第42話 小夜子の不安

 *小夜子 side


 六月。

 航ちゃんが長崎からいなくなってもう三ヶ月が過ぎようとしていた。


 長崎はとうに梅雨入りが発表され、しとしとと雨が降り続いていた。新品の傘をさして実家の玄関をち、路面電車が走る大通り沿いまで歩く。黒光りするレインシューズをかつかつ鳴らし、うっかり下り坂で転ばないよう気をつけながら歩を進めた。

 気の早いアブラゼミが独唱している。もうすぐ、夏だ。


 大通りに差し掛かるとちょうど大学方面へ行く電車が反対方向から上ってくるのが見えた。私は小走りになって道路の真ん中の駅に車に注意しながら渡り、やがて難なく電車に乗り込んだ。車内は梅雨の湿気とエアコンが吐き出すの冷気がアンバランスに同居し、不快な空気を作っていた。


 蒸し暑さの出始めた外から中へ、私は涼しい顔をして電車の中ほどまで入り込み、つり革に捕まってぼんやり窓から外を眺める。時刻は八時三〇分頃。電車には私と同じ長崎大学の学生と思しき若者で溢れている。顔見知りが一人二人いてもおかしくない電車は、高校生活から地続きとなった大学生活の日常の一部であった。


「冬木、おはよう」


 人をやんわりと掻き分けながら背の高い男子が私の方へ寄ってきて爽やかに挨拶を向けてきた。


「赤木くん、おはよう。一限から講義?」

「あぁ。そっちは?」

「私は二限から。でもあんまり家でダラダラしてると親の目が痛くって……」

「実家暮らしの苦悩だな」


 お互い苦笑しながら談笑を交わす。


 赤木くんは以前は短くしていた髪を少し伸ばし、整髪料で無造作風ヘアーを作っていた。航ちゃんのように染めても格好良いと思うが、今はそこまで遊ぶつもりはないらしい。根は真面目な性格は相変わらずだ。

 かくいう私は相変わらずの眼鏡だが、二つ結びにしていた髪をストレートにして下ろしてヘアアクセサリーを着けたり安物のイヤリングを耳からぶら下げてみたりと身だしなみを楽しんでいる。お互い窮屈な校則から解放され、あれこれと模索中だ。


 航ちゃんがこの姿を見たら、褒めてくれるかな。

 綺麗だね、可愛いね、似合ってるって、頭を撫でながら愛情を表してくれるのだろうか。


「冬木、今日のサークルの飲み会来る?」


 赤木くんに突然聞かれ、ふと我に帰った。そして忘れかけていたお誘いを思い出す。

 大学に入ってからアウトドアサークルというものに赤木くんと一緒に入り、今夜はその飲み会が入っていたのだ(飲み会といっても私はお酒を遠慮しているが)。

 このアウトドアサークルはその名の通りメンバー同士で集まってキャンプや軽い登山、釣りやマリンスポーツなど屋外活動を手当たり次第に楽しむことが主活動のコミュニティだ。


「今夜はやめとく。アルバイト始めたけど、お財布ピンチでさ」

「そっか、残念。冬木が行かないなら俺もやめとこっかな」

「赤木くんは行っといでよ。先輩達と楽しんできて」


 私は入学直後に高校時代に可愛がってもらっていた田代先輩に誘われ、半ば強引に入会させられた。もっともその先輩のお目当ては赤木くんで、私は彼のおまけだ。そして悲しいかな、赤木くんは先輩の好意に気づいてない。この鈍ちんめ。お陰で私は田代先輩から赤木くんとのパイプ役を任されている感があり、はっきり言って非常に迷惑だ。飲み会の参加に気乗りしないのはお金のこともあるが、先輩の恋愛を手伝わされる煩わしさが付き纏うためでもある。自分の恋愛も最近は雲行きが怪しいのに、人の面倒までとてもじゃないが見てられない。


「そういえば、昨日航ちゃんから写メ届いたよ」


 頭痛がしてきそうなので強引に航ちゃんの話題に流れを変える。携帯を開き、写真を表示して赤木くんに見せた。写っているのは缶ビールを傾ける姿が誰かに隠し撮りされた瞬間の楽しげな航ちゃんの姿だ。


