第32話 最後の一年、茨の道〜すれ違い〜

 恋人を泣かしてしまい、仕返しに模試の結果を罵られ、挙句置き去りにされるとは散々な日曜日ではないか。混乱から立ち直ると僕は不貞腐れ、花見などする気持ちも毛頭なく家路についた。長い坂を登り切り、自宅に帰り着くと丁度母もパートから帰った所らしい。キッチンのダイニングテーブルには食材を詰め込んだビニール袋が二つ並んでおり、その傍で母がペットボトルのジンジャーエールを美味しそうにあおっている所だった。


「あら、航ちゃん。おかえりないさい。もう帰ってきたの?」

「ん」


 花見はどうだったかと感想を聞きたげな母。なんだが話すのは躊躇われる。僕はビニール袋からタケノコのチョコ菓子を失敬し、部屋へ退散することにした。だがそうは問屋が卸さない。


「お花見、どうだったの?」


 やっぱり聞かれた。もうちょっと上手く誤魔化せれば訊かれずに済んだかもしれないのにと悔やまれる。


「……六分咲きだった。まだ時期が少し早かったよ」


 取り敢えずな感想――というよりは事実の報告に近い言い方だ。そこに何かしらの意図はなく、ただ訊かれたからには答えねばとの義理に過ぎなかった。そんなドライな態度を母は不審に思ったのだろう。


「航太郎。小夜子ちゃんと何かあったの?」


 母や普段より少しだけ低い声でそう追及してきた。しかも宅内だというのに愛称ではない。母さんは僕を叱るとき、こんな口調になる。疎ましく思いながら声の方向に視線を向けると母さんは唇を尖らせ、渋い顔をして僕を見ていた。吊り目がちなお陰で怖く見えるが、経験上まだ怒っていないと判断できる。


「別に。ちょっと進路の話をしたら向こうが勝手に怒り出しただけ」

「何言ったのよ?」

「別に何も言ってないって」

「何も言われてないのに怒るの、小夜子ちゃんは?」

「……そうだよ」


 喉の奥に苦い物を感じ、僕は母から視線を逸らした。


 そんなわけない。小夜子ちゃんは優しくて控え目な性格であることは僕が一番分かっているはずだ。それどころか滅多なことでは起こらない優しい女の子。それなのに、僕はいけしゃあしゃあと嘘を吐いた。


 母には僕の気持ち、考えていることが全てお見通しなのだろう。重くため息をついていた。


「どんな話をしたの?」

「どんなって……大学のことだよ。僕は横浜に行くけど、小夜子ちゃんは上京するのかって話」

「そう。それで、小夜子ちゃんはなんて?」

「……分からないって」


 僕は母さんの目をまともに見られず、さりとてキッチンを後にするわけにもいかず、テーブル上のビニール袋を睨みつけながら問いかけに答え続けた。


「それで小夜子ちゃんと喧嘩しちゃったのね」


 僕は立ち尽くしたまま無言であった。

 母さんの意図が全く分からない。僕をなだめようとしているのか、叱ろうとしているのか、あるいは小夜子ちゃんの肩を持とうとしているのか。それとも別な思案があるのか。口を引き結んで母の心中を想像するが、視界がぐらつき頭から湯気が出そうになる。そして僕は、なんとなく自分が悪者にされているような気がして今すぐ逃げ出したかった。


「小夜子ちゃんは長崎の子だから地元を離れるのが不安なのよ。お友達もご家族も皆こっちにいるけど、東京も横浜も縁もゆかりも無いでしょ。そんな所に行くのは誰だって怖いものよ。航ちゃん、分かるでしょ?」


 小夜子ちゃんの心を代弁する母は、幼い子供の癇癪かんしゃくを宥めるような優しい口ぶりであった。幼い頃、泣いたり怒ったりするといつもこんな温かな言葉遣いで僕をあやしてくれたものだ。どれほど感情が荒立っても母の温もりが最後には僕の心に平穏をもたらしてくれた。

