第3話 ドリーム・ダイブ
今日はデートだぜ。イエイ。
喜色満面、
「出でよ、我がブラジャーよ」
上着を脱いでブラを着ける。家の中では着けないタイプの勇だ。
「ガーリーなのがいいかな」デートというのはジョーク、というより勇の願望だ。それでもファッションに本気になってしまう。
ブラジャーが少しきつい。今日はこれで凌いでしまおう。
少し成長したかな。いつかはナイスバディになるのだ。
「これでいいだろ。イエイ」Vサイン。誰に向かって?
ベッドの下に隠してある『メジェド』の装備ケースを取り出す。まるでエロ本の隠し場所。というか事実奥の方にエロ本が隠してある。
衣装を持って来ること、それが
「これでデートってのはないよなぁ。だけど」
探せば『良かった』はあるものだ。これならヒーローとしての活躍は約束されたも同然。
「日ノ笑ちゃんと犯罪狩りか。楽しみだぜ」
外出前に両親に声をかける。
「パパ、ママ、遊びに行ってきます!」
居間でテレビを見ていた両親がこちらを見る。
「見てパパ! 勇がカワイイ服を着ている!」
「ホントだ! 勇ステイ! 写真を撮ろう!」
「ナイスアイデアよパパ! そうだわ、匂いも嗅ぎましょう! あ、いい匂い!」
そうだわじゃない。
「嗅ごう嗅ごう! くうっ、こんなにいい匂いになって・・・・・・、は!? どうして蔑んだような目をするんだ!?」
「あの・・・・・・、俺もう行くから」
醒めた。
壊れているが空気は読めるらしい両親、しつこく引き止めはしない。
「まあ、あの、行ってきます」
「頑張れ勇! お前がプリンセスだ!」
うるさい。
「はーるーとーくーん。遊びましょー」
玄関で春一を待つ。手持ち無沙汰。ケースをぶらぶらさせる。
「待たせたな。お、スカートか」
開口一番ファッションについてコメントしてくれる。思わず嬉しくなるが、春一に他意はない。
元々ファッションへの興味は強い方なのだ。
「似合ってるだろ?」
ほとんどヤケクソの勇。どうせ何も考えず似合ってると言うに決まってる。
「似合ってるよ」
ほらね。何も考えてない。
大人しめの服を春一は着こなしている。上着は兄の
清潔感とテーマを感じさせる、垢抜けたセンスだ。春一の隠れた取り柄だな、と勇は思う。
並んで歩いている時に謎の優越感があるがそれを春一に話したことはない。
「行こうぜ。また府中駅だよ」うんざりする勇。
「最寄りはな。目的地は府中警察署だろ」
「ったく何が悲しくて休日に・・・・・・」
「言うなよ。それに俺は結構興味あるぜ。日ノ笑が警察に何の用なのか」
「ハル、お前はいいよな、勝手知ったる警察署なんだから。補導されて入り浸ってるもんな」
「ほんとにいいよなって思ってるか?」
「怖い刑事が出てきたらハリーに任す。優しい刑事は俺が引き受けるし」
「さらっと怖い刑事を押し付けるな。そもそも尋問されるわけじゃねぇ」
「わかるもんか。スーツを用意するよう言われたのだって用心のためかもしれないだろ」
警察と戦う為? それはありえない、そう春一は思う。
スーツは警察と接触する前に着ける筈。
日ノ笑の目的は交渉だろう。ギロチンムーンとして。
交渉となれば俺の出番はない。
日ノ笑のお手並み拝見だ。
駅の改札で日ノ笑と合流、三人で府中警察署の裏へ。物置の前で変身。
強化ステンドグラスで形成されたヘルメット。サイケデリックな色彩で前面に十字架がデザインされている。目や口のような顔のパーツを表現していないため人間離れした不気味な印象。黒いケープの背面は星が散りばめられている。黒い全身タイツ。今日は武器を持っていない。ギロチンムーン。二代目。
ボクシングのヘッドギアを改造したマスク。目を隠す青いバイザーは脆そうだがギロチンムーンのヘルメットと同じく耐衝撃に優れている。青を基調としたタイツは爽やかな印象を与える。ベアナックル・ハイエンド。その肉体を除くと彼の武器は両手のバンテージだけだった。
そして白い全身タイツ、黒いドミノマスク、白い雨合羽に身を包んだ世界一有名なヒーロー、メジェド。
トゥモローパイオニアの三人。
彼らの前に体格の大きい刑事が現れた。
全方位に膨れ上がった筋肉、身長、その迫力と対比的に顔も目も優しそうだ。
マジスターと戦った際に後始末をしてくれた刑事。
暴れるベアナックル、春一を何度も補導した超人の少年課刑事だ。
「来てくれて感謝するぜ。ギロチンムーン」
「連絡がなければこちらからしていたわ、刑事さん」
二人のやりとりにベアナックルは内心驚いた。この二人、交友があるのか?
「本題に入る前に新人は自己紹介を・・・・・・」
「ギロチンムーン、それならこちらも紹介したいやつがいるんだ」と朝兎。
「もういいかな?」声と共に男性が姿を現す。
着崩したスーツ。ネクタイはない。髪は切られておらずあちこちに飛び出してだらしない印象を与える。中肉中背。なぜかキャリーケース型の携帯冷蔵庫を引っ張っている。
「はじめまして」男が言う。
「誰?」とメジェド。
「こいつは
「俺は府中警察署少年課刑事の朝兎友槍だ。ギロチンムーンとは秘密裏に連携している」
「新人のベアナックル・ハイエンドだ」
「私は二代目ギロチンムーン」
「メジェドだ。よろしく」
「全滅した
「明日を開拓する者か」と朝兎刑事。再びヒーローチームと接触できたわけだ。
探偵は少しにこやかに、冷蔵庫を開けた。刑事にペットボトルの紅茶を渡す。
「ヒーロー、君たちは酒は? お茶やジュースもあるけど」
左京丸の問いに「私は人から飲食物を受け取らない」とギロチンムーン。
「俺もいらない」とベアナックル。
「悪いけど、俺もいい」とメジェド。
やっぱり秘密主義だね、と思いながら左京丸はビールを手にとる。
プルを引いてビールを上に掲げる。朝兎刑事も倣う。
「人々を守り続けた
「俺もやっぱり貰う!」メジェドの言葉に左京丸は冷蔵庫を開け、缶コーヒーを渡してやった。
朝兎、左京丸、メジェドが飲み物を飲み干す。
朝兎刑事は裏からヒーローを支援していた。違法ではあったが彼らの活動で治安は良くなっていたから。
左京丸はヒーローのファンだった。彼らの戦い自体が、この世は地獄ではないというメッセージに思えたからだ。地獄には愛と希望と信仰がないという。ヒーローもまたいない。
「実は俺、ヒーローファンなんだ。三人とも、サインくれるかな?」探偵がミーハーな頼み事。
「悪い、筆跡が残るからサインはできないんだ」
メジェドは断るが、代わりに手を差し出した。
「握手しよう、探偵さん」
「いいのか!? ありがとう!」
子供のように顔を綻ばせ握った手を上下させる左京丸。
「ベアナックル、きみも握手を」
そうギロチンムーンに促され、探偵と握手をする。
「ルーキーだね? カッコいいデザインのコスチュームだなぁ」
「まぁ・・・・・・」
