第37話 凍える夏、男の嫉妬
足を怪我し、小夜子ちゃんの進路を知ってから僕は猛烈な勢いで勉強に励んだ。もはや没頭すると言っていい。
人生でこれほどの熱意で机に向かったことはない。朝、六時に目を覚ますと七時過ぎまで数学の問題集に齧り付く。朝食が出来たと母が呼べば掻き込むように胃袋に詰め込む。食べ終えたら日本史の参考書を
勉強は楽しかった。物理や数学はパズルのようで、解けなかった問題が解けるようになると嬉しい。歴史は物語だと思って向き合うと俄然興味が湧いてくる。ものはなんでも捉えようだ。
だがこれほどまでに僕が勉強に躍起になるのは見方を変えたからではない。模試の判定が悪かったからでもない。根っこにあるのはスポーツに打ち込めない現実から目を背けるためだった。あるいは運動部がグランドを駆けずり回っているのを尻目に、自分は一歩先を行っている気持ちになりたかったのかもしれない。惨めな逃避願望と歪んだ優越感が、僕の学習意欲を駆り立てた。
そうしているうちにバドミントン部は夏の大会の体制が整った。
予想通り、赤木はランキング戦を首位で突破し、シングルスで大会に出場することになった。小夜子ちゃんもギリギリだったが今年はシングルスでの出場を確定させた。昨年はお情けで団体戦に出られたことを考慮すると大幅な飛躍と言える。また妹の楓ちゃんも善戦し、ダブルスで大会出場することになった。あの子は意外と才能があるのかもしれない、だなんて思ったりした。
うちの学校では夏の大会が近づくと全校集会と併せて壮行会が開かれるのが通例だ。そして今年も六月に入ると例年のように開催された。代表選手達は各々ユニフォームを鍛え抜いたその身にまとい、体育館の前方に整然と並んで生徒会長から激励の言葉を送られた。僕はぼんやりと選手団を眺めていた。見送る生徒達の列の中からではない。生徒の集団から外れた体育館の隅っこに置かれたパイプ椅子に座ってだ。まだ足が治りきっていないため、床に体操座りが出来ないため担任の先生が気遣ってくれたのだ。気持ちはありがたいが、妙な寂しさがある。
怪我がなければ選手団の中にいたはずだし、ランキング戦が奮わなければ見送る集団の一生徒であったはずだ。だが実際にはそのどちらでもない。
壮行会が終わると僕は久々にバドミントン部に顔を出し、部員達に直接激励の言葉を送った。皆僕を温かく迎えてくれた。赤木は毎日教室で顔を合わせて話をしているというのに数年ぶりに会ったような驚きようで思わず吹き出してしまった。
部の雰囲気は大会に向けて熱気を帯びていると表現するに他ない。誰もが本番に向けて練習を
赤木はとりわけインハイを狙う熱意が強く、皆の前で改めて堂々宣言した。僕は彼の、決意に満ちた険しくも明るい顔が憎かった。皆の尊敬と期待を一身に集め、目標に向かってひた走る姿が羨ましく、なぜ自分がそこにいないのかと今更ながらに悔やみ、ただただ嫉妬に駆られた。無論その空気の中で表情に出せるはずもなく、僕は元副部長として、赤木の友人として、あるいは冬木小夜子の恋人として空々しく一緒になって盛り上がっていた。
あぁ……とっとと負けちまえばいいのに。
*
壮行会を終えて二週間ほど経った週末。長崎県のバドミントン地区大会が開催された。今年も佐世保の大きな体育館で開催された。退部した身だから応援に行くか迷ったが、小夜子ちゃんのおじさんの好意で車に同乗させてもらえることになった。またおじさんからは小夜子の集大成だからと強くお願いされ、断る理由を見つけられず駆けつけた。
ダブルスの楓ちゃんのペアは三回戦敗退だった。二年生の女子部員との息はピッタリで、プレーにはミスやムラがなく上々な仕上がりだったと思う。負けたのは相手が明らかに格上の選手だったためで善戦したと言っていい。
一方で小夜子ちゃんの奮闘ぶりも目を見張るものがあった。初戦で優勝候補選手と対戦すると知った時は絶望を顔に浮かべていたが、僕はもちろん、部員や冬木家の面々が必死に応援したおかげか顔に覇気が宿り、見事勝利をものにした。結果は四位で惜しくも表彰台を逃したが、本人は実力を出し切ったと満足気であった。
悔いを残さない戦いぶりをした彼女の表情は清々しく、僕は何度も賞賛の言葉を送った。
しかし晴れやかな気分はすぐに雲が差し、やがて心は