 だがそんなのは昔の話だ。僕を子ども扱いし、気持ちなどお構いなしにして丸め込まれそうな気がし、むしろ神経を逆撫でされた。


 しかし母の言うことも一理ある。小夜子ちゃんは長崎生まれの長崎育ち。五人家族は長崎に根を下ろし、親戚も友達もこの町にいる。彼女にとって長崎とは大切な思い出の全てが詰まった故郷だ。その故郷を離れることにどれほどの不安を感じるか、僕は知っている。

 かつて両親が離婚したとき、僕は母から一方的に名前が変わり、引っ越すことになると告げられた。そして実際に引っ越した。友達も、故郷も手放し、思い出一つだけを背負って縁もゆかりも無いこの地へやって来たのだ。その時感じた不安は未だ忘れ難い。

 九州弁、やたら厳しい中学校の校則、坂の多い住宅街、ちっぽけな長崎駅、鯖の刺身。何もかもが自分の知らない世界を作る要素であって、水の味さえも口馴染みのない物体を飲んでいるような気がしたものだ。

 でも僕はそれに耐えた。いや、実際は耐え難く、本当は未だ受け入れてないかもしれない。横浜に進学するなどという決意は結局のところ、今もなお胸の内に巣食う見知らぬ土地で暮らす不安から逃れたいだけなのだ。


「お母さん、航ちゃんの気持ちも小夜子ちゃんの気持ちも分かるわ。小夜子ちゃんは見知らぬ土地に行くのは怖いだろうし、二人とも離れ離れになるのは辛いでしょうに。でも、そういう時こそ小夜子ちゃんに優しくしてあげないとダメよ。航ちゃん、男の子でしょう?」


 母さんは苦笑を浮かべ、小さくため息をついた。そしてその言葉に僕はぐうの音も出ない。

 母さんの言は……なるほど、正しい。僕が横浜に逃れたいのと、彼女が長崎に留まりたいのが同種の気持ちであれば、あの子の心情を察してあげるべきだった。察して、男らしく受け止めてあげるべきだったのだ。だが実際には僕は真逆の接し方をしてしまい、彼女を傷つけた。事ここに至ってようやく自分の了見の狭さというものを自覚したのだった。

 だがその浅ましさの自覚は成長どころか精神の自傷行為となっていた。自分が不甲斐なく、嫌になった。そしてあろうことか、行き場を失った自己嫌悪は鎌首をもたげて母へ襲い掛かった。


「……何が気持ちが分かるだよ……意味分かんないよ。自分は父さんと離婚して、大好きな地元に戻ってきたじゃないか! 僕を父さんと引き離して、地元から連れ出しておいて知った風な口利くなよ!!」


 僕は目をぎゅっと瞑り、腹の底で煮えたぎる怒りを言葉にして力任せにぶつけた。

 本当はこんなこと思ってもいない。横浜から引っ越してきたことに不安と悲しみがあったのは事実だが決して根に持ったりはしていない。ましてや父親と引き離されたなどと恨んでなどいなかった。それなのに敢えてこんな辛辣な言葉を選んだのは、どうすれば母が傷付くかと小賢しく知恵を働かせたが故のことであった。


 暴言を吐いてすぐ「これは怒鳴られるな」と腹を括った。この母にこんな口の利き方をすればタダじゃ済まないことは息子なのだから身に染みている。最悪引っ叩かれても仕方がない。目を閉じたまま、僕はどんなお仕置きが来るかと立ち竦んで待った。だが十秒経っても二〇秒経っても母は何も言わない。どういうことだろうと恐る恐る目を開け、母の方を見遣った。母は冷淡な真顔で立ち尽くし、目尻から涙を流していた。


 それを認めた瞬間、僕は自分がどれほど愚かで罪深い発言をしたのか理解した。僕の手からお菓子の箱が滑り、板張りの床にカタンと音を立てて落下した。だがそんなものは気にならない。僕の目には母の両目尻から泉のように湧き出し、頬を伝って顎に溜まる涙しか写らなかった。涙はシャープな母の顎の先端に溜まって大粒の雫に成長していき、最後には重力に逆らえず床に落ちた。ただの涙とは思えないほど大きな音が響き、僕は怖くなって逃げるようにキッチンを飛び出した。玄関で五月に小夜子ちゃんと買いに行ったスニーカーを履き、僕はあてもなく走り出した。


