第6話
階段の下と上で何も変わらない。道があるから歩いているのかな、歩いているから道なのかな。認識出来ない距離に囲まれたまま、私の前に進む。
おなかが空いた。座って、ズックから缶詰を一つとパンを出して食べる。
食べたら仰向けになる。少し休もう。
コダマの日記はいずれ読む日が来る。彼女は一人でこっちの世界を旅したのかな。それとも仲間と? どっちだとしても日記は一人で書いた筈だ。私も日記を書こう。ノートがちょうど一冊ある。……一日の終わりじゃなくても書いてもいいよね。
ズックからノートを出したら、身分証を貰ったこと、図書館、時計台、掃除屋、順に記していく。今、自分が階段の上のどこかで書いていることも。
「これでよし」
ノートをしまって、改めて横になる。全然眠くない。体力が減っている感じもない。
でも横になることが必要な気がして、三十分くらいそのままでいた。日記に書いたこととか、コダマのことを考えた。今に繋がるものってのは未来にも繋がるみたい。
起き上がってズックを背負って、また前へ行こうとしたら空間が揺らいで、キャベツ? の畑が一面に広がった。今いた場所は畑の真ん中に一本通る道になって、どっちを向いてもキャベツが青々と実っている。
「すごい」
まるで地平線まで全部がキャベツのよう。
民家はなくて、カカシもない。でも道はあるからそこを歩く。
しばらく行くと、農夫が道の端に腰をかけてキセルをふかしていた。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは」
「ここはキャベツ畑ですか?」
「惜しい。キャベツの仲間のミドリキャベツだよ」
キャベツと何か違うのかな。
「ここで何をしてるんですか?」
「もうすぐ来るから、待ってるんだよ」
農夫はそう言うとキセルで左斜め前を指す。そっちを見ても何もなくて、空ばかりが青い。
「何を待ってるんですか?」
「虫様だよ」
「虫、様?」
「来れば分かるよ」
農夫はそう言うと、彼の右の場所を手でポンポンと叩いた。そこに座る。虫様について訊こうと思ったけど、彼は何も言わないでずっと遠くの空を見て、キセルから煙を吸い込んでいるから、黙って待つことにした。
ミドリキャベツと空のコントラストは眼に強くて、何回も瞬きをしながら待つ。
五分としないところで農夫が、ほら、とさっきと同じ場所をキセルで指す。
「いらっしゃった」
「あれが」
虫様は、でかかった。でも、羽があったり甲殻だったりじゃなくて、青虫だ、形は。色は空に溶け込むような青。模様はないみたい。大きな口でミドリキャベツを丸ごと同時に何個も食べながら、こっちに迫って来る。
「お兄さん、食べちゃわれない、私たち?」
「大丈夫だよ」
当初の勢いを徐々に緩めて、虫様は農夫の前で止まった。何を考えているのか全然分からない。
「虫様、どうぞ、今年は豊作です」
そう言うと農夫はすぐそこに生っているミドリキャベツを一つもいで、畑の方に投げた。
虫様はそれを合図に畑の中を這って行き、虫様が通った後にはミドリキャベツは一つも残らない。虫様は広大な畑を縦横に食べ歩く。
「この畑は虫様のための畑なんだよ」
「この広さが、全部?」
「そう、全部。全部食べたら虫様は帰る」
「帰ったらどうなるんですか?」
「また来年来るよ」
「それまでの間の、虫様は?」
農夫が煙を吸うだけの間。考えてない顔。
「それは分からないよ」
「分からない」
「分からないけど、そうやって付き合う、虫様とはそうするんだ」
虫様はミドリキャベツを食べ這っている。遠くの方まで行って、戻って来る。私が黙っている間、農夫が黙っている間、虫様は休むことなく食べ続ける。
「ずっと、虫様のためにミドリキャベツを作ってるの?」
「ずっとじゃないよ。先代から七年前に引き継いだんだ。次の人が来るまでは僕がする」
「次の人?」
「君がしてみる?」
横顔のまま言う彼は冗談めかしてなんかいなくて、だから真剣に応える。
「私はまだ進むから、しません」
「そっか」
また彼は煙を吸う。残念とかがっかりとか、そう言うもののない淡白な表情。吐き出した煙が空に消える。
「君はお金を持っているかい?」
「ここに来るときに全部、渡しました」
「それが正解だよ。つまり君は向こうの世界から来たんだね」
「そうです」
「僕もそうなんだ」
時間が止まった、いや、虫様は食べている。私が止まった。
「僕は向こうの世界で金貸しをしていたんだ」
忘れていた紙幣の手触り、コインの重みが指に掌に蘇る。
「金は価値と言う概念を実体化させたものだと信じていた。僕はめちゃくちゃに稼いだんだ。稼いで稼いで、満たされない、そしてある日気付いたんだ。金に反映されてる価値ってのは、一部でしかなくて、僕が欲しかったのはその一部じゃない方だったって」
「お金に反映されない、価値」
「そう。途方に暮れたとき、旅人の親友が街に寄港した。彼は次の旅は世界の向こうに行くと言った。僕は一緒に旅をしたいと彼に頼んだ。そしてここに来たんだ」
「親友の人も、ここにいるの?」
農夫はゆっくりと首を振る。何かが彼の顔に残っているみたいに。
「僕はこっちの世界に入るときに、金を持ち込んだんだ。こっそりと。僕はそのせいだと思っている、あるところから先に進めなくなった」
「捨てればいいんじゃないのかな」
「捨てられないんだ。捨ててもいつの間にか戻ってるんだ。でも、渡すことは出来る」
「どうして知ってるの?」
「先代から渡されたんだ。だから僕は二人分の、もしくはそれ以上の金を持っている。次の誰かが来たなら、僕は金の全てをその人に渡して、どこかに行けるようになる」
「それで親友の人と別れたんだ」
彼は頷く。その背景で虫様が走っている。
「彼は旅人だから、留まれない。でも、僕はミドリキャベツ作りを嫌々やってる訳じゃないんだ。価値のありかってのは分からないものだね」
「その親友の人にも、私会うのかな」
「会う」
「どうして?」
「彼の名前を聞いたら、それが道標になるから」
「その前にお兄さんの名前を教えて」
彼は初めて私の方を向いて、嬉しそうに笑う。
「僕はユキ」
「ユキ」
名前を呼ばれて彼はもっと嬉しそうに、キセルをぐっと握り締める。
「彼はスカンク。旅人のスカンク。僕の親友、スカンク」
「変わった名前だね」
「本名じゃないよ。彼はずっとそう名乗っているから、こっちの名前が彼のものになったんだ」
私はちょっと俯いて、足の先にあるミドリキャベツが目に入る。あれもいずれ虫様に食べられるのかな。でも、もし私が今拾い上げれば全く違う運命になる。本名と違う名前を名乗るって、そう言うことなのかな。
「だから彼はスカンクなんだ」
ユキがユキじゃない名前を名乗ったら、ここから出られるんじゃないのかな。でも彼はそれをしないでミドリキャベツを作っている。虫様のために。きっと旅人じゃない、ユキのために。
「私は」
少しだけ涙がハートに浮かんで、言葉を切る。
「君は」
どうしてなのかな。でも。
「私は、アカネ。ずっとアカネ。これからもずっと」
自分の名前が呼ばれたときよりも、朗らかにユキは笑う。もう行かなくちゃ。
「ユキ、ありがとう。私、行くね」
「うん。じゃあね。あっちが前だから、あっちに行くといい」
「分かった。じゃあね」
ユキは座ったまま私を見送って、私は振り返らずにミドリキャベツ畑を貫く道を歩いた。虫様は食べている。虫様の気配が遠ざかって行くのを感覚で追って、それが途切れたとき、畑から外に出た。戻ればまた入れる三歩、迷わずに進む。
「私は、アカネ。ずっと」
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