アカネ
真花
第1話
ピンクの塊が濃緑のビル群の端から向こう側へ飛び出そうと力を溜めていた。
世界はビルで縁取られている。延々とビルは続いていて、濃緑のそれは世界のどこに行っても遠目に見えて、その内側だけが世界。でも、生まれたときからずっとそうだから気にもならない背景の中、世界は世界というだけの十分な広さがある。西の果てのこの街の若者にとって世界の中心に向かうことこそが夢物語で、私も宿命のように同じ夢を描くことに疑問も持たなかった。
深夜のベッド、ラジオの周波数を探す手が止まる。いや、全てが止まる。同じスピーカーから出たとは思えない声、music。
吸い込まれるような集中。
全霊の集中。
集中。
……曲が終わる。撃ち抜かれた感触が全身に痺れを走らせる。きっと、私の過去の全部を足しても届かないことが今私の体にこころに起きてる。
『zarameの皆さんでした。ここからはインタビュー。ヴォーカルのコダマさん、リスナーの方に向けてメッセージをお願いします』
音、たった一つの音も聞き逃すまいと構える。
『自分の世界を自分で決める、そこから出ない。それはつまらない』
『本当の声に意味がある』
コダマが言ったのはその二つだけだった。他のメンバーの話からコダマがピンク色の髪をしていると言うことは分かった。もう一曲期待したけど番組は終わってしまった。
ベッドにバフンと仰向けになって、コダマの歌と話を反芻する、何度も、何度も、何度も。髪をピンクに染めよう。
すぐさま買ったzarameのCDを感動が擦り切れるまで聴こうとした、だけど、次から次に新しくこころが揺さぶられるばかり。三日を待たずに計画は破綻と決めた。
「もう歌うしかない」
導かれた答えに天啓のような神聖さを感じた。本当の声が何かは分からない、けど、歌のような気がする。
だから手段として軽音部に入ることに決めた。これまでずっと関係ない、いや敬遠していたそこに行くこともコダマの声に後押しされた。
「明日」
小さな越境だけど、私が生きている狭い世界の中では大きい。勇気を溜めるためにzarameを何度も聴く。
部室のドアが開くと、全ての目が私を貫くばかりに見る、そう期待したのに出迎えた男子以外は談笑のまま一瞥もくれない。
「はい? 何か用?」
「私、ヴォーカルがしたいんです。だから、軽音部に入れて下さい」
「お。入部希望者か。しかもヴォーカル、タイミングいいね」
その男子生徒は後ろを振り向くと、おい! ヴォーカル一名、ご来店! と大声で、それでやっと中にいた八人が私に注目した。店じゃねーよ! と太い声が返って来たのを受けて、彼は中に私を招き入れた。野次を飛ばした男子がソファに座ったまま私を上から下まで目で検分して、不恰好に笑う。
「髪、ピンクじゃん。今まで会ったことあったっけ、会ってたら覚えてそうなもんだけど」
「今日からピンクです」
「ヴォーカルやるから?」
「zarameのコダマみたいになりたくて」
おー、と部屋中の声。
「気合入ってるね。まあ、とにかくやってみよう。名前は?」
「アカネ」
その男子は部長で、全員の紹介の後、zarameのコピーバンドを最初にやることを提案して、私は一も二もなくその話に乗った。本当の声が出ているのかは分からなかった。仕入れた追加の情報でコダマは首までのショートカットだと知って同じ長さにした。
十六になる頃に同じバンドのベース、最初にドアを開けた男子、ケンジのことが好きになっている自分に気付いた。だからコピーバンドを終えても、次のバンドでもケンジと一緒であることを選んだ。
ケンジは一つ上で、だから来年には卒業する。片想いを募らせることと、付き合って同じ学校で過ごす時間とを天秤にかけて、そこからフラれる可能性を引き算した解が告白に傾いたその日に想いを伝えて、カップルになった。
