第4話 デスタッチ

     第四話 デスタッチ

 リムジンは国立くにたち市方面へ走る。

 ハンドルを握るカーター・スマックスは雑念を払って運転に集中するよう腐心していた。

 日本は『表の世界』と『裏社会』に二分されている。

 二つの違いは単純。システムに暴力が組み込まれているかどうか。自然に棲み分けがされていて表の世界の住人の大部分が裏社会の存在に気付いていない。

 リムジンに乗っているのは全員が裏社会の住人だ。しかし暴力を社会システムに組み込んでいる以上、裏社会は一枚岩ではない。

 善と悪。利害の不一致。

 カーターはかつて全身タイツを着込んだ悪党ヴィランだった。裏社会の一部。武力という物差しでは上位の存在。

 ガスペダルというスーパーヒーローとの戦いで改心したのはつい最近。今でこそ日本政府の下で働いているが、未だヴィランの『スピードデーモン』としてのキャリアの方が長い。

 キャリアにも慣性がある。カーターはそれを思い知った。ヴィランの感覚が抜けきっていないと。

 後部座席にちょこんと座っている少女。二代目の『ギロチンムーン』。おそらくスーパーヒーローの中で最も情け容赦のないヒーロー。

 マスクの有無なく遵法精神の欠けた者たちは皆ギロチンムーンを恐れる。初代は最近死んだという話だが、裏社会の何割かは本気にしていない。あの化け物が死ぬ筈がないとか、死を偽装しているとか、なんにせよ確証もない噂話をまともに受け止めるヴィランは少数派だ。なにせギロチンムーンを殺したと言い出す奴が現れないのだ。カーターもまたギロチンムーンの死を信じていなかった。

 柔草日ノ笑の存在を知るまでは。ギロチンムーンに娘がいたなんて。

 バックミラーを見るがそれは運転の為であって日ノ笑の様子を見ようとしてのことではない。

「そんなに怖いかね、柔草くんが」

 見かねて助手席の観音かんのんが尋ねた。先日ほどのパニックではないが、明らかにカーターは落ち着きをなくしている。

「まあ、大丈夫ですよ」 

 さすがは百戦錬磨の運び屋、一言声をかけてやっただけで運転がスムーズになった。

 ギロチンムーンか。観音は後部座席の日ノ笑を気にする。

 かつて『水際の戦争』で観音はヒーローチーム、『マスカレード』と共闘した。当時の観音は軍人だった。

 リーダーである『マジスター・ハイエンド』は観音に背中を任せ、観音はギロチンムーンに背中を任せたものだ。

 観音はマスカレードを完璧に信頼していた。

 しかし、ギロチンムーンのやり方を思い返せば『スピードデーモン』、カーターの怯えようもわかるというもの。

 闇夜を背負うヒーロー、ギロチンムーンの犯罪者たちに対する仕打ちは情け容赦のないものだった。

 トレードマークのギロチン刃剣は腕を、脚を無惨に切り落とした。すぐにマジスターら周りの仲間が止めるようになったとはいえ、彼の手腕は裏社会全体に衝撃を与えた。ギロチンムーンに捕まったヴィランはカーターのようにPTSDを発症することもあった。それを観音は失念していた。

「俺がついてる。大丈夫だ」優しくカーターに声をかける。

「ええ、もう大丈夫です、会長……」

 一方、後部座席の勇は人生最大のピンチに陥っていた。彼女がメジェドのコスチュームを着けるようになってピンチの連続だったが、今回は自身の判断で抜け出せる窮地ではないように思えた。

 このリムジンは粗末な小舟で荒波に流されるまま。多分その波は運命という名前で、なるようにしかならないんだろうな、諦め半分勇は思ったが、スーパーヒーローたる俺が諦めてどうする、すぐにそう自分を励ます。

「どうした、さみ?」

 勇の表情の変化を見逃さない春一が聞く。

「別に。俺たち教会に着いたらどうなるのかな、と思ってさ」

「フム。確かに」春一は素直だ。

 メジェドとは古代エジプトで発生した秘密結社だ。秘密結社であるということすら一般には知られていない。純白のレインコートがトレードマークのスーパーヒーロー、メジェドの正体とは結社のメンバーが同じコスチュームを用いて一人のヒーローを演出するというものだ。

 一人が疑われても別のメンバーがメジェドの姿で現れればそれでアリバイになる。メンバーは世界中にいるので事件に容易に急行できると結社のメリットは大きい。

 数千年、ともすれば一万年の歴史があるためにメジェドは世界中の文明に浸透している。

 だからこそ、その正体が世間に知られればそのショックは計り知れないものとなる。歴史が覆される。それだけは避けなければならない。

 メジェドの正体を知っている奴らが少なくとも三人か。

 メジェドのメンバーは極めて厳しい審査を受けなければならない。健康であるか、口は固いか、臆病でないか。

 そんな審査を通った俺が、こんなところで終わるわけがない。メジェドの秘密とはそんなに軽くないだろう。

 そう考えて勇は心を決める。

 どっかりとリムジンの座席にもたれる。素晴らしい感触。リッチだ。

 勇の態度の変化を周囲の三人は認めた。特に日ノ笑は勇の心中を完全に理解していた。

「もうすぐ着く」瓶底が小さな声を出す。

「無愛想だなー。山轢」

「大きなお世話だ、太宰」

「何の話なの、と聞いても無駄なのね?」

 日ノ笑の言葉に瓶底は頷く。

「教会に行けばその話になる」

 日ノ笑も勇も落ち着いている。退屈なことになりそうだ。春一は曖昧にそんな予想をした。


 巨大な教会の巨大な正門が開く。リムジンは正面の大きな噴水を迂回して停止した。

 日ノ笑たちが出ると観音が案内する。

「こちらだ。ようこそ教会へ」

 正門から入ると信徒が祈りを捧げる場、集会堂。中央の通路を挟んで左右に長椅子が連なっている。何十人入るのだろう。

 左右の窓は開かれていて風を取り込んでいる。

 照明は十分その役割を果たし奥まで暗いところはない。広く見通しがいい。

 通路の最奥に褐色の説教台があり、そこに人が立っている。

 最前列の長椅子にも何人か座っていてこちらを見ている。

「よく来てくれた。トゥモローパイオニアよ。遠慮せずこちらに来てくれ」

 説教台に立っている男がよく通る声で呼びかけた。ビジネススーツの上に何故か白衣。ちょんまげのようなポニーテールの青年。

 観音と瓶底が先を行く。

「行きましょう、二人とも」日ノ笑の後を二人は追う。

「適当に座ってくれ。瓶底よ、茶を出してくれ」

 観音の命令に返事もせず瓶底は右奥の扉の中へ。

「……って。ちょっとちょっと?」

 珍しく日ノ笑が声を上げた。最後尾をついてきた運転手を見ている。運転手は下を見たままだ。

「誰だ?」

「誰だっけ? なんかヴィランだったような?」

 春一は見たことがなく、勇はニュースで見たその顔は元ヴィラン、カーター・スマックス。

「どうしてあなたが? まだ服役中でしょう」

「カーターは釈放されたんだ」と観音。

「徹底的に合法に、内密に」とだるま。

「カーター・スマックスだ。まあ、よろしく……」

 マスクを着けていないヒーローの前で悪党だった男、カーターは挨拶をする。

「スピードデーモンか。釈放されたの?」

「だからスピードデーモンって誰だよ?」

 全員が春一に注目する。

「ヒーローのガスペダルとよく戦ったヴィランだよ。ガキの頃話をしたろーが」勇が教えてやる。

「ああ。ヴィランね」淡白な口調と裏腹に春一は殺気を乗せてカーターを睨んだ。その場の全員がその殺気を感じ取っていた。

 少し細めの男が春一の方を見て立ち上がった。彼の右腕は肩から先が変わった義腕だ。

「落ち着けよ、ハル!」

「ハルは落ち着きながら暴れる奴でしょ、勇ちゃん。ハル、その時は許可を出すから、ここは抑えて」

 日ノ笑の制止で春一の剣呑な殺気が消える。

 義腕の男は息を吐き、長椅子に座る。

「……ほーう」説教台のサムライ男は春一を見て息を吐く。

 強い。雑念のない、単純な強さだ。興味はあるが、今は任務が優先だ。

「聞いているだろうが君たちと戦うつもりはない。我々教会の任務は『デブリ』と『虚寂竜』ディオゲネス・クラブの撃滅だ」

「ディオ……?」

「ディオゲネス・クラブ。教会の兵器開発と戦略構築を担当している帯刀たてわきだるま博士だ。よろしく」

 赤いドレスと金髪の美女がだるまに続く。

「イーン帝国第一王女、教会の戦闘員。ドロップレー・ブレーク・ロバートウェインシュタインよ。よろしくね。キューピッド」

「ドロップレーとつるんでるキューピッド。見ての通り妖精だ。ま、よろしく」

 妖精? ヒーローたちは驚く。

「教会の戦闘員、前線指揮官をしている紅南海くみなみうみよ」

「カーター・スマックス。俺も戦闘員。よろしく、とは言えないよな。やっぱり」善と悪の間に横たわる溝は深い。

「俺を目の敵にしなければ、文句はないよ、ヒーローさん」

「それは話を聞いて判断する」と日ノ笑。

「で、戦闘員の水澄涼みすみりょうだ。仲良くできると嬉しいよ、ヒーロー」義腕の男が爽やかに笑う。

「俺と瓶底の紹介はいらんよな」と観音。私服に着替えた瓶底が三人の客に茶を振る舞う。

「ありがとう。私は柔草日ノ笑。プロテクテゴもう一つの名は言うまでもないわね?」

「あー、まー、太宰勇です」

「果崎春一だ。……なんだよ?」

 ドロップレーが春一に距離を詰めていた。春一と勇に興味を待っている。また始まった、と観音は肩を落とす。まあいい、手早く済まそう。ドロップレーは口を開いた。

「果崎くん、太宰くん、君たちの背中を見たいんだ」

「は? 馬鹿か?」と春一。

 勇が小さく笑う。

「ドロップレーは背中に青いアザのある奴を探してるんだと」

「そういうこと。ありがと、涼。では果崎くん?」

 久しぶりに会った友人と食事をしていたらマルチ商法の勧誘が始まった時のような顔の春一。背中なんか見せたくない。

「背中の青アザのある奴を見つけたらどうすんの?」勇が聞く。

「恋人になるの!」よくぞ聞いてくれましたといった感じのドロップレー。

「ご覧なさい!」

 言うなりドロップレーは後ろを向き、ドレスの背中を開けた。綺麗な背中には片翼の形の青い痣。左翼のみ。

「生まれる前の私には恋人がいたの。まだ名前も顔もない魂だけの彼、生まれたら必ず出会って恋人になると約束したのよ。背中の右側に翼のある方をだから探してるの。果崎くん、背中は?」

