第28話 小笠原の因縁〜自分に負けるな!〜

 勝負は時の運、戦は水物。

 明らかであったはずの勝敗の予想が覆るというのは勝負事ではあり得る話だ。


 かつて桶狭間の戦いで圧倒的不利の織田軍が今川軍を破ったように、その趨勢は決して誰も予想出来ない。

 それはこのコートにおいても同じなのか。

 そう思い至ったが、出来るだけ考えないようにした。


 僕は三分間のブレークタイムの間にスポーツドリンクをがぶ飲みし、ベンチに項垂れて風向きが悪いことから目を背け、次のゲームを確実に取らねばと自分を叱咤激励した。大会のルールはワンセットスリーゲーム。先にツーゲームを選手した方が勝ちとなる。形勢は不利だ。


「航ちゃん! 落ち着いて行きなさい!」


 アリーナから聞き馴染んだ女性の声がする。母さんだ。今日、応援の父兄はマイカーで佐世保に駆けつけてくれている。母さんは誰かの車に相乗りさせてもらい、ここまで来ていた。

 その母は、両手をメガホンにして腹から声を張り上げ、必死に僕に声援を送ってくれた。


 うーん、応援は嬉しいけど外でその名前で呼ぶなよ。いつも言ってるじゃん。


 主審が第二ゲームの開始を告げる。僕は両膝を平手でぶっ叩いて立ち上がった。

 大丈夫、あの人の調子が良かったのではない。僕の調子が悪かっただけだ。落ち着いてプレーしよう。

 振り返れば第一ゲームはアウトやネットが重なり、僕が失点を繰り返したおかげで先輩が先制しただけだ。いつものプレーをすれば勝機は訪れる。


 ホイッスルが響き渡る。今度は僕のサービス。

 ガットに弾かれたシャトルはネットギリギリを通過し、センターライン真上に吸い込まれていく。それを追うように僕も前へ踏み出す。

 先輩のラケットがシャトルを捉える。大きく振りかぶり、打ち上げるようなロブショット。僕の直上を超えていく勢いだ。ステップを踏んで落下予測地点に滑り込み、ガラ空きの向かって左側に向かってスマッシュを叩き込む。ラケットから放たれたシャトルは銃弾の如く、予想した真っ直ぐな軌道で相手コートへシャトルが飛ぶ。先輩はつんのめった姿勢でそれを追い、弾き返すがネットに阻まれた。僕の得点だ。


 練習試合で度々得点したパターンだ。いつも通りの勝ち方を手繰り寄せられた気がする。それを共感したようにアリーナの二年生が沸いた。


 勝てる。


 確信めいた興奮が炎のように胸の中で燃え上がり、ようやくエンジンが点火した。この勢いを借りて先輩を押し込んでやる!


 一方の先輩は冷静な表情を崩していない。ワンゲーム先取している分、僕より余裕があるのだ。いくら僕のエンジンがかかっても、そんな先輩を下すのは容易ではないだろう。


 実際、そこからは接戦だった。お互い相手を出し抜いたりミスをしたりと目まぐるしく点を取り合う展開となり、気がつけば十対十と白熱する勝負になった。ワンゲーム一五点マッチなのでまさに佳境。先輩が五点獲得すればその時点で僕は敗退。あの不細工な馬面の前で膝を屈することになる。逆に僕が五点を獲得すれば勝負は最終ゲームにもつれ込む。


「負けるな、航太郎!」「航太郎先輩、ファイト!!」


 アリーナの長崎肥前高校の一同の席から一際大きな応援の声が上がる。小笠原先輩を追い出せるか否かの瀬戸際だ。二年生と一年生はまるで我が事のような熱量であった。


「航太郎くーん! 頑張ってー!!」


 あの声は、冬木さん。アリーナを見遣ると口元で両手をメガホンの形にしている。その彼女と目が合った。


 大丈夫、きっと勝てるよ!


 彼女の声無き声に背を押されるような気がした。


 あぁ、勝ってみせるとも!


