第4話

 いつからだろうか、私の世界から色が消えたのは。


 12歳の時、生まれ育った街を離れ、分家筋の叔父と一緒に伝手を頼って旅を続け、気がついた時には名も知らぬ国の名も知らぬ街で、たった1人迫害の憂き目にあっていた。


 スラム街でホームレスとして暮らすうちに傷も増え、だんだんと身体も弱っていった。


(我ら獣人は恵まれた種族だ。人としての肉体と、我らの祖先たる獣の感性を両方受け継ぎ、あまつさえ獣の肉体にすら変身できる。いいかセシリア、これだけはゆめゆめ忘れるな。世界から色を失ってはならん。比喩ではなく、本当に視界がモノトーンになってしまうのだ。そうなれば、我らは獣としての力を全て失う。よく晴れた日、バルコニーのテーブルの上で丸まって寝る、あの至福の時間が味わえなくなるからな)


『ごめんなさい、お父さん。私、もうダメみたい』


 いつの間にか、世界はモノトーンになった。


 そんな暮らしも3年がたったある日、唐突に思い立って街を出た。理由はいまでも全く思い出せないけれど、とにかく私は南へ、南へと歩き続け、ノルデンとの国境に辿り着いた。


 疲労と空腹で何も考えられなくなった私は、ふらりと国境地帯に入り込んだ。

 幸運が味方したのか、ブルボン側では誰にも見付からずに国境部のフェンスの穴をくぐり抜けられた。


 しかし、乗り越えた時に物音を立ててしまい、近場を巡回していた兵士に気づかれた。


『誰だ!今すぐ止まれ、さもねぇと…なんだ、亜人族の女か。あ、コラ!逃げるんじゃねぇ!』


 兵士の視線に寒気を感じた私は、南へとまっすぐに走り出した。けれども、衰弱した体では逃げ切れるわけもなく、あっさりと兵士に追い付かれ、抵抗する間もなく押し倒された。


「ヒッ…た、すけ…ムグ!?」

『逃げ切れると思ってんのかよ、この亜人が。可愛がってやるから覚悟s』

「ンッ…あ、あれ…?」


 シャツのボタンがはだけられ、恐怖から目をつぶったものの、下卑た笑みを浮かべた兵士の言葉は最後まで紡がれることはなく、


『中尉ぃ!いましたぁ、亡命者です!』

『よくやった!他の連中が気づく前にさっさと保護しろ!』


 代わりに私に駆け寄ったのは、肩で息をしながらライフルを担ぐ一人の青年だった。


『仏さんはどうします?』

『ほっとけ、どうせ懲罰大隊の兵士だ。一人二人死んだところで、騒ぐどころか喜ぶだろうよ』


 顎で左を差す青年につられて首を傾ければ、さっきまで私を凌辱しようとしていた兵士が、脳漿と血を頭からぶちまけながら倒れていた。


『あ、コラ、見るな見るな!お嬢ちゃんがみるようなもんじゃねぇからよ…』

『サッサとずらかるぞ、探照灯が近づいて来てる。ホラお嬢ちゃんも乗った乗った!ヘルメットをちゃんとかぶっとけよ、なんせこの戦車、確かバイエルンとか言ったはずだが、静かなくせしてやたら揺れるんだ…』


 渡されるがままに軍用コートを羽織ってヘルメットを被ると、すぐさま誰かにヒョイと持ち上げられ、気づいたころには戦車の中。


『嬢ちゃん、ノルデン語は話せるか?』

『下手くそだけど、なんとか』

『中尉殿、彼女多分グレキア人です。その訛りには聞き覚えがます』

『そうか。ま、出身なんか大した問題じゃねぇ。そのくらい話せれば不便はしないだろう。ここはノルデンだからな、話せるに越したことはねぇよ』


 ここがノルデンだということに、その時の私はとても驚いた。


『え、ここ…ノルデン…なの?』

『ありゃ、知らなかったのか。そうさ、ここはノルデン。俺は出身はブルボンだが、どこの人間かと聞かれりゃ絶対にノルデンだと言い張るね。あんなクソみたいな国の出身だなんて、恥でしかねぇからな』