 *


 坂を駆け下り、危うく転んで麓まで転げ落ちそうになった。普段坂道で走ることなどないから気にも留めなかったが流石に危ない。僕は足の動きを緩め、呼吸を整えながら麓に向かって歩き続ける。


 ひどくむしゃくしゃした心持ちだ。例えるなら、部屋の中が異様に散らかっていて一掃してしまいたい衝動に駆られる、だが散らかっているのはお気に入りの服やCD、漫画で大切なものばかり、だから無体な扱いはしたくない。そんな気分だ。つまり大切な物に身動きを封じられ、疎ましくて仕方がないということだ。


 小夜子ちゃんに会いたいけど会いたくない。

 母さんと話したいけど話したくない。

 誰かに今日起こったことを話したいけど話したくない。でも誰かに会いたい。


 矛盾を抱えたまま彷徨うとメインストリートから折れた路地を見つけた。この路地の先には少し広めの公園があったはずだ。ガキの頃、父も混ぜて三人で長崎に帰省した際、その公園で遊んだ記憶がある。そこに何かがあるような気がして、僕はいざなわれるように道を折れた。


 しばらく進むと案の定、公園があった。小規模なアスレチックのような遊具と花壇によって隔てられた運動場が併設された公園である。その運動場で自分と同年代の三人の男子がサッカーボールを蹴り合って遊んでいた。一人はよく見知った人物だ。赤木だ。


「おーい、赤木!」


 フェンスの向こうの彼の姿を認めると、僕は大声で呼び、手を振った。向こうもこちらに気づき、手を振ってくれた。僕はフェンスを迂回して入り口から運動場へ入り、彼らの元へ駆け寄る。よく見ると他の二人は同じクラスでサッカー部の青葉と戸塚だ。


「よう、航太郎! 一人かよ」

「まぁね」


 弾んだ声で僕は答えた。彼らは眩しいくらいの笑顔を浮かべて僕を迎え入れてくれた。先ほどのモヤモヤが嘘のようにどこかへ消し飛んでしまうようだ。


「女房は一緒じゃないのかよ?」


 これは青葉の問いだ。ゲラゲラと意地の悪い笑みを浮かべ、問いというより冷やかしに近く、僕は渋面を浮かべて誤魔化した。だが今はそんな馬鹿みたいな会話でさえ楽しい。平日の教室で考えなしに、気の赴くままの雑談を繰り広げられる予感がして心が弾んだ。


 今、僕が求めていたのは気の置けない友人たちと腹の探り合いのない会話をすることなのだ。相手の気持ちに遠慮せず、好き勝手に話して良い時間が欲しかった。


 三人は先ほどまで戸塚の家でテレビゲームをしていたらしい。だが朝からずっとゲーム三昧だったため戸塚のお母さんに追い出され、ここでサッカーをしてたとのこと。どの家もお母さんは怖いものだ。


 僕がメンバーに加わったので二人ずつにチームを分け、フットサルをすることになった。スニーカーでグラウンドに線を引き、五点先取のミニゲームだ。僕はサッカーは得意ではないが、青葉と戸塚がドリブルやトラップのコツをあれこれと上手に教えてくれたのでプレーはそれなりに形になった。


 二ゲームほど歓声を上げながら遊んでいると公園に四人の中坊がやって来た。彼らは来月から高校生になる子達で、一人は戸塚の中学校の後輩だった。アドレナリン全開だった赤木は彼らを仲間に誘い、中高生混成チームを作ってフットサルを仕切り直した。勝ち負けなど関係なく、ただ楽しければ良い。僕は夢中になってボールを追いかけた。


