀だるま博士

 日本政府の召集です。

 速やかに東京駅に出向して下さい。

 駅前に迎えの者がいますので彼の案内に従って下さい。

 日本政府防衛庁特殊実戦部隊


「ふむ」

 端的な内容だ。それにしても俺の存在を知っていたのか。ずっと監視されていたようだ。

 政府など無能揃い、注意を払う存在ではないと思っていたがなかなかどうして。

 射手のいる森の中を観察する。小動物の気配ばかり。大型の生物は感じられない。

 もう逃げたようだ。使っていたのは和弓だろう。大きな弓を持って音もなく姿を消すとは、何者だ? まあいい。どうせ東京に帰るところだったのだ。

 矢を拾って懐にしまい、だるまは歩き出した。

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