 それに続くように兵士達は話し始めたけれど、安心感と眠気が勝った私はもう何も聞こえてはいなかったし,聞く気もなかった。




 それからしばらく、具体的には私が18歳になるまでの2年間を、私は国境沿いのオーデルハイムで過ごした。

 どこの馬の骨とも知れない私を、ブルボンから来た獣人だという、ただそれだけでオーデルハイムの人たちは温かく迎えてくれた。


『私はここでまた、やり直せる』


 そう思った矢先、南方戦役が起きた。

 宣戦布告と同時にブルボン軍が侵攻してきたとき、私はオーデルハイムの外縁部の八百屋で荷下ろしを手伝っていた。


『キャァッ!?』

『セシリアちゃん!?オイ、だれか手を貸してくれ!うちの看板娘が撃たれちまった!』


 灰色のコートを羽織った私を帝国兵だと勘違いしたブルボン兵に、私は腹を撃ち抜かれた。


『ドクトル、彼女は助かりますか?』

『…応急処置は済ませた。今日、明日、あるいは1週間後は大丈夫だろう。だが血が出すぎているうえに薬も足りん。麻酔や消毒液もないから傷の縫合すらできんのじゃ。軍の病院なら何とかなるかもしれんが…』

『そんな…』


 慢性的な医療品の不足が祟り、応急処置はして貰えたものの、町一番の医者でも薬がないため手が出せない状況だった。

 皆が頭を抱えたその時、


『その話、少し聞かせてもらってもよろしいでしょうか』


 大量出血で苦しんでいた私を救ってくれたのは、染み込んだ血と泥でフィールドグレーの生地が半分以上黒く染まった軍服を纏う、陸軍衛生部隊の少尉だった。


『しょ、少尉さんが何でこんな所に…』


 予想だにしていなかった来訪に慌てる街の人たちに、ランベルトと名乗ったその軍人は落ち着き払って答えた。


『薄着でほっつき歩いていたせいで風邪を引いた、とかならともかく――あなたのことです、八百屋の親父さん――、戦闘に巻き込まれたことによる負傷、それも敵兵の誤認によるものとあらば、それは軍側の責任です。ノルデン軍の軍規にも明記してあります。



 ご安心を。彼女は責任をもって、ノルデン陸軍第6師団衛生部隊が治療しましょう。おそらく5分ほどで、私の部下がここにやってきます。彼女を、私たちに預けてください』


 口を真一文字に結び、傲慢さや自信過剰とはまた別の誇りを声に乗せ、彼はそう言い切った。


 それからほどなくして、担架を担いだ数人の兵士達――腕に赤十字の腕章を巻いていた――がどやどやとやってきて、応急処置を担当した医者の爺さんともどもベッドに横たわる私を野戦病院へと連れて行った。


『少尉殿、こちらが?』

『あぁ、処置はお前に頼むよ。俺は、まだ中間管理職としての責任を果たさなきゃならんからな。終わったら教えてくれ、アフターケアは俺の仕事だ』


 それを最後に私の体には麻酔が撃たれ、意識は闇の中へと沈んでいった。




『起きたか?お嬢さん。ここはノルデン北方方面軍第6歩兵師団司令所付の野戦病院だ。心配しなくていい、もう峠は君が寝てる間に越えたからな』


 私が目を覚ましたのは、翌日の昼だった。


 ランベルトと名乗った医者曰く、私がお腹を打たれた日はちょうどブルボン軍の総攻撃がピークを迎えていた時で、攻勢を跳ね返すことに成功したことで私を担ぎこむ余裕ができたそう。


『戦いはまだ続いているんですか?』

『戦闘自体はまだ続いているが、まぁ残敵掃討だ。気にすることはない、重傷者も治療し終えたし、死者の埋葬も済ませたからな』

『そうですか。そういえば、今は何日の何時ですか?』

『えーとだな…1940年5月6日、火曜日の9時半ごろだ。まぁ、しばらくネジを巻いてない懐中時計だから精度は甚だ疑わしいが』


 男女が一つ屋根の下二人きりだというのに交わされるのは色気もクソもない事務的な会話。初対面だからしょうがないとはいえ、名乗りくらいはしても良さそうなものだが、生憎とこの時の二人に一般常識を考える余裕はなかった。


『それじゃ、目も覚ましたことだし、駆け足で悪いが俺は行かなきゃならん。傷は何とかふさがったが、下手に動くと出血するからな?大人しく寝といてくれ、じゃなきゃ俺が始末書の山に殺される』


