第20章 モヤモヤハイスクール

 月曜日の教室。時刻は八時二十分。

 バドミントン部の朝練を終えた僕は赤木と他二名の男子と窓辺で談笑しながら冬木さんの登校を今か今かと待っていた。


 バドミントン部では毎週月、水、金に朝練が開催される。だが自主性を重んじるという顧問の方針で部長、副部長以外は基本的に参加は自由になっていた。

 その朝練に冬木さんはいつも不参加だ。不参加の部員は決して珍しくないためそのことについて眉をひそめるつもりはない。だがそのおかげで登校時間にタイムラグが生じてしまっていることがもどかしかった。


 僕は窓の向こうの眼下、春の温かな日差しに恵まれ登校する生徒の群れを観察し、その中に目当ての女の子がいないかぼんやりと眺めていた。また教室に人が入ってくる度にその人物の顔を見て冬木さんではないことを認めると肩を落とした。


「航太郎、なんか落ち着かんな」


 その様子を訝しんだ赤木が不審げに指摘する。僕は肝を冷やす思いだったが適当に誤魔化してやり過ごした。さすがに露骨過ぎたらしい。自重せねば。


「おはようございます!」


 教室に人が満ち始めた頃、一際よく通る大きな女子の声の挨拶が響いた。数名の生徒がその挨拶に応じ、声の主はきびきびとした所作で自分の席へと歩いて行った。


「日下部ちゃん、今日も綺麗だな」


 声の主――日下部に熱い視線を送りながら赤木が鼻の下を伸ばして呟いた。


 日下部は身長一六八センチの僕とそう変わらないほど長身でスラリとして、手足も細く長い。スコットランド人の母を持つおかげで顔の作りは日本人離れして彫りが深く、地毛の長い金髪が否応なく視線を吸い寄せる。

 モデルのような、あるいは女優のようなオーラを纏って歩く彼女には常にスポットライトが当たっているようで、そこだけが舞台さながらであった。さすが、演劇部のホープは存在感が違う。

 彼女が着ていると学校指定のセーラー服も特注の衣装のようで様になっている。だが僕は見逃さなかった。そんな彼女に不釣り合いなダサいチュリリンのストラップが鞄にぶら下がっているのを。


「おはよう!」


 続いてもう一人、別な女子が挨拶をして入ってきた。彼女の挨拶にも何人かの生徒が応じた。


 声の主は松本という女子生徒でチアリーディング部の次期部長候補。日下部とは対照的に黒髪のポニーテールがよく似合う純日本人顔で、笑顔が優しい女の子だ。オーラやルックスでは日下部に軍配が上がるが親しみやすい性格から彼女と同等かそれ以上の男子人気を誇る。


 松本は僕達がたむろしていた席の右隣に腰掛けたので、四人揃って挨拶をする。松本は明るく挨拶を返し、こちらとは反対側の右隣の女子生徒と談笑を始めた。


 僕はこの正味二分の間に気付いてしまった。

 日下部が挨拶をした時、僕も含め男子も女子も彼女に挨拶を返した。だが女子生徒の半分ほどは知らんぷりをしていた。

 そしてその後松本が挨拶をした時、日下部に挨拶をしていなかった女子は元気に声を上げ、反対に日下部に挨拶をしていた女子は総スカンだった。

 そして僕は入室する女子生徒が冬木さんであるかを確認する際、女子の鞄にチュリリンが結ばれているかも可能な限りチェックした。結果、チュリリンを付けている女子は日下部に、付けていない女子は松本に挨拶をしていたような気がする。昨日冬木さんが言っていた女子が真っ二つにグループ分けされているというのは朝の挨拶にまで表れていた。全く女の子は何を考えているのか分からず、恐ろしい。


 二人が登校すると教室が一気に賑やかになった。クラスのイケてる女子達がそれぞれのリーダーの元へ集まり、ペチャクチャとおしゃべりをし始めた。さすがにクラスの女子が真っ二つになるような集まり方はせず、何名かの女子は塊から外れて思い思いにホームルームまでの時間を過ごしていた。集団の会話の内容は週末の出来事が中心で、部活がどうの映画がどうの洋服がどうのと纏まりがない。