 支離滅裂だが、危ない女だということは完璧にわかった。春一も勇も引いていたし、海と涼も頭を抱えている。これさえなければな、と。

「言っておくけど、俺は女だぞ……」

 勇の言葉に目をぱちくりさせるドロップレー。

「本当に? でも確かに……」

 勇をドロップレーは凝視。顔が近い。優美な金髪、白い肌、輝く瞳が眩しい。柄にもなく勇は緊張する。アレな女でなければしょうもないジョークでも言えただろう。

「そいつ女の制服を着てるだろ、姫さま」と瓶底。

「そうね。ごめんなさい、太宰くん」

「はあ……」こちらこそありがとうと言うべきか? あの背中はセクシーだった。いや、藪蛇は避けよう。

「見せてあげたら、ハル」

 日ノ笑の意外な提案、アホか、と思ったが、日ノ笑がそう言うなら考えでもあるのだろう。

「日ノ笑、こいつらが怪しい動きをしたら迎撃しろよ」

 春一は警戒心を全面に出す。初対面の人間に背中を見せるのだから当然だが。

 春一の背中は傷痕ばかり。青い痣などない。

「どうもありがとう、果崎くん。君たちも背中の左側に翼の青痣がある人を見つけたらすぐ教えてね」

「…………」勇は沈黙。教えてねったって、もう会いたくねえよ。

 説教台に立つだるまはまず、デブリとディオゲネス・クラブという二つの脅威について話して聞かせた。

 その説明には死せる街、ネクロポリスの成り立ちも語らなければならない。

「百五年前、ある研究プロジェクトが立ち上がった。それはそれは巨大なプロジェクトでな。そのコンセプトは『研究倫理の超越を伴う急進的手法』といったところでやりたい放題だった。それは五年ほど続いた」

「ネクロポリスのできた年と合致するな」と春一。

「数ある実験の一つに並行世界の観測と往来があった。観測用の穴を作ったはいいが向こうの世界、仮に、ふむ、『限定世界』と呼ぼうか」

「アンダプルス」

「ドロップレー殿下、今なんと?」

「イーン語で世界はアンダプルスと言うのよ。いかが?」

 都合がいい。だるまは頷く。

「そのアンダプルスから流出した悪魔がデブリとディオゲネス・クラブで、これらに対抗するために政府が組織したのが我々教会だ」

「異世界! 悪魔! お姫様ァ!」

 勇のテンションが上がっていた。

「イーン帝国ってどこだよと思ってたら異世界だって!? 凄いや、バイストン・ウェルは本当にあったんだね!」

「確かに驚いたな。異世界の穴だって?」と春一。声が上擦っている。

「証拠はあるの?」日ノ笑はあくまでも冷静。

「証拠なら高尾たかお山のふもとの研究所跡地にあるさ。穴はそこにある。これから見に行くかね?」だるまは運転手、カーターを見ながら答える。

 気乗りはしないが任務ならヒーローたちを連れて行かなくてはならない。

 しかし日ノ笑はだるまの様子を見て嘘を言ってはいないと判断。

「いいわ。教会の目的、それは理解しました。それで、私たちトゥモローパイオニアにどうしろと?」

 やはり飲み込みが早い。加えてどうやっているのか、こちらが本当のことを言っているか日ノ笑はわかるらしい。父親と同じく馬鹿ではないようだ。

「非戦協定だな。俺たちの任務中にスレイヤーと敵対しないで欲しい」

「スレイヤーとは、貴方たちの何?」

「ドラゴンスレイヤーといってアーマーのような武装だよ。俺ならほら、この右腕」涼が右腕を挙げる。レーダーやカメラをごてごてと取り付けた金属の腕。

「ドラゴンスレイヤーを着けているものをスレイヤーと呼んでいる。ややこしいがな」

 だるまや涼は勇が涙を流しているのに気付いた。

「おいおい勇、どうした?」春一はそう言ってしかしその理由を薄々察していた。

「これが感動せずにいられるか? メタルヒーローが実在したなんて!」 

 袖で涙を拭く勇。晴れやかな笑み。不気味だ。

「アーマーファイターは男のロマン! ギャバンやアイアンマンの系譜が目の前に。涼、その腕触っても?」

「だ、だるま?」涼はだるまに判断を求める。彼女は本当にメジェドなのか?

「勇、壊すなよ」とだるま。

 肩から指先までの義腕を物珍しげに触る勇。

「カッケー……、肩にレドーム? これはマイク?」 

「情報収集のためのドラゴンスレイヤーなんだ」

「クールだー。だるまさん、アーマーと言うからには頭から爪先までバッチリ覆ってるんだろ? 見てみたいな」

 だるまは自慢の作品を褒められて嬉しそう。

「おいおいな。隠し事はしないが話が脇道にそれてる。いずれスレイヤーを見ることもあるだろう」

「なんか、嬉しいわ。しかもこれ、日本政府が金出してるんだろう? カタブツ揃いだと思ってたけど、見直しました。万民党ばんみんとうに投票します」

「俺らに投票権ないだろ」万民党は日本の与党だが、もちろん高校一年生の勇に選挙権はない。

「俺たちもデブリやディオゲネス・クラブの勢力と脅威度を測りかねている段階でな。パイオニアに協力要請するかもしれんがそれは最悪のケースだろう。だからこそ教会とトゥモローパイオニア間の非戦協定を結びたいんだ。君たちのリーダーは?」

 観音の問いに、春一と勇は日ノ笑を見ることで答えた。

「私よ。トゥモローパイオニアのリーダー、『ギロチンムーン』、柔草日ノ笑は教会の会長、山轢観音の提案を受諾する」

 観音と日ノ笑は手を握る。ニッカリと観音は笑う。

「それと俺の息子、瓶底を頼むよ。俺たちに用があるならこいつを通せば早い」

「面倒だが、命令ならな」椅子の上に寝そべっていた瓶底が答える。

「そういや瓶底くんも戦闘員だって? もしかしてドラゴンスレイヤー持ってる?」

「勇、落ち着けよ」

「持ってるよ、俺と違ってフルアーマーのやつ。な、ちび?」

「黙ってろ涼」

「同級生にアーマーファイターが。最高の高校生活だ」

「そ、そんなに?」日ノ笑はついていけない。

「トニー・スタークありがとう」

「関係ないだろ」

「関係ない? これだからハルは。俺の親友はステゴロのやりすぎでアーマーの美学を忘れてしまいました。どう見てもパンツドランカーです。本当にありがとうございました」

「ああ、昔アイアンマンの話で二時間ほど……、パンツじゃかくパンチだろ」

 おもしれーやつだな、キューピッドは勇についていこうかな、そうチラッと思う。だけど契約できる人間は一人だけ。

「彼を頼む、とは?」

 日ノ笑の声は固い。同級生、しかも瓶底は同じクラス。紐付きのスパイにしては稚拙なアプローチだが。

 彼女の問いで観音の表情は曇った。彼はパイオニアの三人が座っている長椅子に座る。

「あいつは養子なんだ。ネクロポリスでハードな生活をしてきたせいで情緒が全く育っていない」

 ネクロポリスにはありふれた話。ネクロポリスの住人は文明から程遠い環境で生き延びるために文化的な活動を遠ざける傾向がある。教育すら軽視されているために文字の読めない者も珍しくない。瓶底もそうだった。

「俺たちは託児所じゃねえぞ」春一の正論。

「さっきも言ったよう瓶底を連絡員にして構わん。こちらの活動の邪魔にならない限りはパイオニアの支援をさせてもいい。ただではない、ということだ」

 拝むように両手を合わせ、観音は日ノ笑の目を真っ直ぐ見る。

「人間の常識を学ぶには君たちが適任だと判断したんだ。瓶底には友達が必要だ。友人関係の中で人との距離を測る術をこいつは持っていない」

 観音と瓶底の目が合う。

「せっかくできた子供だ。親バカと言われようが幸せになって欲しい。戦うだけの人生なんて送って欲しくないんだよ。デブリどもを倒した後、真人間として生きていけるように」

「いい親だな」と春一は簡潔に評する。

 お前の家族とは大違い。春一の言葉を聞いて勇は心中で呟いた。

 日ノ笑は瓶底の方を見る。

「日ノ笑ちゃん? 私からもお願いしたいわ」気品のある声でドロップレー。

「この子はこの世界に来て初めての友達なのに、ビンったらロクに世間話もできないんだもの。ビンの心を溶かしてあげて」

 柔らかな声だがそれでも命令だとわかる声色だ。命令し慣れている。

「紅南さん、水澄さんは?」二人に水を向けるドロップレー。

「え、俺ら? もちろん仲良くして欲しいよ。初めて会った時から同年代の友達とつるんでるところなんて見たことないしな」と涼。彼は瓶底がちびと呼ばれていた頃からの古い付き合いだ。

