第35話 絶える望み(2)

 僕は救急搬送された。誰かが呼んだ救急車のサイレンが遠くからどんどん近づいてくるのを朧げな意識で感じ取り、早く助けてくれと叫びたかった。


 赤木と古賀先生に肩を担がれ、体育館の入り口に運ばれるとストレッチャーに乗せられた。救急車の近くには何事かと興味を抱いた運動部が集まっていた。半数近くはただただ好奇心を顔に浮かべていたが、もう半分は明らかな不安顔を浮かべていた気がする。きっと外トレをしていたバドミントン部の仲間達だ。


 救急車には顧問の木村先生が同乗した。出発間際、赤木に練習を中止して解散するよう指示を出していた気がする。記憶があやふやなのは救急車に乗せられ、心なしか安堵して緊張の糸が切れたためかもしれない。


 搬入口の扉が閉ざされ、車両が動き出す。サイレンの音が天井の向こうで鳴り響くのを聞きながら、途切れそうになる意識を歯を食いしばって繋ぎ止めた。自分の身に何が起こったかを聞き届けたい一心であったためだ。


 搬送された病院で下された診断は全治半年のアキレス腱断裂。歩けるようになるまで三ヶ月、全力のスポーツが出来るのは半年ごとの診断であった。

 夏の地区大会は六月なのでもう間に合わない。


 こうして高校三年間情熱を燃やした部活動は呆気なく終わりを迎えたのだった。


 *


 幼い頃、まだ両親の仲は良く休日は三人でよく外出をした。と言ってもお金のない家庭だったから大して遠出は出来ず、近場のテーマパークにも連れて行ってもらえなかった。学校の友達が映画やテーマパークに行った自慢をしているのを聞くと羨ましかった。それでも僕は家族での外出は楽しみであった。


 よく訪れたのは金沢区の海の公園であった。海水浴シーズンは海で泳いだし、それ以外の季節もお弁当を持って三人で遊びに来ていた。


「ねぇ、父さん。電車から見えた建物は学校?」


 海水浴シーズンにはまだ早すぎる春の頃。幼い僕は手を繋いで歩く父にそう尋ねた。


「横浜市立大学だよ。父さんの母校なんだ」

「ぼこう?」

「卒業した学校、という意味だ。父さんはあそこの学生だったんだよ」

「へぇ。じゃあ僕もそこに行く!」


 大学の意味もよく分かっていない年齢の僕は、なんとなく父の背中を追いたくてそう答えた。父はケラケラと、僕の反対の手を繋ぐ母はコロコロと微笑んだ。


「航太郎には無理じゃないかな」


 だが父の反応はにべもなく、冷たいものだった。いきなり頭ごなしに否定され、僕は自棄やけになって食ってかかった。


「だって、そんな足じゃ横浜まで来られないだろう?」


 父は僕の手を離し、視線を落とす。僕も釣られて視線を下げた。その先にはギプスを装着した痛ましい姿の左足があった。


「だ、大丈夫だよ、父さん。松葉杖があればちゃんと歩けるからさ!」


 部活動で怪我をした僕は病院から松葉杖を借りて歩いている。これがあれば近所を出歩くことくらいは容易い。きっと横浜まで行けるよ!


 そう明朗に言って見せるが、父の顔は冴えない。

 埒が明かない。焦れた僕は父の隣に立っている母に目を向けた。だが母の顔も暗い。


「そうねぇ、航ちゃんじゃ無理じゃないかしら。副部長なのに自分のことばかり考えて、さっちゃんを困らせて。そんな不出来な男の子じゃ……ねぇ」


 どん、と何かに乱暴に突き飛ばされた。僕は杖を取り落とし、尻餅を突いて倒れた。訳が分からず、何が起こったかと辺りを見渡す。両親の姿はそこにない。だが視線の先に体操着を着てラケットを握っている赤木と小夜子ちゃんが並んで立っていた。


「よう、航太郎。俺達練習があるから行くわ」

「ばいばい、航ちゃん」


 そう言って二人は仲良く並んで歩き、去っていく。別行動が当たり前のように。


「待ってよ! 僕も行くよ! 練習に参加するよ!」


 立ち上がろうとするが左足に足に力が入らない。途方に暮れるが、僕はなんとか松葉杖で地面をついて立ち上がった。そうするうちに二人はみるみる遠くへ行ってしまう。僕は必死に追うが、杖をついている身ではとても追い付けない。


「誰か手を貸してくれよ! 足を怪我してるんだ!」


 道を行く人々、長崎肥前高校の制服を着た生徒達に向かって叫ぶ。だが僕に手を差し伸べてくれる人は誰もいない。そりゃそうだ。

 ここは長崎。僕にとっては見知らぬ町。

 僕のために親身になってくれる人なんて誰もいない。

 学校で友達が出来た。仲間が出来た。恋人が出来た。


 だからなんだ?