 その集団の中、あるいは外にも未だ冬木小夜子の姿はない。まさか今日は休みなのだろうか。そう残念に思った瞬間であった。


 キーンコーンカーンコーン。


「ふひ〜ギリギリセーフ……」

「冬木さん、ちょっと遅刻よ」


 チャイムが鳴り終わる数ミリ秒前、冬木さんは入室し、日下部さんにツッコミを入れられていた。冬木さんはギリ遅刻を日下部と取り巻きの女子に笑われ、恥ずかしそうに照れ笑いしながら最前列の自分の席に着いた。

 直後、スーツ姿の担任が入室し、生徒に着席を促した。ぞろぞろと自席に戻る一同に混ざり、僕も着席した。


 僕の席は教室の中ほどで冬木さんの斜め後方。

 僕はその席から担任の連絡事項を上の空で聞き流しながら、慌てて走ってきたため乱れたであろう彼女の頭髪と、机の横に提げられたリュックサックにぶら下がって佇むチュリリンを落ち着かぬ心境で見つめていた。


 *


 冬木さんは僕との約束を忘れてしまったらしい。


 ホームルームが終わり、一限が始まるまでの小休止、彼女はいつも話している仲のいい女子――まーちゃんとみぽりんと話し込んでいた。

 その次の二限が始まるまでの休み時間も話しかけてこなかった。

 昼休みも弁当箱を持って日下部達の後ろにくっついてランチに出て行ってしまった。

 本日最後の授業が終わり、帰りのホームルーム前の掃除の時間も話す機会を得られず、部活動の時間に突入してしまった。一日の間に何度か彼女と目があった気がするが、結局話しかけてくることはなかった。

 僕はといえば、土曜日の夕方から日曜日を挟んで今日まで、CDを借りるのをずっと楽しみにしていたので、お預けを食らっているようでなんだかすごくモヤモヤしていた。


 その末、一抹の不安が脳裏をぎる。

 もしかしてあれは社交辞令だったのだろうかと。


 同じ部活で今年からはクラスメイトだが、部活を通じての交流はこれまであまりなく、せいぜい挨拶程度。一緒にカラオケに行ったよしみでCDを貸すと挨拶のつもりで口約束をしたのではないかと。


 そう考えるとどうにも釈然としない。

 私物の貸し借りをするほど深い仲ではないから大事なCDを借りるのは確かに申し訳ない気もするが、それでも糠喜びをさせられた思いで腑に落ちない。

 昨日と今日とで二日間ずっと楽しみにしていたのに。だったら最初から言わなければいいのに。


 僕は裏切られたような気持ちになり、不満を一層募らせて部活の練習に挑んだ。しかし雑念に取り憑かれたおかげか、僕が打ったシャトルはあっちへふらふら、こっちへふらふらと全く落ち着きがない。その不調を赤木に心配され、大嫌いな小笠原先輩から滅茶苦茶バカにされ、背中がチリチリと痒くなるような気がした。


 それもこれも全部は冬木さんのせいだ。


 僕は冬木さんが視界に入ると苛立ち混じりにその後頭部や横顔を恨めしく睨みつけた。

 その一方、二つ結びの髪をぴょこぴょこ揺らして一生懸命に練習する彼女のことが気になって仕方がなかった。


 *


 日が沈み、部活動終了の時刻が迫った頃、部員全員で後片付けをする。

 ネットとポールを解体したり、そこかしこに散らばったシャトルやその残骸を拾い集めて回った。シャトルはまだ使えるものはカゴに戻し、破損がひどいものは処分用のカゴに集める。


 今日一日、冬木さんが声をかけてくれるのを首を長くして待ち続けていた。授業の合間や昼休み、掃除中と放課後とタイミングはあった気がしたが、結局今に至るまで一言も会話をしていない。向こうがCDを貸してくれるとの約束を覚えていたらどこかで話しかけてくるだろうと踏んで待ち望んだが、結局肩透かしに終わった。