「そうね。そもそも同じ学校なんだから普通に接してくれればいいんじゃない」海は少し気楽そうだ。

 気楽に考えていい話題なのかもしれない。ふと瓶底はそう思った。瓶底は起き上がり日ノ笑を見る。そして手を差し出した。

 その手を握る日ノ笑は瓶底の表情や振る舞いで彼がおおまかにどんな人物か把握していた。

 最も気になるのは余裕の無さだ。瓶底は何か一つのことに気を取られている。トゥモローパイオニアのことも、新しい友人のこともどうでもいいらしい。観音の心配も理解できる。瓶底は単純なのだ。多分春一よりも。

 そんな瓶底がスパイをやれるとは思えない。そもそもこちらは素性というクリティカルな情報を既に握られているのだ。

「帯刀博士、山轢さん」

「なんだね、柔草くん」

「一つ知っておきたいことがあります。私たちの情報をどう得たのか」

「……うむ、柔草くんの期待に添える答になるかわからないが」と観音は答える。奥歯に物が挟まったような言い方だ。

「我々教会と防衛庁の間に連絡員がいる。コードネームはハルポクラテスという。俺はハルポクラテスにトゥモローパイオニアとのパイプを構築するよう命令した。君たちが『マスカレード』と戦った夜、ハルポクラテスは君たちを尾行して氏素性を確かめた、というわけだ。」

「尾行されたのは私?」

「そうだ。気付かなかったかい? 優秀なエージェントだろう」

「……自慢しているにしては晴れやかな風ではないですね?」

「俺の話を君に納得させられないからだ。何故か? 俺たちもハルポクラテスを見たことがないからだ」

「透明人間かよ」と勇。日ノ笑も驚いた。

「そもそも教会でハルポクラテスを知っているのは俺と帯刀博士くらいだ」

「俺たちから連絡はできないようになっている。防衛庁からの命令事項はハルポクラテスの矢文で伝えられる」だるまが付け加えた。

「矢文で? ハルポクラテスくんは携帯も持ってないのかな?」

「一番安全な伝達方法といえるだろ、太宰。特に姿を見せないのが素晴らしい」とだるま。

 トゥモローパイオニアは納得する。顔を隠す意味は自分たちもよく知っている。

「ハルポクラテスとは接触できないんでしょう? どうやって尾行任務を与えたのですか?」

「こちらから防衛庁に依頼することは可能だ。それも一方的で煩雑な手続きが必要ではあるが」とだるま。

「既に尾行はしないよう防衛庁に通達してあるし、君たちの機密情報は徹底的に隠蔽することになっている。謝罪するよ、二代目ギロチンムーン」組織の長ながらフレンドリーに頭を下げる観音。

「それと、この『教会』のことも口外しないで欲しい。我々は公的には存在しない武装組織なんでね」

 日ノ笑は頷く。こいつらは自分の秘密をいきなり見せてくれたわけだ、と勇は思う。それは信頼を勝ち取る有効な手段だ。無能じゃないかもな。

 砂絵さんに報告の義務はあるけれど、多分酷いことにはならないだろう。

「よろしい。用件は以上だ。トラブルなく話が決まって安心したよ」

 だるまが締めようとするが、春一が前に出る。

 音もなく春一は進み、説教台を挟んでだるまを見つめる。

「……俺に何か用があるかな、果崎春一くん」

「手合わせしてくれよ。あんたが一番強いだろう」

 教会のメンバーがざわつく。

「小学生の頃から毎日喧嘩三昧と聞いていたが、ここまでとはな」楽しそうにだるまは答える。

「よかろ。表に出な」

「え、だるま?」涼が立ち上がる。だるまと戦った経験のある涼にすれば無茶な話だった。いや、この子供、そんなに強いのか?

 だるまの後を春一がついていく。

「マジかよ、あの細い兄ちゃんそんなに強いのか?」

「わたしと同格かしら。なんにせよハルでは勝てない」勇にそう答えてやる日ノ笑。勇は絶句する。

 二人も外へ。教会のメンバーもゾロゾロと続いていく。

 日は傾き始めている。丁度いい陽気と風が心地いい。

 噴水の前でだるまと春一は対峙する。

 だるまはいつのまにか二振りの竹刀を手にしていた。瓶底に勉強を教えていた時に猛威を振るった竹光。

 だるまと戦った涼は春一を心配する。常人とは比較にならない力を持ち、軍で訓練を受けた自分でさえ手も足も出なかった、あの達人と戦うなんて。

「大丈夫かな、あの子は」

「死にはしないでしょう。手加減を誤るほど馬鹿ではない、二人とも」と日ノ笑。

「ボクサーなんだって、彼?」

「最強のね。見て損はないわよ、水澄さん」

「涼でいいよ、ギロチンムーン」

 先代のギロチンムーンにはそう呼ばれていた、戦中という短い期間だが。

 学ランの上着を勇に預ける春一。

「ルールを決めよう。『ベアナックル』」

「そうだな。スリーカウント、どうだ?」

「よろしい。他はそうだな、眼、喉、金的の禁止くらいか。時間は、五分」

「無制限だ」

 春一は構える。真剣のようにシリアスで川のように滑らかなスタイル。

 パイレートと戦った時とは違う攻撃的な体勢。

 その構えを見て、この構えこそがこいつの自然体なのだ、とだるまは気付く。命懸けではない故に実験的な戦術を試すつもり。十六年の人生にこれでもかと修羅場を詰め込んでたどり着いた力が目の前に。

 武の極致とはまだ言えない。

 しかし明らかに。

 己を極めている。隙も迷いもない。

 自身を突き詰めていくと、ここまで人間らしさを失うのか。

 人の形をした決闘思想、格闘体系だ。

 昔の自分も道を違えていればこうなっていた。 

 友人との交わりが俺の頭脳と剣を更に高みへと導いた、それが彼我の差。

 強さには不純物が必要なのだ。友や躊躇いといった不純物。

 だるまもまた構える。

 半身で、左の剣は下に、右の剣は刃を上に向けて上に。

「…………」

 絶句。想像したこともない強さを目の前に春一は絶句した。

 日ノ笑もまた、隠されていただるまの腕前に驚愕した。何気ない仕草から相当の腕なのはわかっていたが、だるまは自分の強さを偽っていたのだ。そんなことをできる人間がいるなんて。春一も驚いたことだろう。

 私と同格? いや、ギロチンムーンよりも強い。

 春一は攻めあぐねた。だるまの目は春一の全身を捉えている。仏像のように曖昧な目つき。

 背後や五臓六腑に至るまで見張られているよう。

「来ないならこちらから行くぞ」

 そう言ってだるまはゆっくりと間合いを詰める。歩く時というのは隙が生まれるものだ。足を上げる時、足を下ろす時、片足に全体重を預けた瞬間、人は無防備になる。

 古くから格闘技はその隙をいかに埋めるかを考えては、新しい歩法を編み出してきた。

 だるまの歩法は僅かに爪先を内側へ向ける、それだけであったが、隙は生じてはいたが。

「…………!」

 踏み込んで生じた隙を上半身の力みと微妙な重心移動で殺している。刹那と言っていいその隙を突くだけのスピードが春一にはない。

 そこまで理解した春一は瞬時に戦術を切り替える。

 だるまの迎撃も攻撃も封じることは不可能。ならばだるまの剣撃をかわし、防いで攻め込むしかない。

 春一も前進。左から振り下ろされる竹刀を左手で、右から突いてくる竹刀は右手でいなす。

 相手が竹刀だからこその防御だ。真剣勝負ならこんな手は通じない。手を切り飛ばされる。

「ほう! 切り替えが早いぞ!」

 笑いながら連撃を放つだるま、春一は退がりながら防ぐ。

 観戦している涼はあんぐりと口を開ける。防戦一方とはいえ、あんな小さな子がだるまとやり合っている?

 スーパーヒーロー。非凡なコスプレイヤーたち。ここまで特別とは。

「く!」

 竹刀が春一の頬を張る。脳が揺さぶられ膝を折る。

「隙あり! メェンン!」一歩下がって距離を整え、春一の頭上に刀を振り下ろす。

 しゃがんだ体勢で足に込めた力を解放し、立ち上がりながらだるまに密着する。クリンチだ。

 だるまはこの戦術を予想していなかった。しかし。

「考えたな、だが!」

 膝蹴りを春一の胴に入れて遠ざける。たまらず春一は後ろに下がる。素晴らしい間合いだ。しかも春一は膝蹴りを食らって背中を丸めている。

 後頭部に竹刀を振り下ろす。血だらけの腕が頭を守っていた。

「おお!?」

 春一は竹刀と左腕の接点を軸に体を捻りながら立ち上がる。一瞬回転した春一の背中がだるまにあらわになる。

「シッ!」 

 だるまの側頭部にブーメランフック。

「!」

 竹刀を持った手で咄嗟に頭を守るだるま。その手は今春一の頭を叩いた方だった。

「速すぎる!」勇が叫んだ。

 春一が挑戦した時点で相当強いと思ったが、まさか春一を圧倒するほどとは。人間はここまで早く動けるのか?

 超人?

