第31話 最後の一年、茨の道〜初めてのケンカ〜

 色付く木々がその葉を枯らし、枝だけになった冬。

 期末試験、終業式、クリスマス、大晦日と年末のイベントは光の如く過ぎ去っていった。


 期末試験の直前には例によって小夜子ちゃんと図書館に缶詰したり、お互いの家を訪れて勉強をした。

 僕の母は夏のバーベキュー大会ぶりにあった小夜子ちゃんをいたく気に入ったらしく、秘蔵の頂き物のチョコレートを惜しげもなく振る舞い、夕食をもてなした。ばあちゃんも孫娘が出来たみたいだと大喜びで、夜にじいちゃんの仏壇に報告していたくらいだった。

 同じく僕も冬木家の皆様から手厚い歓迎を受けた。おばさんは娘がご馳走になったお礼だと言ってカレーを振る舞ってくれ(三杯もおかわりした!)、おじさんも団欒に混ざった僕を煙たがる様子はなく、むしろ積極的に仲を深めようと話を振ってくれた。勉強や進路のことで分からないことがあったらいつでも訪ねてくるようにと頼もしいご厚意を頂戴した時には嬉しくて涙が出そうになった。妹の楓ちゃんは知らない男が上がり込んで緊張した様子だったが、それでも最後には打ち解けることができた。彼女は来年、長崎肥前高校を受験の予定で姉と同じくバドミントン部に入部するつもりらしい。つまりは僕の後輩になるわけだ。これはますます部活に勤しまなければと身が引き締まる思いだった。


 クリスマスには夕方の市街地でイルミネーションを二人で鑑賞し、露店で売られていたホットチョコを分け合って飲んで身体を温め合った。


 大晦日は生憎とお互いに家の大掃除を手伝わされ、三ヶ日はおじさんのご実家の諫早いさはやに行くとのことで会えない日が続いた。正月の一家団欒を邪魔するのは流石に遠慮されるが、それでも年末年始という特別な時期を共に過ごせなかったのは残念だった。


 *


 迎えた一月四日。今日は諫早から帰って来た小夜子ちゃんと諏訪神社へ初詣をする約束をしていた。


 路面電車の最寄駅で降り、待つこと数分。僕が降りた次の電車から彼女は姿を見せた。


「あけましておめでとう、航ちゃん!」

「あけましておめでとう、小夜子ちゃん。今日は遅刻しなかったね」

「もう、新年早々どうしてそんなこと言うかなぁ……」


 今日は小夜子ちゃんにしては珍しく約束の時間前に到着した。ピッタリではなく十分近くは余裕があるとは本当に珍しい。


「いやぁ、新年早々縁起が良いですなぁ。ありがたやありがたや」

「拝まないでよ!」


 顔を真っ赤にして必死に抗議する小夜子ちゃん。周囲には何事かと目を丸くしてこちらの様子を伺うご老人や若い家族連れがいる。彼らも僕達と道を同じく諏訪神社へ参拝するのだろう。