 途中、汗だくになったのでトレーナーを脱いで上半身はインナー一枚になっていた。他の連中も一緒だ。父親と散歩をしていた小さな男の子がフェンスの向こうから歓声を上げる。反対側の道路では散歩中の大型犬が興奮気味に吠えた。人の言葉を話せたら『俺も仲間に入れろ』と叫んでいたことだろう。


 難しいことを何も考えず走り回ったおかげか時間はあっという間に過ぎた。日が西に傾き、どこかのスピーカーから『蛍の光』が奏でられる。郷愁を感じさせるメロディは興奮を冷まし、ゲームに一区切りがついたことも相まってお開きの流れになった。僕は日が暮れるまで遊び続けたかったが、サッカーボールの持ち主の戸塚が宿題を思い出したと喚き始めたので逆らえなくなった。


「そういえば、航太郎は模試の結果はD判定だったんだって?」


 ベンチにほっぽり出した服を着ている時のこと。何をきっかけで思い出したのか、青葉が意地悪な質問をしてきた。急に現実に引き戻され、冷や水を浴びせられた気分だ。


「今の時期でD判定なんて落ち込むこっちゃねぇよ。うちの兄貴なんて九月の時点で九大E判定だったんだからさ」


 青葉は続けてフォローする。落ち込んでいる素振りを見せたつもりはないし、勝手に心情を汲み取られ、勝手に慰めるだなんて図々しい奴だ。だが嬉しい気持ちもある。これは強がりではない。


「それよか冬木はどうしたん? 今日はおデートじゃありませんでしたか?」


 赤木が冷やかし混じりに尋ねる。他の二人がそれを囃し立てた。

 余計なことを訊きやがって。


「ちょっと揉めて、今日は早めにお開きにした」

「揉めたって何を? 遠距離恋愛は続かないって話か?」


 当たらずしも遠からず。いや、大分遠い気がする。しかしかすってはいる。


「まぁ……そんなところ。僕は横浜行って、彼女はどうするのかって聞いた。そしたら未定と返された」


 それで、と誰かが続きを促した。


「それで……その、一緒に向こうに行こうって言ったら向こうがグズってキレ出したんだよ」

「D判定のくせにか?」

「うっせぇわ!」


 青葉が痛いところを突く。僕は十二年後に流行ることになるフレーズで突っぱねた。


「察するにお前が上京を迫って、でも冬木は一人で行くのが不安で煮え切らなかったってことだろ?」


 赤木が総括した。呆れ顔が無性に腹立たしいが、一つも間違いがない。お陰で反論出来ず、僕は不承不承に肯定したのだった。


「航太郎、そりゃねえぜ。冬木って長崎生まれの長崎育ち。長崎以外の生活は皆無でしかも女だ。女一人で上京して、右も左も分からず知り合いもいない学校に通うのはさぞ心細いだろうよ。それを察してやれなかったお前が悪い。明日学校へ行ったらすぐに謝れ」


 僕の落ち度を的確に突き、ピシャリと裁定を下す赤木。こういう兄貴肌な性分は僕にはない長所だ。こんな時に考えることじゃないが、それこそが僕らの人格の差であり、彼が引退した三年生から部長に指名された決定打になったのだと今改めて理解した。


「そうだぞ、航太郎。夫婦喧嘩は男が謝れ、ってうちの親父が言ってた」


 青葉が穏やかな声で宥める。戸塚も黙って頷いている。母にも友人にも諭され、僕はいよいよ退路を断たれた。重いため息が漏れ出す。明日が憂鬱だ。


「それはそうと、お前ら進路は決めた?」


 僕と小夜子ちゃんの喧嘩の話に見切りをつけると、赤木が二人にそう水を向ける。


「国公立は第一志望九大で、第二志望は長大かなぁと。私立は取り敢えずで福大ふくだいかな。まぁ、確定はもうしばらく先だけどさ」

「俺も俺も」


 青葉が答え、戸塚が追従する。福大というのは福岡市にある有名な私立大学のことだ。福岡県内はもちろん、他六県からも入学する学生が多く、我が校からも進学する生徒は数多いる。


