第27話

 歌への意志が不十分、言われなくても分かってる。それが最後のひと欠片のことだってことも。

 胸にあった染みが滴下してお腹に溜まったら、ぐつぐつ煮立って紫色の湯気が口から溢れる。でも唇を通過するそれが歌にならない。

 歩く。熱を放散するように歩く。いつもは持たないズックの肩紐を握って、強く握って。

 私が落ち着かない。さっきまであんなに自信に溢れていたのに、表裏を返したみたいに全部が自信のなさに塗り潰されてしまって、唇を噛む。

「私は不十分」

 ひと欠片が足りない。最後の一歩が。殆どの私は同じ方向を向いているけど、そのピースがないだけで全部がダメになってる。そんなこと思ってなかったのに、突き付けられたのはそう言うことだ。

 今度は歯を食い縛る。涙が出そうだから。

 私は半端。歌い手になり切れない。違う。なろうとし切れていない。それが、分かってる、それが、だから。

「悔しい」

 それが合図、涙が溢れ出る。でもよろめきながらも歩く。ズックの肩紐をぎゅっと握り締める。

 私は半端。分かってる。あと一歩が足りない。分かってる。

 私は歌いたい。そんなの当然だ。なのに歌に人生を預けることが、出来てない。言い訳なんていくらでも出来る。でもしても意味がない。足りないのは私の中のこと。分かってる。

 最後の一歩がどうして踏み出せないのかな。

 歩みを止めて蹲る。

 どうして、どうして。

 涙が地面に落ちて、落ちて、落ちて。

 私は半端。まるでニセモノって言われた。

「違う! 私はニセモノじゃない!」

 頭を振る。ピンクの髪から振り払うように、自分の中に黒煙のように満ちているものを、全部。

 でも、どうして、半端、分かってる、思い返す度に際限なく胸の内は黒々と染まる。それをまた放つために頭を振る。何度も何度も、小さなオブジェのようになって、繰り返す。

 黒は一向に消えないのに、何も納得していないのに、涙が枯れた。体とこころの内側でガビガビになって、内壁に沿うようにささくれた棘のように黒が一面に、乾いて立っている。

 しゃがんでたって何も変わらない。だからと言って動いたってピースが埋まる保証はないけど、立ち上がる。

 半端。分かってる。どうして。

 ぐるぐる考える。黒いトゲトゲに水を掛けて溶けた分で考えて、でも結局少し違う棘に精製され直すだけで、それを何度も繰り返して。

「ぐしゃぐしゃの顔してどうしたの?」

 声に顔を上げる。何も視界に入ってなかった。いつの間にかどこかの空間に入っていた。

「ピエロ……さん?」

「見ての通り、ピエロだよ。どうだい少し僕に付き合わないかい?」

 白塗りの顔、星と丸が左右の眼の周りに書き込まれていて、厚ぼったい唇、紫と黄色のもこもこの髪。ピエロ以外を名乗られたら気味が悪いいで立ちなのに、そう自己紹介をされると、収まりがよくて、その姿だけで私の頬が緩む感覚。でもぐずぐずした方がずっと多い。

「半信半疑の微妙な表情だね。じゃあ、まずはこれを見て貰おう」

 私の返事も待たずに彼は持ち手付きのヒモとお椀二つを高台でくっつけたようなものを、大きな四角いカバンの中から出す。

「これ知ってる?」

「知らない」

「これはディアボロ。コマってことになってるけど、ん? コマったことにはなってないよ? クルクル回して飛ばしたりするんだ。ま、見た方が早い」

 ピエロはコマを漕ぐようにヒモを使って回転させて、エイヤ、とコマを天に向かって短い距離投げて、受け止める。

「これから始めるのはね、簡単だからなんだ。ウォームアップに最適。さあ、次はもっと高く行くよ、エイ!」

 コマを眼で追う。取れるかな。

 ヒュッ、とピエロはキャッチする。

「簡単に見えるけど、結構ギリギリなんだ」

 私は黙って立ってコマを漕ぐのを見ている。さあ、次はもっと高く行くよ、ピエロの声にコマに集中する。

「エイ!」

 ぐーんと高く昇るコマ。空に消えそうなくらいに高い。

「僕を見て! クルクル回ってるよ!」

 一瞬迷ったけどピエロを見たら、バク宙をしている。

 え。回るってそっちの方向!?

