第17章 元カノを選ぶ

 ビバレッジフェスの感想は散々だ。いや、フェス自体は素晴らしいものだったから散々との酷評は理不尽か。


 小夜子ちゃんが自分達は友達同士と説明した後、二つのグループは解散した。四人の雰囲気が修羅場そのものだったおかげで他の来場客の注目を浴びてしまい、居た堪れず朱莉は会場を後にし、松田もそれに続いて去った。


 その去り際、朱莉は小さな声で


「連絡するね」


 と言い残した。

 その意図は去り際に見せた彼女の寂しげな微笑みからヒントを汲み取り、推測することしか出来ない。


 赤の他人同士ならこれほど難しいクイズは無いだろう。だが五年間連れ添った僕だから高い確度の推測――いや、想像が出来た。


 帰りの電車の中、僕は沈黙したままその想像を巡らせ悶々としていた。そして心中できっとそうに違いないと何度も唱え、朱莉のことを想っていた。あまりにも考え込み過ぎて気がついた時には最寄りの二俣川駅に到着していた。


「朱莉さん、きっと航ちゃんとやり直したいんだよ」


 改札を抜け、西日がうなじを焦がす中をアパートに向けて歩いていると、小夜子ちゃんが唐突に切り出した。


「僕もそうなんじゃないかと思ってる」


 小夜子ちゃんに心を見透かされた気がして驚いたが、取り乱すことなく同意した。


 まぁ、それが僕の想像だ。いや、願望と言った方が適切か。


 朱莉は僕との復縁を望んでいる。

 ヨリを戻したがっているわけだ。

 去り際の切なげな顔。連絡するとの寂しげな予告。そして何より、小夜子ちゃんが現れた時の狼狽ぶり。分かりやすい手がかりがいくつも示され他に考えが及ばない(僕のおめでたい予想という線もあるが)。


「どうするの? ヨリ、戻しちゃうの?」


 小夜子ちゃんの声が、少し低くなった。その声音からして、僕にその選択を勧めている意思はなく、そして祝福する気持ちもないと察せられた。


 そして非情な未来を、僕は予想した。

 これを言ってしまえば、僕と小夜子ちゃんはもう元通りの関係には戻れない。


 このひと月の間、友達以上の関係として接し、築いてきた温かな関係に。

 その先にあったかもしれない、青春の続きをつむぐ関係に。


 どちらを選んでも僕は大切な人を傷つける。それが分かっていようとも、僕は朱莉との未来を捨て難い。


「うん、僕はまだ朱莉のことが好きなんだ。だから、彼女の元へ戻りたい」


 歩みを止めることなく、僕ははっきりと告げた。小夜子ちゃん相手にこんな辛い言葉を口にする日がまた来るなど、思ってもみなかった。

 それは彼女も同じだったろう。彼女は歩みを止め、僕の数歩後ろに立ち尽くしていた。振り返り彼女の顔を伺うと、俯き、悲しみをいっぱいに浮かべていた。


「そんなに、朱莉さんのことが好き?」


 責めるような強い口調。


「うん、大好きだ」

「どうして? あなたを傷つけた人なんだよ? 家族が欲しいというあなたのお願いを受け入れずに自分の願望だけを追った人がそこまで好きなの?」

「……驚くのは分かるよ。それでも僕は――」

「航ちゃんは何も分かってない」


 僕の言葉を遮り、さらに捲し立てる小夜子ちゃん。彼女がここまで語気を強めて発言する姿は珍しく、そのことに圧倒された。そしてそれ以上に、悲痛そのものの表情に僕は言葉を失った。


「仕事を追っかけるなんて誰でも……一人でも出来る。でも結婚ってそうじゃない。夫婦力を合わせて、思い合って二人三脚でしょ? 朱莉さんみたいに一人の道を選ぶような人はまた航ちゃんを傷つけるよ。そんな自分勝手な人とヨリ戻して結婚しても、どうせ幸せになんかなれないよ!」


 そして今のように、見ず知らずの他人を推測だけで非難したり決めつけたりするような物言いも稀だった。いや、僕の記憶には全くない。僕の記憶にある優しくて思いやりに満ちた冬木小夜子とはかけ離れた物言いに戸惑いを隠せない。


 僕は冷静さを失いつつあった。小夜子ちゃんが珍しく強い口調で気持ちを露わにして驚いていたが、最後の言葉は聞き捨てならない。

 朱莉は決して僕を蔑ろにすることを良しとしたわけではない。彼女が仕事に打ち込み、自らのキャリアを育てたいと熱望していたことは知っていた。そして結婚や出産がマイナスになるのではないかと憂慮していることも、僕は薄々だが察していた。察して、でも話し合うのが怖くて目を背けた。

 朱莉の方も僕の気持ちを紐解こうとせず、話し合いを持ちかけてこなかったのは事実。だがそのことを一方的に責めるべきではないはずだ。全ては僕達がお互いの心を理解し合うことを恐れたが故の悲劇なのだから。


 それなのに朱莉のことを何一つ知らない小夜子ちゃんからそのような決めつけをされるのは我慢ならない。僕はカッとなって言い返そうとした。


「私が航ちゃんの赤ちゃんを産んであげよっか?」

「え……」


 だが、喉元まで出かかった罵声ともつかぬ擁護は彼女の思いがけぬ言葉であっさりと消え失せた。


 今、なんと言った?