世界が少し広がった気がしたけど、コダマが言っていたことはこう言うことだったのかな。
本当の声はどこから出るのかな。
バンドで歌って、学校をして、恋をして、世界ってこれで全部でいいのかな。
誰もが描くように世界の中心を目指すべきなのかな。
ケンジもそっちに向かうのかな。
いっぱい話をしているのに彼の夢が分からない。バンドマンになって世界の中心へ飛び立とうと言う話は一切ないし、卒業後どうするのかも、どうしてか、彼は話さない。話さないから、未来についてのことが私も言えない。彼を好きになった理由なんて分からない、けど、今はもっと彼を知りたい。
帰り道、公園に寄ろうと彼を誘う。濃緑のビルの底のような場所。
「ケンジは未来のこと話さないけど、訊いてもいい?」
「いいよ。でもなんかさ」
「でも?」
彼は遠くの灰色のブランコを見詰めたまま、言い辛そうに息を吐く。
「重くない?」
「重くない。恋人なんだし、何でも話そうよ」
彼は観念したようにもう一度息を吐く。
「そっか。……俺さ、公務員になって市役所に勤める」
「この街から出ないの?」
「え? 何で出るのが前提なの?」
振り向いて私の顔を見る彼の眼が、私を収め切れないように忙しなく動く。じっと見返すとその眼が私の視線に押さえ付けられるように止まる。
「みんな、世界の中心を目指すんじゃないの?」
「そう朧に想いながら、結局殆どの人がこの街に留まるよ」
「そうなの?」
「そうだよ」
そう言えば明日は私の十七の誕生日だった。何だか彼のことがつまらなくて、恋心も勢いよく萎んで、誕生日が来る前に決着がつくのは悪くない。
「ケンジはこの世界の中で、いいの?」
「俺は、それがいいと思う。生活をしっかりするにはギャンブルみたいな人生は選べない」
「バンドはどうするの?」
「趣味で続けるよ。まさかアカネ、バンドで世界の中心に向かうと思ってたの?」
「ちょっとね」
彼はまたブランコを注視して、横顔で続ける。
「アカネは世界の中心に行くの? それとも世界の外に行くの?」
「外?」
「世界の中心の、反対側だよ。もしかして知らなかったの?」
「知らない」
「外なんて何があるか全然分からないからね、やめときなよ」
「そっか」
私たちはそれからカップルを別れて、あんまり悲しくないし、彼も予定調和のような表情で左右に別々に帰った。
世界の外。そんなものがあるのか。あのビルは延々と無限に続いている訳ではないのか。コダマの言っていた世界から出るって、このことなんじゃないのかな。いや、やっぱり世界ってのは比喩で、世界の中心まで来いと言うことなのかな。
「どっち?」
恋を終わらせたばかりなのに私の全部が世界への思考で満たされていて、家に着いても部屋に入っても、ずっと考える。
世界をでも、規定するのは私だ。私が決めた世界の範囲から出るかどうか。コダマはきっとそう言うことを言っている。今日齎らせられた世界のサイズの拡大は、別れと引き換えのチケットだ。そうだ。私はこの世界を出る。それがしたい。私はこの街で、この世界で、燻っているままで人生を終えたくない。安定した生活って、それは人生が卒業してからずっと消化試合みたいなものじゃない。この身に溢れるエネルギーを、歌でないのなら、何か行動にぶつけるのは必要で必然。自分に飼い慣らされるなんて嫌。そこに何があるか分からないから、だから、その向こう側に行く意味がある。ずっと行き場を歌にさせていたけど、私の中に燃えるものは、コダマの言う通り、世界の向こう側に行くことでしか使い尽くせない。つまらなく終わるなんて嫌だ。……向こうには何がある?
