第5話
石段を登る。相変わらず左右に何もないけど、二百段を越えた辺りでゴールが見えて来た。
汗が出て、ズックからスポーツ飲料を出して少し飲む。あっちの世界の味。
この上には何があるのだろう。登った先に何があるか分からないまま何かを登ったことってあったっけ。
あと少し、一歩、一歩、頂上に近付くに従って、見えて来ない。
何も見えない。
下で道を歩いているときと同じ。それはそうか。だから、前に進む。
こっちの世界に来たこと自体が、分からないままに登ってること。
左胸のブローチ、三ツ星てんとうがぶるる、と揺れて、飛ぶ。ゆっくりと行くから、きっとこれが通行証としてのブローチだから、追いかける。左斜め前にしばらく進んだら、灰色のビルが現れた。
ビルを認識したらてんとう虫はブローチ台の上に戻って、静かになる。
ビルを見て、てんとう虫を見て、もう一回ビルを見る。近付くと押し戸があって、何も表札はなくて、ノックしても返事がない。
入ってみよう。
戸を開けて中に入ると、そこはオフィスで、十人以上の男女が紙を右に左に分けては、しまっている。入り口に突っ立ったまま作業を見ていたら奥の方から男の声が掛かる。
「おい、来客だ。誰か対応しろ」
誰も手を止めない。
「仕方ないな」
男が私の方にずんずんと近付いて来る。事務仕事の男女は全く反応しない。私の目の前に来た彼は楕円だった。
「こんにちは。すいません、皆忙しくて」
「こんにちは。お構いなく」
「どう言ったご用件でしょうか?」
「たまたまビルがあったから入っただけで、用は特にないです」
男は不思議そうな顔をする。
「じゃあ、ここには興味がないと?」
「興味はあります」
男がニヤリと笑う。
「じゃあ、用があるね。興味があるってのは用として十分じゃないか」
そう言うものだろうか。それならそれでもいいけど。
「ここは何をしてるんですか?」
「見ての通り、仕分けだよ。ファイリングをするのがここの仕事さ。直に見ながら説明しよう、こっちへ」
男に導かれて一人の男性が仕分けている横に立つ。
「案件は二種類に分けられる。だからまずその二種類に仕分けるのをしなくちゃならない。その二つは何だと思う?」
「面白いものと、つまらないもの?」
「うん、いい視点だけど、主観が入り過ぎる。ここではね、過程のものと結果のものにまずは仕分けるんだ」
「過程と結果」
「そう。全ての事案はこの二つに分けられる。過程のファイルは次に取り出すときは続きをするときで、結果のファイルを取り出すときは、新しく始めるときだ」
ん? 違いが分からない。
腕を組んで考える私を見て、男が何かを理解したように頷く。
「それも主観だと言いたいのだろう?」
違う。横にいる男は紙を読み込んではファイルに入れる。それを淡々と繰り返している。このビルでは上の階でも同じことをしているのかな。
「その通りだ。でもこの主観は必要なんだ」
「どうしてです? 二つの、過程と結果のファイル、取り出すのなら同じにしか思えない」
「もちろん、取り出さないのなら、過程のファイルは取り出される予定があり、結果のファイルはその予定がない。その通りだ。でもどちらのファイルも取り出すんだよ」
「じゃあ分ける必要はないと思います」
「それが必要あるんだよ」
男は両手を左右いっぱいに開いて、右と左の掌を順に覗いてから、もう一度私を見る。二人の声以外は紙の擦れる音とときに書類を整える音しかしない。
「これくらいの差がある。でもこれだけの差だ。過程か結果かってのは、主観がどう名乗るかの違いなんだ」
「決めた人が、そう決めるってこと?」
「そうだ。これはまだ途中だと決めれば過程。もう終わりだと決めたら結果。いずれにしても続きが発生したときには参照されることは同じ」
「じゃあ、どうして分けるの?」
「How分けるのどうしてなら、ここでしている通り担当者が分ける。Why分けるのどうしてなら、そうやって整理をつけて、次に進むためだよ」
担当者たちの姿を見直す、彼らの真剣さはつまり彼ら自身の案件を扱っているのではなくて、他の誰かのそれをやっているから。そう言うことなのか。
「誰か依頼をした人の、整理し切れないものを、代わりに仕分けしているんですね」
「その通り。今を邪魔する過去をファイリングすることで掃除する、それが私たちだ」
男が自信に満ちた顔で胸を張る。自分の過去の整理を他人に任せていいのかな。でも、可能な限りアウトソーシングが進むのが文明だから、方法があるならやるのかも。どっちにファイリングされたとしても今に必要なら引き出されるし、そうじゃなければ放置される。だから、過去のために使うエネルギーを他に回すと言う発想は理解出来る。理解出来るのだけど、でも。
「自分の今に繋がるものは、自分で納得して処分しないといけないんじゃないですか?」
「その点は大丈夫だ。今に繋がるものは、ファイリングされても必ずまた引き出されるから」
「必ず?」
「必ず。今に繋がると言うのはそう言うことだから」
じっと私を見る。まるで値踏みするよう。男はニコリと笑う。
「ここでしていることは、伝わったようだね。他に質問は?」
「ないです」
「じゃあ退館票を発行しよう。身分証を見せて」
退館票には掃除屋一三二九と書かれていて、ファイルとか仕分けと言う名ではなかった。
ビルを出て、その周りを歩きながら窓の中を見たら、さっきと同じ光景で、男も何かの紙を真剣に読んでいた。ちょうど半周したところにもう一本、道が敷かれていたからそこから出ることにする。
少し歩いて振り返ったらやはりビルは消えていて、これまではそのまま離れたけど逆に近付いてみる。けれど、ビルは現れなくて、そのまま進むとビルがあった筈のところまで道が続いて、多分今私がいる辺りにあの男が座っていた筈なのに。てんとう虫も何も言わない。
踵を返して、行こうと決めた方に踏み出す。
このビルは、掃除屋は、私の今に繋がらない過去なのかな。でも彼の言うように必要になればきっと思い出すのだろう、ファイルから取り出されて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます