第36話 絶える望み(3)

 翌日の月曜日、帰りのホームルームが終わって解散になると体育館には寄らず下校することにした。代わりに別の場所に立ち寄り、その用事も済んだのでここからは真っ直ぐ寄り道せず帰るつもりだ。尤もこの足では寄り道も一苦労だ。


 カツン……カツン……


 未だ慣れぬ松葉杖と健康な足を交互に動かしながら、昇降口から校門までの坂を下る。普段ならすぐに下り切ってしまう坂も、この足ではひどく長く感じられた。しかも下り坂だとうっかり転んでしまわないか不安になる分、余計な力が入ってしまう。いつしか呼吸が乱れていた。


 坂を八割ほど下ったところで体力が尽きかけた。呼吸を整えるためその場に立ち止まり、一息をつく。

 その時だった。歩道を歩く僕のすぐ側を紺色のSUVが徐行し、ピタリと止まった。

 なんだろうかと思って顔を向けると、眼鏡をかけた男性が運転席の窓から顔を覗かせこちらを見た。


「やっぱり航太郎くんだったか! 久しぶり! 乗っていきなよ、お家まで送るよ!」


 その人は突然僕の名を呼ぶと、そう親切を申し出てくれた。髪を綺麗にワックスで整え、髭は綺麗に剃ってある。ワイシャツはよくアイロン掛けされ、ネクタイをしっかりと締めているためすごく良い身なりをしているように思われた。

 ニコニコと邪気の無い笑顔はお日様のようで悪い人ではなさそうだ。だがそれだけでのことで「ありがとうございます」と言って車に乗るほど僕は世間知らずではない。まるっきり知らない人なのだから流石に警戒した。僕は不信感を露わにしてそのおじさんをまじまじと見つめた。


「あれ、もしかして誰か分かんない? 小夜子の親父だよ」

「あっ!」


 そう言われてようやく思い至った。丸眼鏡とよく響く低い声は確かに小夜子ちゃんのお父さん――通称おじきであった。


「すみません。どなたかすぐに分からず……」

「ははは、そりゃそうだよね! 髪の毛セットしてるし」


 そっちじゃねぇよ。僕は顔の輪郭をコソコソ観察しながら心の中で鋭くつっこんだ。


「ほら、乗った乗った! 今から帰るんだろう?」


 おじさんは運転席から降りると後部座席のドアを開け、僕に乗るよう促した。強引というか、豪快というか、僕の返事など待つつもりなど毛頭ないとばかりであった。尤も僕にしてみれば願ったり叶ったりだ。登校する際は毎日母に車で送ってもらっているが、帰りは歩きとバスなので楽させてもらえる。遠慮する手間が省けるのもありがたい。


 おじさんに手を貸してもらいながら後部座席に乗り込み、車がゆっくりと動き出す。


「今日はどうしてうちの学校に来られたんですか?」

「仕事だよ。今年度から教育委員会に勤めててね。時々こうして学校を訪問したりするんだ」

「そうなんですね。西陵館の人達、寂しがってるでしょうね」

「ははは! そうだと嬉しいね」


 おじさんは豪快に笑う。だがその声は少しだけ寂しそうだった。


「あの、おじさん」

「なんだい?」

「……小夜子ちゃん、もう大学は決めたんですか?」


 なんの脈絡もなく、僕はそう尋ねた。おじさんは何も言わなかった。


 進路調査票は二週間前には全生徒が提出済みだ。つまり、皆進路をほぼ確定させたはずだ。当然それは小夜子ちゃんも同じはずだ。だが僕は未だ彼女の進路を聞かせてもらっていない。


「航太郎くん、ちょっと寄り道しようか。この学校の裏に眺めの良い展望台があるんだよ。知ってる?」

「はい、聞いたことはあります。でもまだ一度も行ってません」

「じゃあ、行ってみようか!」


 おじさんは勢い良くハンドルを切り、車は坂道を登り始めた。


 *


 長崎肥前高校は長崎市北西部の岩谷山という山の麓に位置している。標高は五〇〇メートルに満たず高尾山よりも低いため、山というよりは丘と言った方がしっくり来るかもしれない。

 岩谷山はハイキングコースが整備されているため週末やゴールデンウィークには家族連れが軽い登山気分で訪れるという。僕はまだ登ったことはないが、学校からハイキングコースの入り口までは距離と傾斜の塩梅が丁度良く、外トレの走り込みのため何度も往復したものだ。


