第34話 絶える望み(1)

 土曜日。新入生を交えて初めての休日の練習に臨んだ。そして午後には部長陣と顧問を混ぜ、軽くミーティングをした。

 日曜日。例によって部活はお休み。小夜子ちゃんと散り始めた桜を見てお花見を仕切り直した。


 そして月曜日。朝のホームルームが始まる十分前、僕は提出予定の進路調査票をぼんやり眺め、チャイムが鳴るのを一人で待っていた。


 今日は珍しく、小夜子ちゃんは時間に余裕を持たせて登校していた。昨年に引き続きクラスメイトになった親友のまーちゃんとみぽりんと黄色い声を上げて談笑している。


「よう、航太郎。おはようさん」

「おぉ、青葉。おはよう」


 遅れて入室してきた青葉は荷物を自席に起き、僕の席へやって来て声をかけてくれた。

 青葉は今年も同じクラスになった。戸塚も一緒だし、もちろん赤木もだ。変わったことといえばサッカー部の両名とはこの頃よく話すようになったこと。二年生の頃はきっかけがあればトークするという程度で、付かず離れずな間柄だった。だが三月にフットサルをして以来マブダチ感が築かれ、今では毎日のように話している。お陰で退屈せず楽しい日々を過ごせていた。


「進路調査票、もう書いたん?」

「まぁね。進路は前々から決めてたし」

「ほぉ、見してよ」


 前の座席の椅子に跨り、用紙を覗き込む。僕はいとわずそれを差し出した。受け取った青葉は真剣な眼差しで目を落としていた。


「第一志望は横浜市立大学理学部コンピュータサイエンス学科、か。私立は福大理学部計算機工学科……IT系に行くのな」

「うん、そのつもり」


 用紙を受け取り、首肯した。


 進路の話は親に通してある。母はもちろん、東京で暮らしている父にもだ。両親ともども高校以前から僕の希望を知っていたから、横浜市立大学を受験し、進学することに反対はしなかった。父と母は学資保険をそれぞれ積み立てていたらしく、学費は出してくれることになっていた。父母共に「金がない」と言っていたが、僕のために準備してくれていたのだ。その援助と奨学金に加え、足りない分はアルバイトをして稼ぎ、来年の春からは横浜に帰郷するつもりだ。

 一方で国公立が無理な場合は滑り止めの私立には行かず浪人することになるだろう。私立は公立に比べて学費がべらぼうに高い。それこそ両親が出してくれるお金では足りないくらいだ。用紙には記載したが、それはあくまで形式的なものに過ぎない。僕には国公立以外の選択肢は初めからないのだ。


 ふと視線を感じ、青葉から目を離す。小夜子ちゃんと目が合った。だが彼女は少し顔を曇らせ、すぐにお喋りに戻ってしまった。モヤッとした気持ちが顔に出るのを堪えながら、僕も青葉に視線を戻す。


 小夜子ちゃんとは喧嘩の一件以来進路の話はしていない。経過や結論どころか、相談もしてくれない有様だ。無論、僕は彼女の決断を待つと言った手前催促したり、そう思われるような言動にも気を払っている。僕に出来ることといえば自らの好意を言葉と態度に表し続け、信頼を積み重ねることくらいだ。


 だがその覚悟とは裏腹に日に日に焦りが募っているのが本音だ。進路調査票が配られたのは先週の金曜日で、リミットは今週の金曜日。その内容をもとに来月から保護者面談で受験の相談をすることになるため、自ずとこの用紙に書いた回答はかなり確度の高いものとなる。そしてその内容如何いかんでは僕達は離れ離れになるのだから、彼女の回答が心配でならない。

 仲直りしてからは胸中のモヤモヤを見て見ぬふりしてきたが、とりわけこの週末は気が気でなかった。


 その不安を掻き消すように赤木がこちらにやって来た。


「よっす、航太郎。調査票、もう書いたのな」


 共に朝練を終え、教室に来るや何処かに消えていた赤木だがチャイムが鳴りそうなので戻ってきた。


 彼の顔を見ると進路の不安は消えたが、もう一つの懸念事が脳裏をぎる。ランキング戦だ。

 我が部では夏の大会に出場するメンバーを選出するため、毎年ゴールデンウィーク明けから総当たりの内部試合が行われる。その時期が近いから僕は部活動に関してもピリピリしていた。

 そして今日の放課後はランキング戦の模擬試合デモンストレーションが行われることになっていた。今年は例年より新入部員が多いため、試合を効率的に消化するためいくつかの施策を練ってある。土曜日のミーティングで話し合ったのだ。そして僕には副部長として全部員の試合を円滑に実施していく責任がある。


 だがピリピリする理由はその責任よりも、むしろ自分のプライドであった。


 昨年の大会ではシングルスで全国大会へ出場し、時の人となった僕だがその栄光はもはや過去のものになってしまった。学校内では毎日何かしらセンセーショナルな話題が行き交うため、半年以上前の出来事は古事と言える。加えて秋頃に開催された新人戦は鳴かず飛ばずな結果であったため、次の大会における僕への期待値は低下気味だ。小夜子ちゃんや親しい部員や友人、新入部員の一部は期待をかけてくれているが、学校全体で言えば無風だ。僕が一発屋で終わらないことを示すには結果を示さなければならない。そのため次のランキング戦では上位に食い込み、シングルスの代表権を獲得しなければならない。

