第27話 小笠原の因縁〜天王山〜

 定期考査とランキング戦を乗り越え、迎えた六月。


 梅雨入りの気配を感じさせる纏わり付くような湿気と汗ばむ暑さにため息をつきながらも迎えたこの日、高総体バドミントンの長崎県地区大会が開催された。早朝、チャーターした大型バスに揺られて僕達――長崎肥前高校バドミントン部一同は佐世保の大きな体育館まで移動した。車窓に反射する顔には誰もが緊張を浮かべていた。大会に出場する選手は練習の成果を発揮する晴れ舞台に思いを馳せ、また一年生を中心とした応援の生徒はそんな僕達のピリついた呼吸にあてられたように息苦しそうな様子だ。


 会場体育館の駐車場に着くと武者震いを覚えながら下車し、胸いっぱいに空気を吸い込む。佐世保の空気も長崎のそれと大して差を感じないが、それでもこの瞬間だけは闘志に火をつけるガスのように体内で引火し、僕の精神を燃え上がらせた。


 体育館に入ると部員一同で真っ先にアリーナへ駆け上がり、座席群の一角を我が部で占領し応援席を設営を開始した。幸い他所の学校に先んじたお陰で欄干の真正面を確保出来た。一年生部員が三年生に命じられ、欄干の手すりに校旗を結んで垂れ下げる。我ら長崎肥前高校バドミントン部ここにありきと盛大な主張だ。


「おい、航太郎! 対戦表見ろよ!」


 ユニフォームが入ったリュックサックを背負い、更衣室へ移動を始めようとした時だ。赤木が弾んだ声を上げて僕の元へ駆け寄ってきた。何事かと見ると彼の手には冊子が握られていた。多分部長から拝借してきたのだろう。


「なんだ? まさか一回戦でパイセンとぶつかったか?」


 僕は好奇心と緊張を浮かべずにはいられなかった。大会はトーナメント式で行われ、対戦表は抽選で作られると聞いている。それが本当ならあり得ない話ではない。


「いや、そうじゃない。だがお前、ベストエイトの試合で小笠原先輩とぶつかるぞ!」

「マジか!?」


 言われ、僕は冊子の対戦表を凝視した。僕と先輩の名前を探し、いつぶつかるかトーナメントの枝を辿ると、確かに赤木の言う通りだ。


「つまり僕とパイセン、勝った方がインハイへ行くということか」

「そうなる。言い換えれば先輩は負ければインハイへは行けないし、スポーツ推薦も受けられなくなる……」


 僕達は顔を上げ、至近距離で視線を交錯させた。そして全く同じタイミングでニヤリと不敵に笑み、そしてアリーナの上方にいる小笠原先輩へ目を向けた。そこには、我が身の不幸を呪うかのような苦々しい顔で冊子に目を落とす先輩がいた。


「人間、日頃の行いが悪いとこういう目に遭うんだな」

「うん、納得だよ。僕は清く正しく生きるよ」


 そう我が身を顧みながらも腹の中はゲスの極みだ。


 悪いな、先輩。あんたはインハイには行けないし、推薦も受けられない。明日からは受験勉強を頑張ってくれ。


 インハイに行くと大口叩いていた先輩を尻目に、僕と赤木は意気揚々と更衣室へ向かった。


 小笠原先輩の希望を打ち砕く絶好の機会となる地区大会が、いよいよ始まる。


 *


 開会宣言がなされた後、プログラムに従って順番に試合が執り行われた。僕と赤城と、ついでに小笠原先輩は二回戦まで勝ち抜き、順調に駒を進めた。

 だが三回戦で予想外のことが起こった。なんと赤木が敗退してしまった。相手は優勝候補と言われていた同じ長崎市内の学校の三年生――西陵館高校の虎と恐れられた津田さんで、あの赤木が二ゲームを先取されストレート負けという辛酸を舐める結果になってしまった。

 僕はその結果を我が事のように悔やんだ。赤木とは勝ち進めば決勝戦でぶつかることになるから、そこで雌雄を決しようと誓い合っていただけに悔しさを抑えられなかったのだ。それに、もし僕が小笠原先輩に負けた場合は頂上決戦で彼を破り、銀メダルを首にかけてやれと声援を送っていたのだ。