見ず知らずの他人にこうも好意的に見られるというのはベアナックルには新鮮だ。たいてい知り合いほど距離を取られる人生だったので。
その横でギロチンムーンはサインを書き上げたところだった。若い探偵にサインを渡す。
「凄いな。ギロチンムーンにサイン貰っちゃったよ」
結構頭悪そうだが、この探偵、大丈夫だろうか、ぼんやりとベアナックルは思う。
「自己紹介も献杯も済んだわね。本題に入りましょう、刑事さん」とギロチンムーン。この場を仕切っているのは彼女だ。
朝兎は頷き、上着から写真を取り出した。女の子が写っている。
「この子の名前は
「アウトドア派の
そう言って慌てて黙るメジェド。メジェドは無駄口を叩かない。やばいな。朝兎刑事も蹄さんもこっちを見てるよ。ベアナックルも。
「その薔薇原が、盗みでもしたってのか」ベアナックルが誤魔化してくれる。
「違う。夜勤の巡査が見つけたんだ。薔薇原ちゃんは酷く怯えていたそうだ。声をかけると逃げ出した。そして・・・・・・」
「朝兎刑事、どうしたの?」
ギロチンムーンが話を促す。刑事は困惑したような、言葉を探すような、奥歯に物が挟まったような顔をしている。
それでもギロチンムーンを呼んだのは彼だ。最後まで話さなくては意味がない。
「巡査から逃げた薔薇原ちゃんは通りの角を曲がり、そこで姿を消したんだ」
姿を消した? 沈黙。
「見失った巡査は周囲を探した。聞き込みも行った。子供を見なかったかと」
「そんな時間に子供がいたら目立つなんてもんじゃないすからね」と左京丸。
「その通りに人は少なかったが、隠れられるような場所はなかったんだ。必ず目撃されるはず。だが誰も少女を見なかったという」
怪談のようだが、刑事さんはそんな悪ふざけをする人じゃないもんな、と左京丸は思う。
「話を聞くと、彼女を特定するだけの情報を得られていないように見える。その写真はどうやって手に入れたの?」そう指摘したのはギロチンムーンだ。
「確かにな。名前どころか写真を撮る暇もなかったような話ぶりじゃないか」とベアナックル。
「続きがあるんだよ。薔薇原ちゃんは次の夜にも現れた。今度は二時半を過ぎた頃だ。俺が発見した。名前は聞き出せたが、会話が噛み合わなかった。薔薇原ちゃんはかなり明るかった。薬物使用を疑ったほどだ」
「明るかった?」とベアナックル。
「連続して見つけた少女が同一人物であるという確証が話から得られない。性格が違う。見つけた警察官も別人、モンタージュを作った風でもない」
「聡いな。ギロチンムーン」
朝兎刑事がにやりと笑う。
「どちらも特徴的なファッションをしていた。上から緑の帽子、緑のシャツ、半袖。緑の短パン。目立つだろう?」
おいおいピーター・パンか? 寒そう。メジェドはそう考える。それはないだろうが朝兎刑事の言う通り目立つ。職務質問するなという方が無理だ。
「目には目を、コスプレにはコスプレを。それで俺たちを呼んだのか?」うんざりという風のベアナックル。
違う。と首を振る朝兎。
「薔薇原ちゃんはあまり警察官と話したくない様子だったんだ。というより、話をするよりも街を見て回りたいという感じでな。それで、我慢できなくなったのか、いきなり走り出したんだ。俺は勿論追いかけたよ」
ヒーローも探偵も黙って話を聞いている。
「駅前の角に入ったところで見失った。超人の俺がだ。本当にその場で蒸発したという感じだった」
超人の俺が。その言葉の意味をその場の全員が理解していた。
超人の能力、それは腕力が強いとか弾丸を跳ね返すような頑丈さに留まらない。
五感もまた人を超えている。子供を見逃すはずがないのだ。
ゾンビになったマジスターが体臭でベアナックルとメジェドの正体を看破したように。
突然ベアナックルは緊張する。まずい。
果崎春一は何度も喧嘩で補導されている。俺の匂いを覚えていないはずがない。声も。
「それで私たちに捜査協力を?」と今度はギロチンムーンが誤魔化してくれる。実に自然なフォロー。
「名前から身元を割り、家に立ち寄ってみた。別件の捜査という名目で。それとなくアリバイを聞いたら寝ていた、と」
「そりゃそう言うでしょ。夜中の二時三時に子供が外出してるなんて言えるわけない」と左京丸。探偵の言う通りとヒーローたちは頷いた。
「その晩も薔薇原ちゃんは現れた、初日と同じように怯えていた」
沈黙。
「薔薇原家に二人、少年課刑事を張らせていた。そいつらは誰も出入りしていないと証言した。これがお前らを呼んだ理由だ。ヒーロー」
確かに異質な事件、事件性はないけれど、不思議な話だわ。ギロチンムーンはそう考える。どんなリアクションをするべきか?
「朝兎刑事。我々にどうして欲しい? 薔薇原さんの夜間外出の目的? 密室脱出トリックの解明?」
「両方だ。そして彼女の畏れを取り除いてやって欲しい。俺も協力は惜しまん」
「畏れとは?」とメジェドが問う。
「二度、薔薇原ちゃんは怯えていた。その原因を究明してくれ」
「わかりました」
「快諾だな。ギロチンムーン」そうでなくちゃ、そうメジェドは笑う。
「そして蹄左京丸。お前の案件を」と朝兎。
「これから話すことは探偵の守秘義務に関わるが、それはこの際置いておこう」と探偵は切り出した。
なんのことだ? そうベアナックルは訝る。
「俺の依頼人の名は
朝兎刑事の視線が鋭くなる。
探偵とは思えない話の切り出し方。確かに守秘義務に背いている。
「みんな、そう睨むなよ。ヒーロー、つまり犯罪者に協力を頼む時点で遵法精神もクソもないだろ。それにここでの会話はどこにも漏れないし」制止するよう両手を前に出し釈明する左京丸。
「この会談自体が非公式だから問題ないと。それはそうだが・・・・・・」
困惑する朝兎刑事。
「この事件で舌嚙家のご主人は死亡。奥方は重体でいつ意識が戻るかわからない。下上くんも重傷でね。家族の仇をとって欲しいと。そのグループを特定はできたんだがその中にスーパーヴィランもいてさ。俺の手に負えないからヒーローに
「それなら私たちの職掌範囲ね。続けて?」
「アイ、ギロチンムーン。グループはヴィランを合わせて五人。全員二十代。過去に四件の犯行。ファミリーレストランで打ち合わせをしていてそこにヴィランが来てな。ヴィランの相手をしてほしい。あとの四人は俺がやる」
「
「グループの犯行予定とヴィランの情報を」とギロチンムーン。
「一週間後に埼玉県で仕事をするそうだ。スーパーヴィランの名は『パイロ・パイレート』。新人ヴィランだ」
「テレビで特集されてたな」とベアナックル。
海賊のような衣装で目撃される女盗賊だったはず。探偵も言ったよう最近現れ、まだ捕まったことはない。
「情報が少ないのは嫌だな。こっちは手の内丸出しでやってるっていうのに」とメジェド。
よく言うよな、とベアナックルは渋面。メジェドはヒーローの中でも一番の秘密主義だ。人類史に匹敵するほどの長期間正体を隠し続けているのだから。