 僕に揶揄われ、人目に晒され、小夜子ちゃんはカンカンだ。


「もう、知らない!」


 プンスカと立腹し、彼女は僕に背を向けて一人で神社へ続く道へ歩き出した。僕は苦笑を禁じえぬまま小走りでそれを追いかける。


「小夜子ちゃーん、ごめんごめん。機嫌直しなよ」

「つーん」


 ヤバい。正月からクソみたいな冗談で怒らせてしまった。常々母さんから『口は災いの元』と耳にタコが出来るくらい小言を言われているだけに、忸怩じくじたる思いだ。


「小夜子ちゃん、本当にごめんね。年が明けて小夜子ちゃんに会えたから嬉しくて調子に乗っちゃった」


 僕は彼女の前に回り込み、笑顔と共に冗談が過ぎたことを謝罪した。会えて嬉しかったというのは事実だから、そのことを一緒に伝えればきっと機嫌を直してくれるだろう。


「ふーんだ」


 だが小夜子ちゃんはつれない。

 おかしいな、昔オタクの友達が貸してくれたラブコメのライトノベルだとこんな感じのセリフを言うと、主人公はご機嫌斜めのヒロインからあっさり許されたのに。


「ねー、小夜子ちゃん。本当にもう二度と言わないから許してよー」

「言わないって何を?」

「何をって……遅刻しても二度と文句言わないからさぁ」

「よろしい。今の言葉、もう神様にも聞こえてたから忘れないでね」


 理不尽だ。元はと言えば自分の遅刻癖が火種だというのに。……とは口が裂けても言えない。今、僕は喉元に剃刀を突きつけられている状態だ。きっと次に生意気なことを言えばスパッと切られるに違いない。ここは許しを得たことに感謝しよう。主に小夜子ちゃんと神様に。


「そ、そうだ。小夜子ちゃん、この後うちにおいでよ! 母さんがぜんざい作るから小夜子ちゃんもお呼びしろって言ってたんだ」

「お母様が? お正月からなんだか申し訳ないなぁ……」

「へーきへーき! 母さんの方からむしろ招待してるんだから遠慮しないで。ばあちゃんも会いたがってたから」

「ふふ、じゃあお邪魔しちゃお」


 先ほどまでの不機嫌顔は鳴りを潜め、麗かな冬の日差しのような気持ちの良い笑顔を浮かべる小夜子ちゃん。どうやら水に流してくれたらしい。


「ついでに今日、航ちゃんからひどいこと言われたっておば様に言いつけちゃおっと」

「すみませんごめんなさい許してくださいお願いします神様仏様小夜子様!」


 前言撤回。まだ根に持ってらっしゃる。


 *


 線路の敷かれた大通りから神社へ続く参道の階段へ入ると一気に人が増えた。複数方面からこの小路に参拝客が入り込むものだからさながら漏斗じょうごで水を注いでいるような状況だ。

 僕達のようなこれから参拝する人達は階段の左側を、帰りの人達は向かって右側を転ばないようゆっくりゆっくり進んでいく。誰もが寒さに表情をこわばらせつつ新年と晴天を喜んでいることが窺えた。

 その群衆の中の僕とて例外ではない。新しい一年が始まる実感にワクワクと心が躍っている。来年は受験なのでこのような気持ちにはなれないだろうから、今のうちに気楽な正月気分を味わっておこう。手を繋いで共に参道に並ぶ小夜子ちゃんはようやく機嫌を直してくれた様子で、参拝後に引くおみくじの吉凶を気にしている。


 大吉引きたいな。凶だったらどうしよう。


 新年早々、僕も彼女に感化され吉凶にハラハラと落ち着かない思いだ。


 階段の参列はぞろぞろと歩みを進め、五つある立派な鳥居を潜るとようやく手水舎が見えた。そこで揃って手を洗い、口をすすぎ、太い注連縄しめなわの張られた大門を潜ってようやく境内まで辿り着いた。


 拝殿の賽銭箱に「せーの」で各々五円玉を投げ、二拝二拍手一拝でお参りをした。


 今年は皆でインターハイへ行けますように。

 受験勉強が捗りますように。

 小遣いが増えますように。

 小夜子ちゃんともっと仲良くなれますように。

 小夜子ちゃんとずっと一緒にいられますように。


 願い事は挙げればキリがない。特に今年は三年生に進級するので高校最後の年になる。部活、受験、進路。向き合わなければならない課題がもうすぐ目の前まで迫っている。それらの苦難に挫けず、報われるよう神様に心中必死な思いで願掛けをした。


