第16章 女友達とデート(2)
受付を過ぎ順路に沿って展示をぼんやりと眺めていた。
プレハブ材で構築されたビバレッジフェスの特設会場はうねうねとした順路にいくつかの大きなブースが設置され、そのブースごとにテーマに沿った展示物が披露されていた。
その中の一つ、プロジェクションマッピングエリアは小夜子ちゃんの興味を大いに惹きつけた。
ブースの壁には船や小島などの海原の絵、あるいは横浜の港町をモチーフにした絵が描かれており、その壁画に船やイルカや鯨が投影され活き活きと行き交っていて、さながら動く絵画のようだった。
面白いのはただアニメーションが投影されるのではなく、壁に元から描かれているイラストに触れるとそこを起点に波紋が発生したり、イルカが飛び出したりとダイナミックな演出がなされる仕様になっているところだ。その物珍しさもあって子どもだけでなく大人も和気藹々と壁の絵にタッチして遊んでいた。
「あはは、イルカが出てきたよ!」
小夜子ちゃんが小島のイラストに手で触れるとポンというポップな効果音とともに波紋が広がり、次いでザバンと大きな波の音とともにイルカが飛び出して壁面を泳ぎ回り、また海の中へ消えていった。
「すごく綺麗。不思議だね」
「ほんと、不思議」
小夜子ちゃんが感想を漏らし、僕も同意する。
しかし綺麗とは同意するが別に不思議という感想はない。
Webエンジニアという職業柄、こうした流行りの技術の情報は否が応でも入ってくるし、仕組みも大体想像がつく。
今僕達が遊んでいるのはインタラクティブ・プロジェクションマッピングというもので、投影機に接続されたセンサーが人間の動きを読み取り、条件付けされたトリガーを元にアニメーションを都度上書きする形で投影する仕組みのものだ。ここからは想像だが、大方、船や島のイラストに人間が触れたことをAIが検知しているのだろう。
このように仕組みが分かれば――いや、完全に見抜かずとも推測出来れば『不思議』という感想は浮かんでこない。せいぜい「よく出来てるな」という程度だ。嗚呼、悲しきかな理系の
もちろんそんな解説をこの場でするような野暮はしない。
デートで女性がそんなふうに話を振ってくる場合、求められるのは完璧な解説ではなく共感。綺麗だねと言われれば同じく綺麗だねと共感し、不思議だねと言われれば不思議だねと同調する。
モテない理系は知識量を自慢するために解説し、僕のようなモテる理系は心理学に基づき承認欲求を抑え込む。正直、学校でちゃんと教えるべき恋愛学だと思う。
「ねぇ、航ちゃん。この夜景っぽい海を見てると昔を思い出すね」
「昔?」
「うん。高校生の頃にグラバー園から見た夜景」
投影のため一層薄暗いブースで目を細め、微笑みを湛え僕を見上げる小夜子ちゃん。
その顔は若かりしあの頃――自分達こそが世界一幸せなカップルと自惚れたティーンの頃に度々見せた屈託のない満面の笑みと同じ、純一無雑な気持ちの表れ。
そんな彼女の笑顔を見ていると胸の内がぽかぽかと温かくなり、こちらの気持ちまで華やぐようだ。
「懐かしいなぁ……。あの頃に戻りたい」
そう郷愁じみて独りごちる小夜子ちゃんの表情が少し陰る。
上京してこちら、仕事に追われ、都会の人間関係に揉まれ疲れ果てた彼女の心境は察するにあまりある。十代の頃は誰もが自分の夢や目標、興味を思う存分に追い求め、がむしゃらに生きられた。だが大人になって自分の食い扶持を自分で養う責任が生じるとそうはいかない。勤めに出れば組織に、社会に順応し、時に従順さを求められ自分の気持ち一つで動くことが出来なくなる。社会人とは、誰かの思惑に大なり小なり動かされる存在なのだ。
高校生の頃は経済的には不自由だったが、気持ちは存分に自由だった。僕も小夜子ちゃんも寛大な親の庇護下で育ったため、高校生として、アスリートとして、恋人として自由な身を享受させてもらっていた。自立なき自由であったが、あの頃は輝いていた。それを失ったのは、望んだこととはいえ自立を手に入れるための決断が原因であったとは皮肉な話だ。