 幸いにして僕の脅威となる選手候補は赤木しかいない。一学年上の先輩達が引退してから、残された部員はメキメキ成長したがそれは僕も同じだ。他の部員は目じゃないし、なんなら赤木にも勝てる気がする。

 シングルス出場権は上位選手が獲得していくのが常なので僕がその権利を獲得するのは確定も同然だが油断は禁物だ。昨年のインハイでは格下相手に遅れを取り辛酸を舐めさせられた。お陰で勝負は水物だと学んだ。緊張感はそんな臥薪嘗胆の心構えゆえであった。


 やがてチャイムがなり、担任の国語教師が顔を見せた。ホームルームでは連絡事項を手早く伝達し、提出物の回収が行われた。生徒が各々教壇へ足を運び、直に先生に手渡す。締切まで余裕のある本日提出したのは僕を含め三人程度。教壇から戻る際、小夜子ちゃんの様子を窺うと素知らぬ顔で一限の準備をしているところだった。僕は心底落胆した。


 だが僕に出来ることは何もない。あるとすれば、確実に結果が実を結ぶよう全身全霊を現在いまに投資することだけだ。


 昨年の全国大会出場者としてのプライド。

 恋人の冬木小夜子。

 未来を左右する進学。


 僕はこの全てを手にし、守ってみせる。


 *


 放課後、部活動が始まると全員で基礎練習を済ませると部員を二手に分けた。下級生を三年生に預け、彼らは外で体力トレーニングをするよう指示をする。もう一方は男女両部の部長、副部長、二年生と一年生をそれぞれ二人ずつ残し、ランキング戦の模擬試合を行うために体育館に残る。


 僕と小夜子ちゃんはこれから試合をする。二年生の部員が主審を務め、一年生二人がボールボーイならぬシャトルボーイを務める。ちなみに残った一年生の一人は楓ちゃんだ。


 各々定位置に着いたところで赤木が口を開く。


「これから八点マッチ、二ゲーム先取の試合をする。一試合にどれくらいの時間を要するか測るつもりだ。公式試合だと思ってプレーしてくれ」


 赤木の声はピリついていた。彼が告げた通り、この模擬試合は五月からのランキング戦を効率的に消化していくためのデモ試合だ。八点マッチにしたのは試合時間を短くするためで、シャトルボーイをわざわざ配置したのもロスタイムを減らすための施策だ。


「小夜子ちゃんと試合するの、何気に久しぶりじゃん」


 ラケットを肩に担ぎ、僕は余裕綽々に言う。普段、練習は男女混合で行っているが、内部あるいは外部との練習試合は公式戦を想定し男女別になることがほとんどなため、彼女との試合は久しい。


「……そうだね。私、本気でいくから」


 そう宣言する彼女の表情は固い。緊張と、形容し難い複雑怪奇な感情が滲んでいると見て取れる。きっと楓ちゃんの前で僕と試合をするため肩に力が入っていると見た。負ければ姉としての面子が立たないと武者震いしているのだ。ここは姉の顔を立てて上げたいところだが僕にも意地がある。インハイ出場者、副部長、そして彼氏としての意地だ。わざと負けて妙な噂が立てばいい恥だ。何より小夜子ちゃんが僕に勝てるはずはない。体格と体力の差はもちろん、技術でも僕が勝る。彼女には悪いが、ここは僕の顔を立ててもらうことになるだろう。


 主審役の二年生が電子ホイッスルを鳴らす。

 サービスは相手側。サーブショットされたシャトルがネットギリギリを通過し、自陣に飛び込んできた。

 チラリと小夜子ちゃんの様子を窺うと、重心を向かって右側に移している。ならばと僕は真逆の左サイド目がけてリターンする。その先の展開を僕は予見した。彼女は右サイドとの予想をまんまと裏切られ、落下するシャトルを必死に拾おうとするが取りこぼしてしまう。僕の得点になった。動体視力とコントロールを活かした僕の華麗なプレーが披露されるのだ。


 だが予想を裏切られたのは僕の方だった。彼女は右サイドに踏み出すどころかあっさりと左にステップを切り、僕のショットを難なく拾う。打ち返されたシャトルは油断した僕の真上を悠々と飛び越え、後方のライン間際にカツンと音を立てて落ちたのだ。ホイッスルがなる。小夜子ちゃんの得点だ。


 僕は信じられない思いで落下したシャトルを眺めていた。そのシャトルは一年生の男子部員に拾われる。気を取り直して相手コートの女の子を見ると、雄気堂々とした笑みを浮かべ、小さくガッツポーズをしていた。それも束の間、シャトルボーイの楓ちゃんからシャトルを受け取り、サーブ位置に着く。