 冬木さんに頷いて応じ、目の前の敵を睨む。


 先輩、僕はあなたのプレーヤーとしての実力と直向ひたむきさは心の底から尊敬しています。毎朝誰よりも早く朝練に出席し、自分に厳しく向き合ってきたあなたの実力は本物です。

 でも、努力をして実力を身につけたところで、仲間を貶したり見下したりするような態度を取ることは頂けない。そういうのを天狗って言うんですよ? そんなあんたがこの先競技を続けてオリンピックにでも出て栄光を勝ち取る姿は、想像するだけで虫唾が走る。だからここで死んでくださいよ、先輩! それで明日からは真面目に受験勉強をしてください!


 先輩のラケットに弾かれたシャトルが本物ロケットさながらに天井目掛けて飛翔した。ロブショット、チャンスだ。落下予測地点に潜り込んだ僕は刮目し、シャトルを睨みつける。シャトルは回転しながら落ちてくるが、そのくるくるとした運動がこの時ばかりはなぜかスローモーションのようにひどくゆっくりに見えた。おかげでラケットのど真ん中でシャトルを捉え、小笠原先輩にスマッシュをお見舞いしてやれた。


 この瞬間、僕はなぜだか吹っ切れていた。この時だけは勝ち負けよりも、先輩の顔面に一発お見舞いすることが肝要に思えていたのだ。


 想いを乗せたシャトルはいかずちの如き速度と軌道で小笠原先輩の真正面へ向かって滑空する。


 そしてあろうことか、小笠原先輩の股間を直撃した。


 カツンと音を立てシャトルがコートに落ちる。次いでカーボンフレームのラケットが甲高い音を立てて床に転がった。最後に小笠原先輩が股間を押さえ、内股のまま膝から崩れ落ちた。その表情は俯いているため窺えないが、立っていられないほどの苦痛を、声を堪えて我慢しているに違いない。


 水を打ったような静寂がアリーナに訪れた。

 先ほどまで僕を応援してくれていた部員、他のコートでプレーしている選手と彼らを応援する人達が呆気に取られ先輩に視線を注いでいた。


 そして次の瞬間、会場が爆笑に包まれた。男性は腹を抱えて笑い、大人の女性は苦々しく笑い、女子高生達は恥ずかしそうに頬を染めて苦笑する。体育館中の人が一斉に笑うものだからコートのネットが揺れ、飛翔していた他所の試合のシャトルの軌道が強引に曲げられるほどだった。


「パイセン、大丈夫すか?」


 左手を口元に当て、未だうずくって悶える先輩の安否を気遣う僕。すごく痛そうで、本気で心配になっていた。


「て、てめぇ。よりによってこんな所を……」


 涙ぐみながら恨み節を唱える先輩。

 瞬間、僕もようやく事態がどれだけ滑稽なのか飲み込め、感情が追いついて笑いが込み上げてきた。


「あれあれ、パイセン。もしかして金玉に当たりました!?」


 出来るだけ会場中に聞こえるよう、声を張り上げて尋ねる。ギロリ、と先輩の双眸が僕を睨みつける。でかい声で言うなと目で命じていた。だが当然そこで黙る僕じゃない。


「パイセン、パイセン! どっちの玉に当たりましたか!? 右ですか、左ですか!?」

「う、うるさい! 玉になんか当たってない!」

「恥ずかしがらずに言ってください! 僕は先輩の金玉の具合が気がかりで仕方ないんですよ! もし潰れてたら責任取って僕の玉を差し上げますから!!」

「いるか!!」


 目を怒らせおちょくる僕を一喝するも、股間を押さえるその姿勢では何を言っても怖くない。

 やがて副審が先輩の側へ駆け寄り、プレーを続行出来るか問う。先輩はまだ痛むはずなのに意地を張って試合続行の意思表示をした。


 その意気込みは見事だが金的のお陰で先輩の調子は完全に狂ったらしい。このゲームは僕があっさりと制したのだった。


 *


 二度目のブレークタイム。三分間の休憩を挟み、試合は第三ゲームへもつれ込もうとしていた。


 審判台の反対側の先輩は僕を殴り殺しかねない恐ろしい形相だ。


「パイセン、マジで大丈夫なんですか? 金玉の怪我は早めに――」

「黙れ!!」


 おー怖い。

 こんなにこんなに可愛い後輩が心底心配しているのに。


 試合再開一分前。

 ドタドタ、と無数の足音が近づいてくる。

 アリーナはガイドロープによって一般区画と関係者以外立ち入り禁止のエリアに分けられている。僕達が試合をするコートは一般区画に隣接している。だから足音の正体がすぐに分かった。