「だよな。俺もそんな感じ」


 赤木は嘆息混じりに呟いた。眉を八の字にし、どこか安堵した風なのを僕は見逃さなかった。


「上京するって選択肢はないの? 別に関東じゃなくてもさ、大阪とか京都とか広島とか、九州を出てみようとかって考えないの?」


 僕にとってそれはある種当然の疑問だった。故郷から離れた地で暮らす不安は察するが、それを抑えて新天地へ飛び込んだり、都会で見聞を広めようと意欲を抱くのは当然のことだと思っている節があったためだ。小夜子ちゃんは女の子だから不安だというのなら、お前達男はどうなのかと聞かずにはいられなかった。


 その問いに面々は答えを持ち合わせていなかったらしい。各々どう思うかと顔を見合わせ、誰が最初に答えるか様子を窺っていた。先鋒に立ったのはやはり赤木だった。


「就職するならいつかは東京に行くことになるかもしれないが、それまでしばらくは地元でも良いかなって思ってる。福岡くらいなら気軽に帰って来られるしな」


 どこかばつの悪そうな苦笑を浮かべつつの答え。他の二人も同意見だったらしく黙って頷いていた。


「ふーん。そういうもんかねぇ」


 渋々な感が出てしまったが、僕は一応納得した風に答えてみせた。だが内心では真逆の思いだ。どいつもこいつも進路の話になると地元地元と連呼する。そんなに地元が好きなら一生へばりついていればいい。僕だって地元の横浜に帰るまでだ。


 そんな折に小笠原先輩のことを思い出した。先輩は推薦入試は断念したらしいが、最終的には一般入試で東京の私大に合格して進学を決めた。あの小悪党でさえ上京したというのに、こいつらはそれ以下だ。


 三人はそんな僕の刺々しい心情に気づいた素振りはなく、さて帰ろうかとどこか物悲しさを感じさせる会話をしていた。彼らには生まれ育って住み続けてきた家があり、今からそこへ帰るのだ。そう思った途端、彼ら違う世界の住人に思えてしまった。


「あれ、冬木じゃね?」


 青葉が公園の外の人影に目を向けながらそう呟いた。僕は俊敏に反応し、彼の視線を追う。確かに花壇の向こう、遊具広場の向こうのフェンスに沿って彼女が歩いている。ギンガムチェックのワンピースと物悲しげな表情は、お昼に別れた時と同じ容貌であった。同じく、赤木も彼女の姿を認めた。


「おぉ、本当だ。冬木だ。冬木、こっち来いよ! お前の旦那が今日のこと謝りたいってよ!!」


 赤木が手を振りながら小夜子ちゃんに向かって叫ぶ。僕はギョッとして相棒の顔を睨みつけた。まだ心の準備が何一つ出来てないのに、今からその話をしろというのか。口を塞いで一刻も早く黙らせたかったが時すでに遅し、呼ばれた小夜子ちゃんは足を止め、こちらを見ていた。


「上手くやれよ、相棒!」「明日ちゃんと仲直りしてから学校来いよ!」「仲直りできるに千円!」


 三人は口々に調子の良いことを言い残し、小夜子ちゃんがいる方向とは真逆の出口へ駆けていき、そのまま路地の角へ姿を消した。取り残された僕は彼らが巻き上げた土煙が晴れるのを呆然と眺めて立ち尽くした。


 十秒ほど間を置いて僕は我に返り、小夜子ちゃんの方を振り返った。彼女はすでに公園の敷地に入っており、引きずるような重い足取りでこちらに歩んでいる。顔が見えるくらい近くなると彼女が今にも泣き出しそうな沈痛さを纏っていることが分かり、居た堪れず僕は駆け寄った。


「小夜子ちゃん、さっきはごめん! 僕、小夜子ちゃんの不安な気持ちなんて全く考えてなかった。もう二度とあんなこと言わないから許して!」


 真正面に立ち、両手を合わせて精一杯謝罪し、許してもらえるよう懇願した。あいつらに言われて思い知った自らの浅慮を反省する気持ちがどうにか伝わるよう言葉を尽くしたつもりだ。


