第16話
アカネコは夢の宣言通りに来ないし、てんとう虫も眠ったまま。私は月だけを頼りに進む。
胸の中にまだ涙が少し残っている。それが乾くまでは喋りたくない。
スカンクも何も言わずに私の進路に付いて来る。
足音だけが夜に響いて、空も月も周りも一定で、同じところをぐるぐる歩いているみたい。
そうなのかも知れない、涙も乾かないから。
それでも歩く。
長い時間を沈黙のまま歩く。
何も変わらない。
スカンクを見ると、平気そうな顔で歩いている。私は違う。
「スカンク」
「どうした?」
「ちょっと休憩しよう」
「いいぜ」
その場で座って、ズックを下敷きにして体を伸ばす。
スカンクが水筒から水を飲んでからお腹をさする。
「昼飯にしないか? 大分腹が減った」
「賛成」
ホットドッグはおいしそうで、生唾を飲み込んでからかぶり付く。
「スカンクは旅の途中で、ずっと次の場所に着かなかったことってあるの?」
「ないな。いずれは着く」
「そう言う可能性を考えたりするの?」
「そりゃするさ。でも俺は大丈夫だって最後のところで信じてるから投げやりにはならない」
「どうして信じられるの?」
「俺は旅人だから」
ホットドッグを食べ終えてからスカンクは言葉を継ぐ。
「それで十分」
「そっか」
私も残りのパンを食べる。水を飲んでいたら、長らく眠っていたてんとう虫が目を覚ました。
「スカンク、追うよ」
素早くズックを背負って、ふらふら飛ぶてんとう虫を付かず離れず追いかける。
止まったのはコンクリートの壁。小さなビル。天井の辺りから湯気のような煙のようなモヤが立ち上っている。
てんとう虫をブローチ台に戻して壁に沿って行くと鉄製の扉。ゴツゴツした形と所々の錆の色が物々しい。
拒否されているみたいでノックしようとした手が止まる。スカンクの顔を見そうになって、違うよこれは私の旅だ、扉を叩く。
厳かに開いた隙間から、若い男性が姿を現す。黒い手術着のような服を着ている。手は素手。
「何か?」
「何をしているのですか?」
「知りたいのですか? では、中へどうぞ」
男性は私たちが中に入るのを待って、しっかりと扉を閉じ、鍵をかける。
促されて建物の奥に進むと、大きな、牛が一頭入りそうな鍋を同じ服を着たおじさんが棒でかき混ぜていた。
「先生、お客さんです!」
「今は手が離せないからお前が相手をしなさい」
わかりました、とおじさんに言って男性は私たちの方に向き直る。
「ここは研究所です」
「何の研究をしてるの?」
「今、先生は、確率を煮詰めています」
「煮詰めるとどうなるの?」
「材料とレシピによりけりですよ。先生がしているのは新しい組み合わせですから、煮込みが終わらないとどう言う結果になるかは分かりません」
「分からない」
「分からないから研究するんです」
大鍋を見ると湯気が上っていて、それが吹き抜けになっている天井を通過して、きっと外まで出ている。
「あの湯気は?」
「確率が固まるときに出るエネルギーです。通常は過去を固めることに消費されます」
「どこから確率が来るの?」
「あらゆるところから」
あらゆる。
「私にも確率があるの?」
「ありますよ、もちろん」
「取り出すの?」
男性は驚いたような困ったような顔をする。
「取り出しません」
「どうして?」
「確率を抜き取られた生き物は過去だけになります。人間にそんなこと出来ません」
大鍋を見る。あれいっぱいの確率は何に由来しているのかな。男性もスカンクも一緒に鍋を見る。おじさんは一生懸命かき混ぜている。
「あなたも彼と同じくらい、研究に没頭しているのかな」
「それはそうですね」
「きっと確率を抜かれた犠牲と、捧げる時間とか労力とか、研究ってそれだけの価値があるの?」
「研究の価値を決めるのは、社会的なインパクトでも発見の新規性でもありません。研究者が渇望している真理が導かれるかだけです」
「歌に似てる」
男性は眉を顰めて黙った。
おじさんはかき混ぜ続けているけど、多分本人もいつまでそれをすればいいのかが分からない。混ぜた先に自分が欲しいものがあるかも分からない。ある程度の予測が付いたとしても、結局のところ完成してみないと何が生まれるのかは分からない。だけど、渾身の力を持ってそれをする。
「先生」
おじさんに声をかける。
「何だ? 今は忙しいんだ。今度にしてくれ」
「頑張ろう、お互い」
「あ、ああ。頑張ろう」
案内をしてくれた男性にも同じことを言う。
「はい。頑張りましょう」
退館票を貰って、研究の結果を待たずに鉄扉から出る。扉が閉まってから上を見るとモヤはまだ出ている。あの下ではおじさんがかき混ぜているのだ。もしかしたら若い方に代わっているかも知れない。
歩けば研究所は消える。
「ねえスカンク」
「なんだ」
「歌と似ているものって、たくさんある」
「俺は旅と似ているものだったらよく見付けるけどな」
「あの二人は研究の仲間だよね」
「そうだな。師弟っぽさはあったけど、仲間だな」
「私も歌の仲間が出来るかな」
スカンクは応えなかった。
いつの間にか胸の涙が乾いている。顔を上げると月がもう少しだけ膨らんでいた。
いつもよりゆっくりと歩く。
「ねえ、スカンク」
「なんだ」
「私の確率は乾いてない」
「そうだな」
「でも少しずつどこかに近付いて行くんだよね」
スカンクはちょっと考えてから、そうだな、ともう一度言う。続きを促すような、そうだな、だった。
「どこに行くのかを私が決めるのに、確率って、変だよね」
「違いねぇ」
スカンクは言いながら笑って、つられて私も笑う。
ひとしきり笑ったら、いつもの速さで歩き出す、月の方へ。
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