 あり得る。あのアホ春一は一度決めたら超人だろうと関係なく喧嘩を売るヤツだ。マジスター・ハイエンドと戦ったくらいだし……。

「止めろ止めろ! 誰か……」

 そう言った勇の肩に手を置く日ノ笑。

「大丈夫。危なくなったら私が止めるから」

「俺も協力するぜ」とはいえ今回のだるまの得物は竹刀だ、大怪我はしないだろ。そう涼はたかをくくる。

 日ノ笑も涼も自分たちの出番は来ないとそう予想した。

 険悪な殺気は感じられないからだ。

 本格的な組み手だが、シリアスではない。互いの力量を測り合う、そんな空気が二人の間に生じている。

 ブーメランフックは防御の上から頭蓋骨と、それを守っているドラゴンスレイヤー、『ハーミット』を通してだるまの頭脳にダメージを与えていた。

「……!」こちらに背中を見せるとはボクサーらしからぬ動きだ、だがだるまの知る限りそれはボクシングの反則ではない。そこは春一ももちろん承知だろう。

 先ほどまでの攻勢が嘘のように、だるまは春一のラッシュを浴びる。

 一方春一は、かつて涼がだるまを殴った時と同じことを発見した。

 皮膚の下に、鉄板?

 フックを打った時は気のせいと思ったがそうではない。おそらく全身にアーマーを着けているだろう。正気か。

 いや、だるまが何を仕込んでいようと関係ない。左のフックで顎を打ち、追撃にアッパーを打つ。

 アッパーは空を切った。

「は!?」

 稲妻のような速さでアッパーをかわしただるまはバツの字に竹刀を打ち込む。

 稲妻のような乾いた爆音。右アッパーが邪魔になって綺麗に決まらなかったが、有効打だ。

 春一は仰向けに倒れ込んだ。

「ふむ。素晴らしい戦いだった! 感謝するぜ、春一」

 倒れた春一を担いでやろうとしゃがんだ時に違和感。これはダメージか。力が入らない。立てない。

「だるま! だるま!」

 涼と観音が血相を変えて駆け寄る。

 どうやら気付かないうちに俺もキツいのを貰っていたようだ。

「おい大丈夫か、だるま!」

 涼はだるまの腹を指差す。

「ドクター! 海、ドクターを呼んで、ストレッチャーもだ!」観音が絶叫。海は教会へ走っていく。

 だるまの白衣と上着の端は切られ、シャツは真っ赤に染まっていた。

 血が止まらない。

「だるま! 大丈夫なのか!? 本当にお前死なないのか!?」

 死なない? 日ノ笑はその言葉が引っかかる。

「ああ、それに見た目ほど深い傷じゃない。しかし、これは……」

 だるまはその傷がいつできたか、今わかった。それを涼と観音は見ていた。日ノ笑も。

 春一のクリンチ、密着状態になる直前、近距離から春一は得意技のコークスクリューを放っていた。

 春一のスクリューは皮膚を切り裂き筋肉を捻じ切り、内臓にダメージを与えるほどの威力だが、腹筋を覆うハーミットの装甲板に阻まれ皮膚を切るだけに終わった。

 決まれば病院行きの必殺技だがだるまなら上手く防ぐだろうと判断した春一。

 まさか装甲板を肉体に仕込んでいたとは。

「興奮し過ぎて、痛みに気付かんとは。いや……」

 だるまはボロボロのシャツをたくし上げる。露わになっただるまの腹の傷は日本刀で斬ったかのように鋭く抉られている。螺旋のように。それはだるまにかけられた不死の呪いによってゆっくりと塞がっていく。