「やっぱりあいつ酒飲んでやんの」

「うん、私もちょっと意外。航ちゃんって真面目なのかやんちゃなのか分かんないとこあるよね」


 彼の話に及び、私は自然と声に笑いが混ざった。そして勢いづき、口が止まらない。


「隣に座ってるのは国塚くんっていうんだって。航ちゃんの幼馴染で、大学でばったり再開して今では同じサークルに入って遊んでるってさ」

「悪そうな顔だな。地下カジノとか行ってなければ良いけど」

「流石にそこまでやんちゃじゃないよ!?」


 あまりにダーティーなジョークにギョッとしてしまう。都会は恐ろしいところだし、航ちゃんもやんちゃだけど流石にそこまでハメは外さないだろう。……きっと。


「航太郎、元気そうで良かったな。まぁ、向こうが地元だから楽しいに決まってるよな」

「……うん、すごく楽しそう。心配してたから安心した」


 そう気丈に答えるものの、心中は寂しさと不安でいっぱいだ。


 彼が旅立って経過した三ヶ月で、私と彼の距離は長崎横浜間よりもずっと遠くなってしまった。四月頭はそれこそ毎晩電話をして声を聞かせてくれた。だが電話の頻度は少しずつ減り、メールでやりとりする量が多くなった。そしてそのメールも毎日届いていたのが間隔を置くようになっていた。


 彼は別世界に行ってしまい、私は地元に留まった。その分かれ道はどこまでも続き、私達は日に日に遠ざかっているのだ。彼は横浜で、私は長崎でお互い成長し続け、未来へ向かっている。その道は決して平行線ではなく、別方向へ続いているのだ。離れながら声を掛け合っているのだからお互いの声が耳に届き、返事を返すまでの時間が少しずつ長くなっていくのが道理というもの。

 きっと彼は私のことを好きでい続けている。だから毎日連絡してくれるものだと思っていた。だが現実は真逆で、彼の心の在処ありかは時々届く連絡でしか推測し得ない。そして私はその言葉を胸に彼の愛情が薄れぬことを信じる他なかった。

 彼の連絡はすごく嬉しい。それなのに、連絡が来ると次はいつだろうかとかえって寂しさを感じてしまう。

 気づけば私はため息ばかりつくようになっていた。


 そんな私の浮かない顔色を察してか、あるいは何も考えていないのか、赤木くんが明るい声でこんな誘いをかけてきた。


「冬木、良かったら今度高校に行って、練習に参加させてもらわないか? そろそろ大会が近いから皆にも良い刺激になるだろ」


 ぽうっと胸の中にぬくもりを感じる気分だ。母校で部活に明け暮れた日々が思い起こされるのだ。


「練習かぁ……。ブランクがあるから心配だけど面白そう。私から楓に伝えておこうか?」

「助かる。ぜひそうしてくれ。ランキング戦も終わった頃だから、邪魔にはならないだろう」

「任されました。あ、そだ。良かったら田代先輩も誘ってみる?」

「え、先輩を? なんで?」


 ダメだこりゃ。


 *


 月が変わって七月。ある土曜日のこと。

 私達は約束通り母校の長崎肥前高校を訪れ、古巣のバドミントン部の練習に参加させてもらった。

 部では毎年恒例の大会代表選出行事『ランキング戦』が終わり、大会出場メンバーが男女ともに確定したタイミングだ。部内には節目の行事が終わってひと段落ついた緩い空気が流れていたが、スポーツウェアを着込んだ卒業生が乗り込んできたためにピリッとした雰囲気を取り戻した様子だ。赤木くんのいう通り、私達の来訪は良い刺激になり、来た甲斐があったと喜ばしく思うのであった。


 練習後、解散すると赤木くんに誘われ学校から少し離れた所に出来たという隠れ家的な料理屋さんに足を運んだ。長崎の食材をふんだんに使ったイタリアンが目玉のお店は、以前航ちゃんと足を運んだカフェとよく似てナチュラル素材のインテリアが落ち着いた雰囲気を醸し出す居心地の良いお店だった。

 お店に入るとランチセットを揃って注文し、有機野菜のサラダを突きながら久々の部活動の感想を言い合った。私は大学に入ると学業とアルバイトが中心の生活になり、その余暇を埋める形でサークルの活動に参加している。バドミントンはすっかり距離を置いてしまった。赤木くんも似たようなもので、彼の場合はあれほど打ち込んでいたのに大学で部活に入らなかったのが不思議であった。


「今年はインハイに行けそうな子、いるかな?」


 トマトをフォークでサクッと突き刺し、口に運びながら赤木くんに尋ねる。こんな質問をする辺り、目ぼしい選手がいないとの考えを暗に伝えているようなものだ。赤木くんも同じ考えだったらしく、渋い答えを返してくる。


「男子はなんか微妙だな。そもそもランキング戦が終わった時点で満足してる感があるあたり、インハイまで目指す気概に欠けてるんじゃないか?」

「そっか……。確かに赤木くんとか航ちゃんとか小笠原先輩みたいにギラギラしてる子いなかったね」

「同意。皆仲良しだけど、かえってライバル心が芽生えなかったんだろうな」


 赤木くんも苦笑しながらトマトをグサッと刺して口に運んだ。続いて運ばれてきたカボチャの冷製スープをスプーンで頂く。


 彼の言うことには一理ある。確かに今年の男子はどこか仲良しグループな和やかな空気があった。それは良いことかもしれないが、一方で勝負事にまでその空気を持ち込んでいるのは否めない。航ちゃんと赤木くんが普段は仲が良いくせに部活ではムキになって競争したり、二人一緒になって小笠原先輩に噛み付いたりしていたのは、今になると向上心の源泉であったとも取れる。


「あ、でも女子の方は熱かったな。楓ちゃん、今年はあえてダブルス選んで雪辱戦に臨むんだろ?」

「うん、本人はそう言ってる。インハイ出場までは明言してなかったけど」

「それを口にするようになったら空気が変わるかもな。誰かが高い目標を掲げると、連鎖的にヒートアップするかも」

「ふふ、そうかもね。楓に言っとく」


 彼は微笑み、同じくスープに口にする。


 それから話題は部活から大学――特に期末試験へと移った。大学でも各講義で単位取得の可否を決定づける試験が開催される。七月上旬の今、本当なら試験勉強をしないといけない時期なので母校を訪ねる暇など本来ならない。それでもわざわざ週末に高校に足を運んだのはひとえに寂しかったためかもしれない。後輩達に喝を入れると尤もらしい理由をつけ、体力の衰えを認識しながら無我夢中になってラケットを振れば、この気持ちを忘れられると思ったのだ。


「最近、航太郎の奴どう? 元気してる?」


 試験対策の話が一巡した所で次なる話題が持ち上がった。その名を呼ばれ、愛おしい顔が脳裏に浮かび、私は言葉を詰まらせた。


「……うん、元気そうだよ。最近は本屋さんのアルバイトを始めたんだって。たくさんシフト入れて忙しいみたいだけど、あんまり構ってくれないかな」

「そりゃ寂しいな。でもあいつって俺らと違って勤労学生だからな。仕方ないよ」


 彼が説く言葉は、自分でも何度も言い聞かせたものだ。

 航ちゃんは母子家庭で仕送りはもらっていないらしい。学費はご両親がそれぞれ蓄えから捻出し、減免制度や奨学金を使ってやりくりしているが、家賃や生活費などは自分で稼がないといけない。忙しいのは当然だ。実家暮らしでぬくぬく生活して大学に通っている自分とは訳が違う。

 だから我が儘を言ってはいけない。寂しいからといって、そのことをチクチク責めるような重い女になっては、きっと嫌われる。


「でも、少しくらい我が儘言ってみても良いんじゃないか?」

「えっ?」


 赤木くんのその提案は、私の自戒と真逆の言葉であった。虚を突かれ、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。


「航太郎は冬木の恋人なんだろう? だったら声を聞かせてくれくらいの我が儘は聞いてナンボだ。それで怒るようなら、俺がガツンと言ってやる」


 赤木くんは頼もしい笑顔を向けてくれる。お陰で胸の奥でつっかえていた物が取れた気がした。


 そうだよね。私、航ちゃんの彼女だもの。お互い学生の身で、向こうは忙しいから行き来するなんてことは出来なくても、声をもっと聞かせてほしいと言うくらいなら許されるよね。