確かに戦闘スタイルやスーパーパワー、武装といった情報についてヒーローはそれを隠せていない。
まあそんな心配は俺のすることじゃない。知ったことか。
どうせこいつらは、とギロチンムーンとメジェドを見やる。そんなことは承知の上でやっているのだから。
「パイロ・・・・・・。火に関わるヴィランかな。そのくらいしか予想できないな」
「欲を言えばそこが判明する前に捕まえて欲しいすね」
朝兎の言に和する左京丸。頼むよヒーローさん。
「蹄さん、次の埼玉県の犯行、具体的な情報は?」
「あいつらそこまでは決めてないらしい。だけどこれまでの犯行は金持ちの家を目標にしてるから」
「十分なヒントだわ。彼らの会合場所、次の会合予定は?」
探偵は小平市のあるカラオケ店の情報を口にした。
「予定はまだわからない。張り込みをするわ」とギロチンムーン。
「待ってくれ」左京丸が叫ぶ。
「俺も業務上そこに張り込んでいなきゃならない。だからその、あんたたちには正体が俺に知られないよう変装する必要があると思う」
「張り込むな、とは言わないのか」
「君たちの邪魔をする気はない、ルーキーくん。ただ俺の邪魔もしないでほしいんだ」
「いいね。立場は違えど大まかな目的は同じはずだ。だろ?」とメジェド。刑事、探偵、ギロチンムーンが頷く。
今のはメジェドっぽかったぞ。メジェドのコツ、掴んじゃったかな。
「目的は同じだが、立場の違いを忘れてはいけない」と刑事。
「連携に失敗すれば最悪、世論を敵に回しかねない。蹄、ギロチンムーン、この対話は三つの勢力のコンセンサスを取る場でもあるんだ」
「待ってくださいよ朝兎さん。俺を探偵の代表扱いされても困るっす」
「俺だって警視総監じゃないさ。ギロチンムーンはヒーローの代表だろうが。俺が言っているのは前線の人員、その合意についてだ。大切なのは、左京丸、チームワークの確保だ」
「随分拘るんですね、刑事さん」
「きみの先代に教わったことだぞ、これは」とギロチンムーンに返答する朝兎刑事。
「一介の刑事にはない視点だ。警察、ヒーローが社会にどう見られているかというのはな。それをギロチンムーン、そしてドクター・ストゥピッドはよくわかっていた」
「先代の方針だというなら、なんの不思議もありません」とギロチンムーン。
「不思議とは?」
「一介の刑事が我々の立場に強い関心を持っていることです」
朝兎刑事は頷く。
「探偵さん。蹄さん。私たちは迷惑にならないように捜査を進めます。そこは安心して」
「勿論。俺はギロチンムーンを信じてるぜ」親指を立てる左京丸。かなりのヒーローマニアらしい。
間抜けに見えるが、裏社会の住人らしい雰囲気も持っている。無能ではないのだろう。
ベアナックルは左京丸の力量を測りかねた。この探偵には俺が挑むだけの強さはない。それは確信できる。しかし。
凡庸な探偵への興味を抑えることができない。何故?
そんなベアナックルをちらりとギロチンムーンは見る、そしてこう切り出した。
「蹄左京丸さん。私はあなたを知っている」
「え・・・・・・」
急な話題の転換はベアナックルへのサービスだ。
「元自衛隊特殊精鋭部隊、ベアー小隊。最終階級は軍曹。退役後は探偵王
「へえ。結構凄い経歴だな。ベアー小隊と絵唐津葛の下にいたのか」
水際の戦争で活躍した特殊部隊と探偵業界の王とも言える絵唐津葛、この二つと関わりのある人物、メジェドの想像の埒外だった。
とある力能者の暴走がテレビで全世界に放映され、近隣諸国を刺激し近海を舞台にした世界大戦に発展した。
その大海戦で特に活躍した部隊が二つあり、ピーチ小隊、ベアー小隊と呼ばれる。
そこまではベアナックルも知っていた。
ベアー小隊といえば。
「朝兎刑事。あなたも確かピーチ小隊でしたね?」とギロチンムーン。
それはベアナックルも聞いたことがあった。
「昔の話だ。思い出したくないね」
実に息の詰まる戦いだったと、朝兎は思い出す。
厳しい軍規はもちろん、敵を殺さないように手加減しなければならなかった。
いや、それはいい。手加減は超人の日常だ。
敵兵の憎しみを毎日感じなければならないということが神経にこたえた。
命を懸けて向けられる殺意、これほど辛いものはない。朝兎も、ピーチ小隊の仲間もそう感じていた。
なかには精神を病んでリタイアする者も。
あの戦争に、朝兎は超人と常人の断絶を見た。
いや、もう思い出したくない。
「俺も思い出したくないね」そう言って左京丸は缶ビールを空ける。
「昼から飲み過ぎでは?」
「いいんだよメジェド。このくらいじゃ酔わないもんね」
「仕事に支障はないと?」とギロチンムーン。
「まーね。俺の肝臓は特別製」
「探偵の仕事、忙しくないのか?」ベアナックルが問う。
「あんまり。最近は個人輸入の方が儲かるね」
個人輸入業に自衛官経験や探偵術が活用できるとは思えない。
この男、特殊部隊に居られるほどの実力を持っているのだろうか?
薔薇原時女の謎、連続強盗と同じくらい興味深い。
「まあそこは後回しということで」そう言ったのはベアナックルでなくギロチンムーン。
心を読むな。
「では我々トゥモローパイオニアはこれで。二つの事件を独自に捜査する。当然あなた達には迷惑をかけない。こちらに連絡したい場合は朝兎刑事を通して。これが我々の奉仕です。いいですね?」
ギロチンムーンは刑事と探偵に確認する。首肯する二人。
「メジェド。ベアナックル」そう言ってギロチンムーンは刑事たちに背を向ける。用件はこれで終わりだというように。メジェドとベアナックルも彼女の後を追う。
「ギロチンムーン!」
朝兎刑事の呼びかけに振り返る。
「
その話題を出すか、あなたを試していた。そうは言わないギロチンムーン。
「江戸江蘭貴を尋問したが、要領を得ないことしか言わん。わかるよな? ヤツの犯行の不可解な部分をよ」
「江戸江蘭貴はどうやってマスカレードの全滅を予測し現場に駆けつけたのか?」滑らかにギロチンムーンは謎を口にする。
言われてみれば。とメジェド。メジェドの知る限りエンバマー、江戸江蘭貴に情報収集のスキルはない。特にその情報が裏社会のものであれば。
エンバマーは何故マスカレードの壊滅を予期できたのか?
「故買屋からマスカレードの情報を買ったと言っていたが、その故買屋の痕跡は見つからなかった。今も捜索中だ」
「フム。その故買屋とはどこで?」
「新宿駅前。マスカレード全滅の三日前だと」
「マスカレードの情報」とギロチンムーン。そんな情報が流れるものだろうか?
父の情報管制の徹底を鑑みればあり得ないように思える。その点についてはトゥモローパイオニアより長けていたのだから。
もう一つ考えるべきポイントがある。
その情報を何故エンバマーに売ったのか、だ。
マスカレードに恨みを持つヴィランは枚挙にいとまがない。
その中でエンバマーでなければならなかった理由は?