理由は赤木だ。物事というのは
部員達はその快挙に沸いた。
冬木家の皆さんも驚いていた。
小夜子ちゃんも赤木の手を取り、ぴょんぴょんと跳ねて健闘を讃えた。
僕にはその姿が妙に眩しく、ますます妬ましい。
この調子でこいつがインハイまで制覇したらと思うと僕は気が気ではなかった。いくら赤木の実力が県内で飛び抜けていたとはいえ全国でも優勝する根拠などない。あるとすれば昨年のインハイでは長崎県代表の津田さんが優勝したという事実だ。だが、もしかしたら長崎県の代表が二連覇を達成するのではと危惧していた。
赤木旋風はそれだけに留まらない。昨年の僕がインハイマジックで散々持ち上げられたように、赤木もまた恩恵を大いに享受していた。校舎には彼の功績を称える垂れ幕が掛けられ、校内のそこかしこで彼の噂を耳にするようになった。彼の活躍ぶりを予想したり、後に続けと運動部が燃えている姿が散見され、そして当然というべきか女の子が羨望の念を口にするのを耳にした。誰も彼もが赤木赤木と持ち上げていたし、噂では五人の女子から告白されたらしい。……僕でさえ三人だったのに。
そこまでなら良かった。学校で彼がヒーローに持ち上げられることは単に羨ましいで済ませられる。彼が教室で担任から功績を称えられ、クラスメイトが沸いた時は一緒になって彼を賞賛した。否、一緒になるどころではなく、杖をついて必死に彼の側に立ち、「さすがだ!」「僕の分まで頑張ってくれ!」とベタ褒めし、インハイに向けての激励を送った。妬ましくもそれは偽りなき真心だと胸を張っていえる。妬みよりも友情が勝った。
だがそこからは大きな誤算が生じた。小夜子ちゃんが赤木に盗られたのだ。
いや、盗られたというのは言い過ぎだ。正確にいうなら彼女の時間があいつのために多く割かれる事態になってしまった。
バドミントン部では毎週日曜日は勉強と親孝行をするという名目で練習は休みになっている。なので日曜日はデートをするのが僕達のお約束だった。
ところがインハイに出場することが決まると赤木は部員達に大会が終わるまで日曜日も練習を開催したいと頼み込んだのだ。少しでも練習を増やし、実力をさらに伸ばして万全の態勢で挑みたいためとのことだ。その願いは二つ返事で承諾されたという。ここからは想像だが、赤木のインハイ出場は部の誇りだという空気があったためか誰も反対しなかったことだろう。何よりあいつは部長でリーダーシップのある人気者だ。あいつのために労を惜しむ部員は皆無でも不思議でない。それは小夜子ちゃんも同じだった。小夜子ちゃんは赤木の花道のため、僕とのデートを返上することにしたのだ。
それをメールで知らされた時、僕は卒倒した。デートが出来なくなるとか、一緒の時間が減るとかそういう類の悲しみではない。赤木のやったことは僕にとっては裏切り行為に等しく、そのような暴挙に出たことが信じ難いのだ。あいつは世界で一番大切な小夜子ちゃんを僕から奪ったのだ。松葉杖で殴り殺し、バラバラに切り刻んで相模湾に撒いてやりたい気分だ。
そんな不安定な気持ちを心の奥底にひた隠し、しかし学校の目につく範囲では赤木が小夜子ちゃんに変な色目を使っていないか監視し続けていた。
そうして時は過ぎ、学年末試験のテスト勉強期間に入ったおかげで部活動が活動休止になり、ようやく小夜子ちゃんとの時間を得ることが出来た。
*
一学期の期末試験直前の土曜日、小夜子ちゃんは我が家を訪れ、僕の部屋で一緒に数学の勉強をしていた。
小夜子ちゃんは座布団を敷いて丸テーブルに向かってシャープペンシルを動かしている。片や僕は勉強机に齧り付いている。いつもなら二階の客間にお通しして、大きな座卓に並んで座るところだが足の怪我のため椅子に座っている。同じ部屋にいるのに隣に並ぶことが出来ず歯痒い思いだが、今はとにかく同じ部屋にいられることが嬉しい。
「
一方の小夜子ちゃんは試験範囲の微分に頭を悩ませているところだ。プシューッと湯気が噴き出す音が聞こえた気がしたので苦笑を堪えながら椅子を回転させて振り返る。
「分からないところある?」
「うん、今やってる問題を教えて欲しいな」
僕は立ち上がり、足を引きずりながら移動してベッドに腰掛けた。小夜子ちゃんは参考書とノートとペンを持って右隣に座った。ギシッとベッドのフレームが軋む。太もも同士がピッタリくっつき、桃のような甘酸っぱい香りがふわりと漂って鼻をくすぐった。