 拳でこの傷をつけたとは涼には信じられない。

「刃物による傷は痛みが生じにくいというが、なんという切れ味だ」

「あの子は手に何か刃物を仕込んでたのか?」

「違う。素手だ。鍛え上げた力、技、肉体だけでこれをやったんだ。ギロチンムーンが選んだだけはある」

 ストレッチャーで運ばれていく春一を涼は見る。

「……そうだ。あいつたしか力能者だったでしょ。何かの力能で……」

「かもな、涼。俺に見切られずに力能を使えれば、こうもなるか。ああまで一方的に負けて力能を出し惜しみしたのは謎だが」

 傷が塞がってだるまは一安心。

「なんにせよ見どころのある坊主だ」

 だるまは愉快に笑う。

「一張羅がボロボロになってしまったな。さて果崎春一の様子を見に行くか」

 さっきまでの苦痛が嘘のように元気に立ち上がりだるまは教会へ向かう。

 ブリキのおもちゃを連想させる鉄仮面を被ったドクターの診察を受け春一は長椅子に寝そべっている。意識はまだ戻っていない。

 白衣、肩に聴診器を巻き、気絶した春一の容態を診ていた不気味な女医を日ノ笑たちは警戒している。

「脳震盪は起こしていないけれど、しばらく寝かせておいてあげた方がいい。かなり肉体を酷使していますからね」

「それはそう……」軽佻浮薄な勇もドクター・ブリキを前にして緊張。この教会には濃い面子しかいないのか。

「ベアナックルは目が覚めたか?」だるまが腹を押さえて戻ってきた。少しふらついていて涼が介助している。

「帯刀博士」

「大丈夫だ、海、すぐ治る」

 いや血ィダバダバですやん。と勇は内心突っ込むが、教会の連中は誰も騒がない。医療班のドクターさえだ。

「瓶底。俺のシャツと上着の替えを持ってこい」痛みに顔を歪ませてだるまは座る。

「うぜーな」文句を言って瓶底は右奥の廊下へ消える。口は悪いが聞き分けはいいようだ。

「楽になってきた」そう言って白衣、上着を脱ぐ。放り出されたシャツはもうシャツに見えないほど無惨に切り裂かれていた。凝固した血のついた腹部は傷一つない。

「あ、あれ……?」勇が常識的な反応をするのでだるまは昨日教会にした説明をもう一度繰り返した。

 悪魔メフィストフェレスの呪い。

 不死身。

 不老不死。

 春一と戦えば傷の治癒をトゥモローパイオニアに見られることは予想できていたのでスムーズに語れた。

 話の途中で新しい服が届いていた。

「……教会か、ここは」

 話し終える頃に春一は目を覚ます。

「だるまとかいったな、また戦えよ」

「おお、喜んでな。しっかり鍛えて地獄の鬼も泣いて逃げだす殺人マシーンにしてやるぜ」

 戦闘狂とサムライの会話は周囲の人間には理解不能だった。

 立ち上がろうとして、春一はふらつく。勇が肩を貸してやった。

「効いたなぁ」春一は元気がない。

「昨夜はパイレートと戦って今日はサムライと斬った張ったで、もう休めよハル」

「カーター。お客さんを送ってやれ。帰りは怖くないだろう」

「う……」

「カーター・スマックス。あなたが違法行為をしないならばこちらもあなたを攻撃しない。約束しよう」

「約束?」

 カーターの震えが止まる。

「約束か。よし。俺は約束は守るヤツだ。ギロチンムーン、あんたは?」

 日ノ笑はカーターの目を真っ直ぐ見つめ手を差し出した。ため息が出るほど美しく微笑む。

「私を誰だと? 『スピードデーモン』?」

「それもそうだな」

 カーターは握手。

「もとよりこれは摩擦を避けるための会合なのだし、だから余計な心配はしなくていいのよ、カーターさん」

 急に年相応の子供のように振る舞うのでカーターは驚いた。しかしギロチンムーンのマスクを着けていない時はこちらが素の顔だ。

 涼と海が教会のドアを開く。春一たちはカーターの案内でリムジンへ。

「じゃあな。知り合えて良かったぜ。今度は遊びに来てくれよ」別れを惜しむ涼。

「これからも良好な関係を望んでいるわ。本当に。お互い無駄な戦闘は避けたいものね」と海。

「海は心配しすぎだって。春一、勇、日ノ笑、ちびをよろしくな」

「あの、ちびっていうのはビンのこと?」と勇。

「そうそう。じゃーな、トゥモローパイオニア。グッドラック」

 涼の軽い挨拶を後にリムジンが走り出す。

「あの教会には驚きが詰まってたな」感慨深く勇が言う。

「そうね。世界は思ってたより二倍広かった、とはね」

「異世界か。そんなのが昔流行ったっけ」

「滅茶苦茶アニメ化したよ。何作かは俺も観たし。悪魔にアーマーか。ファンタジーだなぁ」

「ゾンビや力能者と戦って今更ファンタジーというのもな」

「シラけること言うなよハル。政府が隠した世界の秘密だぜ? それを俺たちが知ってるんだぜ? お前は優越感がないのかよ?」

「ないね」

 シートにもたれかかって春一はリラックス。

「ハルは手の届かないことには興味がないタイプ?」

 日ノ笑を見る春一。

「お見通しか」

「お見通し。さて……」

「これからどうするかって感じ? 日ノ笑ちゃん」

「それは勇ちゃんもでしょ」

 勇は顔を覆った。

「多分粛正とかはないと思うけど、報告しづれーよー」

「連中の車の中でそんな話をしてもしょうがないだろ」

「ハルの言う通り。報告なんて勇ちゃん、メジェドの情報を漏らしちゃダメでしょう?」

「だな、日ノ笑ちゃん。これからどうするか。俺はもう疲れちゃったよ。帰って寝たい」その前に砂絵に話をしなければならないが。

「私はデブリとディオゲネス・クラブについて調べる」

「俺は今日のトレーニングがあるからな。帰ったらジョギングだ」

「タフね……」と日ノ笑は呆れる。

 リムジンは俥くるま高校の正門に到着。ドアが自動で開き三人は降りる。

「それじゃあ俺は帰るぜ」

 カーターはヒーローたちに手を振り来た道を引き返して行った。

 日ノ笑と勇を見て手を振り春一も走り出した。ジョギングで帰るらしい。

「勇ちゃん、何か情報があったら聞かせてね」可愛くウィンクをして日ノ笑も帰る。

 やれやれ、友達甲斐のない奴ら、とは思えない。春一はあの通りの男だし、日ノ笑が真面目くさるのも当然だ。

 事態の急変か。悪い方向でないのは幸いだが。

 周囲を見回し誰もいないか確認、勇は上司である砂絵に電話をかけた。


 見たことのない天井。それは白い。見覚えがあるが初めての部屋だ。

「……どこだここ?」

 舌噛下上したがみかがみはベッドを降りて部屋を調べる。

 不思議な部屋だ。

 ベッドはさっきまで寝ていた多摩総合医療センターのベッドだ。清潔で白いシーツ。

 だが部屋には自室の漫画やフィギュアが飾られている。

「なんだよ、これ」

 背筋が寒くなる。病院には幽霊が付き物だが、まさか。

 病室は個室になっている。丁度自分の部屋と同じくらいの広さ。窓の位置もドアの大きさも、同じ。心臓が脈打つ。

 ドアは引き戸ではなく自分の部屋のそれだった。絶叫を堪えてドアを開ける。

 廊下は医療センターのそれだ。しかし人気ひとけがない。看護師も患者も居ない。

 廊下の左奥にある休憩室からテレビの音。吸い込まれるように下上は休憩室へと。

 どの病室も覗くだけの勇気はなかった。

 休憩室には二つのソファ、テーブル、古いテレビはバラエティを映していた。

 ソファに寝そべってテレビを見ていたのは女だった。看護師ではない。一目でわかる。休憩室は患者専用だし勤務中に黄色いチャイナドレスを着る看護師などいるわけがないからだ。少しきつい目、髪は黒と白が半々。

 もちろん、入院患者でもない。病院の廊下をバイクが走るくらい異質な女だ。

 その女はテレビに反射した下上の姿を認め振り向いた。

「起きたか。座りなよ」

 そう言って女は煙草に火をつけた。

「パニクってるのはわかるよ。説明してやっからさ。そうだ、あんたも吸う?」

「いや、いい……です」

 女は煙草を咥えたままソファに寝そべった。灰が落ちないか、場違いな心配をする下上。

「あたしは『四凶』しきょう。四凶の窮奇きゅうきだ。知ってるかな、中国の妖怪なんだけど」

 どう反応すればいいのかわからない。何かの冗談か?

「ま、こんなこといきなり言われても信じられないわな。なら証拠を見せたろう」

 そう言って女は立ち上がった。すると女の姿が変化していく。

 チャイナドレスは消え失せて体は大きく毛深くなり、白い毛皮の四つ足、背中からみすぼらしい翼が生える。虎の化け物。

 その顔は飢えと怒りで歪み、目は真っ赤、口からは涎がだらだら垂れている。休憩室の中で縮こまる巨体。

 こんな証拠は見たくなかった、下上は恐怖でへたりこんだ。恐ろしくて涙が出てきた。

 窮奇は元の姿に戻りソファに腰掛け煙草を取った。

「落ち着きなって。取って喰ったりしないからさ」

「あの、あの」

「座んなよ。下上くん」

 下上は言われた通りにした。恐怖で思考が麻痺してロボットのようになっていた。

 そこに女の子がやってきた。同じ病室の女の子。小学生くらい。患者用の貫頭衣、肩まで伸びた黒髪。へらへらと笑っている。なんという名前だったか、下上は思い出せない。

「我が友カ・ガーミンがよろしくってさ。煮干しを散りばめた七夕にようこそ」と女の子。

 そう、意味のわからないことを言う子だ。にこにこ上機嫌に下上にしがみついた。

「こいつはあたしの姉妹。混沌こんとん。どうもあんたが気に入ったらしい」

「俺に? なんで?」

 窮奇は答え難い質問を受けた、という顔をする。

「窮奇の名は聞いたことなくとも混沌ってのは知ってるか、日本人。滅茶苦茶でカオスな状況という意味だ」

「そのくらいは、知ってますけど」

「あたしら姉妹は全員、混沌が何を考えてるのかわからないんだ。文字通り混沌カオスだから」窮奇は煙を吐いた。

「なんとかと煙は高いところが好きとよく言われる。どうやら僕は煙のようだった」と混沌。彼女は下上を離そうとしない。

 あたしら姉妹?

「えっと、窮奇さん、姉妹は何人いるんですか?」おそるおそるという感じの質問。

「四凶なんだから四人だよ。あとは饕餮とうてつ檮杌とうこつ。あたしらを仕切っておられるのが蚩尤しゆうさんだ」

「とうてつ。とうこつ」

「饕餮と檮杌もすぐ来るよ」

「帰っていいですか!?」

「帰るってお前どこに帰るんよ?」

 そう言われて下上は我に帰った。

 ここはどこだ?

 窓の外を見る。府中市の光景だ。しかし全ての家屋がひっくり返っていて車一台通っていない。明かりもついていない。信号機もついてきない。

「ここ、ここはどこですか?」

「ア・バオア・クー」と混沌。

「絶対違う!」

 多分、と窮奇。

「ここはお前が居る場所とお前が居たい場所の境目だな」

「境目?」

「混沌の力を借りてお前の精神状態から具現化した空間だよ。多分現実じゃないかもな」

 下上は口をぱくぱくさせる。

「あたしもさっきまでは北京にいたんだ。気がついたらお前のベッドの前でな。で、なんとなく察しがついたわけ」

 テーブルの上の卵が入ったバスケットを窮奇は指差す。下上の見舞いに来た客が持ってきた卵だ。何故皆卵を? そう思っていた。

「混沌は卵が好きでね。気に入った人間にいろんな形で卵を差し入れる。そして自分の力を与えるんだ」

 混沌は小さな足でバスケットへ向かい、その中の卵を一つ取って下上に差し出した。下上はそれを受け取らない。

「混沌が何をしたいのか、それはあたしにもわからない。とにかく混沌はお前を選んだわけだ。断れないぜ」

 下上は混沌を見る。目が合って混沌は笑った。しかしその顔に下上はコミュニケーションの断絶を感じた。

「右足を伸ばしたい?」

「いや、別に……」

「断れないが、その力の使い方はお前の自由だ。混沌もあたしも干渉しない。受け入れて有効活用することを薦めるよ。『コロンブス』がそうしたようにさ」

 コロンブス?

「コロンブス? アメリカのヒーローの、コロンブスですか?」

 ヒーローチーム、『MAD』マガジンマッドのメンバー、コロンブス。体格のいい黒人で卵型のハンマーを使っていたヒーロー。最近大怪我をして療養しているとニュースで報道されていた。

「そうそう。あいつ任務中にいきなり混沌卵の力を失ってえらい目にあったんだよ」

「俺はコロンブスの、つまり後継者ってことですか?」

「いやだから、混沌卵をどう使うかはお前次第だよって。別に誰もヒーローをやれと言ってないさ」

 とんでもないことに巻き込まれたという恐怖、降って湧いた力、下上の平常心は消え失せていた。

「……そうだ。混沌卵ってどんな力なんです? コロンブスは強かったですよね。苦戦してるとこを見たことないです」

「そうなるよなぁ。混沌卵の力はね、過去をすり替えることができるんだ。苦戦してもその過去を書き換えられる。過去改変を感知できるのは混沌の関係者だけさ」

 マガジンマッドのドキュメンタリー番組でコロンブスが薬物の売人とカーチェイスを繰り広げたことがあった。売人の車はガソリンがすぐに無くなり逮捕された。あの都合のいい展開はそういうことなのか?

「そんなの、チート過ぎるでしょ!?」

「コロンゾン、レシーブオール」

 全てを受け入れろと、混沌。

「事実とすり替えられる過去は混沌卵の持ち主が考えなきゃいけないから気をつけてな。チートではあるがお前の想像力が限界と言えるね。そうだ。お前の怪我を治したら?」

「あ、それいいかも」

 そう言って下上は、既に自分の怪我が治っているのに気付く。

「ほう。混沌が人にサービスするとはね。本当に気に入られたんどな」感心する窮奇。

「我が友カ・ガーミン」混沌は笑う。

「混沌……」

 その時廊下から甘い匂いが。ほのかにではない。風船が割れて中のガスが炸裂したような強烈さ。下上は急に腹が減っているのに気付いた。

「お、饕餮が来たな。甘ー」

「窮奇ー、混沌ー。久しぶりらねー」

 またチャイナドレスの少女。熊の耳のように左右の髪をお団子にしている。幸せそうな表情。混沌のような恵比寿顔で銀のトレイを持っている。年は混沌より少し上に見える。小学校の高学年ほど。だが体つきは小学生よりは豊かだ。たくさん食べているのだろう。

 トレイの上には四つのパフェ。腹が鳴る。パフェが猛烈に食べたい。

 饕餮と呼ばれる少女は手際よくパフェとスプーンをテーブルに配置する。

「お茶にしながらお話ししよーねー」甘ったるい声音だ。しかし饕餮の声より目前のパフェに意識が行ってしまう。

 四人でパフェを食べる。スプーンを器用に扱える混沌が下上には意外だった。似合わない。

「饕餮は周りの奴らの欲求を増幅させる力があるんだ」パフェを頬張りながら窮奇が説明してくれる。

「人間の三大欲求。特に食欲がな」

 突然下上は自分が三人の美少女と同じ部屋にいることを意識して緊張した。もちろん正体が化け物であっても、思春期の下上にしてみれば美少女は美少女、居心地が悪い。だが辞去するわけにはいかないだろう。