情報を得たエンバマーが事件に関与し、敗北、逮捕され、現在に至る。
それまでの何処かの段階でその故買屋は目的を果たした、と考えられる。
そんな目的があるとしてだが・・・・・・。
「そのコバイヤ? とかいう奴の特徴は聞いたか?」とベアナックル。
「男性。身長は高め。暗い雰囲気。声が小さい。金髪。金に汚い。と江戸江が言っていた」
尋問内容を思い出しながら朝兎。
「そいつの捜索もしておこう」
「あ、俺もやるよ」安全な範囲で。メジェドの手伝いを買って出る探偵。
「蹄さん、協力に感謝するわ。他に要件は?」
今度こそ要件はなくなったらしい。
「では解散」
「会えて良かったよ。じゃあな。朝兎さんも根を詰めすぎるなよ」
「そういうお前はもちっと働け。じゃあな、お前ら」
探偵と刑事は引き上げ、ギロチンムーンも歩き出し、メジェドとベアナックルはその後を追う。
変身を解いて軽食を取る運びとなった。
「それならいい店知ってるぜ」
勇のお気に入りの店へ。春一も一度来たことのある洋食レストランだった。
「ちわ、マスター。今日は傘忘れて来ちゃったよ」
そう言う勇にマスターはこう返す。
「降るなんて天気予報で言ってなかったぜ」
「俺の勘だよ。奥の席空いてる?」
三人は奥の席へ。
「あのマスターもメジェドの一員なんだ」
「ではさっきのやりとりは何かの暗号だったのね」
「そういうこと。ヒーロー絡みの話をしたい時は声の漏れない奥の席に座れるわけ」
エジプト文明黎明期より人類史に寄り添った正体不明のヒーロー、メジェド。その始まりはとある目的を持った秘密結社であった。
彼らは並外れた秘密主義を堅持しながら世界中で何千年もヒーロー活動をしている。
世間はメジェドをなんらかの理由で不老不死になった怪人、そう認識していた。
「ちゅーか全然デートじゃなかったな」
「デートのつもりだったのか?」
勇と春一のやりとりに日ノ笑は笑う。
「希望的観測だよ、ハリー。棚からぼた餅的なさ」
「警察署に行くと言われてよくもまあそんな希望が持てたもんだ。何が悲しくてこちらから出向かなきゃならないんだ?」
「バカだな。ヒーローはマッポと手を組むもんだろ。バットマンとゴードン本部長、知らねーの?」
「俺はそのゴードン本部長に何度も補導されてんだよ。あのオッサン苦手だ。あいつ軍の特殊部隊だったんだな。どうりで歯が立たんわけだ」
朝兎刑事の前歴は初耳だった。
「歯が立たないって、お前刑事に喧嘩売ったのか!?」
勇が引いていた。反社の挙動すぎる。
「朝兎刑事、強かった?」
そんな日ノ笑の問い、勇は日ノ笑を凝視する。そういう空気じゃなかったろ?
「認めたくないが、勝負にもならなかった」と春一。
「超人ですもの。勝てないのは予想できる。春一、朝兎刑事の強みは?」
「俺並みに喧嘩慣れしているところ。超人のアドバンテージを理解しているところだな。
渾身のストレートを避けも防ぎもせずカウンター気味に組み伏せられた、あの経験は忘れられない。
いまだに春一は超人対策を立てられていない。
「だが日ノ笑よ、何故朝兎の戦法の話を? あいつが俺たちの敵になると?」
「え、あの刑事が?」
「そんなわけないでしょう、二人とも。朝兎刑事をどう
なるほどな、と春一は得心。同時に俺は全てを日ノ笑に知られてはいないのだと気付く。
この、得体の知れない女は俺たちのことも探っている。敵ではなかろうが。
まあ、敵なら敵で戦うまでだ。隠すことなど何もない、戦場というリングの中では。
「朝兎といえば、超人の知覚なら俺の正体に気付きそうなもんだが、そんなそぶりはなかったな」
「言えてるね、ハル。マジスターなんかは普通に勘づいたよな」
マジスターは数年前に一度しか会っていない春一と勇を体臭で特定してみせた。
何度も春一を捕まえた朝兎がベアナックルの声や匂いに既視感を覚えないのは何故か?
「先入観というのは強力ね」と日ノ笑。
「ギロチンムーンの横に立つヒーローの正体が、将来も無さそうな不良であるなんて誰も思わないでしょ」
「誰の将来が無いだって?」
「おハルよ、将来捨ててなきゃ刑事なんか殴らないからな普通」勇はため息。大丈夫かこの親友。
その時マスターがソフトドリンクを持ってきた。
「サービスだよ」
三人は会釈。
にっこりと微笑みマスターは引っ込んだ。
「手分けしましょう」と日ノ笑。
「春一、きみは薔薇原時女に接触して。勇ちゃんは舌噛下上に話を聞いてきてね」
「お前はどっちなんだ? 日ノ笑」
「私は強盗グループを追跡する」
「なー日ノ笑ちゃん。俺単独捜査って初めてなんだよね。ハルにいたってはむしろヴィランに近いし。そんな俺らに捜査のコツとかあったら教えてくんな?」
少し間を置き、勇の問いに答える日ノ笑。
「大前提として正体を必ず隠すこと。そして急がないこと。最後に目標の行動パターンを把握すること。最短最高効率ではないけれど、これが最も安全よ」
「勇、だれが
「参考になったよ。さすが二代目ギロチンムーン」
「どういたしまして。頼りにしてるからね、メジェド」
「無視するなキサマら」
その日の夕方。左京丸が言っていた小平市のカラオケ店。店内は清潔で客は少なく、かなり広い。
日ノ笑は受け付けの横にあるロビーに座り強盗グループを待っていた。
蹄左京丸もいる。彼はロビーでメロンソーダを飲み時間を潰している。
当然日ノ笑に気付いていない。
ロビーにはいくつもテーブルがある。左京丸は角のテーブルに。
日ノ笑は中央のテーブルに腰かけ、携帯端末をいじるふり。
男性四人のグループが入店し、左京丸が注目する。それで四人組が目標であるとあたりをつける日ノ笑。
うち一人は受け付けへ。
男性はいずれもカジュアルな服装。受け付けに向かった一人を除いて不自然に無口だ。
店は混んでいない。うまく彼らの部屋の隣に入れればいいのだが。
左京丸はメロンソーダを飲み無関心を装っている。彼らの逮捕は探偵に任せればいい。今はヴィランの情報を聞き出すことが先決だ。
それでも彼らの個人情報くらいは知っておきたいが。
グループの三人は日ノ笑の隣のテーブルにつく。彼らは若い。
一人は背が高く無口。一人は茶髪、周囲を気にしている。三人目は小太り、俯いている。皆強張った顔でカラオケを楽しもうという風には見えない。
「そういやこないだ言ってた滞納金、払えたのか?」
「ああ、この仕事のおかげだ」
小太りの問いに背の高い男が答える。
「俺は妹の結婚式でカッコ悪いとこ見せずにすんだぜ。ご祝儀を出せたんだ」と茶髪の男。
「へえ、よかったな、おめでとう」
「ヒくかもだけどよ、結構気が楽になったよ、この仕事してから」
茶髪の男を残りの二人が注目する。
「ま、ヒくよな。でもご祝儀払って、お金がどれだけ大切かよくわかったよ」
茶髪の男は自動販売機で飲み物を三本買い、またテーブルに戻る。
このシチュエーションで彼らから情報を得られるだろうか。漏洩を恐れるからこそ個室を求めているのだ。
私と左京丸、二人が近くにいるこの場では重要な話はしないだろう。
日ノ笑はしかしそうした自身の予想を盲信はしなかった。犯罪者も判断ミスをすることはあり、日ノ笑はそうした不確定要素を切り捨てはしない。彼女の予測を超えることは至難の技だ。
「俺は早く辞めたいよ」背が高い男が小声でそう言った。
「なんでだ。
「清水、前の仕事でよ、俺たち、見られちまっただろ」
茶髪の男、清水は頷く。
「舌噛とかいう変な名前の家だったな。でもあれはもう片付いただろ、そうだよな、
舌噛という名に探偵が反応してしまう。
しかし三人は彼に気付かない。
「そうだ。クソ後味の悪い案件だったぜ」
小太りの柘植を睨む狩野。
「
背の高い男、狩野が声を潜めた。
「どうも、舌噛の件はまだ終わってないらしい」
「柘植、どうして・・・・・・」
「黙れ、清水! ここから先はここでは話せない。今日は埼玉の件でなく舌噛の話になる。とにかく荷布の指示を待とう」
そうして三人は黙り込む。彼らの緊張を日ノ笑は感じる。
どこからか舌噛家に生存者がいることが漏れたようだ。しかも彼らは目撃者を消そうとしている。
荷布というらしい受け付けを済ませた男がテーブルへ。三人が席を立つ。
彼らは奥の部屋に入っていった。左京丸は退店、入口の近くで張り込むのだろう。
事態は悪化した。しかしリカバーは容易。
それよりもヴィランのパイロ・パイレートが気になる。誰がパイロ・パイレートだ? それとも来ていないのか?