 じれったさのあまりにこちらから声をかけようとしたが、それは躊躇われた。もし声をかけて


「ねぇ、冬木さん。土曜日の約束覚えてる。僕にCD貸してくれるってやつ」

「え……あぁ、そんな約束したっけ?」


 とすげなくかわされ恥をかくのではないかと不安になり、どうしても僕から切り出すことが出来なかった。


 冬木さんがそんな風に揶揄ったり、適当な口約束をするような人とは思っていない。だが全幅の信頼を寄せてもいない。部活で真面目に練習している姿は知っているが他には何も分からず、結局は赤の他人だ。心の内では如何様に考えているか決して窺い知れない。


 大きなため息をついて、僕はブルーな気持ちでボロになったシャトルが入ったカゴを見下ろしていた。

 くよくよ悩んでいる自分が嫌になった。そしてもっと嫌なのは冬木さんの人格を疑う自分だった。

 楽しく一緒になって歌った彼女との時間は高校に入って一番の思い出になってしまった。我ながら単純だと言わざるを得ないが、楽しいものは楽しいのだから仕方がない。その思い出を自ら汚すことに罪悪感を感じていたのだ。


 よし、賭けをしよう。


 煮え切らない自分に自らそう提案した。

 今からはボロのシャトルを選別する仕事をしなければならない。まだ使えそうなものは別なカゴに戻し、本当にどうしようもないものはゴミ箱に捨てるという作業だ。シャトルを数え、再利用の物が多ければ彼女に声を掛ける。逆に廃棄が多ければ土曜日の約束はきっぱり忘れる。そして忘れた暁にはウジウジと悩まない。


 僕は意を決し、まだ使えそうなシャトルは別のカゴに、使い物にならないものはゴミ箱ではなくそのままカゴに入れっぱなしにした。後で数えられるようにだ。

 シャトルの選別の基準は完全に作業者の胸一つだ。なので僕は公平を期するため、無心になって選別をした。

 機械になったつもりで、一つ二つ三つと選別を行う。そして綺麗なシャトルの最後の一つを移動させ、完了した。元のカゴにはボロしかない。

 それを僕は数えた。全部で四五個。再利用品は二二個で、廃棄は二三個。


「ちゃんちゃん……と」


 航太郎や、貴様の負けだ。潔く彼女のことは忘れるのだ。

 賭けに負けた僕に、髭面の仙人的な老人が厳かな面持ちで語りかけるような幻聴がした。次いで楽しい夢が覚めたような気がして自重気味に嘆息し、僕はがっくりと項垂れる。


 まぁ、仕方がない。ついひと月前までは赤の他人同然の関係だったのだ。ちょっとカラオケで仲良く歌ったからって調子に乗りすぎた自分が悪いのだ。別に冬木さんのことはどうとも思っていないし、あの記憶を無かったことにすれば痛みもない。

 長崎の中学校に転校したときのように、名残惜しさを振り切ればうじうじ悩むこともないのだから。


 トントントン。


 自嘲し、作業の続きに取り掛かろうとした瞬間、僕の方に誰かが軽やかな足音とともに駆け寄ってくる気配がした。


「お疲れ様。それ捨てたら終わりだよね?」


 その人物は、今日僕がずっと話しかけたいと焦がれ続けた女の子――冬木小夜子さんだった。冬木さんは屈んで作業をする僕を見下ろしながらそう尋ねた。


「う、うん、そうだよ。そっちは再利用だから用具室に運んでもらえる?」


 僕はうわずった声で返事をし、再利用のシャトルが入ったカゴに目配せした。


「オッケー、仕分けしてくれてありがとう」


 冬木さんはニコニコ笑顔で僕をねぎらい、再利用シャトルのカゴを屈んで持ち上げた。


 ……なんだ、ただそれを回収しに来ただけか。


 僕は話しかけられて嬉しくなったが、一瞬の後には落胆した。彼女の顔を見た瞬間、実はやっぱりと思い至ったがそれも思い過ごしであったと知ったからだ。散々気を持たせて、意地悪な女の子だな。


「ねぇ、航太郎くん。今日CD持ってきたけど、後で渡して良いかな?」


 冬木さんはモジモジと居た堪れなさそうにはにかみながらそう訊いてきた。


 前言撤回。冬木さん、すごく良い人。

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