 そういって、彼はあっという間に天幕の中から出て行ってしまい、私は1人ポツンと天幕の中に残された。



『…その…なんだ、上司に追い返されちいまった』

『えぇ…』


 それから5分と経たずに、彼は気まずそうな顔をして戻ってきた。詳細は分からないが、天幕の窓からニヤニヤとした顔や必死でこちらの様子を聞き取ろうとする耳がチラついたり、怨念が具現化したオーラがしみ込んでくるあたり、変な勘違いをされたのだろう。


『『ハァ…』』と、2人そろってため息をハモらせながら、彼は地図を片手にコーヒーと新聞を差し出し、私もおとなしくそれを受け取った。


『そっちの地図の方が面白そうなんですけど』

『物好きなやつだなぁ…これはお嬢さんにゃ見せられたモンじゃねぇよ。なんせ軍機の塊だからな』

『むー…えいっ』

『わ、っちょ、軍機の塊だっていただろうが!』


『よくわかりません』

『そりゃそうだろ。ったく、心配した俺が馬鹿だったか…』


 なんだかんだ言ってガードの緩い彼の手から地図を搔っ攫ってみたものの、思ったよりは面白そうなことは書いていなかったのを覚えている。今にして思えば第6歩兵師団の戦略配置図だったのだろうが、当時の私にはちっともわからなかった。自己弁護にはなるが、書きつけの文字が猛烈に汚かったせいもある。


『うちの司令官殿は防衛戦の腕は悪くないんだがいかんせんそっちに才能を吸い取られちまったらしくてな、字が猛烈に汚いんだよ』

『それ会議とか成り立たなくないですか?』

『慣れた』

『えぇ…』


 断続的に砲声がこだまする野戦病院に、暫し2人分の苦笑が響いていた。



 それからというもの、数週間経って退院してからも私とその軍医の付き合いはダラダラと続いた。


『八百屋の爺さん、久しぶりだな』

『おお、少尉さんでねぇが!あん時はウチの看板娘がお世話になって…』

『あ、少尉さん。現場の方はもう大丈夫なんですか?』

『自分らで大丈夫だからって、副長格の准尉に叩き出された。ワーカホリックになるなだとよ』

『少尉さんも出来た部下を持ったなぁ。手放さないようにしてくだせえ』


『少尉さーん、差し入れです!』

『残念、中尉だ。ついさっき辞令が下ってな、昇進したんだよ』

『あ、そうだったんですね。おめでとうございます。あ、あとこれどうぞ』

『助かるよ。ウチの連中も甘味に飢えてるからな』


『そういや、お前猫人だったな。うちの斥候みたいに猫にはなれないのか?』

『やってみてもいいですけど…多分失敗しますよ』

『いいからいいから、やって見なきゃわからんだろ?』


 そうして何でもない日々を過ごしているうちに、私も気づかぬうちに私が見る景色に色が付き始めた。

 そしてある日、ランベルトにせがまれて数年ぶりの猫への変身を試みた私は、


『むむむ…うにゃっ!…にゃっ!?嘘…』

『ホラな?できたじゃないか。なんとなく俺も知ってるんだよ。なんせ、これまでたくさんの獣人の同僚を持ったからな』


 オーデルハイムに来てからすら一度もできていなかった猫化に成功したのだった。


(…ただ、できる限りなるなとは言うが、これからの人生、獣人ならだれもが一度は経験するんだ。モノトーンの世界をな。成長期みたいなもんだ、それ自体は気にしないでいい。ただ、肝心なのはそのあとだ。よく聞けよセシリア、もしお前の視界が奪われてしまったときは、再び色を付けてくれる人を探しなさい。たとえ男でも、女でも構わない。

それが、お前の運命の人だからだ)


