第2話

 一歩目を確かめてから二歩目を出して、三歩目からは歩くことから意識が外れた。

 認識出来ない場所の中に入っても、周囲が全部消えると言うことはなくて、振り返れば濃緑のビルも通って来た道もちゃんとあるし、前には遠くの方に空と雲のビルもある。中間的距離だけが隠れている、何かに。劇的な境目をちょっと期待していたけど、地続きなことに安心してもいる。

 真っ黒なスニーカーが足跡を残す、道はあるからそこを進む。後ろの世界は振り向く度に小さくなるのに、あっちにある景色は全然変わらない。行こう、どんどん。しゃんと背筋を伸ばして歩けば、zarameの歌、「blue sunny」が唇から零れる。

 何も変わらない。

 同じ景色。

 濃緑のビルが消えた、物理的に見えなくなったんじゃなくて、隠れるべき距離になったのだ。

「どこまで行っても同じ、な訳ない、きっと」

 リズムよく足を出して、歌を歌って。陽はまだ高い。

 歩く。歩く。

 全周が認識の出来ない何かにもう取り巻かれている。でもそこに敵意とか悪意とか、そう言うものは感じなくて、足許にある道こそが進めのサインだから、歩く。

 どっちを向いても何もない。歩いているのに動いていないような気がする。ずいぶんその状態のままでいたら、急に自分が独りであることが分かって、このまま独りのままなのかも知れなくて、まだ戻れる。

 私は立ち止まる。

「どうして、戻ることを考えたの?」

 それはちょっとしたこころの影の言葉だったけど、もしかして。

 もしかして、私、行くことに不安を持ってるの?

 さよならした世界に、後ろ髪を引かれてるの?

「そんなもの、今全部捨てる」

 髪を振り乱して、声の種を頭から無音で発散するように、髪のピンクが飛び散るように。

 消えない。この気持ちは、私にへばり付いているんじゃなくて、私の中にあるものだ。そうだ、コダマが歌っていた、「こころを切り分けても、同じこころにまた、なる。こころをり集めて、やっと、笑おう」、私がしようとしていたことはこころを切り分けることだ。でも、縒り集めるってどういうこと?

 上を見上げる、空がある。

 下を見れば地面がある。

 空と地面の間に私。見えない何かに包まれている。

 私。

 私がここにいる。私はここにいる。

 遠い遠い空と雲のビル。よく見ると中の雲は動いている。きっと目指す先はあっちで、それを見ているのも私。

 足許を後ろに辿れば微かに足跡が見える。反対を向けばまっさらな道。私は道の途中で、それを感じているのも私。

 背中のズックの重み、意識を向ければかいている汗、それを知るのも私。

 世界の外に行きたい。だからここまで来た。私を突き動かす情熱も私。

 だから、元の世界に帰りたいとほんの少しだけ思っているのも私。

「コダマ、こういうことだね」

 全部含めて私のこころ。私は私の弱気を認めて、縒り集まった全てのこころの上で、また新しく決めればいい。

「だから私は、世界の向こう側に、それでも、行きたい。行く」

 言葉が体から離れた途端、右側の空白が揺れて蒸発するみたいに消えて、そこに黒のシルクハットにタキシードの男性が現れた。

「ようこそ、こちら側の世界へ」

 一瞬身構えたけど、一礼する彼に反射的に会釈をした。

「何が起きているのか、と言った顔ですね。皆様そういう表情をされます。説明しますか?」

 言葉の意味を咀嚼するのに少し時間がかかった、彼はじっと待っていた。

「お願いします」

「はい。お嬢さんが本当にこちら側に来る意志を固められたことで、この世界が少し開きました。私はそこでいつも待っている男、理由は簡単、通行証兼身分証の発行が出来ます」

「親切過ぎやしませんか?」

 男はニコリと笑う。

「もちろん、代金目当てです。出入り口ならそれを大抵の方が持っています。私はそれが欲しい。あなた方はこちら側を歩く身分が必要。いいでしょう? バランスが」

「通行証と身分証がないとどうなるの?」

「世界の開きが悪くなります。開かないとは言いません。でも、もしそれがあったなら行けたのに、と言うところに行けずに、永遠の迷子になる可能性は一万倍程跳ね上がります」