 だが彼が敗退したことで小笠原先輩を沈める役目は僕一人が背負うことになった。


 僕はその緊張感からか、三回戦は思うようにプレー出来ずどうにかこうにか勝利する展開となった。


 そして運命の四回戦――長崎肥前高校の三年生と二年生の決別の儀となる戦いの火蓋が切って落とされようとしていた。


 *


 四回戦の直前、スタジアム入口前に我が部の二年生が男女問わず集まっていた。小笠原先輩との決戦を前にした決起集会だ。赤木が僕のために皆を集めてくれたのだ。こういう時を率先して人前に立つのは赤木の役目だ。一同はそれを肌で理解しているお陰か、すんなりと集まってくれた。


「次の試合はいよいよ航太郎と小笠原先輩の戦いだ。勝った方はベストフォーが確定し、インハイへ駒を進める大事な試合だ。だが、俺達にとってはそれ以上に重要な意味を持つ!」


 一同の前で赤木が演説を始めた。それを誰もが引き締まった顔で受け止める。


「先輩はインハイに進んだ暁には都内の大学にスポーツ推薦を受けるらしい。そのため、インハイに出たら閉会後の九月以降も何かと理由をつけて我が部に居座り続けるだろう。そうなったら最後、年内はあの人が部内でデカい顔をし続けるに違いない」


 皆が不快そうに顔をしかめる。例えるなら仲良しグループの誕生日パーティに嫌われ者が飛び込み参加してきたような、煙たそうな顔だ。


 赤木の言う通り、小笠原先輩はインハイに出場した場合、その実績を使ってスポーツ推薦を受ける。春先は噂に過ぎなかったがこの頃は本人が堂々と公言しており、部内の誰もが知るところだった。そして誰もがその大きな声を耳障りに思っていた。

 そして推薦で合格すれば先輩は大学でもバドミントンを続けることになるだろうから、体力を落とさないためとか尤もらしい理由をつけて部活に顔を出し続けるだろう。

 小笠原先輩は競技の実力はピカイチだが、性格がひん曲がり過ぎて部長にも副部長にもなれなかった。だが実力主義を標榜して何かと練習を仕切りたがるクソ野郎だ。九月以降、受験に専念するため三年生は部活動から引退し、部長と副部長は二年生が引き継ぐことになるが、先輩はきっと二年生を蔑ろにして練習を我が者顔で仕切るだろう。まさに院政……いや、悪夢だ。


「この戦いはまさに、俺達二年生と小笠原先輩の決別の儀だ。秋以降の部活動の有り様はこの試合の結果――即ち航太郎の肩に掛かっている。航太郎、俺達の将来のためにも、何が何でも勝て!」


 最後に僕の目を見て、赤木はそう鼓舞した。赤木だけではない。二年生の仲間達が熱いエールを送ってくれた。


「航太郎くん、平常心だよ! いつも通り、小笠原先輩に勝てばいいんだよ!」


 冬木さんがガッツポーズをしながら僕を鼓舞する。


「うん、いつも通り勝ってみせる! それで約束通り、あの人より上の表彰台に立ってくるよ」


 あの日曜日の約束は今でも覚えている。

 地区大会出場というチンケな目標を笑われた日、僕はあの人を下すと冬木さんに誓った。その誓いを必ず果たさなければならなかった。


 試合の刻限が近づく。


 最後に赤木が円陣を組むと告げ、僕達は肩を組んで輪になった。右に僕より大きな身体の赤木が、左には小さな身体の冬木さんがいた。試合の緊張感と興奮、皆に応援されたプレッシャーと心強さ、冬木さんが側にいる嬉しさと安心感。静と動の対局の感情が渦巻き、僕の心臓はおかしくなってしまいそうだった。


「航太郎! ファイト!!」


 オーー!!!