 僕は馴染みある坂道を車で運ばれ、山の中腹あたりにある展望台にやって来た。展望台といっても台地に柵を設けただけで、他に設備と言えるものはベンチと自動販売機くらいだった。

 その自販機でおじさんは缶のスポーツドリンクを買ってくれた。僕はお礼を言って受け取り、ごくごくと喉に流し込んだ。五月の半ばだが空は雲一つない快晴で、日差しはポカポカしており暑いくらいだ。


 二人で並んで柵のすぐそばのベンチに腰掛けた。


「良い眺めだよね、長崎の街並みが一望出来て。あそこに見えるのがグラバー園。もう行った?」

「いえ、まだです。いつか行こうと思ってるんですが」


 おじさんは機嫌の良さそうな声で指差しながら言う。僕は苦笑混じりにかぶりを振る。


「そうか。小夜子と行っておいで。クリスマスのシーズンは園内がイルミネーションで飾られて綺麗なんだ。そこから見える街と港の夜景も素晴らしい。昔から、女の子は綺麗な夜景が好きなんだよ」

「はぁ……」


 彼女のお父さんがする話か、と僕は戸惑いを隠せず、そんな沸え切らない返事をしてしまった。普通、父親というのは娘の身を案じて彼氏の存在にヤキモキするものだとばかり思っていた。だがおじさんには付き合い始めた当初からその気配はない。その理由はもちろん、告白をしたバーベキュー大会の日以来、顔を合わせる度にきちんと挨拶をし、お宅にお邪魔した時はあまり長居しないなど礼儀に気をつけているためだと自負している。なのでクリスマスデートを勧められるというのは信頼の証なのだと好意的に受け取るべきなのだ。


 それなのに、僕は不安であった。

 おじさんは僕の質問にまだ答えていない。

 その前にクリスマスデートを勧められるというのは、どこか不吉の前触れのように思えた。


「足の怪我、残念だったね。小夜子から聞いたけど治るまで随分時間がかかるんだって?」


 おじさんは優しげな顔で僕を見つめながら訊いてきた。それに応える形で僕もおじさんの方に首を向ける。


「はい、全治半年だそうです。三、四ヶ月すれば杖なしで歩けますが、スポーツを出来るようになるのは半年後だそうです」

「そうか。じゃあ、夏の大会は……」

「もう間に合いません。もう僕の部活動は終わりました」


 スパッと、自らの口で言い切った。そのことはとうに認識していたのに、改めて口にするとひどく切ない。それを誤魔化すため無理をして笑ったが、声に力が篭らず、むしろ左目だけから涙が零れ落ちた。

 その一滴を見られたようで、おじさんは息を呑み、目を見開いて閉口した。


「すまない。小夜子との練習試合の間に起こったことと本人の口から聞いたよ。どうかあの子のことは恨まないでやってくれ」

「いえ、とんでもないです! スポーツに怪我はつきものですから。僕も変にスイッチが入って無理な動きをしたものですから、結局は自分の責任です」


 おじさんの恐縮した態度に、かえってこちらが肩を縮こまらせてしまった。

 今、口にしたことは全て本心だ。あの日、僕は副部長の責務よりも昨年のインハイ出場者としての意地と小夜子ちゃんへの固執とも取れる異常な感情に駆られていた。その気持ちのまま乱雑なプレーをしてしまい、結果自分の身体を損なってしまった。これを自業自得と言わずしてなんと言おう。僕はひしひしと自らの愚かさを自覚した。

 無論すぐにそんな殊勝な心持ちになったわけではない。当初は自分の不運を呪った。あるいは対戦をした小夜子ちゃんに恨みを抱いた。


 あの日、彼女と試合をしなければ。

 あんな意地悪なプレーをされなければ。

 そもそも彼女に対して特別な気持ちを抱かなければ。


 だがそんな刺々しい気持ちはある朝にパッと消え失せ、全ては自分の愚かさ故だと理解出来ていた。まるで親から厳しく叱責されたように、全ての原因が自らにあるとの気づきを得たのだ。


 おじさんは安堵した様子で、似合わない小さな声で礼を言った。礼を言われる立場でないのだから、僕はますます恐縮してしまう。


「それじゃあ、今年の部活は副部長としてサポート役に回るのかい?」

「……いいえ、部活は辞めました。さっき職員室に寄って退部届を出しました」

「えっ?」


 今度はおじさんが虚を突かれる番だった。


「昨日、赤木を家に呼んで二人で話をしました。僕には副部長として後輩の指導や部をまとめるのをサポートして欲しいと引き止められましたが、僕がいることでかえって部の空気が悪くなると思ったんです」