 僕の子どもを産んでくれると?


 茜さす面持ちは慈愛に満ち、孤独から解放されたいとの渇望を抱く僕の心を優しく撫でるようだ。

 僕の視線は彼女の右手に吸い寄せられる。おへその少し下の辺り――丁度子宮のある位置に添えられた女性的で綺麗な右手に。


 それはまるで女神様の、願いを叶えて下さるとの神託のようだった。


 僕が切望し、されど一度は失った希望を授けんとするお告げだ。


「朱莉さんは仕事と家庭、両立させてくれるかな? 航ちゃんが家事を引き受けるって言っても、子どもを産むことに同意するかな? 結婚してもずっとお預けで、タイムリミットが来ちゃうかも。知ってる? 女は三五歳を超えると子どもを授かりづらくなるし、出産の負担も大きくなる。結婚してもいつの間にか手遅れになって、その願いは叶わないかもしれないんだよ?」


 小夜子ちゃんがこちらに歩み寄ってくる。一歩、また一歩と。微笑みは憂いに変容している。彼女の憂慮は自らの内ではなく外側――僕に向けられたものだと身に染みた。


「私なら、今すぐでも良いんだよ?」


 両者が距離がほとんど肉薄するほど縮まり、小夜子ちゃんの両腕が僕の首に絡まる。両手を僕の首の後ろで組み、腕で作った輪っかの内に捕われる形のハグ。

 化粧品と彼女の汗が混ざった花のような香りが鼻腔をくすぐり、視界は完全に彼女の顔で埋め尽くされた。頬を朱に染め、とろんとした目で僕を見つめる姿はため息が出てしまいそうにしおらしく、艶っぽい。

 物憂げに開かれた小さな口から漏れる吐息が顔に吹き付けられる度、僕の心臓は鼓動を早めた。


「昔みたいにキスしてよ。それで初恋の日に戻って、セックスをして、それから初恋の続きをしましょう……。終わってしまった私達の初恋をまた始めるの……」


 甘美で幻想的な詩のような誘い文句に僕の頭はぼんやりとしてしまう。


 ほんの数センチ先に小夜子ちゃんの艶やかな唇が花のように咲いている。あとは僕がその気になればいつでも口づけが出来る距離だ。

 恋人だったあの頃、何度も交わした口づけを今再び交わせば、幸せだったあの頃に戻れる。そしてその先の幸せを手に入れられるだろう。


 そう予感した。それでも――


「僕は朱莉が良いんだ。彼女と未来に向かって、現在ここから歩いて行きたい」


 それが他ならぬ僕の願いだ。その願いのため、僕は僕を捕えようとする細く温かな両腕をそっと振り解いた。


「小夜子ちゃん、あなたの好意にどっぷり浸かってしまっていた。ごめんなさい。そして本当にありがとう。これからは良き友人としてお付き合いをしたい」


 これが僕のケジメ。

 彼女を僕の部屋に招くことはもう無い。今後は異性の友人として節度ある距離を保ち、交流を持つに留める。

 それが町村朱莉に向き合う男に求められる資格に違いないのだから。


「……そっか。さすがは航ちゃんだね。私なんかが誘惑しても決意は変わらないか……」

「うん、ごめんね。僕はやっぱり朱莉ともう一度先のことを話し合って、お互いが納得し合える答えを見つけたい。そしてその答えに向かって二人で歩いて行きたいんだ」

「ううん、いいの。航ちゃんは自分で考えて、行き先を決められる人だって知ってたから」


 そう僕の答えを受け入れる小夜子ちゃんの目は細められていた。努めて明るく振る舞おうとしているが、目尻から一筋の涙が溢れた。


「ただのお友達なら、これも返さないとね」


 そう言って小夜子ちゃんはバッグに手を突っ込み、何かを探し始める。出てきた手に握られていたのは僕の部屋の合鍵だ。そう、これもただの友人渡すには過ぎたもの。返してもらわなければいけない。


「確かに、受け取ったよ」


 受け取り、ジーンズのポケットに入れる。この鍵は再び、長らく身を委ねていた持ち主の元へ戻ることになるだろう。


「航ちゃん、友人として付き合ってくれるなら、改めて友人としてお願いがあります」


 そう改まった口調で切り出す彼女の顔にはもはや憂いは無い。あるのは何事かを決意したかのような女性の凛々しい色だった。


「もう少しだけ、私の側にいて下さい。側にいて、私に勇気を分けて下さい」


 後に思い返すと、彼女はこの時、自らの意思で未来へ踏み出す決意をしたのだと思う。

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