 完全にフェイントをかまされた。彼女の持ち味はネットやアウトをしないミスの少なさだと思い込んでいたが、こんな器用なプレーが出来るとは、完全に油断していた。


 気を取り直してゲームに臨む。

 だがその後も試合は完全に小夜子ちゃんペースであった。僕は彼女のショットを追い、右に左にと振り回された。挙句の果てには鋭いスマッシュを額に食らう始末であった。

 ホイッスルが響く。八対三で第一ゲーム終了。僕の負けだった。


「冬木、今日は攻めるな!」

「さっちゃん――ゴホンッ、冬木先輩凄い!!」


 赤木がアグレッシブなプレーを讃え、妹の楓ちゃんが姉の雄姿に歓喜する。


 落ち着け、僕。まだ第一ゲームを落としただけだ。第二、第三ゲームで挽回すれば良いだけのこと。一分間の休憩の間、僕は先ほどの彼女のプレーを脳内でリプレイし、次の戦略を組み立てる。


 だがどうにも違和感を拭えない。赤木の言う通り今日の彼女はやけにアグレッシブだ。ショットの一つ一つがやけに力強く鋭い。

 普段の彼女は極力ミスを回避して失点を減らし、逆に相手がミスをするのを待つようなプレーをする。だが今日は真逆だ。精密なコントロールを活かして僕の体力を削り、チャンスと見れば容赦なくスマッシュを打ち込んで点を取りに行く。まるでハリケーンだ。一方でらしからぬミスをして失点する。実際、僕の点は全て彼女のミスショットによるものだ。

 どうして今日はそんなプレーをするのだ。そう考えた時、彼女の言葉と、固い表情が浮かんだ。


 私、本気でいくから。


 なぜ本気になるのだ。なぜそう宣言するのだ。

 そう自問自答すると、彼女の乱れた心情が僕の視界を埋め尽くす思いだった。

 進路のことで揉め、一旦は和解したものの彼女はずっと悩み、プレッシャーを感じているのではないか。


「第二ゲーム、始めます!」


 主審が両選手に告げる。僕は休憩スペースで軽くジャンプし、すぐさまサーブ位置に着く。次のサーブは僕からだ。


 左サイドラインぎりぎりを狙ってサービスショットを打つ。小夜子ちゃんはすぐさま反応し、器用に打ち返した。それをドロップショットで打ち返すと、彼女は必死の形相で飛び込み、ロブショットにして打ち返してきた。僕はそれを、容赦のないスマッシュで打ち返す。僕の得点になった。


 小夜子ちゃん、君が僕のために悩み、乱された心に充満したエネルギーを本気でぶつけてくるのなら、僕も本気でそれに向き合うよ。

 悩み、怒り、すれ違い。言葉にするのが憚られるのなら、その気持ちの全てをショットに込めて僕にぶつけてほしい。僕は一つたりとも溢したりしない。その全てを拾い、君に返す。逃げも隠れもしない。小細工を弄して煙に巻いたりしない。真正面から立ち向かい、君の気が晴れるまで何度でも立ち向かい続ける。だから、思う存分、気持ちをぶつけてくれ。


 ヘッドスライディングのごとく僕は身を投げ出し、右サイドに打ち込まれたショットを拾う。誰もが唸る見事なスマッシュを僕はロブにして跳ね返した。それを小夜子ちゃんがまたしてもスマッシュで送り返す。反対側、左サイドだ。


 落とすものか!

 なぜだか、そのショットを落としてしまうと、繋いでいた小夜子ちゃんの手がスルリとすり抜けてしまうのではないかとの錯覚に陥った。


 そんなのは絶対に嫌だ!


 その一心で僕は左足に力を込め、目一杯踏み込む。


 ブチッ――


 耳の内側ではっきりと何かが切れる音がした。


 瞬間、僕はバランスを崩し、肩から床板に倒れ込んだ。どしんと身体が叩きつけられる音が妙に遠くから聞こえた気がした。

 打ち付けられた右肩が、右腕が鈍く痛む。だがそんな痛みが気にならないくらい左足が痛んだ。まるで棍棒でぶっ叩かれたようにふくらはぎの辺りに激しい痛みを感じるのだ。痛くて痛くて、我慢出来ず、僕は悲鳴を上げた。


 赤木が、主審が、小夜子ちゃんが僕の名前を叫びながら駆け寄ってきた。視界の向こうでは楓ちゃんが青ざめた顔で立ち尽くし、こちらを呆然と見つめていた。さらにその向こう、体育館の隅っこにある体育教官室から古賀先生が血相を変えて駆け寄ってくる。

 皆、僕の身に起こった異常事態に平静を失っていた。そのことが分かっているのに、僕は取り繕うことが出来ず、痛みのあまりのたうち回ることさえ出来ず、脂汗を滝のように流しながら床でうずくまっていた。


「うぅ……あぁ! 父さん……母さん……」


 意識が遠のくほどの痛み耐え、逃れたい一心で僕は譫言うわごとを口にしていた。

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