 パフェも美味しいし……。

「君が混沌の新しいお気に入り? 四凶の饕餮です。よろしくらー」

「舌噛下上です。よろしくお願いします」

「うん。パフェ美味しいから?」

 美味しいから? 美味しいかなと聞いているのか。

「ええ。こんなに美味しいパフェは食べたことないです」

 満足そうに顔をほころばせる饕餮。

「よかったー! パフェは違いのわかる女のデザートらけど、男の子にも気に入ってもらえて嬉しいよー。また作ってあげるねー」

「これ、饕餮さんが作ったんですか?」

「こいつ、料理がやたら上手いんだよ。な、饕餮?」

 窮奇の褒め言葉に饕餮はむん、と胸を張る。

「それほどでもー。でもここ食材がヘボくて苦労したよー」

 ここが俺ん家でも病院でも、確かにいい食材はないだろうな、と下上は思う。それでもこれほどのパフェを作れるとは。

「あ、もうすぐ檮杌が来るから、またパフェ作るねー」 

 パフェを平らげて饕餮は立ち去った。

 入れ替わりに女性が姿を現す。

「久しぶりだな。檮杌」

「よっ、窮奇。そいつが混沌の新しいオモチャ?」

 入ってきた女性は饕餮よりいくらか大柄。

 後ろで束ねたポニーテールは膝まで伸びる長髪。ふてぶてしい表情、筋肉質、チャイナドレスはボロボロで、スリットは破られてパンツが見え隠れしている。片手に金属バット。体格は厳つい。

 下上は彼女をテレビで知っていた。女子プロレスのスターだ。

「バーサク西檻にしおり!」

「お? オレのこと知ってんじゃーん」金属バットを肩に乗せて下上の隣に座る。座るというよりクッションを尻で踏みつけるといった感じだ。

 バーサク西檻、西檻魔姫まきはプロレス界に突然デビューし、信じがたい強さを発揮して注目を集めた。ルール無用のラフファイトが信条で愛用の金属バットを恐れる女子レスラーは多い。

 最近は十人のプロレスラーと連戦をして勝利しニュースに取り上げられていた。  

 その彼女が妖怪?

「西檻魔姫は仮の姿、その実体は中国最強妖怪檮杌サマってわけ。信じられないならほんとの姿を……」

「いいですいいです信じます!」下上は必死に首を振る。もうあんなのは見たくないから。

「下上、四凶の中で一番荒っぽいのが檮杌だからな。長生きしたかったらあまり関わるなよ」

「お前に言われたかねーよ、窮奇。お前名前は?」

「舌噛下上です」

「なんかリズム感ある名前だな。かがみね。そんなビビるなよ」

 へらへら笑いながら下上の肩に腕を回す檮杌。筋肉質だが意外と柔らかい。

「つーか腹減ったな。饕餮来てるだろ。どこいんだよ」

「お前にパフェ作るって厨房に行ったよ」

「パフェ? まー甘いもんもたまにはいいか。饕餮がメシ作らねーならこんなとこ来ないっつの」

「とうこーつ。おひさらねー」

 饕餮が戻って来た。出来立てのチョコパフェを振る舞ってやる。

「よう、饕餮。料理の腕はどうよ?」

「食べればわかるら。召し上がれー」

 チョコレートソースがかけられサクランボがのせてあるパフェ、スプーンですくって口に運ぶ檮杌。

「よしよし! いいじゃねーか。グッド!」

 手放しの賞賛で顔を赤くする饕餮。照れている。

 初めは一口一口を味わっていた檮杌だがたまらなくなったのかすぐに食べ切ってしまった。その勢いにつられて下上も自分のパフェを食べてしまう。素晴らしい味わいだ。混沌もいつの間にかグラスを空にしている。

「顔合わせが済んだな、お前ら」と窮奇。

「そもそもあたしは混沌の代わりに混沌卵の力を説明する、その為にここにいるんだ。姉妹の紹介もできたのは手間が省けていいがね」

「俺たちを集めたのは窮奇さんですか?」

「違うよ。混沌だ。四凶全員を集めた理由はわからんが、『コロンブス』の時もあたしが教えてやった。あの時混沌があたしを喚よんだのはそのためとしか考えられない。そして今回もそうなのだと感覚でわかった。混沌とは姉妹だからね」

「直感ってわけですか。目を見てわかる、みたいな」

 窮奇は頷いた。

「さてさて、さっきも言ったけど、混沌卵の力をどう使うか、決めるのはあんただよ。かがみ。お前を病院送りにした奴らに復讐するもよし、ゼビアロン・ファウダーベロックのように善行に使うもよし。もちろんあたしたちは強制しないぶん、責任も負わない。覚えときなね」

 窮奇の言葉で下上はマーベルコミックの名言を思い出す。それは今の自分にぴったりのフレーズ。


 大いなる力には大いなる責任がともなう。


 ゼビアロン・ファウダーベロックとは『コロンブス』の本名だ。力と共に彼の後継者となるか?

 下上は笑う。いいじゃないか。ナイスアイデア!

 そして俺ん家を襲った奴らに復讐してやる。ヒーローになって復讐する、それは下上にとって矛盾しないことだった。

 しかし、それには準備が必要だろう。病み上がりで強盗とやり合うのは現実的ではない。

 だいたい、何ができるのかは教わってもどう使うのかは練習しなければわからない。

「怪我も治ったし、一度帰ってから混沌卵の使い方を学びますよ」

「おお、そりゃいい。常識的な反応……」

 その時混沌がじっと下上を見つめている、それに全員が気付いた。

 何を伝えたいのだろう。疑問に感じて混沌を見つめる下上。

 そして下上は混沌の意志を理解した。窮奇が感覚的にと言ったように。

「……デブリ」と下上は呟く。五感のいずれでも伝わらない概念を彼は必死に言語化する。

「デブリって?」と檮杌。

 答えようとして下上は頭を押さえてうずくまった。

「あ、あああ!?」

 人間は五感以外で情報を受け取ることに慣れていない。第六感など迷信に過ぎない、それが一般常識というものだ。

 歴史上ならば黙示録の啓示を受けた聖ヨハネやフランスを解放するよう啓示を受けたジャンヌ・ダルクなどが挙げられる。仏教の悟りなどは言葉で伝えられるものではなく、感じることこそが肝要だと説かれている。

 言葉を超えた情報や境地は一般社会に馴染みがなく、宗教と魔道オカルトの領域となる。

 これまで触れたことのない情報、それも正体不明の怪物の情報を脳に直接入力されて下上はのたうちまわる。

 下上の頭脳は緊急事態を認め、デブリについての知識、その大半を他の領域から隔離した。それは家族の死を知らされた時に編み出した防御策。

 獲得した情報の大半を下上は認識できなくなったが、そうすることで自己防衛を行った。生のデブリの情報を五感というフィルターを通さず体感し続けていれば精神に重大な支障をきたしただろう。最悪、自己とデブリの境界を見失っていたかもしれない。

 力が抜ける。

 ソファによじ登ってコーヒーを飲み干す。薄い味わいのコーヒー。喉越しは偽物ではない、確かなものと実感する。父親があの探偵から仕入れたコーヒー、あれは美味しかった。

「デブリというのは、異世界から来た怪物です……」

「いせかいー?」

「混沌はなんというか、デブリと相性が悪いらしくて排除したいと思っているんです。デブリのいる日本で戦うためには混沌卵の持ち主を日本人にした方がいいと混沌は思ったんでしょう」

 窮奇、饕餮、檮杌は混沌を見る。ゼビアロンが力を捨てたから混沌はアメリカを去ったのだと三人は思っていた。逆だった。混沌が日本に向かうためにゼビアロンは力を失ったのだ。

 借り物の力だ、ゼビアロンが文句を言えることではないが。

「こいつの考えがはっきりわかるのは初めてだな」檮杌は混沌の頬を揉みながらぼやいた。

「混沌にもしたいことってあるんらねー」と饕餮。

「がみがみはどうするんだ? そのデブリってヤツと戦うんか?」

「がみが……、そうですね。戦おうと思います、檮杌さん」

「いいんか。おっかなければ拒否していいんだぜ。そうすればゼビアのときのように混沌の方から離れていくだろう」と窮奇。多分だが。

 意味のない仮定だ。この力がなければ復讐できない。しかし混沌卵でデブリに勝てるのか?

「やります。デブリを倒せばいいんでしょう」

 混沌が卵の入ったバスケットを下上に突きつけた。

「重力は光だって吸い込む」

 下上はバスケットを受け取った。

 いくつもある卵が一度に弾けた。割れた殻と中身が一ヶ所に集まって一つの卵になる。軽くて脆そうな、ありふれた卵に見えるがそんなことは絶対にない。そうわかっていて下上はその卵に手を伸ばした。

 これがコロンブスの力か。そう考えて下上は閃いた。そうだ。俺もヒーローになろう。

「俺が二代目コロンブスだ!」

「その卵を割って」

 窮奇の言われた通りに卵を握り潰す下上。

 掌を開いたときには卵は跡形もなく消えていた。現れたのは下上の全身を包むコスチューム。

「ちょ、なんじゃこりゃ!?」

 頭部に赤い鶏冠とさか。下上の顔はニワトリのくちばしから目だけ見えている。光る白い羽毛。両腕の羽は翼のように生えている。それに尻にも立派な尻尾。両足は赤いニワトリの足のデザイン。そしてハンマー。

 ハンマーはダチョウのように逞しい、赤いニワトリの足、その蹴爪けづめで大きな卵を掴んでいる。卵がハンマーの頭だ。

 あまりに間抜けな姿で窮奇、檮杌は爆笑、饕餮は笑うまいと我慢して顔を真っ赤にしている。混沌は変わらずにやにや笑い。

 恥ずかしさで下上は赤くなる。

「こ、混沌、こりゃどういうことだ!?」

 下上は混沌にくってかかった。両肩を掴んで揺さぶってやる。

「実際の商品とは異なる場合がありますううううう」

 状況にぴったりの混沌の妄言で四凶は爆笑。

 手を放してやると混沌はへたり込む。あたまを揺さぶられたようだ。

「俺はもっとクールな……、コロンブスみたいなコスチュームになると思っていたのに!」

 コロンブスのコスチュームはクリストファー・コロンブスの時代の服装を忠実に再現したものだった。下上と共通しているのは卵のハンマーくらいだ。

 悲嘆、声の限りに下上は叫んだ。予想もしなかった人生の転機、憧れていたスーパーヒーローになれると下上は想像もしていなかった。

 ベンツのようにスマートなコスチューム、命懸けの冒険、身に余る栄光、人々の感謝、人間的な成長、背中を預けられる仲間、下上がヒーローになるというアイデアに飛びついた瞬間そうした空想を彼は抱き、歓喜した。

 拍手ではなく爆笑で迎えられた彼が得たのは煌びやかなコスチュームではなくニワトリの着ぐるみ。どうしてこんなことに?