 怪我をしてなお居座る僕を皆疎ましく思うのではないかと。昨年の実績をいつまでも首に提げていると侮られるのではないかと。それで部の雰囲気をかえって盛り下げてしまうのではないかと。

 全ては僕の推測――あるいは勘ぐり過ぎかもしれない。部員一人一人に気持ちを確かめたわけではないから断言出来ない。


「小夜子ちゃんには今朝、赤木と三人になって打ち明けました。また、悲しそうな顔をさせてしまいました」


 すみません、と僕は会釈した。さらに僕は続ける。


「これからはリハビリと受験勉強に専念するつもりです。模試の判定……微妙だったので」


『悪い』ではなく『微妙』と言ったのはひとえに恋人の父親に馬鹿だと思われたくないとの自尊心のためだ。僕はまた保身に走った。おじさんは黙り込み、小さく頷いただけだった。


 それから両者の間には重い沈黙が漂った。何か話題を提供せねばと変な責任感を感じてしまうが、何も思い浮かばない。

 だが訊きたいことならある。というか先程訊いた。だが未だその答えは返っていない。


「あの――」

「小夜子、大学決めたよ。長崎で進学するつもりだ」


 再び問おうと口を開きかけた時、遮る形でおじさんは答えた。唸るような低い声で、どこか物悲しげに言った。それは僕の望みとは真逆の、しかして予想通りの答えであった。


 僕が怪我をして以来、小夜子ちゃんは頑なに進路の話をしなかった。話題に上がることさえ忌避している節があった。負傷した僕のメンタルを気遣っているつもりだろうが、なぜ気遣うのかと考えれば予想はかたくくない。

 だが答えは予想出来ても理由は分からなかった。彼女との試合中の怪我であったがその点は双方とも事故であったと既に折り合いをつけた。僕は恨んでなどいないし、彼女も変に気負ってなどいないはず。怪我で愛情が損なわれたとは考え難い。むしろ怪我で不自由になった分、小夜子ちゃんは学校であれこれと手を貸し心を砕いてくれるため、僕は優しさに触れ深い愛情を感じているくらいだ。彼女への想いがあれば怪我の功名とさえ捉えられる。

 それなのになぜ、小夜子ちゃんは僕と共に行く選択をしなかったのか。


「小夜子は少し臆病な子なんだ。姉と妹が勢いがある分、昔から二人の一歩後ろにいるような子なんだよ。自分の気持ちを伝えるのが苦手だし、人と話すのもあまり得意な子じゃなかったんだ。ずっと地元で家族に囲まれて生きてきた。色んな人に守られながら育った子だから、見知らぬ土地に行くにはまだ幼いんだ。余所の土地を拒むはっきりとした理由があるわけじゃないが、地元に残る決断はそれ故だろう。悪く思わないでやってくれ」


 おじさんは訥々とつとつと説明してくれた。大方の予想通りだった。彼女の心境に対する驚きはない。むしろ意外だったのは彼女がそれほどまでに内気な女の子と父親の目に映っていたことだ。僕の恋人はよく話すし、よく笑う。控え目ながら友達もたくさんいて、後輩達の前でもしっかりと声を上げる強さを持った女の子だとばかり思っていた。

 そのことを話すと、おじさんはさして意外そうな素振りもせずこう言った。


「全ては君と出会ってからの成長じゃないかな。あの子、最近は学校のことをよく話すようになった。君とのことだけじゃなく、勉強や部活や友達のことなんかも。以前にも増して積極的になった。そもそもあの子が男の子と付き合うだなんて、考えられなかったよ。全ては君のおかげだ。君と本気で向き合い続けて獲得した成長だ。ありがとうね。これからも、あの子に変わらず優しくしてやってくれ」


 おじさんは最後に僕の肩に手を置いてそう語った。ゴツゴツして大きな手。僕が久しく喪失していた、父親の存在を感じさせる男らしい大きさと重みがあった。


 そうに言われ、自分がどのように振る舞うべきかすぐに理解した。

 彼女の決断を尊重し、受け入れる。その態度を伝えるにはどうすべきか、すぐに思い至った。


 *


件名:おじさんから聞きました

本文:こんばんは。学校から帰るとき、おじさんに車で送ってもらったよ。髭がなくなっててびっくりした(笑)


大学、長崎で進学することにしたと聞いたよ。離れ離れになって寂しいけどお互い勉強頑張ろうね!

また二人で図書館に行ったり、おうちで一緒に勉強しよう。

ランキング戦と夏の大会もあるから、皆のこともよろしく!


大好きだよ。

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