「うん、ありがとう。今夜、早速航ちゃんに連絡してみるね! それにしても、まさか赤木くんに恋愛相談に乗ってもらうだなんて夢にも思わなかった」

「えぇ……なんじゃそりゃ」


 苦笑を浮かべられる。私はスープに続いて運ばれてきた夏野菜のトマトパスタをくるくるフォークで巻き取りながら続ける。


「赤木くんって恋愛とかあんまり興味ないのかなって思ってた。高校の頃も告白されたけど、全部断ってたって噂だよ」

「はは……まぁな」

「あ、本当だったんだ。どうして? もしかして実は女の子苦手とか?」

「いや、そうじゃない。実は他に好きな人がいるんだ」


 赤木くんはいつになくモジモジと歯切れの悪い口ぶりで言う。珍しくいじらしい所作が少し可愛かった。一方で私は俄然興味が湧いてしまい、嬉々として掘り下げた。赤木くんのような顔もスタイルも頭も良いハイレベルな男の子(もちろん航ちゃんの方が上だが)が片思いをする女の子とはどんな人物か、気になるのは当然ではないか!


「へぇ、そうだったんだ。それってどんな人? いつから好きなの?」


 矢継ぎ早な私の質問に赤木くんは訥々と答えた。


「高校に入って知り合った人だよ。最初はそんなに喋ることもなかったんだけど、少しずつ話すようになったんだ」

「うんうん」

「二年生の頃にちょっと良いかもって思うようになったけど、気づいたら他のやつと付き合ってたんだ、その人。そこで自覚したんだ、その人のこと好きなんだって」


 気恥ずかしそうに笑いながらフォークをくるくる回してパスタを巻き取る赤木くん。ほとんど無自覚に指を動かしているため、パスタがサータアンダギーくらいの大きな塊になっていた。


「告白しなかったの?」

「しないしない。だって彼氏持ちだぜ。そいつに……悪いからさ」

「ふぅん。男子ってそういうところ遠慮するよね。友情が大事ってやつ? あれ、ということはその人って赤木くんの知り合いの彼女?」

「まぁ、そうなるな」

「そっか、それじゃあ気まずいよね。高校入ってからだから同学年以上だよね? 大学は? まだ付き合ってる?」

「やけに食いつくな……まぁ、良いけどさ。その人は同級生で、大学は一緒。まだ付き合ってるみたいだよ」

「へぇ……」


 そこまで言われて、私はにわかに不安な気持ちを抱いた。胸のつっかえが取れたと思ったに、それに取って変わるようにハラハラと言いようのない微小な不安が現れたのだ。


 赤木くんの態度はいつもの明朗快活なそれからは想像出来ないくらい不安定さを見せた。

 つっかえながらの話し方、ぎょろぎょろ忙しなく泳ぐ二つの目、落ち着きのない指。

 雲行きの怪しさを感じさせるのは挙動不審でさえある彼の無自覚な所作故であるが、私もいちいち目ざとく彼のサインを拾っていたわけではない。単に女の勘というやつだ。


「なぁ、冬木。女ってさ、そういうの迷惑かな。彼氏の知り合いから告白されるのって」


 そう問う瞳は、悩みを相談する殊勝さを持ち合わせていなかった。あるのは何かを期待する生の感情を剥き出しにした光である。


 私は、パンドラの箱に手をかけていると自覚した。

 その途端、私は恐ろしくなり、すぐに言葉を紡げなかった。無自覚に息を呑み、双眸を大きく見開いて目の前のお友達の顔をまじまじと見つめていた。赤木くんはきっと心を読まれたことに気づいたのだろう、張り詰めた表情をますます強張らせる様は祈るようでさえあった。


 自分が返すべき答えがなんなのか、決まっている。

 己に言い聞かせ、意を決してその言葉を口にした。


「……他の人は分からないけど、私は困るかな。例えば、、赤木くんと航ちゃんの仲はどうなっちゃうんだろうって不安に思う。それに私は今でも航ちゃんのことが好きだから浮気は出来ないかな」


 自分でも一体何を口にしているのだろうかと傍観者めいた疑問を抱いた。


 そんなはずはない。

 そう自らに言い聞かせるのは論理的帰結か、あるいは恐怖故の否定か。


 赤木くんも両目を見開き、一瞬の後に顔を曇らせ、私から目を背けた。その様があまりにも痛ましく、必死になってフォローを入れた。


「そ、その今のはもしもの話だよ!? なんか、私が赤木くんを振っちゃったみたいになるけど、あくまで仮定の話。その人はもしかしたらOKしてくれるかもだから、頑張ってよ! 赤木くん、格好良いから自信持って! 私なんかのお墨付きじゃ箔がつかないだろうけどさ」