きっと見たこともない知らない世界が私を待ってる。
そうに違いない。
行ってみたい。行きたい。
「アカネ、ご飯よ」
お母さんもお父さんも、この街にこの世界に安住している。だから私の計画は言ってはいけない。お母さんの生姜焼きがもう食べられないのは寂しいけど、家から出るときはみんなそうだから仕方ないよね。
「アカネ、考えごと?」
「ううん。大丈夫」
お風呂に入ったときにはもう、気持ちが固まるのが分かった。行こう、世界の向こう側へ。
部屋に戻るとzarameのCDを聴いた。もちろん持ってゆくけど、電池の予備がなくなったらもう聴けないから、そしたら自分で歌おう。まさかあっち側にコダマが居たりして。
夜は不思議とよく眠れた。ライヴの前日は全然眠れないのに、多分身構えの質が違うんだ。ズックにCDとプレーヤー、服の代え、ピンクの髪に相応しいピンクの服を着て、居間の両親に行ってきますを言うときはちょっとだけ切なかったけどそのまま家を出て、ありったけのお金を下ろして食料と飲料と電池と歯磨きセットを買ってズックに詰めて、この街に一本だけ通っている電車を世界の中心と反対方向に乗り込む。電車は西に向かう。
車窓から見慣れた景色がすぐに消える。世界を取り囲む濃緑のビルは前後左右どっちを見ても続いていて、本当にこれが途切れることはあるのだろうか。車内販売のお弁当を買って食べて、電車はずっと西に。五時間程で終点となって降りると、人気の少ない町だった。それでもタクシーはいたから、捕まえる。
「西の方に、この世界が終わるまで行くのって、いくらくらいかかりますか?」
「それだったら、ここから三十分くらいのところに次の電車があるから、それに乗って西に向かうのがいいよ」
全く知らない鉄道、そこから八時間くらい乗る。相変わらずビルに包まれている。降りた駅でタクシーにさっきと同じことを訊いたら、同じように返された。でももう夜なので宿に泊まることにした。
ここまでは備蓄を一切消費していない。お金にもまだ余裕があるし、ホテルもびっくりするくらい安かった。世界の中心から離れる程に、物価とかも安くなるのかな。
朝ご飯はシンプルだけど美味しかった。昨日聞いた駅に向かうバスがあると言うのでそれに乗って、始発から終点まで乗って、降りたところでタクシーに同じことを言う。
「極西の地域だと言っても、まだまだあるよ。電車だって走ってる。その駅までは四十分ってとこかな」
乗って、終点まで行って降りて、次の鉄道までタクシーで行って、電車に乗って、終点で降りたら夜で、宿に泊まる。朝からまた次の電車、ひたすら西へ西へ、丸一日乗って着いたところで泊まって、次の朝に乗り込んだ電車は三時間くらいで終点になった。真っ昼間、一台だけ停まっていたタクシーのガラスをノックする。
「西の世界の終わりまで、乗せて貰えますか? もしくは、西へ向かう鉄道の駅まで乗せて行って貰えますか?」
運転手は私をじっと見て、顔を顰める。
「ここは世界の果てだよ。確かに西に行けばビルの終わりはある。でも、その先に行った奴なんて誰もいないんだよ。お嬢ちゃん、諦めて帰ったらどうだ?」
「私は行くために来たんです。果てがあるなら、そこまで連れてって下さい」
「その先のガイドは出来ないよ?」
「大丈夫です。独りで行けます」
じゃあ乗んな、言われて乗り込んで、二時間くらいひたすら真っ直ぐにタクシーは進んだ。
変わり映えしないビルの影が、進行方向で拓けて来る。近付くにつれて、眼前に飛び込んで来たのはビルの影なのにそこに空と雲が映り込んでいる? それともそこに空があるの? 見た事も無いビルだった。そこまでの間が、靄がかかっている訳ではないのに、何があるのかが認識出来ない。
「何か、すごいところですね」
「ああ言うところなんだよ。本当に行くの?」
「行きます」
濃緑のビルの終わりの場所より数百メートル程手前だろうか、タクシーが止まる。
「俺が行けるのはここまでだ。最後にもう一度訊くよ、帰らないかい?」
「私は行きます」
運転手はため息を
さあ、行こう。
思ったのに、いざ目の前にするとドキドキして、呼吸を整えている内に、自分の中の生命が燃え上がっていることを感じて、間違いない、世界の向こう側に行くために私の迸るエナジーはある。
ぐっと力を溜めて、私は踏み出す。
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