 お参りが済むと社務所で御神籤おみくじを引いた。ハラハラドキドキ、吉凶を案じながらくじを引き、折り畳まれていたそれを開く。


「私中吉。航ちゃんは?」

「僕も中吉。お揃いだね」


 なんとも微妙な結果だが、凶でなかったことは良しとしよう。何より小夜子ちゃんとお揃いなので尚グッド。きっと相乗効果で今年は幸運に違いない。

 続いて各方面の運勢に目を落とす。


「えーっと……なになに。学問、『鍛錬せよ。さすれば成る』か。勉強しろってことか」


 まぁ、受験生だし、勉強すれば結果はついてくるよということか。喜ばしい限りだ。思わずガッツポーズする。


「私はねぇ……『目標が定まらず迷走』か。勉強する前に大学と学部を決めろってことだよね」


 小夜子ちゃんは嗜められたような神様のお言葉に小さくため息をついた。僕はその内容に胸にざわめきを覚えた。


「お次は旅立ち。『秋冬に支度せよ。東が吉』」


 これは関東へ行けということか。自らが描いている進路を神様に後押しされている気がし、嬉しくなって鳥肌が立った。


 僕は二学期終盤に提出した進路希望調査票に横浜市立大学を第一志望として記し、提出した。横浜に戻るというのは中学生の頃から決めていたことだし、大学は一年生の頃にはすでに当たりをつけていた。二年生になり学校側からの発破が日に日に強く成る中で、僕は迷わず金沢八景にある市立大を選択した。神様からの後押しもあるので、この決断はきっと変わらないだろう。


「私は『利なし行かぬが吉』」


 吹き消された蝋燭から立ち上る煙の筋のような弱々しい声だった。またもや胸騒ぎをさせるようなお言葉だ。


「最後は恋愛運。一緒に見ようか!」


 僕は空気を和ませようと一番の懸念ごとと予想される項目を取り上げた。受験と進路は大事だが、僕達にとってはそれ以上に関心を寄せるところだ。小夜子ちゃんも苦笑気味に微笑み、手元に目を落とした。


 僕も自分の籤を読む。だが恋愛運の内容を見て、目を疑い、言葉を失った。


「なんて書いてある?」


 小夜子ちゃんが沈んだ声で尋ねた。僕は口にするのも憚られ、おずおずと籤を差し出すことで精一杯だった。彼女はそっとそれを受け取り、代わりに自分の籤を僕に差し出した。

 彼女の様子からしてこちらもあまり良い内容ではなかったのだろう。そう予想し、的中した。


 恋愛運『茨の道』


 なんということだろう、彼女の籤にも同じことが書かれているとは。


 *


 不吉な御神籤を引いた年始から二ヶ月半の時が経った。


 三月中旬のある日、僕は大手予備校が主催したセンター試験の模擬試験の成績を受け取り、その内容に頭を抱えていた。


 合格判定はD判定。自分ではもう少し上に届いたと思っていただけに忸怩たる思いだ。


 そしてそんな思いを引きずったまま迎えた日曜日、僕は小夜子ちゃんと公園にお花見デートに来ていた。花見には少しだけ日にちが早く、無数の桜の花の蕾達は誰が先に満開になるかとまだ競争をしているところだった。


 腕をいっぱいに広げ、大輪の花を咲かせようとする桜の芽。自分も大学受験に向けて勉強に打ち込み、満開の桜を咲かせられるよう努力しなくてはならない。それなのにこんなふうに浮かれてて良いのだろうかと一抹の不安が胸中にわだかまり、デートだというのに素直に花を愛でられずにいた。


「ふふ、綺麗。でも満開まで後少しかな」


 六分咲きか、七分咲きか。陽だまりのような柔らかな笑顔を浮かべ、彼女は桜の枝を見上げながら風情ある疑問を口にした。日の光に目を細めながらも天を仰ぐ姿は花の如く可憐だ。


「来週また来てみる? その頃には満開になってるかもよ?」


 と、隣を歩く僕に顔を向け、先のことに思いを馳せた。

 来週も同じようなデートが出来る。彼女とは映画やカラオケのようなアミューズメント系の施設よりも、こうした長崎の公園や神社、お寺を案内がてらにデートすることがほとんどだ。そのどれもがアウェーの僕にとっては新発見だらけなため新鮮で、一度として退屈を感じたことがない。無論、それは小夜子ちゃんと共に過ごせたためであるからに違いない。そして来週も同じように幸せな時を過ごせると予感させてくれた。なのに僕はちっとも嬉しくなかった。


 こんなところでうつつを抜かしていて良いのか。

 来週も遊び呆けて許されるのか。


 先日の模擬試験の結果を受け、僕は自分の学力の未熟さを思い知らされた。目標までの道のりは自分が思っていたよりもずっとずっと遠く、険しいのだと。それを痛感した今、己が本当にすべきこと、いるべき場所がどこなのかと嫌でも考えを巡らせてしまう。