 下上に背中を預けられた仲間は振り返って彼のかわいい尻を笑うだろう。

「この着ぐるみどうやって脱ぐんだ?」 

 背中に手を伸ばす。まだ全快ではないので腕が痛んだ。

「チャックがない!」

 あちこち調べるがチャックなどどこにもない。

「窮奇さん、コロンブスはどうやってコスチュームを脱いでました?」

「ゼビアのは自前だよ。自分でデザインしてた」

 参考にならなかった。

「混沌! 元の姿に戻りたい。どうすればいい?」

「うう。貯水槽は五つあるう」

 頼りにならなかった。

 そうだ。俺の発想で生まれたコスチュームなのだから、こんなデザイン望んでないが、イメージすれば元に戻れるのでは。

 目をつむって必死に念じる。

「戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ!」

「もう戻ってるよ。つまんねえ」

 檮杌に言われて目を開く。患者の貫頭衣。悪夢は覚めたらしい。

「あー笑った。また見せてくれんだろ、がみがみよ」

「くく……。かわいかったらよ、がみがみ」

「いやホント。混沌卵の説明役しててよかったわ」

「笑い過ぎでしょ、窮奇さん」

 言いながら下上はもう一度変身を試みる。今度はコロンブスのコスチュームを強くイメージして。

 またニワトリだった。ハンマーの柄の部分だけがコロンブスのハンマーのように短くなっただけだった。四凶の三人がまた爆笑。

「なんでやねん!」

 戻るよう念じると簡単に戻った。

 急ぎ過ぎだ。下上は悟る。ただでさえわけのわからない状況に陥っているのに、ここがどこかもわからないのに、混沌卵を使いこなそうとしている。俺は混乱してるんだ。

「窮奇さん、混沌卵の説明、ありがとうございます。俺はこのあたりで帰ろうと思います」

「おう。って帰り方わかんのか?」

「さっき窮奇さんはこの場所を俺が居る場所と俺が居たい場所の中間って言いましたよね。そして今のふざけた着ぐるみ」

 下上の言いたいことがわかり窮奇は微笑む。窮奇の言葉を鵜呑みにするなら混沌の力は現実を捻じ曲げていることになる。彼女の言葉が何かの比喩だとしてもここは現実の外側か、ともすれば俺の心の中の風景かだ。信じ難いけども。

 なんであれ混沌卵の力、その方向を決めているのは俺らしい。

「コツがわかったよーだな」

 檮杌のヤジを無視して念じる。あの病院を。あの病室を。

「そうだ混沌」と窮奇。

「お前もそろそろその患者衣やめて、いつものチャイナドレスに戻したら?」

 その言葉を聞いて混沌のチャイナドレス姿を下上は想像してしまう。

「あっ……」

 室内の照明が明度を落とす。廊下も同様。

 空間が歪んだのか、現実が歪んだのか、それとも現実が正しい形を取り戻したか。

「私キレイ?」口裂け女のようなことを言い、チャイナドレスを見せびらかす混沌。一瞬下上は見惚れる。饕餮、檮杌は眠りに落ち、窮奇も意地悪な笑いを浮かべて眠る。

 混沌が倒れ込み、下上も眠気を感じて立っていられなくなる。

 パフェの甘い香り、饕餮の魅惑的な匂いの中で下上は眠りに落ちた。

 地獄への道は善意で舗装されているという。

 それはおおむね正しい。

 しかしそうした善意の中には善意を装った悪意があるのもまた事実だ。

 なかでも最悪なのは、人を地獄に落とすために善意を装う悪意だ。

 舌噛下上の地獄はこうして始まった。


 トゥモローパイオニアを乗せたリムジンを見送る涼。教会の目的は達した。

 マスクのスーパーヒーローか。変な奴らだった。特に果崎春一。

「ド・エトレン・チュン」

「え?」隣のドロップレーが母国語を呟いたので驚いた。

「凄く変な人たち、ってこと。この世界の子供たちってみんなああなのかしら」

「あいつらが特別なだけだよ」こちらの世界に明るくない異世界人に教えてやる。

 ドロップレーの故郷では祭りや芸能でしか仮面を着ける機会はない。

 そうした場面は必ず社会的な目的があった。彼らもそうした目的があるのだろうか?

 仮装した彼らを見てみたいとドロップレーは思った。

 その時キューピッドが後ろから声をかけてきた。

「デブリデブリ! デブリが出たぞ! ネクロポリスの壁のすぐそばだ!」

「なんですって?」

 教会の門を出ればキューピッドが言った壁が見える。そのすぐ向こうにデブリ?

「よし、キューピッド、海にも知らせてこい! ドロップレー、あんたは海のバイクで来てくれ。俺は先に行く。コロンゾン、レシーブオール。コンバットモードだ!」

 義腕型ドラゴンスレイヤー、『デビル』に搭載されたBLAIビヘイビアラーニングエーアイにコンバットモードを呼びかけて涼は跳躍、正門を飛び越えて疾走する。

 ネクロポリスまでは1キロメートルほどか。すぐに着く。

 コロンゾンは自身のセンサー類を全てアクティブに。セルフチェックは異常なし。カメラが猛スピードで走る映像を記録する。コロンゾンは海の『ワールド』に量子エンタングルリンクする。デビルが収集した情報はリアルタイムでワールドに送信される。 

 遠くの方で大勢の声や物音が聞こえる。デブリのいる方、涼は青ざめる。政府の支援物資の配給だ。このままでは巻き込んでしまう。

 木の板を張っただけの薄い壁が近づいてくる。涼はそれを乗り越えて周囲を見回した。

 ふと義腕のデビルを意識する。こいつは俺のように周囲を警戒してるのか。多分そうだ。

 動くもの、物音を聞き取り敵を探す。周囲には人がいない。配給はこの近くではない。ごとり、と大きな音。

「ええ……?」

 さっきまでこんなものはなかったはずだ。超人でなくとも見逃すわけがない。こんな大きなもの。

 デブリらしきそれは涼が見上げるほどの大きな黄色の球体。地球儀のように回転している。

 全周囲を見回していたのに。

 重い音と共に突然出現したとしか思えない。

 涼はデブリから少し離れてデビルをかざす。そのセンサー類がデブリを捉えられるように。

 するとデブリはゆっくりと転がって涼から距離を取る。その先はネクロポリスの壁。

 外に出してはならない。そう思った涼は咄嗟に球体に手を伸ばす。下から掬い上げて放り投げようとした。

 涼の左手は球体の中へ肘のあたりまで沈んでしまう。。ゼリーのように柔らかい。生温かい。不快感。

「うわ!」思わず手を引っ込めてしまう。球体は移動するのをやめ、その場で回転を続ける。

「敵意はないのかな?」

 もう一度触れてみる。今度は中まで入らなかったが柔らかさと温もりは変わらない。気持ち悪い。

 次の瞬間、

デブリから触手のようなものが生えて鞭のように涼を打った。涼は咄嗟にデビルの義腕でガードし、離れた。

「しまった!」

 精密機械の塊であり、ドラゴンスレイヤーの中でも最も脆いデビルを盾にしてしまった。破損はないが。

 デビルの動作確認。肩関節から小指の第一関節まで動かしてみる。駆動系異常なし。

「博士には怒られたくないからな」

 言うなりデブリに近づき中段前蹴りを放つ。前進と足を上げる勢いを利用した足蹴りで『猪頭』ししずという技だ。

 涼の右脚はデブリの真芯を突いたが効果があるようには見えない。先の手のように柔らかく包まれただけだ。

「これでもダメか!」足を引っ込めて毒づく。

 デブリは全身を波立たせた後またその場で回転。また触手を振るった。横薙ぎの鞭をジャンプで回避、涼は落ちながら拳を振り下ろす。

 回転軸から新しい触手が出てきて涼の鉄拳を受け止めた。この触手は硬い。

「おおっ!?」

 バランスを崩して背中から着地してしまう。

 立ち上がるとデブリは二本の触手を撚より合わせ、それを解いてまた回転を始める。

「今のはなんの意味が?」デブリはもちろん答えない。

 回転方向を逆にしてまた鞭を振るう。

 それをキャッチして涼は呟く。

「どうしたもんかね」

 もう一本の触手を地面に打ちつけてデブリは跳び上がる。涼とデブリ、空中に。

 デブリは波打って、触手を涼の脳天に振り下ろした。

「いてて!」地面に叩きつけられたがすぐに立ち上がり上空のデブリを睨んだ。

 その時、後方に足音。

 民間人?