香りだけではない。風のような優しげな
されど今日は真面目な勉強会だ。僕は遠のく意識を理性で引き戻し、小夜子ちゃんの疑問に耳を傾ける。そしてペンを受け取り、ノートに数式を紐解いていく。一行ずつ丁寧に微分し、項をまとめ、置き換え、最後には解が導かれる。
「どうかな、合ってる?」
小夜子ちゃんは問われ、模範解答を確認した。
「すごい、ご明察! 航ちゃん頭良い!」
満面の笑みで僕を褒める。そしてシャーペンで先ほど僕が書いた解に丸をつけた。可愛らしい花丸だ。
「航ちゃん、次のテストは自信ある?」
「うん、高得点狙ってる。皆より早く引退した分、僕は勉強を頑張らないといけない。それに推薦入試にも応募するから、期末試験で絶対良い点を取らないと」
意気込みを問われ、胸の内を惜しみなく曝け出した。
勉強を頑張る理由は模試の結果を反省してということもあるが、今言ったように推薦入試を受けるためでもある。実を言うと二年生の秋にはすでに推薦入試の意志を当時の担任には伝えていた。そのためには模試や入試ばかりにかまけず定期考査も抜かりなく挑むようにと釘を刺されたのだ。当時は部活優先のつもりで悩ましかったが、一足早く引退した分、今では推薦入試のポイントを稼ぐため期末試験に照準を合わせている。
部の皆がラケットを振って青春している間、僕が正気を保っていられたのは推薦入試という越えるべき山を見据えていたためだとも言える。
「ふふ、そうだね。航ちゃんめげずに頑張ってるもんね。偉い偉い」
よしよし、と母が子どもを褒めるように、彼女は優しく僕の頭を撫でた。目の前にはひだまりのような朗らかで温かみのある笑顔があった。髪を上から下に撫でる手は優しく、柔らかく、人の感情が込められていることがすぐに感じられた。
その時、僕の中で何かが弾けた。
「航ちゃん、どうしたの? なんで泣いてるの?」
僕はポカンと口を小さくあけ、目を見開いてまじまじと目の前の女の子を見つめる。いつの間にか涙が溢れていた。
僕は取り繕うことも、涙を拭うことも忘れ、彼女に抱きついた。抱きつき、肩に目を押し当て、臆面もなく啜り泣いた。
「航ちゃん、どうしたの? 足が痛むの? それとも私、嫌なこと言っちゃった?」
慌てた声でそう問われる。無理もない。いきなり泣き出し、抱きつかれるとこんな反応をしてしまうだろう。なんでもないよと取り繕うか、気持ちを言葉にして露わにすべきであった。だが感情の高まりを抑えられず、僕は肩に顔を
赤木は大会の功績でヒーローになった。皆彼を称え、期待を寄せる。だが僕には誰も見向きもしない。ポツンと一人になるのは惨めだから、彼を取り囲む一人間になることに甘んじだ。それは僕の幼稚な嫉妬心を隠すための自己と周囲へのカモフラージュだ。本当は僕だって皆に称えられ、期待されたい。
だがもはや賞賛も期待もいらない。皆が僕を見てくれなくても、その代わりにこの子が今までと変わらず優しく接してくれさえすればいい。小夜子ちゃんの一番の男でありたい。しかしその地位さえも奪われようとしていた。
一体どうすれば、この子を守れるのだ。
僕よりもスポーツが出来て、背が高くて、皆の人気を集める
「小夜子ちゃん……」
「何、航ちゃん?」
顔を埋めたまま、宝物の名を呼ぶ。涙声は少しだが平静を取り戻しつつあった。
「好きだよ」
「え、どうしたの急に?」
「急じゃないよ。ずっと好きだ。春も夏も秋も冬も、家にいても、学校にいても、体育館にいても君のことがずっと好き」
「私も、好きだよ。航ちゃんのことを考えない時なんてないくらい。私、ずっと航ちゃんのこと考えてるもん」
小さな手が僕の背中に当てられ上下する。そのおかげで呼吸と心の乱れは落ち着き、彼女の目を見て話せるようになった。
「ごめんね、私、最近部活ばっかりで航ちゃんと話せてなかった。一人で不安だったんだね」
ぽつりと謝罪の言葉を述べると、彼女は小さな口の薄い唇を僕のそれに重ねた。触れ合う程度の優しいキス。柔らかく温かく甘い感触でようやく我に返った。
「航ちゃん、寂しい思いさせてごめんね。でももう少しだけ我慢して。副部長としての役目を全うして、部活を引退したら私も勉強に打ち込むつもり。そしたら毎日図書館で勉強して、お休みの日はこうしてお家で勉強しようね」