日ノ笑も退店し、左京丸に気付かれないよう入口で監視する。
恐らく五人目もここに来るはず。
多摩総合医療センター。深夜。先日まで入院していた大病院に太宰勇、メジェドは訪れていた。
舌噛下上に話を聞くために。
「舌噛ちゃんの病室は605っと」
さすがに院内をコスプレしてうろつくわけにはいかないので病室の窓から入る。レインコートには擬似的反重力装置が仕込まれていて飛行できる。
「・・・・・・・・・・・・!?」
突然乱入してきた白衣のヒーローに下上は驚いた。
六階の病室の窓からそれも深夜の侵入者というのはかなり心臓に悪い。
「おお、ひでえ、ガチャガチャ重体だな!」そうメジェドも驚く。
話には聞いていたが全身骨折、右眼球破裂、右肺摘出の様は暗澹としたものだった。片目と口を除いて全身包帯まみれだ。手足も固定されていて痛々しい。
「災難だね、舌噛くん」
病室には下上の他に五人の患者。一人の少女を除いて全員寝入っている。
テーブルに土産代わりの『卵』を置いて椅子に腰掛ける。
「落ち着いてくれ、舌噛くん。そんなに心拍数上げないでさ。俺はきみの容態を悪くしたくってこうして見舞いに来たんじゃないんだぜ」
そう言ってテーブルの上の飲み水を飲ませてやる。
「強盗の話を聞かせてくれよ、舌噛くん」
「・・・・・・ァンなんだ」
「おっ?」
「大ファンなんだ。会える日が来るとは思わなかった」
息苦しそうに下上は語りだした。
「ヒーローマニアか。握手してやりたいけど、指先まで包帯まみれじゃしょうがないよな」
当然の話ではあるが、日本国民のほとんどがヒーローや犯罪と無関係に一生を送る。
犯罪事件に巻き込まれてヒーローと関わりを持ってもその事件が解決してしまえば、まず再接触はできない。
ヒーローは会いに行けるアイドルではない。
激烈なヒーローマニアの下上はしかし、この機会の逸失を惜しいとも思わなかった。
自分にこれほどの激情が隠されているとは思いもしなかった。
「頼むよ、メジェド。父さんと母さんの仇を打ってくれ・・・・・・。頼む、から」
涙が頬を伝う。両親を痛めつけた彼らのことを思うと胸がざわつく。心電図が飛び跳ねる。
下上の縋るような目にメジェドは心打たれる。自分と年の変わらないような少年がこんな目をしてこんな頼み事をするなんて。
「舌噛くんよ。俺は復讐代行はしてやれねえ。でも約束する。きみとご両親を傷つけたクズどもを痛めつけてブタ箱にぶち込んでやるってな。俺たちメジェドに、つまりヒーローチーム、トゥモローパイオニアに任せな」
明るく、しかし真摯に見えるような表情でメジェドは答える。
「だから小さなことでもいい。連中の情報を教えてくれ」
メジェドにそう言われて、下上は記憶を漁る。出てくるのは血に濡れて赤く染まった光景。
深夜、大きな物音で下上は目を覚ました。廊下に出ると隣の部屋から父親が出てきた。
「何の音だ?」
「さあ?」
一階に降りる。リビングに入ると母親が倒れていた。
「
父を追って母親に駆け寄る。
その時、部屋の陰から男たちが飛び出す。手にはバット。
四人の男たちに殴られ、痛みと失血で薄れる意識の中で、こんな言葉を聞いた。
「よくも俺を落としやがって!」
倒れている父に蹴りを入れながら叫ぶ男。
「これでめでたく就職浪人だクソ!」
父が血を吐く。その血の赤さも下上の意識を繋ぎ止めてはいられなかった。
生きている父を見たのはそれが最後だった。
怒りと痛みに耐えてその様子を下上は白衣のヒーローに語ってみせた。
「犯人は親父さんの知り合い、動機は就職に関わる怨恨か」
そう言いながらメジェドはババ抜きでジョーカーを引いた気分に。
そもそもこれは連続強盗事件の一つのはず、報復は二の次であくまでも金銭が目的だろう。
それでも被害者の知り合いという線は掴めた。一日の仕事としては十分な成果じゃないか。
下上の胸に手を置いて、微笑む。
「話せて良かったよ。舌噛くん。それじゃ、お大事に」
「ああ、ありがとう、メジェド・・・・・・」
また窓から出て行こうとするメジェド、背後に視線を感じる。
振り返ると、起きていた少女。
患者の貫頭衣。髪は水色で長い。顔を失くしたかのような無表情。メジェドを見上げている。小学生くらいか。
「どうしたお嬢ちゃん? 握手したろか?」とメジェド。
少女が口を開く。
「蹴つまずいてこんばんは。次は負けないから。下上がよろしくって」
意味不明。
下上の方を見やる。
「舌噛くん? 知り合い?」
「昼に少し喋っただけだよ。よくわからんことを言うんだ」
「今にわかるけど、七夕に遠すぎる火の用心」
意味不明。
少し背筋が冷える。おいおい。天下のメジェド様がこんなコにビビっちゃいかんでしょ。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
少女はにっこり笑う。
「果崎
メジェドは小さな悲鳴を上げる。
同時刻、再び府中駅前。果崎春一は薔薇原時女を探している。
「それで、その意味わからん子供をどうした? 逃がした? あのな、サミ、その子供が俺の姉貴の名をどうして知ってるのかわからんがしらばっくれてりゃいいんだよ。誰がルーキーヒーローの姉貴を知ってるっていうんだ。案外単に姉貴の友達だったりしてな。とにかく逃げたもんはしょうがねえ。今度見つけたら捕まえて話を聞けば・・・・・・、切るぞ、薔薇原だ」
舌噛下上を見に行ったメジェド、彼女から電話がかかってきたがどうも要領を得ない。要領を得ないのは珍しくもない幼馴染だが。
特に姉の名を知っているのは気になるが今は時女に話しかけなければ。
目の前にいる少女、薔薇原時女はかなり目立っていた。上下共に緑、ブーツも緑。髪にまで緑が混じっている。なんというか、ハロウィンで見るような服装だ。
本人は服装を気にしていないようで堂々としている。春一が関心するほどだ。
彼女の目的は何なのか? 何が目当てでこんな夜中に街を彷徨いているのだろう。あんな格好で?