「航太郎! 負けんじゃねぇぞ!」「航太郎先輩! ファイト!」「お前に千円賭けたばい!」


 僕を応援する部員面々がアリーナを飛び出し、目と鼻の先から声援を送り始めたではないか。

 仲間達が顔がはっきり分かるほどの所まで来てくれたお陰で勇気が倍増した気分だ。自ずと笑みが溢れ、取り敢えずサムズアップで応じた。皆も揃って親指を立て、ウィンクをする。


「小笠原先輩も頑張ってくださいねー」「まぁぼちぼちやりましょうやー」「先輩は大穴ってことで五百円賭けとりますばいー」


 一応の義理ということで先輩にも気怠げな声援が送られる。というか賭博はやめようか?


 甲高いホイッスルの音がけたたましく響き渡る。

 いよいよ第三ゲームが始まる。泣いても笑ってもこれが頂上決戦。まさに天王山だ。両雄睨み合ったままコートに入場し、スタートポジションに位置取る。


 サービスは先輩から。ネットギリギリの絶妙なコントロールのシャトルが右側ラインギリギリを攻めてくる。アウトか? いや、ライン直上に落ちるコースだ。

 先輩はボレーを見越して前進している。彼の得意な戦法だ。だがお生憎様、それを出し抜くのが僕の得意技。シャトルを大ぶりのロブショットで弾き、先輩の頭を越えて後方へ打ち上げる。意表をつかれて先輩の顔が歪んだ。慌てて追いかけ、こちらに背を向けたままつんのめるような姿勢で打ち上げる。こちらのネット間際に落ちるロブショット、チャンスだ! 僕は容赦無くスマッシュをお見舞いしてやった。ホイッスルが鳴る。僕の得点だ。


「いいぞ、航太郎!」「航太郎先輩、その調子!」


 ガイドロープ間際の仲間が一斉に沸く。

 このゲームの先制点は僕が頂いた。その余裕が相形を崩し、逆に先輩の顔が早くも焦りに歪む。

 心臓が早鐘を打つようにドクドクと拍動し、血をたぎらせた。手足の指先に至るまでに熱湯を循環させたように全身が熱を帯びているようだ。


 実際そこから僕は火の如く攻めのプレーを展開した。

 ネット間際に前進して先輩にプレッシャーを与えるポジショニング、風のようにシャトルに食らいつき、稲妻のようなスマッシュを何度も叩き込む。スコアは十対五で僕がリード。勝利まであと五点と秒読みのところに至った。


 ところがそこからは風向きが変わったように連続して失点を重ねた。サーブやリターンは精度を欠いてアウトやネットし、スマッシュも勢いを失ってしまった。勝利を目前にして慢心したか、全力プレーでエネルギー切れを起こしたか。とにかく勢いを失い、スコアは一二対一三のビハインド。逆転されてしまった。


 あと三点。


 勝利は秒読み。だが敗北もまた秒読み。

 勝敗を決する瞬間を目前にした喜びと焦りという表裏一体の感情をい交ぜになり、心臓が再び鼓動を速める。ここでギアを上げなければ後が無い。心臓が破裂しても構わないから今だけはアクセルを踏み込まなければ勝利を掴み取れない気がした。


 先輩のサーブが飛んでくる。直後、彼はコート中央に陣取り、僕のリターンを警戒する。僕はシャトルをドロップショットで返し、ネット側に引き摺り出す。先輩にスマッシュを打たせない作戦だ。

 左側ラインを攻めたドロップに先輩が食らいつく。しかしシャトルはラケットのフレームに当たり、あらぬ方向へ飛んでいく。僕の得点。一三対一三、並んだ!