 信用していいのか考えるとか、それはもっと頭で生きている人の方法論だ。この男は嘘をいてないと感じる。それで十分だし、それ以上のことは必要ない。

「分かりました。発行して下さい」

「そのためには、色々と測らないといけません。それと代金が必要です」

「いくらなの?」

「有り金全部、置いて行って下さい」

「全部!?」

「どの道この先ではビルの内側の通貨は使えませんよ。全部です」

 それはいくら何でも、と思いかけたけど、戻る予定もないのだし、いっか。

「分かった。で、測るってまさか体を? スリーサイズとか測るの?」

「いえいえ、身長と体重、あと、こころの重さ、これだけです」

 こころの重さって何だろう。

「どうしてそれが必要なの?」

「それは分かりません。先人たちの知恵の結果、それで必要十分だと言うことが分かっている、それだけです」

「そう言うものなんだ」

「そう言うものです」

 受け入れた途端に、不明瞭だった視界が一段広くまで通る。そこにはテーブルがあってその上にメジャーがくるくると丸まって置かれていて、その横には体重計。あと、椅子。

「では、その荷物を置いて、服のままでいいので、あ、靴も履いたままでいいです、そこの体重計にどうぞ」

 体重計に乗る。四十五キロ。服着てるしこんなもんだろう。

「次は身長」

 男はメジャーを手に取って、私の背中側で、先っぽを足で地面に固定して、ぴろぴろと伸ばす。

「百五十二センチですね」

「一センチ伸びた」

「靴底でしょう。さて、最後にこころの重さですけど、その椅子に座って下さい」

 男はビシッと椅子を指す。

「座るだけ?」

「座るだけです」

 座る。何の変哲もない座り心地。

「はい、じゃあ、測るので、楽にしていて下さい」

 楽って何だ? 分からないから遠くの空と雲のビルを見る。

「はい、いいですよ」

「これだけ?」

「発行に数分かかります」

 男はどこにあったのか鞄を開けると紙幣サイズの紙を出して、テーブルで何かを記入する。その後、判子のようなものを押して、最終チェックだろう、まじまじと紙を見てから、もう一つ何かを鞄から出した。

「では、これが通行証兼身分証です。これから空っぽになるお財布に入れておいて下さい。そしてこれもセットです、このブローチを体のどこかに着けて下さい」

 男に渡されたブローチは、ピンと台座だけで何もそこには乗っていない。通行証は、身長体重こころの重さが記入されていて、こころの重さの千二十六というのが何か全然分からない、判子の記号も分からない。

「何も付いてないですよ、このピン」

「今のところはね。すぐに何かが付きますからご安心を。さて、これで私の方は終わりです。約束通り有り金全部下さい」

 彼の期待には沿えないくらい、財布の中の残金は少なくて、でも、彼の出した条件とは合致しているから気楽に財布の中身をテーブルに並べる。

「ごめんね。これっぽっち」

「全然問題ないです。これ以外は本当にありませんね?」

「ない」

「百パーセントということが大事なんです。絶対量の問題じゃなくて、全部であること。本当に大丈夫ですね?」

「うん。どこを探しても出ない」

「交渉成立です。では、最後に先程渡した通行証に、名前を書いてから、しまって下さい」

 手渡されたペンはずっしり重くて、テーブルで、どこに書けばいいのだろう? 

「どこでも、好きなところに」

 三つの数字の左側に、でもそのままの向きだとバランスが悪いから、九十度回して、数字たちの上に「アカネ」と大きく書いた。覗いていた彼が頷く気配。

「すぐに、しまって下さい」

 私が財布の中に通行証を収めるのを見届けてから、彼はニコリと微笑む。

「これで全部です。では、私はこれで。三歩退がって下さい」

 ズックを背負って、言われた通りに後ろに退がる。

「あ、ブローチ、すぐに着けて下さい」

「すぐ? はい」

 首の近くの左にピンだけのブローチを着ける。

「それで大丈夫です。紙とブローチの両方が必要ですから、これを忘れないように」

 男が一礼すると、蒸気に侵されるように彼とその道具の全てが認識の外に消えた。取り残された私はさっきよりも広い範囲まで見えていると思っていたけど、そうでもないのかな、首を捻ってみて、ま、進もう。

 大振りのてんとう虫が飛んで来た。私の左腕に止まったそいつの背中の星は三つで三角、赤い羽根に漆黒の星だ。じわじわと私の腕を登って、肩を越えたらブローチの台の上に収まった。静かに眠ったように、ブローチになった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る