 父に教わった、数世紀以上の間獣人に伝わる昔話を思い出した私は、


『す、す、すいません、私ちょっと用事がぁぁ~!』

『あ、っちょ、どこ行くんだ!』


 顔から火が出る思いで逃げ出したのだった。


『大尉、ステイ。これは上官命令だ。ひとまずすっこんでろ、この朴念仁』

『え、あ、はい、准将閣下』


なお、ランベルトは何かを察知した熊人族の師団長に首根っこを掴まれていた。




『あーもー、どうやって顔合わせたらいいんですかね、明日から…』

『こんなところにいたか、お嬢さん』

『うひゃあっ!?』


ヒトではありえない速度で場を逃げ出し、運河に架かる橋の下で丸まっていた私を見つけたのは、ランベルトを抑えつけた師団長だった。


『樫の葉…鷹の羽…って、将軍さん!?』

『あぁ、気にしなくていい。それより、うちの朴念仁がすまなかったな。どうもあいつは人づきあいが下手くそでなぁ…』

『い、いえ、そんなことは…それに、この話は人族では知ってる人は少ないですし』


基本的に運命の人云々の話は口伝で伝えられているので、獣人以外での知名度は驚くほど低い。その神秘性もあるが、何よりおとぎ話のようでありながられっきとした事実であるため、100年ほど後ならばともかく、広まることが少ないのだとか。


『で、だ。正直、アイツの事はどう思うよ?』

『どう、と言われましても…』


逃げ出したのは純粋に恥ずかしさからであって、少なくとも私が感じた限り、あの時の私と彼の間には恋愛感情は毛ほどもなかった…はずだ。


『正気か?うちの師団の8割くらいの人間は君たちがデキてると思ってるぞ?』

『うっ…そ、そんなことはないはずで…』


『非番の時はいつも二人で飯を食うし、暇さえあれば二人で楽しそうに笑ってるし、なんだかんだ軍務の時もちょくちょく二人で一緒にいるな。この前、アイツがこっそり宝飾店から紙袋もって出てきたのも俺は見てるぞ』


『…何も言い返せません』


訂正、これで何もないと言い張るには無理があった。


『まぁ、ゆっくり考えていけばいいさ。補給が尽きない限り、私たち第6歩兵師団は、恋する乙女の安全だけは保障しよう』

『将軍さんもなかなかロマンチストですねぇ』

『そうでもないさ。昔は色男で鳴らしたもんだが、今じゃすっかりリアリスト気取りのオッサンだよ』


ナイスミドルの片鱗を見せる師団長に元気づけられ、私はすっかり落ち着いてから中心街へと戻ったのだった。


『その…なんだ……ほら、退院祝い的なサムシングとしてだな…』

『………………………(フリーズ中)』

『おーい、帰ってこーい』

『大尉殿、さてはあなた天然タラシですね?』

『何でそうなるんだよ』


真っ赤なルビーの首飾りをプレゼントされた私は、頭から煙を吹いて倒れたのだった。




そして、月日は流れ1940年10月の終わり。


別れは突然やってきた。


『脱出計画…ですか?』

『あぁ。補給部隊の舟艇に紛れ、お前たちを連れてオーデルハイムの地下水道から本隊をデコイにして脱出する。窮屈な軍服を着てもらうことになるが…まぁ、勘弁してほしい』


言われるがままに灰色の軍服を羽織り、深夜9時頃、オーデルハイム最後の補給便となった舟艇の船団に私たちは乗り込み、オーデル川を渡る…はずだった


『兵隊さん!この爆発音はなんだべか!?』

『いかん、伏せろ!どこに隠れていやがった、クソッタレの砲兵隊が!』


脱出前に加えられた猛攻撃を偶然生き残った砲兵部隊が、私たちの船団に砲撃を仕掛けてきたのだ。


幸い、先頭を走っていた私の船は砲撃の第一波を免れたものの、だんだんと至近弾が増えてゆき、


『キャァッ!大尉…ランベルトさん!!!』

『セシリア!?クッソ、摑まれ!』

『ダメです大尉、あなたまで犠牲になっては!』


私は舟艇から放り出され、折からの雨で濁流渦巻くオーデル川に投げ出された。


それからしばらく記憶が飛び、気付いた時には帝都の運河の上部、木の板に乗っかてぷかぷかと浮かんでいた。


それからはまぁお察しの通り、一回の野良猫として終戦まで生き延びた。幸い、腐っても大国ノルデンの首都なだけあって、食べるものには困らなかった。

それから5年がたち、ノルデンが終戦を迎えても、その生活は変わらず、私もすっかりそれに慣れていた。


しかし、私の野良猫生活は突然終焉を迎えた。


『ん?なんだ、この毛玉は?』

『ギニャ!?』

『痛ってぇ!?』

『フー、フー…ウニャ?』


伸ばされた手を勘違いし、とっさに嚙みついた腕の先には、


『…嘘』


懐かしいあの人の顔があったのだ。

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書きも書いたり6,000字、超難産でしたが、お付き合いいただきいありがとうございます。

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