「ねぇ、航ちゃん。どうしたの? なんだか今日は暗いよ」


 小夜子ちゃんが不安を声に滲ませそう尋ねてきた。デートも花見も気分が乗らない心境が思っている以上に態度に出ていたらしい。そんな陰鬱な表情を晒したばかりに彼女の心までも蝕んでいたようだ。


「ごめん。少し考え事してた」

「そうなんだ。悩みなら聞くよ。そこのベンチに掛けてお昼食べながらお話ししようよ」


 遊歩道の脇に設置された木製のベンチを指差す。時刻は正午過ぎ。ここに来る前にスーパーに寄り、お弁当やおにぎりを買っておいたのだ。それを食べながら花見をする計画であった。

 彼女は努めて明る声で促した。空気を盛り上げようと、僕の胸中を温めようと気遣いをしてくれていることがしっかりと伝わっていた。だが、今はその気遣いを素直に受け取る気持ちにはなれない。むしろ彼女の変わらぬ愛情に満ちた優しさは苦々しく、ともすれば疑心暗鬼に陥るところだ。


 僕の悩みは自分の学力だけではない。彼女の模擬試験の結果も苛立ちの原因であった。

 小夜子ちゃんも同じ模擬試験を受験していた。結果はなかなかのもので志望校に設定した大学、学部への合格判定はB判定であった。上々の結果のガールフレンドと無念に終わった僕。彼女に勉強が出来ることを見せられず、居心地の悪さを感じていた。

 しかしそれは自分の力不足が招いた結果だと納得出来た。自分達はまだ三年生に進級さえしてないから受験勉強はこれから頑張れば良い。アピールするチャンスならいくらでもある。

 本当の問題は彼女の志望校だ。小夜子ちゃんが第一志望校に設定したのは地元の国立長崎大学であった。志望校は他にもいくつか設定していたが、それは福岡にある九州大学と福岡大学であった。つまり彼女は地元に留まるか、県外に出るとしても九州から外へ行くつもりはない。僕はそのことが理解出来なかった。


 ベンチに腰掛け、ビニール袋から包装されたおにぎりを取り出した。フィルムを綺麗に剥がし、海苔が巻かれた状態のおにぎりが姿を現す。かぶり付くと海苔の豊かな風味と塩飯のしょっぱさが口の中にふんわり広がり、少し気分が落ち着いた。ちなみに具は鮭だ。

 だがとても花見をしながら風流を楽しむ気にはなれない。小夜子ちゃんがあれこれと話題を振ってくれるが僕は生返事を繰り返すばかりであった。


「ねぇ、今日どうしたの? どうしてそんな冷たいの?」


 そしてとうとう、小夜子ちゃんはそう問い詰めてきた。


「別に……どうもしてないよ」

「そんなはずないよ。今日の航ちゃんつれない。せっかくの晴れの日にお花見に来られたのに、そんなんじゃちっとも楽しくないよ!」


 彼女にしては珍しく、生の感情を露わにして食ってかかる。顔を見ると眉間に皺を寄せ、唇を尖らせて不満を露わにしていた。

 僕は良くない空気だと思いながらも謝罪の言葉を浮かべられなかった。代わりに頭の中で渦巻いていた疑念を口にしていた。


「この前の模試のことなんだけど、小夜子ちゃんは上京しないの?」

「えっ?」


 予想だにしなかった質問だったのだろう。彼女は明らかに戸惑い、言葉を失っていた。そんなのお構いなしに僕は続ける。自分でも止められなかった。


「志望校は長大と九大と福大だったよね。僕はずっと横浜に進学すると言ってたのに、どうして近場の大学ばかり選んだの? 本当にそのつもりなら僕達、離れ離れになっちゃうよ!?」


 焦り、戸惑い、寂しさ、悲しさ、そして怒り。今日までの間、腹の奥底でドロドロに溶け合っていたネガティブな感情がマグマのように一気に吹き出し、抑えきれず彼女に浴びせてしまった。心臓がどくどくと激しく拍動し、呼吸は乱れていた。