 *


 スタジアムに入場し、誘導係の指示に従ってコート脇のベンチへ進む。審判台を挟んだ反対側には既に小笠原先輩がいて、神妙な面持ちで腰掛けていた。彼はこの日、これまでの間に決勝戦に向かって順調に駒を進めてきた。きっとその間、僕が誰かに負けて対戦を回避出来るよう祈り続けていたに違いない。だが期待に反して僕も同じく順調に勝ち進んだ。その度に仲間の二年生が歓声を上げたものだから、きっと敵軍の勝鬨を何度も聞かされ焦燥に駆られたことだろう。


 そして今、その仇敵と対峙しようとしている。僕と小笠原先輩は部活動で何度もぶつかった。その理由は多岐に渡る。練習メニューの内容やスケジュール、下級生への無体な態度等々、先輩に対して気に食わないことがあれば容赦無く食ってかかった。先輩は僕を生意気だと威圧したが、一方で実力主義を標榜するため天敵の僕には一目置いていた節がある。


 この試合は、そんな僕と先輩の関係をはっきりさせ、終止符を打つ最終決戦となる。

 先輩としての威厳を示すか、はたまたクソ生意気な後輩にコケにされ続ける高校生活であったか。


 審判に促され、僕達はコートに入場する。

 手に握ったラケットはグリップが掌に吸い付き、履き慣らしたシューズは母親の腹から一緒に生まれた肉体の一部のように馴染んでいる。

 全てがいつも通りだ。


 チラリとネットの向こうの先輩の足元を見た。ゴールデンウィークからこちら、練習中に履き慣らしていた先輩の靴が真新しい輝きを放っている。畜生、羨ましい。冬木さんにはあのように言ったが、本音では僕も新しいシューズが欲しかった。


 ネット間際に両選手が歩み寄り、試合開始の挨拶を交わす。


「パイセン。折角の大会ですし、楽しみましょうや」


 網掛けになった先輩の顔が憎悪に歪む。普段聞かされる憎まれ口が今日ほど鼻についたことはないだろう。


「航太郎……お前のことは大嫌いだけどさ、バドミントンの実力は認めるよ」

「はい?」


 なんだ、出し抜けにしおらしくなりやがった。先輩は深く深く、胸いっぱいに息を吸い込み、そして吐き出す。臓腑に溜まった汚れた空気を絞り出しているようだった。


「実力は本物だと思う。だが、優劣ははっきりさせてやる! 俺が勝って、お前が負ける! 今日、俺は、お前より上の表彰台に立つと決めたんだ!」


 ギロリ。

 眼光鋭い先輩の目が僕を捉えた。瞬間、僕は刀を喉元に突きつけられたような威圧感に背筋を泡立たせた。


「じ、上等っすよ、パイセン。いつも通り負けさせてやりましゅからね!」


 くそ、怖いから声が上擦っちゃったじゃないか。場外戦なんて反則だ。


 審判がスタンバイを命じる。僕は呼吸を整えながらコート中央付近のホームポジションへ立つ。大丈夫、落ち着けば勝利は確実だ。平常心平常心。


 アリーナから声援が響く。赤木が僕のために音頭を取り、それに合わせて二年生と一年生、面白がった一部の三年生が合わせて声を上げた。


「行け行け航太郎!」「「行け行け航太郎!」」

「押せ押せ航太郎!」「「押せ押せ航太郎!」」


 哀れに思ったのか小笠原先輩への声援がチラホラ聞こえる。だがあまりにもか細い応援のため、孤立無縁の様相だ。これで負けて小笠原先輩が部活に居座り続けたら、僕達どんな目に遭うんだろう?


 試合開始のホイッスルが鳴る。サービスは先輩だ。


 先輩が持つシャトルが手を離れ、ラケットに弾かれ放物線を描いて飛翔する。コートのほぼ中心に陣取った僕の左側目がけて飛来したシャトルをバックハンドのロブショットで返す。向かって左サイドのラインギリギリに向かって落ちていく。


 貰った!


 最初の得点は僕のものだ。これは幸先の良いスタートだと幸運の女神様に感謝申し上げたい気分だ。


「うらっ!」


 だが際どいそのショットに小笠原先輩は必死に飛び付いた。カツン、と小気味の良い音を立ててシャトルは天を目掛けて飛翔し、僕の頭上を真っ直ぐに超えていった。シャトルを追えないまま、ホイッスルが鳴る。どうせアウトだろうと自分を宥めた。


 だが審判の手は先輩の方へ上がった。彼の得点だった。


「よっしゃ!」


 先輩がガッツポーズを取り、歓喜する。その表情には闘志だけでなく、三年間の練習の成果を発揮せんとする気概が浮かんでいた。


 今日の先輩は何かが違う。そのことに気付いたのは試合が着々と進み、先輩が第一ゲームを制した瞬間だった。

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