第3話
てんとう虫のブローチはそのまま黙ったままで、生きてるのかな、つついてみても反応はない。必要だと言っていたし、このままブローチでいて貰って、進もう。
周囲の透明は、沈黙している訳ではないよう、だけど音としては聞こえない。本当はものすごい、市場みたいなところの中を歩いているのかも知れないし、ジャングルの中なのかも知れない。けど、今は分からない。
伸びをぐーんとする。空が視界の全てになる。
「通行証って言うくらいだから、いろいろが待ってる」
胸の中に沸き立つものが笑みに出る。
姿勢を戻すと、進行方向の空間が揺らいで、開けたところにネコが横向きにちょこんと座っていた。トマトジュースみたいな赤に、空の青いブチ。揺れる尻尾の先も青だ。顔をこっちに向けてエメラルドみたいな緑の眼でじっと私を見ている。
「赤いネコ。……アカネコだ」
アカネコは私を見詰めたまま、どうしよう、触れてみよう。
近付いて行っても全然アカネコは動じずに尻尾を振っている。撫でさせてくれるのかな、思ったあと三歩の距離で、くるりと後ろを向いてすたすたと歩いて、認識出来ない範囲の中に消えてしまった。
「あとちょっとだったのに」
アカネコの方面にも道がある。これまでずっと直進だったところから逸れるけど、その道を行くことに決めて、アカネコを追うように少し早足にしたけど尻尾も見えない。「アカネコ」、呼び掛けてみる、返事はない。そう言えばさっきも鳴いたりしなかった。
道は相変わらずで、ネコに導かれるお話って幾つもあるけど、イヌに導かれる話は少ないな。イヌは不思議には繋がらないのかな。私はアカネコに導かれている? それともそっちに進むのだって私が決めたこと?
「答えは分かってるよ。私の道は私が決めてる」
ほんの少しさっきよりも胸を張って歩く。
突然、ドアが現れる、その左右を見れば焦げ茶色の壁もあって、上を見たら二階建て。認識の外から内側に入って来た、塗り絵で塗った場所だけが存在するみたいに建物が視線の広がりと一緒に姿を現すのは不思議で爽快。表札があって、「図書館」と書いてある。
ドアを開けると中は薄暗くて、がらんどう。本なんて一冊もない。正面左右に螺旋階段があるだけ。
「お客さん、本は二階ですよ」
階上から若い男の声、階段を上る。二階にはドアが一つだけ中央にあって、そこを開ける。
「ようこそ、図書館へ」
スーツ姿の男の横には、一冊だけ本が、左右をゴージャスな鳳凰のブックエンドで挟まれて立っている。
「図書館って、本は一冊だけなの?」
「そうですよ」
「それでいいの?」
「いいんです」
納得がいかない、それが顔に出たのだろう、男がちょっと困った表情をする。
「僕は司書。役職が力を証明はしないけど、その役職をしたいと思う程には本のことを想っている。君はどれくらい本を想っています?」
「本で想うことはあるけど、本を想うことはないかも」
「本を想うとですね、この世界には余計な本が溢れていると言うことに気付くんです。なくてもいい本ばかり。それを削いで、削いで、削ぎ落として行く内に、この世に必要なただ一冊の本に到達したんです。だから、あとの本は全部燃やしました」
愛が強くなる程嫌悪も激しくなるのかな。思いながら、その一冊から眼が離せなくなる。他の全てを灰にする程の価値がある本。
「その本、読んでみたいな」
「図書館ですからね、もちろんいいですけど、まずは入館票を書いて貰います。身分証はありますよね?」
「あります」
財布から出して見せると、彼はふんふんと言いながら別の紙に私の名前を書き付ける。返された身分証兼通行証を財布にしまって、じゃあ、と手を伸ばそうとすると、ちょっと待って、と制される。
「どうして?」
「覚悟をちゃんとして下さい」
「必要かな?」
「だって他の本が必要なくなっちゃうんですよ?」
「それならそれでいいと思う」
「この本の著者が誰かわかりますか?」
「全く分からない」
「あっちの世界から来たなら絶対知っている人ですよ」
「え、あっちの世界の人が書いた本が選ばれたの?」
男はくふふと笑う。本の良し悪しに世界の貴賤はないですよ、と嬉しそうな顔。当てられますか? きっと当てられますよ。勿体ぶらずに読ませてくれればいいのに。私は見えないように小さなため息を
「有名な人?」
「有名です。ですけど、政治家とか宗教家ではないですし、大学の先生とか商売人でもないです」
「男? 女?」
「それは……、大ヒントですね、女性の方です」
「遠い昔の人? 今も生きてる?」
「生きてます」
「zarameのコダマ」
「正解」
そうであったら嬉しいと、ハズす覚悟で言ったのに当たったから、でも、いや、コダマなの? 急に心臓がドキドキして、そこにある一冊を手に取ることに覚悟が必要なことに納得した。コダマはこっちの世界に来ていた。そしてあっちに戻った。もしくは行き来している。私がしていることと彼女がしていることは重なっている。
「本当に、まさか、コダマなの?」
「本に嘘は
荘厳なブックエンドの間から引っ張り出したのは、本と言うよりもノートだった。厚さはそれなりにあるし、ハードカバーだけど、背表紙には何も書かれてなくて、表紙を捲ると二本の離れた線の間に「コダマの日記」その下にコダマのものであろうサインがしてあった。
「司書さん、これ日記だよ?」
「そうですよ。日記だって立派な本です」
「これに全ての本を合わせた以上のことが書いてある。それって答えがあるってことだよね」
「そうですね」
私は「コダマの日記」と書かれた中表紙をじっと見詰める。
「どうしたんですか? 読まないんですか?」
促す彼を無視して、私はコダマのサインを睨み付ける。
「そこには何も書いてないですよ?」
「書いてある」
「え? 本当ですか?」
「コダマの意志がここに書いてある。コダマは読めと言ってない。読むなとも言ってないけど、私は、この本をまだ読んじゃいけない。コダマの声なら分かる。私はまだこれを読むところまで来てない」
本を閉じて、ブックエンドの間に戻す。
「いずれ読めるようになったらまた、来るよ」
司書はそう驚きもしないで、頷く。
「それも本との関係の形です」
「じゃあ、私は行くね」
「あ、退館票を持って行って下さい」
「退館票?」
「ここに来た証明のようなものです」
彼は入館票から何がしかを書き写した紙を私に渡す。そこには「図書館三六二一、アカネ、退館」と書かれていて、私は財布にそれをしまう。彼は部屋から出ずに私を送り、螺旋階段を降りてドアから出て、三歩進んで振り返ったらもう、図書館は消えていた。
コダマの著したものに興味がない訳じゃない。でも、私は彼女を追いかけてもいるけど、それは並ぶ予定のある追っかけだ。だから、その日が来るまではあの日記は読んではいけない。覚悟よりもそう言う確信の方がずっと強くて、それが今も胸の中に残っている。図書館に入る前よりもずっと、瞳に炎が宿っていると自分で感じる。
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