声を掛けてみよう。とにかく情報を集めなければしょうがない。日ノ笑に失望されるかもだし。
「お前何してんだ?」
こちらを向く時女。ストレートな質問に戸惑っているようだ。
「あー、こんな時間に出歩くなんてどうしたんだ?」
固い営業スマイル。似合わないことをしている。タイツを履いて正義と真実とギロチンムーンの為に戦うくらい似合わないことをしている。
頼むから相手をしてくれ。ここまでやって無視されたら殴ってしまうかもしれない。今の俺はかなりいたたまれない。
「君、誰?」
質問に質問で返されてしまった。
「どっかで会ったっけ?」
そう言うと無遠慮に春一に近いた。物怖じする様子もなく真っ直ぐに春一の顔を見ている。
「初対面だよね? 私に何か用?」
「もう一時だぞ。女の子が歩き回る時間じゃねえからな。好奇心で聞いたんだ」
「ふうん。特に理由はないわ。散歩よ散歩」
それにしては時間が遅すぎる。春一の顔からそんなメッセージを感じた時女は逆に問う。
「そういう君は何をしてるの?」
「暇潰しだよ。ジョギングして、遊んで帰る。それどけ」
「オーケー、話すわよ。そこに座りましょう」
「その前に君、名前は? 私は薔薇原時女」
「果崎春一」
「あれ、聞いたことある・・・・・・?」
「府中のドチンピラって?」
「え? あ! そうだ!」
春一の噂を思い出し、不良少年から距離を空ける時女。
「制御不能の乱暴者って聞いたけど、イメージと違う・・・・・・」
あまりに理知的、冷たい印象はあるが物騒な印象を感じさせない少年だ。
「乱暴者なのは合ってるが、お前は敵じゃない。だろ?」
「そうね。警察署を一つ潰したってのも本当?」
「そんな噂が立ってるのか?」
それはもう乱暴者で済まないレベルだ。警察とヒーローが総出で追いかけるテロリスト。
「ないない。こちとら刑事一人にも勝てないのに」
「果崎春一は最強って話だけど」
「オヒレがついてんなぁ。ケンカしてるんだから負けることくらいあるよ」
時女にはそれは意外な話。ふと春一に聞いてみたくなる。
「それなら、負けた時きみはどんな気分になる? 何をするのかな?」
「特に何も。何も変わらない」
「かわら、ない?」
「勝っても負けても体を鍛え、力を蓄え、技を磨くだけだ。毎日。一番重要なのは勝敗じゃない。自分のルールを守ること、それだけだ」
「それだけ? 負けたら悔しかったり、それまでの努力を否定された気がしたりしないの?」
「ああ、聞きたいのはそういうことか。ま、俺はそのテの感情とは無縁だ。自分に課したルールを守って毎日を過ごしてりゃ、負けようと悔やむことはない。積み上げたものが否定されるわけでもない。もし俺のルール、信念を否定する馬鹿がいるとしても、その馬鹿さ加減は俺には関係ない」
自閉的とさえ言える春一の言葉。戦いを求めるにも関わらず、目の前の少年は多分敵を憎んでさえいないだろう。自分の意見を私に納得させることにも興味がなさそうだ。
だとしても。
「果崎くん、私がここにいる理由はね、家族から逃げるためなの」
時女は切り出す。語りたくない、目を向けたくない現実。
「最近父さんと母さんが喧嘩ばっかり。多分父さんは浮気してる。私の受験が終わるまで静かだったんだけど、合格発表から家の空気が険悪になっちゃって。私が部屋に戻ると口喧嘩ばっかりで。私は寝た振りか、こうして家を出るかしかなかったの。だけど、逃げてちゃ駄目だよね。子供としてできること、家族にしなきゃいつか後悔する」
そう言って時女は立ち上がる。人生を捨てて蛮勇に徹するこの少年に出会えた幸運に時女は感謝した。
恐怖に飲まれていた自分には、恐れを知らないこの少年こそ最高のカンフル剤だったのだ。
私の望み。それは夜の街をうろつくことじゃない。
父さんと母さんに仲直りして欲しい。やり直して欲しい。
そのために私も頑張ってみよう。
二人と話そう。それで失敗しても悔やむことのないよう、自分を否定しないよう。
「口出しは俺の趣味じゃねーが、好きにするがいいさ」
春一も立ち上がり尻の汚れをはたき落とす。
「これってひょっとして、俺がお前の悩みを解決したってことか?」
「偶然ね。だけどこういう偶然は大歓迎。これで父さんが帰って来ても家出せずにすむわ」
「そりゃ結構なことだ。よかったな」
期せずして薔薇原時女の事件を単独で解決してしまった上に、偶然に近いとはいえ他人の悩み事を解決してしまい、春一は少し混乱した。
まさか自分が誰かを助ける時が来ようとは。それも暴力抜きで。
「うちの家族はもうおしまいだってずっと思ってた」
「いつか壊れちゃう。そう諦めてたけど、できることをしてみる。本当に壊れてしまう前に」
安らかな声音。時女は春一の目を真っ直ぐに見る。
「壊れてしまってからじゃ遅いもんね。君に会えてよかった、果崎くん」
時女は帰るようだ。
「じゃあな」
「最後に一つ聞かせて。どこかで会ったことある?」
予想外の質問。
「会ってねえよ。このあたりですれ違ったくらいはありそうだが」
「そうだよね。私、よくこの辺りで遊んでるから、また会えたら話を聞いてよ。うちの親の話を・・・・・・、そんな嫌そうな顔しないでさ」
「聞きたくないね。俺も帰るわ」手を振って甲州街道の方へ。春一は電車でなく走って帰る。
「果崎くん、散歩ってのは嘘! 本当はいつの間にかここにいたの!」
時女の方を振り向くと、誰もいなかった。
「あ・・・・・・!」
煙のように時女は消えていて、その光景で春一は思い出す。
刑事たちに見張られている薔薇原家からどう抜け出したか、聞くのを忘れていた。
参ったな。日ノ笑にどう言えばいいんだ。勇は笑いものにするだろう。今から腹が立つ。
「おい」
後ろから声。振り返れば慣れ親しんだ風体の男。人が近づきたがらないような顔には大きな青あざ。春一を睨みつけている。
うっとりと春一は微笑む。
男は唸るように語る。
「果崎ぃ。一月前の借りを返させてもらうぜ」
その男を春一は覚えていた。彼と殴り合った経緯は別だが。
そんなものは春一には関係ない。
「ああ。喜んで受け取るよ」
ほとんど惚けたような表情で自分を受け入れる春一に男はたじろぐ。しかし今更引けない。
これこそ俺のやるべきこと。居場所。何がヒーローだ。家出少女クソくらえ。
「始めようぜ。ずっと待ってたんだ」
意味不明な春一の言動に男はもう口もきけない。春一は構え、右拳を振り上げる。
流血。待ってましたと、拳が血を浴びる。
翌日。甲州街道沿いの喫茶店チェーンに三人は集まっていた。
その店は春一の行きつけで、マスターが客に話しかけないどころか顔を合わそうともしないところが気に入られていた。恐らくここの客は全員春一のように人に話しかけられるのが嫌なのだろう。
三人はそれぞれが収集した情報を交換。
タピオカミルクティーを飲みながら勇が言う。
「結構手掛かり掴めたんじゃね? グループのヤサを見つけて襲撃して、連続強盗事件は終わりだろ」
「五人目の不在が気になるわ。何故来なかったのか」
「電話で連絡してたんだろ」と春一。
「そうよね」あっさり認める日ノ笑。
「重要なのはパイレートの動向。これを割り出さないことには危なくて強盗グループにま手を出さない」
「メジェド仲間で一人、パイロ・パイレートを目撃したヤツがいたよ。パイレートは逃亡する時、火の中に飛び込んで消えたんだと。煙のようにさ」