 視界の端で仲間達が拳を振り上げ、得点を喜び、大きな口を開けていた。きっと歓声を上げているのだろう。だが彼らの声は全く耳に入ってこない。僕の耳はサービス許可のホイッスルだけを待つあまり、ノイズをフィルタリングしているようだった。


 鳥のさえずりよりも甲高いホイッスルがサーブを命じる。待ってました。サーブのポジションに着き、ショットのコースを思い描いて構える。気力体力共に限界に近づきつつある。今しくじれば先輩のマッチポイントで、僕が勝利するにはデュースを制覇しなければならない。そのような展開は回避したいところ。


 シャトルが放たれる。狙ったコースを辿り、先輩の心臓目掛けて飛翔する。ボディの真正面、打ち返しづらいショットを先輩は右サイドへ難なく打ち返した。それに食らいつき、空白の左サイド後方目がけて打ち上げる。仰角三〇度の鋭いショットを先輩は目で追い、必死の形相で飛び付いた。しかし打ち返したと思ったシャトルは明後日の方向へ飛んでいく。一四対一三、マッチポイント。得点すれば僕の勝利。因縁に終始を打つこととなる。


「航太郎くん、次で決めちゃえ!」


 仲間達が大詰めとなった勝負に興奮し、一層沸き上がった。その中から、なぜか冬木さんの声だけが僕の耳にしっかりと届いた。仲間の声は遠く、そのくせ彼女の声だけはイヤホンから発せられたように近い。


 最後のサービス。サーブ権は僕にある。

 審判のホイッスルが鳴り、直後シャトルが放たれる。またも先輩の真正面に向けてシャトルが突撃する。先輩の一番苦手なコースだ。先輩は胸の前でそれを受け、ドロップショットにして返す。すくい上げるように僕もドロップで返し、先輩が必死に飛びつく。シャトルが打ち上がった。天井目掛けた放物線を描き、ネット間際に落ちてくるコースだ。先輩の顔に焦りの色が浮かぶ。


 もらった!!


 小笠原先輩からのチャンスを無駄にはしない。落下予測地点に位置取りし、回転しながら落下するシャトルを見つめる。あれを渾身のスマッシュで先輩に送り返してやればカタが付く。


 その考え通り、振りかぶったラケットで力の限りシャトルを打ち、スマッシュを放つ。完全なインコース。シャトルは鋭い角度で床に向かって突進する。先輩はようやく体勢を整えた直後で反応が遅れる。


 これで決まりだ!


 そう確信を得たのと、シャトルが再び先輩の股間を直撃したのはほぼ同時だった。


 股間を押さえ、先輩が再び膝から崩れ落ちる。同時にホイッスルが鳴り響き、主審が僕の勝利を告げた。


 やった……勝ったのだ。あの小笠原先輩を公式戦で打ち負かした。

 まさに感無量の思い。その小笠原先輩は苦悶の色を浮かべながら僕を恨みがましく睨みつけている。


「航太郎……てめぇ、なんで今度は右なんだよ……」

!? とういうことはさっきは左だったんですか!?」

「うるさい!」


 ゲーム終了の挨拶を審判が促すが、先輩はそれどころではないご様子だ。審判は見かね、挨拶は省略とし、先輩は副審に付き添われベンチへ退避した。


 ドドドド! 背後から轟音が響いた。先ほどまでロープ間際で応援していた仲間達が規制を乗り越えコートへ進入していたのだ。


「航太郎! やったな!」


 最初に赤木が駆けつけ、僕の髪を揉みくちゃにして歓喜する。他の男子部員達も「おめでとう!」「おめでとう!」と背中を叩いたり抱擁したりと勝利を讃えてくれた。


「航太郎くん、おめでとう!!」


 そう言って一団の中から飛び出してきた冬木さんが僕の身体にしがみついてきた。冬木さんの小さくて、温かくて、柔らかい身体の感触が直に伝わってきた。咄嗟のことで驚いたが、ハイになった僕は夢中で抱擁を返してしまった。そして何事もなかったように身体を離して彼女の顔を観察すると、満面の笑顔を浮かべ、感極まるあまり目尻から涙を流していた。


「すごいよ、航太郎くん! 言葉通り、本当に勝っちゃった!」


 まるで優勝を讃えんばかりの騒ぎように係員が呆れた様子で注意のアナウンスを送る。だが僕達はお構いなしに勝鬨を上げた。


 鬨の声がアリーナ中に木霊する中、僕は勝利の喜びを噛み締めながら、同時にその意義を再認識した。


 この勝負に勝つことは僕と先輩の個人的な関係に決着を付けることと、先輩を部から堂々と追い出すこととは別の重大さを孕んでいるのだ。即ち、冬木さんと交わした約束を何が何でも達成するという自分との戦いでもあった。

 そして今、僕は自分自身にも勝利したのだ。この先、どんな困難が訪れようと乗り越えていける。青臭く、そんな自信が湧いたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る