 *


 意識が急に現実に引き戻され覚醒した。朝日がカーテンの隙間から差し込み、室温をぽかぽかと心地良い温度まで引き上げていた。だが快適な空間の自室とは裏腹に僕は全身に寝汗をべっとりかいて不愉快極まりない。


 うなされ、その苦しみからもがき逃れるように僕は左手を天井に向かって伸ばしていた。そしてその手に何か、柔らかくて温かい物体が収まっている。ふにゃふにゃと手の動きに合わせて形を変える何かだ。


 なんだこれは?


 寝ぼけ眼だけを動かし、指先に視線を這わせる。


 そこには母がいた。

 僕が掴んでいたのは母さんのおっぱいだった。


「何すんだよ!?」


 僕はキレた。


「あんたが揉んできたんでしょう?」


 母は冷静に、ジトッと非難がましい視線を向けつつ手を振り払った。


 寝ぼけていたとはいえ、齢十七歳にして母のおっぱいを揉んでしまった。物心ついて初めて揉んだおっぱいが母さんだったとは。きっとファーストおっぱいは小夜子ちゃんになるとばかり思っていただけに死にたい。


 身体を起こして周囲を見渡す。当然と言うべきか、ここは僕の部屋だ。元々は祖父の書斎だったが亡くなってからは空室になり、僕がこの家に引っ越すにあたってあるじになり、整理してベッドを置いた。


「今、何時?」

「五時半よ。洗濯物、箪笥たんすに仕舞っておくわね」


 早いな。普段なら僕はまだ眠っている時間だ。

 だが勤勉な母はすでに着替えており、こうして僕の洗濯物の面倒を見てくれていた。きっと台所では朝食の支度が済んでいるのだろう。そして普段であれば僕が学校で食べる弁当も作り終えているところのはずだ。


「随分うなされてたけど、嫌な夢でも見たの?」

「よく覚えてない。でも父さんが出てきた。三人で海の公園の砂浜を歩いてた……ような気がする」

「あ、そう」


 優しく宥める母は、しかし父の存在を感じると急に冷めた声を出した。


「朝ご飯、もう食べる? 持ってこようか?」


 だが一転して母はぬくもりを感じさせる優しい声でそう聞いてきた。僕は頷き、お願いした。


 左足がズキリと鋭く痛む。視線を向けるとギプスが脹脛ふくらはぎから下を覆っていた。

 足を怪我してから一週間が経過した。その間、世間はゴールデンウィークであったが僕は日がな一日ベッドに横になって本を読んだり、CDで音楽を聞いたりして無為に過ごしていた。そして食事の時間になれば母が部屋に運んできてくれるという具合の生活だ。その間、外には一度も出ていない。

 人に会う気にもなれず、日曜日には赤木と小夜子ちゃんが見舞いに来てくれたが、気分が悪いからと理由をでっち上げて帰ってもらった。なので話し相手になってくれたのは母さんとばあちゃんだけだ。


「ねぇ、母さん。今日から学校行くよ」


 部屋を後にしようとする母の背中に向かってそう告げた。母は振り返り、「分かった」と短く答えた。

 心配されるかと思ったが、存外あっさりした反応で助かった。心配されたり、同情されては気まずくなる。母は淡白だけど温かみのある性格の人だ。その優しさに、僕は救われていた。


「母さん、(いつも)ありがとう」

「……航太郎のえっち」

「そういう意味じゃねぇ!」


 こうやって揶揄っててのひらの上で踊らされるのは勘弁してほしいが、きっと愛情表現だ。


 *


 今日は水曜日だった。丸一日自室に篭って過ごす生活を送っていたたため早くも曜日感覚が狂ってしまった。


 教科書類を鞄に詰め込んで玄関を出ると母が運転する軽自動車に揺られ、学校へ送り届けられた。礼を言って下車し、昇降口で四苦八苦しながら靴を上履に履き替え、これまた苦心して階段を登って教室へ到着した。

 教室には朝練を終えた運動部員の姿も見られ、クラスメイト達はいつものようにホームルームまでの暇を持て余している様子だった。思い思いにグループを作り、談笑に花を咲かせていた。そこに僕が杖を突きながら入ってきたものだから水を打ったように一瞬静寂さが充満し、注目を集めてしまった。