「なんだそりゃ? 火に飛び込んで? サーカスのライオンか?」
「ハリー、どちらかというとミステリーだろ。消失トリック」
「勇ちゃん。その話詳しく」
「詳しくったって又聞きだからなぁ。工場からCPUを盗み出して警備員に見つかって。工場の出口まで追いかけられてパイロ・パイレートはいきなり周りに火をつけたんだと」
「自分からか」と春一。その様子は自暴自棄をイメージさせる。
「そいで警備員がビビったらパイレートはCPUを持ったまま炎の中に飛び込んで。警備員は周囲を捜索したけど見つからず警察に通報。これは刑事をやってるメジェドが工場の監視映像を調べて入手した情報よ。もち他言無用な」
二人は頷く。
「確かに日ノ笑ちゃんの言う通り、ほっとくのは危険かもな。でも先に強盗グループだけでも捕まえちゃえば? カッコゲキハ、基本でしょ」
それは春一も同意見だ。しかし日ノ笑は首を横に振る。
「こちらには確実に彼らを有罪にできる証拠がない。身柄を確保してアジトを調べれば証拠が出てくるという見通しもない。そんな状態で彼らを警察に渡しても警察の方が彼らを釈放すると思う。いい?」
二人の目を真っ直ぐに見据える日ノ笑。
「日本の警察の検挙率は世界最高だけど、その理由は確実に有罪にできる案件しか起訴しないから。証拠もないままあの四人を捕まえれば警察の捜査方針を無視することになる。私の言いたいこと、わかる?」
「サツと連携したければ捜査方針にも気を使えって?」と春一。
「なーほーね」と勇。
「考えてみりゃ警察と信頼関係を築くのは大切か。こっちが追っかけられるようになったらバカだもんな」
俺たちも犯罪者だったよ。そう勇は思い出す。
世間に受け入れられているのはわかりやすい形で治安維持に貢献しているからであり、それとは関係なく法的には犯罪者だ。
秩序紊乱罪だっけ? 日本では自警行為は認められていない。
警察の上層部や政府は全力で見て見ぬふりをしている。役立たずではないし国民に受け入れられているので。
そしてそんな警察や政府を人々も見て見ぬふりをしている。でもそれは多分、治安維持に役立つから、そんな合理的な理由じゃ多分ないな。そう勇は思う。俺がそうであるように彼らがヒーローを受け入れるのはカッコいいから、それだけの理由だ。
改めて考えてみるとバカらしいけれど日ノ笑ちゃんはそう思っていない。日ノ笑ちゃんが一般人の視線を無視しようとしていないなら俺もそうしよう。なんたって彼女は俺たちのリーダーなんだから。『マスカレード』だってそうしてたんだし。
「彼らは舌噛家の事件で目撃者を残していたことに気付き口封じをしようとしている。医療センターで待ち伏せしてそこを叩く。パイロ・パイレートの手口がわからないのは痛いけど、ある程度は出たとこ勝負で行くしかない。ハル、勇ちゃん、頼めるわね」
「任せろっちゅーの」
「勇と同じく」
一瞬の躊躇いもなく二人は頷く。
「それでは次に、薔薇原さんの件の考察に入りましょう」
「昨日も薔薇原家に夜の出入りは無かったよ」
「またメジェド刑事の情報か。つくづく便利だな」
春一の感嘆に無言でドヤ顔する勇。勇の働きに満足そうに頷く日ノ笑。
「いつの間にか府中にいた。と言っていたから時女は夢遊病だと思うぜ」
「夢遊病? おハルよ、眠りながらサツの見張りを誤魔化せはしないでしょ」
確かにそうだな。そうあっさりと自説を撤回する春一。
「それなら勇はどう思う? 時女はどうやって目撃されることなく家を出たんだ?」
ふっふっふっ。うざったく勇は笑う。
「時女ちゃんはな、そもそも家を出てないんだよ」
勇の言に日ノ笑と春一は目を合わせる。言ってることわかるか?
「時女ちゃんは毎晩ぐっすり眠ってたのさ。刑事さんたちは平和そのものな薔薇原家を見張ってたってワケ」
「それじゃあ俺や朝兎が見たあの時女は何者だよ」
春一の疑問、勇は不敵な顔で答えた。
「お前が見たのはな、時女ちゃんの生き別れた双子だぜ!」
席を立ちお茶の代金をテーブルに置いて帰ろうとする春一。
「帰んな!」
「ハル、気持ちはわかるけど座って。少なくとも私は真面目だから」
眉間をつまみながら日ノ笑は春一を引き留める。
「日ノ笑ちゃん、俺も真面目なんだけど」と勇。
「さみ、今時双子トリックなんて通じるわけないだろ。しかもこれは現実だぞ。シリアスなんだ」
「戸籍や病院のカルテも調べてみるけれど、双子説の可能性はかなり低いわ」
「日ノ笑ちゃんまで? そんなダメ仮説だった?」
「幼馴染を傷つけたくない。ノーコメント」
「なんて正直なヤローだ。日ノ笑ちゃん、名探偵の出番でしょ。どう思う?」
「夢遊病でもなく双子でもない。俺も日ノ笑の意見が聞きたいな」
「まず条件を整理してみる」
真顔になる日ノ笑。
「一つ。薔薇原さんは夜中、府中駅前に現れる。二つ。怯えている状態と躁状態の日がある」
「今のところ交互になってるな」春一が合いの手を。
「三つ。夜間は緑基調の変わった服を着ている。四つ。密室状態の自宅から脱出している。帰るところも目撃されていない」
「そういや・・・・・・」日ノ笑の言う通り。いつ時女は帰ったのだろう。勇は考える。
「五つ。薔薇原家は家庭崩壊寸前。ただし薔薇原さんは崩壊を止める決断をした」
さて、こいつはどんな推理をするのだろう? 推理は思考者の人格を反映する。時女の話は日ノ笑の話でもあるのだ。春一は耳をよく傾ける。
その日ノ笑はといえば、五つの条件を満たす推理を完成させはしたがそれもまた仮説に過ぎない。
「二つ考えられる。まずは薔薇原さんの住居が別にあるという仮説。これは四つ目の条件、密室問題をクリアできる」
勇はため息。なるほどね。
「なんらかの理由で引越しに関わる申請を役所に届けていないために警察は薔薇原さんの自宅を監視していた。申請がない原因は夫婦の諍いに関わりがあるかも。一人暮らし仮説の弱点は第一、第二、第三の条件を説明できないことね」
「第一の条件はそんなに気にすることか? 両親の不仲が原因と時女本人が言ってただろ」
「この仮説最大の弱点がそこよ、ハル。一人暮らしならわざわざ夜に外出することないでしょ。両親が喧嘩しようがすまいが一人でいられるんだから」
「それもそうだよな」と勇。
「じゃあ第二の仮説は?」
春一の催促。それに日ノ笑は気が進まない、そんな顔をする。
その表情は演技だと春一にはわかっていたが、日ノ笑の演技、隠し事など興味はない。用があるのは彼女の言葉だ。
「薔薇原時女は、『力能者』だということ」
「あらら」と勇。
「ヘイ日ノ笑ちゃんよ。異能、パワー、スタンドを引っ張りだしたらなんでもありでしょうが。これまでの議論はなんだったって話になるよ」
「これまでの議論から導き出した答よ。薔薇原さんが
「白井黒子かナイトクロウラーみたいなのが相手だと?」
「第一の仮説と同じく家庭の問題で薔薇原さんの精神に負荷がかかっていると仮定する。自宅にいるわけだから夜間に、つまり両親が喧嘩している最中に府中に逃避しているのは自然なこと。春一の情報から推察すると瞬間移動前後の記憶はないわね」
「いつの間にかここにいた。そう言っていたな」
「半恐慌状態と躁状態が交互するのもストレスのせいだと思う。家庭問題が解決しなければ、薔薇原さんの精神が危うくなる。舌噛家の事件を解決したらそちらもどうにかしなくては」