 許しを与える言葉はない。僕はぎゅっと瞑っていた目を恐る恐る開き、彼女の表情を窺う。すると涙を溢れるほど湛え、唇をへの字に曲げて感情を必死に堪える小夜子ちゃんの顔が視界を埋め尽くした。この時、ようやく僕は自分の罪の重さを心の底から理解した。


「小夜子ちゃん……本当にごめんね」


 自らの声が震え、目の奥がじんと熱くなる。彼女にこんな顔をさせてしまった罪悪感と情けなさで胸が張り裂ける思いで泣き叫んでしましそうだ。


「もう怒ってないよ……」


 落涙と共に彼女の口から言葉が発せられる。僕が心から望んでいた赦しの言葉。だがそれを本当に受け取って良いのか。判然とせず彼女の小さな双肩に手を置いた。拒絶する様子はなく、僕は安堵したのだった。


「私、航ちゃんみたいに勇気はないし、自分の目標も無いからスパッとは決められない。それでも航ちゃんのことは好きだし、ずっと一緒にいたいし、離れ離れにはなりたくない。それは本当だよ……?」

「小夜子ちゃん、僕もそれは同じだよ。ずっと一緒にいたい。十年後も二十年後もずっと一緒に」


 嗚咽混じりに吐露される彼女の裸の気持ちが僕を想うもので心底嬉しかった。この肩を抱き寄せ、腕の中に仕舞い込んでしまいたい衝動に駆られる。実際にそうしようとした。だが彼女の言葉はまだ尽きていなかった。


「それでも不安なんだ……。航ちゃんと違って私は関東のことなんて何も知らないし、知らない土地に行くのは不安なの。それに航ちゃんがずっと私のことを好きなままでいてくれるかも分からない。何もかもが不安で怖い」


 最後の一言に僕は愕然とした。棍棒が脳天を直撃し、目玉から星が出てきて視界がチカチカした。


 彼女が僕の愛情を疑っているとは考えも及ばないことだった。告白した時――否、それ以前から僕は小夜子ちゃんだけが好きで、他の女の子には目もくれず接してきたはずだった。彼女一人だけを異性として愛し、好意を伝え続けてきた。それはこの先も絶対に変わらない。だが果たしてそれは伝わっていなかったのか、伝わってもなお不安に駆られているのか定かでないが、彼女からの信頼が揺らいでいることだけは事実だ。そのことがこの上なく恐ろしかった。


「小夜子ちゃん、僕はずっと小夜子ちゃんのことが好きだったんだよ。それはこれからも変わらない。ずっと君だけを見ている。だから僕のことを信じてよ」

「……ありがとう。その言葉、忘れないよ。進路のことはもう少しだけ時間を頂戴。もう少し自分で考えて、両親とも話し合いたいから……」


 彼女は最後にそう締めくくるとそれきり何も言わなくなり、さめざめと泣き続けた。二人でベンチに腰掛け、彼女の涙が収まるまでの間、僕は僕が取るべき行動や進路選択について思いを巡らせた。だが少ない知恵では結論を得られず、進路も変えられず、ただ彼女の信頼を得られるよう毎日何かを積み重ねなければならないと焦りに駆られた。


 やがて彼女は泣き止み、最後は沈みゆく夕日に照らされながら仲直りと相なった。帰りは仲良く手を繋ぎ、太い路地に出る間際、人目がないのを良いことにキスをした。分かれ道に差し掛かると別れを惜しみながらも笑顔で手を振り合い、それぞれの家路についたのだった。


 自宅に帰るとすぐに母の姿を探した。母は平日と変わらずキッチンに立ち、夕食を作っていた。僕は小夜子ちゃんに差し向けた謝罪とは比べ物にならないつたない言葉で暴言を詫びた。母は特に咎めもせず、ケロッとした柔らかな笑顔であっさりと許してくれた。その日の夕食はいつもより静かであったが不思議と美味しく感じた。


 *


 それから短い春休みを挟んで迎えた四月。僕と小夜子ちゃんは三年生になった。

 過酷な一年が、いよいよ始まる。

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