「あはは……そっか、じゃあ良いよ。冬木みたいな色女から否定されたと思ってちょっとショック受けた」

「もう、色女だなんてお世辞やめてよ!」

「謙遜すんなって。冬木はさ、あの航太郎からずっと愛されてるんだぞ? それだけ魅力がある女なんだから、自信持って良いと思うぜ。まぁ、せいぜい他の男から粉かけられないように気をつけな。航太郎が泣くぜ」


 カラッと元気を取り戻したように笑い、ベタ褒めしてくる赤木くんの顔には、先程のような沈んだ様子はない。だがそれが空元気であることは明白だった。


 こうして私は自らの純真さを必死に貫いた。


 *


 その晩、お風呂から上がった私はベッドに寝転がり、久々に航ちゃんに電話を入れることにした。時刻は二一時と電話をするにはやや不躾な時間にも思えるが、いつもこの時間帯に話をしているので気にしない。


 プルル、と五度目くらいのコールで電話が繋がった。


『もしもし? こんばんは、小夜子ちゃん』

「うん、こんばんは! 今、電話して大丈夫だった?」

『もちろん。夕食食べ終わって一息ついたところだよ』

「ふふ、そうなんだ。何食べたの?」

『カップ麺』


 あ、そう。一人暮らしの男の子っぽい食事だなと拍子抜けした。

 しかし当然というべきか、航ちゃんが電話に出て元気な声を聞かせてくれたため嬉しくて声が普段より高くなってしまった。お母さんが電話に出る時と同じだ。


「航ちゃんは今日何してたの?」

『サークルでバドミントンして、夕方からさっきまでアルバイト』


 バドミントンをしてその後本屋のアルバイトとは、元気だな。


「私はね、赤木くんと高校に行ったよ! 部活の練習に参加させてもらった」

『そっか、今日行くってメールで教えてくれてたね。後輩達はどうだった?』

「皆元気に練習してたよ。でも男子はたるんでるって赤木くんがボヤいてた」


 受話器の向こうで航ちゃんが声を出して笑った。それから私は楓の頑張りようとそれを赤木くんが褒めてくれたことを報告し、今年の夏の大会は危ういのではとの予想で締めた。


「ねぇ、航ちゃん。あのね、実は今日相談があるんだ」

『うん、何?』

「今年の夏休みなんだけど、私そっちに遊びに行こうかなって思うんだ」


 一通り世間話に花を咲かせた所で私は本題に移る。それほど深刻な相談事というわけではないのに少し緊張してしまう。というのも大学で私と同じく遠距離恋愛を始めた女の子と知り合ったのだが、その子はゴールデンウィークに彼に行ったところ変にギクシャクしてしまったという話を聞いたためだ。その子は恋しくてわざわざ福岡まで行ったそうだが、なぜだか素気なくされたのだという。私は今日航ちゃんにこの相談をするにあたってその人と自分を重ねてしまい、そんな訳ないと自分に言い聞かせていた。


『本当!? おいでよ! こっちでいっぱい遊ぼう!』


 だがそんな不安は杞憂に終わった。電話の向こうで航ちゃんが飛び上がったような音がし、喜んでくれていることがすぐに伝わってきた。


「うん、絶対に行くね! いつ頃が良いかなぁ?」


 不安が晴れたのと、航ちゃんの喜ぶ声から愛情を感じたのとで一気に胸の内を幸福感で満たされた。

 それから私達は会う日程を簡単に相談し、九月の上旬に会えるようバイトのシフトなどの予定を調整することをそれぞれ宿題にした。


「航ちゃん……やっと会えるね! 私、ずっと寂しかった。今でも寂しいよ」

『僕もだよ、小夜子ちゃん。こっちで友達も出来たけど、小夜子ちゃんに会えないことだけは何にも代え難いっていつも思う。あと一ヶ月ちょっとの辛抱だ。それまでお互い期末試験に専念して、それが終わったら後顧の憂いなく会おうね』


 約束だよ。


 どちらからともなくそう誓いを交わし、私達はおやすみと眠る前の挨拶をして電話を切った。


「あ……好きって言ってもらってないや……」

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