「おっはよー」


 皆の視線が痛い。一様に哀れみの顔を浮かべ、ヒヨヒヨと情けなく歩く僕を見ていた。同情されるのはごめんだ。その一心で空元気を浮かべ、努めて明るく挨拶をかました。だが返ってきたのはぎこちない返事だけだった。


「航ちゃん!」


 気まずい雰囲気を掻き分け、小夜子ちゃんが僕の元へ駆け寄ってきた。そして有無を言わさず、半ば奪い取るように僕の鞄を預かり、席まで運んでくれた。申し訳ない思いだが、僕の席は窓側最後列と長い道のりの先にある。今は好意を素直に受け取りつつ、後で誰かに場所を変わってもらおうと思案した。


「もう動いていいの?」


 椅子に腰掛けた僕に彼女は不安げな表情で尋ねてきた。青葉と戸塚もやってきたが、赤木の姿はない。


「うん、ギプスで固定してるから杖があれば動けるよ」


 松葉杖を指差し、あっけらかんと答えてみせた。


「手術、したのか?」


 これは青葉の問いだ。彼は眉間に皺を寄せ、ギプスを装着した左足を見ていた。


「してない。自然にくっつくのを待つことになったんだ。保存療法っていうんだって」

「……航ちゃん、いつ治るの?」

「歩けるようになるのは三、四ヶ月後だって。スポーツが出来るようになるのは半年後だよ」

「そんな……」


 小夜子ちゃんは青ざめた顔の口元を両手で覆った。眼鏡の向こうの瞳が大きく見開かれ、潤いを帯びて揺らいでいた。


「仕方ないよ。スポーツに怪我は付き物だもの。リハビリが始まるまでは無理は禁物。体育は見学。部活は……サポートに徹することにするつもりだよ。だからさ、僕の分まで皆で頑張ってよ」


 *


 そうして迎えた放課後、僕は体育館の隅っこでバドミントン部の練習を見学していた。小夜子ちゃんが気を利かせて椅子を用意してくれたので、腰掛けてシャトルを目で追っていた。


 ゴールデンウィークはとっくに明け、部内はランキング戦のムード一色になっていた。試合の予定が部長達から通達され、部員はきびきびと動き、滞りなく、効率良く対戦が執り行われた。


 小夜子ちゃんが言うことには、僕が怪我をした翌日、模擬戦を仕切り直してランキング戦の実施予定を組み上げたらしい。一時的に空席となった副部長は山内という三年生部員が代理を務め、その任を全うしている。


 僕が見た限り、バドミントン部は滞りなく活動していた。実際、それが事実なのだろう。一つ上の代の先輩達がいなくなっても部は崩壊したりしなかった。大勢の先輩方が抜けても問題無かったのだから、僕一人いなくなったところで支障を来すはずなどなかった。


 この日は活動時間が終わるまで座って試合を眺めていた。帰りは赤木と小夜子ちゃんと一緒に坂を降りながら下校した。小夜子ちゃんが鞄を持ってくれると申し出てくれた時は優しさが心に染み、涙が出そうになった。


 その翌日と翌々日、僕は部活動を欠席した。その旨は午前中に赤木に伝えてあった。見ているのが辛いからと理由を添えて。

 半分は事実で、半分は嘘だ。僕は自分がいなくても回る部を見ているのが寂しく、情けなく、辛いから逃げた。


 土曜日、僕は母に付き添われて病院へ診察へ赴いた。診察といっても患部に異常はないかとか問診が主で、すぐに帰してもらえた。その間際、僕は主治医の秋山先生から意外なものを渡された。


 赤本だ。十年以上前に出版されたものだ。表紙には『横浜市立大学 理学部・医学部過去問』と書かれていた。秋山先生は僕の志望校のOBで、先輩になるかもしれない人だったのだ。


 秋山先生は三十代半ばのハンサムな男性だ。怜悧な顔つきながらもどこか安心感を与えてくれる優しい口調が特徴で、僕は最初に話をした時からこの人のことが好きだった。その先生が市立大のOBだったと知り、僕はますます嬉しかった。


 先生はお古の赤本を渡す時、いつもと変わらない口調でこう言った。


「横浜、良い街だよね。オシャレで、見どころがたくさんあって。勉強、頑張ってね」


 先生は部活は諦め、そのエネルギーを勉強に費やせとエールを食ってくれたのだ。僕はそう解釈した。


 日曜日、僕は家に赤木を呼んで話をした。今後の身の振り方を相談するためだ。

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