「……うん、待ってる。小夜子ちゃんが分からないところを教えられるよう、僕も頑張るよ」
「ふふ、約束だよ」
「うん、約束。大好きだよ」
「私も、大好き」
自らの小指と彼女の小指が絡み合う。太さも長さも違う二本の指は親子ほども差がある。だがその実、どちらが親でどちらが子なのか分かったものじゃない。それがおかしくて僕は小さく吹き出した。彼女は僕がなぜ笑ったのかなど知る由もないだろうが、釣られて笑った。
結局、僕はあいつに勝てっこない。スポーツもルックスも人気も劣り、この先あいつが勉強に打ち込めばそのうち学力も逆転されるかもしれない。競争では勝てっこない相手なのだ。
だが小夜子ちゃんへの想いは別だ。僕はこの子の恋人で、あいつはただのクラスメイト。同じ土俵にさえ上がっていないのだから勝負になんてならない。だからこの先も大丈夫だ。僕がこの子に好きだと言い続ければ、小夜子ちゃんは僕を唯一の恋人と認めてそばに置いてくれるはずだ。
そう信じる以外に道などない。
*
期末試験を終え、一学期を消化して迎えた夏休み。バドミントン部はもちろん運動部が熱気を取り戻すと僕はまた蚊帳の外に置かれたような気分になり、寂しい日々を送ることになった。
しかしそれも束の間、八月になると僕の元には良いニュースや出来事が立て続けに起こった。
まず僕の松葉杖が取れた。ギプスも取れ、装具を装着すれば歩けるようになった。外歩きをするときは念のため死んだじいちゃんの杖を持ち歩いているが、すぐに慣れてそれも不要になった。夏休みの間は学校で夏期講習があるため一学期と変わらず登校するが、もう車で送られる必要はなくなった。
二つ目は夏の大会がひと段落したお陰で小夜子ちゃんが構ってくれるようになったことだ。小夜子ちゃんはインハイが終わると部活を引退し、勉強に専念する姿勢を見せた。そして約束通り、夏期講習後の自習用の教室や図書室、休日はお互いの家を行き来して勉強に打ち込んだ。スポーツで青春出来なかった分、学業で青春を取り戻せているような気がして不思議と勉強に嫌気が差さないから不思議だ。
一つ気になる点があるとすれば、小夜子ちゃんのお宅へお邪魔すると必ず楓ちゃんも一緒になって勉強をしたがることだろうか。大抵は勉強場所にダイニングを使わせてもらうのだが、なぜか練習終わりの楓ちゃんもそこに参加したがる。そして一緒に夏休みの宿題を広げ、仕切りに僕に質問してくるのだ。小夜子ちゃんは楓ちゃんに僕の邪魔をするなと咎めるが、僕としては一年生の範囲を復習することになるのでむしろ得でさえある。小夜子ちゃんが不服そうな点以外を除いては。
三つ目は赤木だ。今年のバドミントンの大会は前年と同じく静岡県浜松市で開催された。赤木は万全の体勢で大会に臨んだが、結果は一回戦敗退と辛酸を舐める結果となった。なんでも試合前に地元のちんちくりんな女の子にサボタージュを食らったらしく、調子が出なかったそうだ。どこかで聞いた話だ。
なんにせよ、僕としてはあいつがこれ以上持ち上げられなくなったためホッと一安心である。僕から小夜子ちゃんを盗ろうとしたバチが当たったに違いない。ざまぁみろだ。お陰で僕は例年のバーベキュー大会で赤木の活躍を賞賛し、三年生の引退を清々しい気持ちで見届けることが出来た。
だが心残りなもある。夏期講習の間、僕は赤木の様子を観察していたが不審な点が見当たらない。全くだ。あいつから小夜子ちゃんに話しかけることはほとんど無いし、僕達二人が話し込んでいるところに割って入ってくることもない。つまり、状況だけ見ると赤木はこれまで通り友人の僕に対し、小夜子ちゃんと遠慮して接しているということになる。もっと直接的に言えば、赤木は小夜子ちゃんを盗るような素振りは見せていない。
つまりは僕の早合点であったと言える。お陰で赤木には悪いことをしたとの罪悪感が胸の内を占めた。
だが決して彼への疑いが無くなったのかと言えば答えはノーだ。一度抱いた疑念は決して払拭されることなく、しつこい油汚れのように心の奥底にこびり付いてる。
その疑念は今でも変わらない。
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