「それじゃああのおもしろファッションもストレスか?」
酷い言われようだった。
春一の問いに日ノ笑は頷く。あくまでも仮説だけどね、と言って。
「おハルも小学校の時から見た目に気を遣いだしたよな、あの件で」
勇は春一を見る。その服装、ネックレスと腕環をつけているがそれを除けばこなれ感のある洗練された装いだ。研究されている。
「勇ちゃん、あの件って?」
「前に話したろ、俺と勇は小学生の時マジスターに助けられたって」
「ああ、マジスターとの接触ね」日ノ笑は納得。
大きなストレスや衝撃的な体験は服の趣味どころか行動様式や人生観すら変える。
勇はその典型的な例で春一はその最たるものと言えた。
小学生の時点で二人は絶望の一歩手前の状況にいた。いじめの被害者と、それを助けられないでいる幼馴染。彼らを救った最高のヒーローの活躍はしかし、十分な働きとは言えなかった。
太宰勇、彼女は内気な泣き虫から明るいヒーロー志望の若者になった。
果崎春一は、救われたのはその場のみ、それ以降の将来を捨てるような荒くれ者になってしまった。日ノ笑に会わなければ近いうちに暴力団に入るか暴力団に消されるかだったろう。時女のファッションセンスの狂いはそれほど不思議には思わない二人だ。
「ま、でもこれであらかた謎は解けた感じだろ。後は力能の暴発を時女ちゃんに教えてやって、必要ならケアもしてあげて、薔薇原事件はクリアでしょ」
勇の声は明るい。
「残る課題は舌噛を片付けようとする荷布だったか、強盗グループを潰すことだな。イージーだな」
「パイロ・パイレートを忘れてない? ハル?」
「忘れるかよ。俺には本命だ」
「そんならパイレート氏はハルに任せるとして、連中はいつ病院を襲うのか、つてところだな。また偵察するんか、日ノ笑ちゃん」
「そこはあの探偵くんが調査してくれているわ。夜から警察署裏、例の場所で会合よ」
「今日の夜はジムだ。俺は行けない」と春一。
「わかってる。進展があったら連絡するから」あっさり春一を認める日ノ笑。
「いやいいのかよ! チームの結束は!? ハル、これは遊びじゃない、シリアスだぜ!?」
幼馴染の詰問にも春一は全く動じない。
「ボクシングもシリアスだ。戦うこと以上に大切なことはない。多分ギロチンムーンも」
日ノ笑を見る。
「強くなることを望んでいる。それに警察との会合で俺にできることはない」
勇は大袈裟に肩を落とす。まあ春一に協調性を求めるだけムダだしな、と勇は思う。おしゃべりより体を鍛える方が重要だと思ってるもんな。
「これで解散。勇ちゃん、春一、夜更かしした分休憩を取ってね。私はこれから荷布グループの捜査に戻るから」
「さっさとカタをつけたいよ。進学前の春休みを全部このしょっぱい事件に使いそうじゃん」勇が愚痴る。
「俺はてっきりヒーロー活動を楽しんでるものと思ってたがね」意外だと春一。
「地味過ぎるじゃん捜査って! 俺舌噛の見舞いしかしてないよ。空を飛んで傘を乱射したいぜ」
「いつかお前が言ってたろ。『卵』を割らなきゃ・・・・・・」
「オムレツは作れない。わかってる。だけどせっかくメジェドになってやることがお見舞いかと思うとさ。ああ、せっかくの連休、いっそのこと炬燵に入ってゲームができたらな」
ヒーローになって初めてわかるヒーローの窮屈さ。
「なんて自堕落な。これがメジェドとはな」幼馴染とヒーローの人物像の違いに嘆く春一。
「ケッ。荒くれ者くんはおっしゃることが違いますな。どうせメジェドは怠け者ですよ」
「そのメジェドの力が必要になる日は遠くない。待つことね、勇」と日ノ笑。その静かな声音で勇は黙り込んでしまう。
日ノ笑は席を立ち伝票を手にする。奢ってくれるらしい。
「サマになるよなぁ。カッコいいぜ、日ノ笑ちゃんは」
「
「もう行くんか?」
春一は頷く。無表情に見えて、勇には春一の歓喜がわかる。強くなることを楽しんでいる。バーサーカー。
「じゃあな、勇」
「ソーロングだ、アミーゴ」
「また明日な」
手を振って春一は店を出る。あんなありきたりなジェスチャーをする春一は久しぶりに見た。
その変化がいい方向なのか、勇には判断がつきかねた。
国分寺のボクシングジム。
二発、三発。丁寧にパンチを打っていく。
かつて一回だけ打てたあのストレート。サンドバッグを粉砕、いや貫いた完璧なストレート。まるで豆腐を殴ったかのようなあの手応えのなさ。
何度練習しても再現できない最強の一撃。
汗を拭い溜め息をつく。焦っている。あの技を使わずにマジスターを倒せたのは奇跡以外の何物でもない。
そして奇跡は決して続かない。パイロ・パイレートと戦う前にあの奇妙なストレートを身につけておかなくては死んでしまうかもしれない。
力を日常的に求める春一ではあったが、裏社会に踏み入った今ではシリアスだ。この両拳に俺の命がかかっている。
更にストレートを連打。壺原が様子を見ている。普段よりも熱意を込めているのがわかったようだ。
「どうした果崎。試合が近いからってムキになってんのか?」
違う。だがその理由は言えない。
「別に。前に一回打てたパンチを再現しようと思ってるだけだ」
筋骨隆々の壺原は呻いた。そして忌々しそうに諌める。
「あんなもの打てるようになってどうする、果崎。どうやったのか知らんがな、あれは人に向ける技じゃないだろう」
乱闘沙汰が日常の春一が覚えていい技ではない。春一が開けたサンドバッグの穴を思い出して壺原は震えた。その穴はほつれもヒビも皺もなく、春一の拳、腕の形に空いていた。クッキーカッターを入れたかのようだった。恐らく生身の人間では防ぎようがないのではなかろうか。腕で防げばその腕に穴が空きかねない。
「何に向けるかは問題じゃない」サンドバッグを殴り春一は言う。
「技を覚えることが重要なんだ。強くなることが」信念を剥き出しにする春一。こうなるといつも壺原が妥協することになる。
「好きにするがいいさ。だが絶対に人に打つんじゃないぞ」
「ああ!」サンドバッグを打ち抜く。貫かれはしなかったが天井近くまで撥ねる。ジム中のボクサー達がサンドバッグを見上げる。到達し得ない高みへの羨望。
「・・・・・・クソ」
マスクを被った時に勇が感じた窮屈さを春一も感じていた。
これまでは強くなれなくても焦りはしなかった。たとえ負けても全力で努力することにやりがいを感じられたから。
しかし自身の強さに命が、仲間の命がかかっているというだけでこうも焦燥感を感じるとは。『マスカレード』の連中はこんな気持ちだったのか?
焦りと怒りに任せてサンドバッグを殴ろうと拳を振りかぶった時、背後で端末に着信。
勇からだ。調査報告だろうが、電話するほどのことか。
「ハルか? 探偵が調査したんだが、薔薇原事件は解決してない!」
興奮気味の勇。
「薔薇原がなんだと?」
「お前は時女ちゃんの家庭問題を解決したかも知らんが、時女ちゃんのストレス原が他にもあるんだよ。この分だと今晩もまた出没するぞ、時女ちゃん!」
「ストレス原?」
「時女ちゃんと舌噛は友達だ。幼馴染! そして舌噛事件を彼女は知っている! 放っておくと荷布グループに復讐するぞ! 俺たちは時女ちゃんを犯罪者にしちゃいけない!」
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