 ピエロを見ているとコマが落ちて来て、着地した瞬間のピエロの脳天にスコーンと当たる。

「ところが髪に絡まってナイスキャッチなんだよね」

 言う通りコマが頭にくっついている。成功なの? 失敗なの?

 クルン、と頭を回転させると構えていたヒモにコマが収まって、また漕ぐ。

「さあ、次は本当のナイスキャッチだよ、エイ!」

 コマが勢いよく昇ってゆく。さっきよりも高い。今度こそ消えた。

「回転もお忘れなく」

 ピエロはブレイクダンスのように背中で回っている。そこからブリッジしてばいーんと立ち上がる。

「さあ上を見て」

 落ちて来るコマを認めた瞬間、ピエロがそれをキャッチする。

「大成功! 拍手!」

 気が付いたら手を叩いていた。

「もしよかったら、座って見ると楽チンだよ。次はね……」

 座った。ズックも横に置いた。

 ピエロが次の道具をカバンから取り出そうとする。

「イテッ!」

 え。

 ピエロが引っ張り出した右手の指にヘビ、のおもちゃが噛み付いている。

「こいつは猛毒! 噛まれた人はピエロになっちゃう! 噛まれたピエロはどうなっちゃう!?」

 走り回るピエロ。ヘビが引っ張られた分だけ伸びて、伸びて、え、伸び過ぎ。五メートルくらいになった。

「こいつは! エイ!」

 ピエロが大きく右手を振ると、蛇がピンクの棒に一瞬で変わった。

「干物に一丁上がり! でも、まだ長いね」

 右手を挙げて棒を立たせる。チカっと光ったと思ったら、黒いステッキになってピエロに握られている。

「さあ、始まるよ」

 ピエロは空間に丸を書く。書いたところから花がポン、と出て来る。五、六、七箇所から花が出て、ピエロの前に一列に並ぶ。

「お姉さんは、花は好き?」

「好き」

「まだあげなーい」

「え?」

「だーいじょうぶ。後ですっごいのプレゼントするから」

 ピエロが花の上をステッキで撫でると、落ちた花から芽が出て背の低い花を咲かせる。ピエロはカバンの中から頭くらいのボールを出して、花の一列の横に行って、ボウリング投げでボールを花に向かって放る。

 潰れちゃう。

 でも、花は潰れない。押し上げるように花の上をボールが転がって、最後の一花でジャンプして、カバンまで飛んでその上に落ちた、と思ったら、そのままスッと消えた。

「頑丈な花でしょ? 次はお待ちかね、ジャグリングだよ。難易度を選んでちょうだい。難しいか、超難しいか、超絶難しいか」

「超絶難しい」

「いい根性だね。じゃあこいつでやってみようか」

 ピエロはカバンの中からチェンソーと刀とアカリンゴを出す。チェンソー?

 ブルルンと動き出したチェンソー。

「私、ちょっと離れていい?」

「いいよ。なんたってチェンソーだからね、失敗すればどちらかが傷付くじゃ済まないね」

 大股で五歩退がって、逃げられるように立ったまま見守る。

 抜き身の刀はぬらぬらと怪しく光っているし、チェンソーは元気に刃を回している。アカリンゴまで平和なアイテムに見えなくなって来た。

「じゃあ、よ、ほ」

 軽快にピエロは始めて、安定感抜群で三つをジャグる。

「余裕でしょ? でもここまでは難しいレベル。じゃあ次は超難しい行くよ」

 ピエロがくるんと回転する。普通のスピン。

「普通の回転だけー?」

「言うね!」

 そこからピエロはバク宙をして見せる。彼は何に命を掛けているのだ?

「こっから超絶難しい! 失敗したらお姉さん責任取ってね!」

 バク宙が終わって、ピエロはアカリンゴを日本刀で切る。つまり四つに増えたものをジャグりながらまた日本刀でアカリンゴを切って、また回して、また切って、手がもう何やってるんだか分からない。

「フィニッシュ!」

 全部を高く高く放る。

 最初に落ちて来たチェンソーのスイッチを切って、そっと置く。

 次に落ちて来た刀を納刀して、脇に置く。

 掌に息をフッと吹き掛けたらそこにお皿が出て、アカリンゴをそこに受けてゆく。一つ二つ……あ!