 小夜子ちゃんは驚くあまり泣きそうになっていた。口は真一文字に引き結び、涙が溢れるのを堪えるように目をギュッと細めている。僕からこんな風に激しい言葉をぶつけられたのは初めてだから、驚き、怖がっているに違いない。しかし今の僕にその気持ちを察した行動を取ることなど不可能であった。


「そんなこと言われても、まだ決めきれてないもん……」


 力を振り絞った様子で、引き結んだ口を解いて紡いだ言葉はそれだった。


「今すぐ決められなくても気持ちくらいは分かるだろ? 僕と一緒に向こうに行く気、あるの?」


 僕は真っ向からその言葉に対抗し、きつい質問を浴びせた。またも彼女はバツの悪そうな渋い顔をし、視線を逸らした。


「まだお父さんとお母さんと相談してないから」

「……なんだよ、それ。親の言うことじゃなくて、小夜子ちゃんがどうしたいのかって聞いてるだけじゃん!」

「分かんないよ!!」


 僕の執拗な質問に悲鳴のような金切り声が帰ってきた。その時、僕は頭から冷水を被った気持ちになり、ようやく彼女を手ひどく追い詰めるような真似をしていると自覚した。


「だって東京なんて私行ったことないもん! 横浜にも言ったことないもん! 航ちゃんにとって関東は知ってる土地かもしれないけど、私には外国も同然だよ! そんな所に引っ越して四年間も一人で暮らすなんてすぐには決められないもん!!」


 小夜子ちゃんは喚くような大声を上げた。それに圧倒され、僕は絶句した。彼女もまた大声を出してしまった居た堪れなさから視線を泳がせるばかりで二の句を継げずにいた。

 両者の間に刺々しい沈黙が漂った。一体どれくらい黙り込んでいただろうか。ほんの十数秒のことなはずなのに、いたく長々と凍りついていた気がした。


 僕はその間、彼女の心に思いを馳せていた。

 見知らぬ土地で暮らすことへの漠然とした不安。受け止め、優しく宥めてあげたかったが僕には全く理解出来ない感情であっただけに温かな言葉など湧いてこなかった。そればかりか親の意向を仰ぐこと、親元を離れる勇気が無いことがひどく幼稚に写り、軽蔑さえ感じていた。


「一人じゃないよ。僕も一緒に行くよ。一緒に行こうよ、都会にさ」


 それでもなお彼女の手を引っ張り、上京を差し向けたのは彼女への愛情が全く消え失せていないためだ。生まれて初めて出来た恋人、ずっとずっと側に置いていたいと思えるほど大切な女の子。彼女との将来はきっと明るく、色鮮やかに違いないと心の底から夢想するほど好きだ。だから社会人になるまでの四年間も彼女と過ごし、共に成長したいと願えた。


 共に歩み、成長することを願うのは同じはず。僕はそう信じて疑わなかった。


「…………たくせに」

「え?」


 遠い山の上の雨雲から響く雷鳴のような声。小さな音なのに、不吉の予兆のような声だった。そして彼女は僕をギロリと睨んだ。


「D判定だったくせに!」


 滂沱の如く涙を流す彼女の、あまりにも辛辣な言い様。僕は棍棒で脳天を叩き割られたように目の前がチカチカと明滅し、脳内で電気がバチバチとあらぬ方向へ駆け巡っていた。


「一緒に上京出するだなんて偉そうなこと言わないでよ! 合格出来るかも分からないくせに、馬鹿じゃないの!?」


 手酷い追い討ちをかけ、彼女は勢いよく立ち上がる。僕を見下ろす目は恐ろしく吊り上がり、その気になれば心臓を一思いに貫くぞと言わんばかりであった。


「私、帰る!」


 取るものを取って僕に背を向け、彼女は荒っぽい足音を鳴らしながら去っていった。一方の僕は心身共に麻痺状態でそのまま一時間は座りっぱなしだった。手に握ったままのおにぎりを手癖の悪いとんびに盗まれたが、悔しさなど微塵も湧いてこなかった。


 若いうぐいすが、ヘタクソにさえずる日曜日の真昼間であった。

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