「ここは危ない! 後ろのあんた、すぐに逃げて!」

 デブリから目を離さずに警告。球体が落ちてくる。

「聞いてるのか? 巻き込まれるぞ、逃げろったら!」

「その声?」背後の男の声。

 涼はデブリめがけて跳躍、空中で猪頭を放つ、民間人から遠ざけようとする。

 デブリは蹴りであらぬ方向へ飛んでゆく。

「コロンゾン、今のデブリを探せ!」

 言いながら着地。

「涼か? ケンカかよ」

 民間人は涼に声をかける。

「……デスタッチ」

 涼の知人、デスタッチ。涼と同じくらいの体格だが見る者に見た目よりも痩せている印象を抱かせる。冬を超えても日焼けの抜けない褐色の肌。左腕は干からびたように細い。首から支援物資の入った袋を提げている。年中サンダル。髪はボサボサ。ネクロポリスの人間らしく死んだ目をしている。愛想のない表情は瓶底に似ている。

「デスタッチ、逃げろ。周囲の人間に離れるように伝えるんだ」

「ありゃなんだよ」

「デブリ……」

 初めてデブリを見たときの海の言葉を思い出す。

「危険なバケモノだ」

 正体不明の敵と相対したときにその名前を聞いても仕方ない。涼は要点を掴んだ説明ができた。危険なバケモノと。

「オーケー、避難させりゃいいんだな」

「よろしくぅ!」

 落ちてきたデブリに左拳を振るう涼。衝撃波と轟音。一瞬加減を誤ったかと思うが、目前の球体はヒビ一つ一つ入っていない。

 デスタッチは背後の争いを無視して避難しようとする。今の轟音で皆逃げたと思うが念のために周囲を見渡した。誰もいない。

 顔面目掛けて飛んでくる触手をキャッチ、両手が塞がる。その触手は本体から切り離され涼の両腕に肘まで巻き付いた。

「しまった!」

 触手を切り離した本体は勢いよく回転して疾走する、その先にはデスタッチ。

「デスタッチ、逃げろー!」涼は絶叫。

 振り向いたデスタッチはデブリに蹴りを入れる。横薙ぎの蹴りはデブリの勢いを殺しきれず、両者は弾き飛ばされた。デスタッチは道路に放り出される。

「ぬ、うううう!」両腕に力を込めて触手を引きちぎった涼。二本の鞭は地に落ちると塵になって消えた。

 生存本能の警鐘を感じてデスタッチは立ち上がる。

 迫る黄色い球体、それを取り押さえようと飛びかかる涼はデブリの回転で飛んでいってしまう。

「使えねえな……」

 デブリは再度触手を生やしてデスタッチへ叩きつける。それをすんでのところで回避。左脚でデブリを蹴る。柔らかい。

「なんだよ!?」

 予想していなかった感触で虫酸が走る。

 それに応じてではないだろうが、球体も波打った。

「きもちわる」

 どうも相手は人間じゃないらしい。そうなると。

「手加減する必要はないらしいな」

 デスタッチはそう言って筋肉のついた右腕を前に差し出した。

 球体の回避は加速。低い回転音が聞こえる。回転軸に対して垂直方向に触手が伸びる、それを察してデスタッチは距離を離した。

 伸びた鞭が電信柱を切断。コンクリートの柱は電線を引っ張りながら倒れた。

「マジかよ! 手加減どころじゃねえ!」

 殺せると踏んだデスタッチだがそうも言ってられなくなった。デスタッチの力能は対象に触れなければ効果がない。

 だがあの鞭を掻い潜ってデブリの懐に飛び込めるとは思えない。

「デスタッチ!」

 涼が叫び、デブリに駆け寄る。

「俺が抑える、後は頼めるよな」

「涼! ナイスだ!」

 宣言通り、涼は二本の鞭の前に姿を晒す。

「!」

 高速で回転する鞭でシャツが裂ける。涼はデビルを壊さないよう注意し鞭を掴む。

「また触手を切られたらやばい、早く!」

 デスタッチは全力で走り右手をデブリに叩きつけた。間違っても涼に触れないように。

 デスタッチの力能が発動する。

 慣性を無視してデブリは急停止、鞭にも力が抜ける。全身を波打たせ。

 そしてデブリは砂の山になった。

 砂の乾いた音を聞きながら涼はへたりこんだ。砂の山はデブリのように虚空へと消失。

「相変わらずすげー威力だな。『デスタッチ』は」

「おかげで苦労している。こんなときくらい役に立ってもらわにゃな」

 右手で触れたものを砂に変える。それがデスタッチの力能だ。

 砂にしたものを戻すことはできない。そのためにデスタッチは苦労してきた。あまりに危険なので親しい仲間すら少ない。

「礼を言うよ、デスタッチ。お前がいなかったら負けてたかもしれない」

 涼の言葉にデスタッチは興味を引かれる。

「超人のお前に勝てるだなんて、何者なんだ?」

「それが……」

 よくわからないんだ、涼がそう言おうとしたとき、バイクで海とドロップレーが到着。

 ドラゴンスレイヤーを装着して乗れるバイクか、改造してあるのかな、と涼は想像する。

「デブリは!?」

 海が叫ぶ。ドロップレーはサイドカーから降りる。ついてきたキューピッドも辺りを見回した。

「もう倒したよ」そう言ってデスタッチを指差してやった。そのデスタッチは全身金属の不審者を前にして固まってしまった。

「こいつはデスタッチ。俺の友達で、今デブリを倒してもらったよ……?」

「デスタッチ?」と海が声を上げた。

 『ワールド』の装甲を脱いでデスタッチに近付く。ドラゴンスレイヤーの変形にデスタッチはさらに仰天。

「おい海、デスタッチは危険なんだ。あまり近寄ると」

「わかってるわ、涼」

 デスタッチの目を見ながら海は名乗る。

「我々は防衛庁特殊実戦部隊『教会』。前線指揮官の紅南海くみなみうみです。デスタッチさん、我々の教会に来てください。これはスカウトです」

 いつかだるまがデスタッチを仲間に引き入れると言っていたのを涼は思い出す。

「やめとけデスタッチ。危ない仕事だぞ」

 デスタッチを心配する涼。

「そうだな。断る」

 涼のアドバイスをデスタッチは素直に受け取った。海は口をあんぐりと開ける。どう言い返せばわからない。

「なんのためにそんな仕事をする? 俺には関係ない」

「な……、給料が出ますよ!? ネクロポリスで命懸けの生活をしなくても良くなるんですよ!」

 デスタッチは近くの背の低い木を触り砂にした。

「給料も砂になる。俺はネクロポリスの中でなきゃ生きていけないんだ」

 彼の力能にオンオフの概念はない。気体を除くあらゆるものを砂に変えてしまう。触れるものを全て黄金に変える古代ギリシャのミダス王のような生活を彼は強いられている。

 水も食べ物も、デスタッチは犬のように摂らなければならない、そんな彼が貨幣の通じるネクロポリスの外側で生きていける筈がなかった。

「ま、そうなるよな」と涼。

「デスタッチ、気が変わったときは俺に話してくれよ。いつでも教会は歓迎するぜ」

「涼?」とドロップレー。勝手に話を進められて驚いた。

 余裕のある超人ならいざ知らず、ネクロポリスの住人が命懸けで戦うなど考えられるわけがない。

 デスタッチは無言で頷き、帰ろうとする。そこで振り返り涼に聞いた。

「涼、お前はどうして教会で戦ってんだ?」

 明るく笑って超人は答えた。

「当然、皆のためさ」

「なるほど。お前らしいことだ。生きていたらまた会おうぜ」

「ばいばーい」

 涼は古い友人に手を振る。

「涼……。どうしてくれるの」そう言う海は恨めしそうに涼を睨んだ。

「やる気のないヤツ連れてってもしょうがないでしょ」と涼。

「だるまには俺から説明するよ」

 戦争を経験した涼ならではの理屈だ。それを海は理解していない。

 海はネクロポリスの生活を命懸けと言うがそれなら俺たちはどうだ?

 命懸けの戦いを生業にしてるじゃないか。ネクロポリスの住人インサイダーならば理由もなく殺し合いなどしない。デスタッチの拒絶はこの街では常識的な判断だ。

 海とドロップレーはデスタッチの背中を見送る。

「そんかものかしら」

 そう言う海もまた、ネクロポリスで暮らしていた時期がある。だからデスタッチの立場で考えられると思い違いをしていた。

 ネクロポリスを出る、それだけを考えていた生活。この地獄を出るためならなんでもすると自分に誓った、それを今も覚えている。

 私は彼らとは違う。このとき海はそう自覚した。インサイダーを見下しているわけではないとしても、偏見を取り除いても残る障壁バリア、それを海は見つけた。

 内と外を分けるのは脆い木版の壁ではない。

 世界観。どちらに居場所を見つけるかという意識が決めるのだろう。

 だが海はデスタッチの勧誘を諦めたわけではなかった。

 デスタッチの言葉を思い返せば、彼は訳あってネクロポリスに住んでいることになり、逆の理由さえあれば教会に所属する可能性も出てくる。

 慌てることはない。涼も帯刀博士も急いでいない。焦らなくていい。

「いつかデスタッチが必要になる日がくるかもよ」とドロップレー。

「ドロップレーはシビアだなあ。そのときは俺がデスタッチの分も頑張るさ」

「暢気ね、君たちは」

 海はそう言って笑った。

「帰ろうぜ」

「あったかいコーヒーが飲みたいわ」とお姫様。

 流れに身を任せよう。そう決めて海はバイクのエンジンを吹かした。

 木だった砂がバイクの排気に乗って飛んでいく。

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