「入り切らない!」

 最後のアカリンゴを口で受ける。それをシャリッと噛んで皿と反対の手で持ち、掲げる。

 夢中で拍手。

「すごい!」

 見ている最中に何も考えられなかった。

 ピエロは満面の笑みで、一礼する。

「もう側に来ても大丈夫だよ」

 私は言われた通りに近くに行く、彼と話をしたい。

「全部忘れて夢中になった」

「至上の言葉だね。いい顔になってる。これも最高のご褒美」

「私、くさくさしてて。あの、立ち入ったこと訊いてもいい?」

「僕でよければなんなりと、あ、アカリンゴ食べる?」

 皿をずいと出されて、反射的に八つに切られたアカリンゴの一切れを取る。噛んで食べ終わるまで彼は首を左右に平行に振りながら数を数えていた。

「さて、何でしょう?」

「どうしてピエロになったの? あれだけのことが出来るのなら何にでもなれそうなのに」

「僕は最初から何にでもなれたし、今だって何にでもなれるよ。でもそれは誰だってそう」

「私も」

「もちろん。でもそっから先が大事でね。何になるかを決めるのは二つの方法しかない」

 ピエロは指を二本立てて首を気持ち傾ける。

「二つ」

「そう、二つ。一つは自分が何者であるかに気付くこと。もう一つは、自分で何者になるか決めること。それ以外では、環境とか他の人とかによって決められた自分に従うしかない」

「三つじゃないの?」

「三つ目は、決めてなくて、決められてる。まあ、そう言う意味では一つ目も決められてるけどね。自分とは言え」

「それで、どっちだったの?」

「自分で決めたんだ。僕はピエロが好きだし人が笑ったり喜んだり驚いたりすることが大好きだ。他の何だって僕のこの欲求を満たしてくれるものはない。ピエロに到達するまでは迷子に大分なったけど、それはいいとして、僕は自分がピエロだと気付いた訳じゃない」

 迷子になったんだ。

 私は拳をぎゅっと握る。

 ヘラヘラした雰囲気のままなのに、言葉が真剣で、だから彼はすごいピエロになったのだ。

「あなたはすごいと思う。すごいのに、あぁ面白かったで、もしかしたら忘れられてしまうかも知れないことをしているのが不思議」

 ピエロは初めて小突かれたような顔をする。少しだけ考えるような表情をする。

「あぁ面白かったで終わる体験ってのは、痛みを癒す余暇になる。あぁ面白かったで終われない体験ってのは、人生を動かす芯になる」

「芯」

「僕は優劣はないと思っている。そして僕は人生を懸けてピエロをやる」

「余暇を生む」

「どっちだって選べる。君は君のしたい方をすればいい」

 私は。

 私は選べる。

 私は芯がいい。コダマにされたことを、私もしたい。余暇にはなりたくない。

 私は、私のなりたい何者かになれる。でも、選ばなければ何者でもない。

「私は自分が何者になるかを決め切れなかった。それは、最後のひと欠片分は、外からは絶対に貰えないから」

「その鍵だけはいつもハートの形をしているよ」

 ピエロは胸を押さえる。私も真似をして自分の胸を押さえる。

「私、決めれそう。ありがとう」

「はい、その笑顔が約束の大輪の花。笑って別れられるのが僕にとっては最高のご馳走だよ」

 私は笑っていたらしい。でも、それはきっと嘘じゃない。

「じゃあ私、行くね」

「バイバーイ」

 少し進んで振り向いたら、まだ手を振っていてくれていた。私も振って、暫く行ってから振り返るともうピエロはいなかった。胸の中にあった黒い棘がもう見当たらない。裏表はまた元に戻って、でも私がしなきゃいけないことはもう分かったし、それが達せられないことを悔やむよりずっと、ハートの鍵を開けることを考えていたい。

 もう少し。本当にあともう少し。私の準備はもう殆ど出来ている。

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