「そろそろ次に行こうか」
少し沈んだ小夜子ちゃんの顔を見ていられず、僕は努めて明るい口調で言い、順路の方向を促す。次のエリアはいよいよお待ちかねのフード&ビバレッジ。本日の大本命だ。
順路に設置された案内のパネルを見て小夜子ちゃんもそれに気付き、パッと顔を華やがせた。
それは小さな幸せを見つけられた優しい笑顔。
大人になっても幸福はいくらでも見つけられる。
小夜子ちゃんが立ち直り、そのことに気づけるまでは友達でいよう。
気障ったらしい決意をしながら、僕はゆるゆると前へ進んでいく。
*
フード&ビバレッジエリアはさながらバルのようで、落ち着いたテイストの内装と、来場客の和気藹々とした歓談の声に溢れていた。
壁沿いにはバーカウンターを模した飲食物の販売所がずらりと並び、来場客が列をなしてお目当ての品にありつこうとしていた。
「小夜子ちゃんは何飲むの?」
販売所を品定めしながら僕は訊く。
「私はあの新作エールビールっていうのにしようかな。航ちゃんは?」
「僕はあっちのドイツ黒ラベルってやつ」
「お店別々だね。買ったらその辺で乾杯しようね」
「賛成」
乾杯の約束を取り付けてから一時解散し、僕はお目当ての販売所に足を運ぶ。今日は外国産のビールの販売もあると聞き及んでいたので是非とも試したいと思っていた。ビールといえばドイツなのでもう楽しみだ。
販売所のスタッフに注文をし、スマホの電子マネーで支払いを済ませるとすぐに飲料が手渡された。企業のロゴ入りの透明プラスチックカップに注がれた液体はドス黒く、側面から見ると反対側が全く見えない。カップ表面ではキャラメルのような色の泡が層をなしてしゅわしゅわと弾けており、早く飲みたいと欲をそそった。しかし最初の一口は乾杯を済ませてからだ。それまではお預け。
販売所を離れると会場に設置されていた背の高い丸テーブルを確保し、小夜子ちゃんの帰還を待つ。このブースには椅子付きのテーブルの他にこうした立ち飲み用のテーブルも設置されていていよいよバルのようだなと感想を抱いた。
スペイン料理やイタリア料理を提供するバルには何度も足を運んだことがある。美味しい酒とそれに合う濃い味の料理、映画やドラマに出てきそうな大衆酒場的なインテリアが陽気な気分にさせてくれてなんとも好きなのだ。
そしてふと思い出す。横浜駅の西口から少し歩いたところに新しくイタリアンバルがオープンしたが、まだ訪れたことがないと。いつか行ってみようと思案していたがずっと忘れていた。
今夜の夕食に小夜子ちゃんを誘ってみようかと考えるが、若干躊躇われる。というのも横浜駅西口にはちょっとしたラブホ街があり、そのお店はその区画の一丁目一番地とも言える立地に構えられている。そんなところに彼女を連れて行くというのはまるで狙っているようで
仕方なし、今回は見送ろう。
と、僕達の友情を支えるための決断をした瞬間のこと。トントン、と右肩を叩かれた。あぁ、小夜子ちゃんかなと思い振り返る。
「あ、やっぱり飛騨先輩だ」
だがそれは小夜子ちゃんじゃなかった。代わりに立っていた人物の顔を認め、僕は背中に緊張が走るのを確かに感じた。
「…………松田、なぜここに?」
背後に立っていたのは自称小悪魔系のちんちくりんな後輩松田直沙その人。松田はビールの入ったカップを手に持ち、ニンマリと悪魔のような笑顔を浮かべていた。
「せんぱ〜い、それはこっちのセリフですよ。どうしてここにいるんですか? 私の誘いを断っておいて!」
笑顔は一転し、唇を尖らせ不服顔を浮かべて問い詰める松田。忙しい奴だ。
「あ、いや、実は今日は昔の友達と来ることになりまして……」
「昔の友達? 学生時代のお友達ですか?」
「まぁそんなところ」
「ふーん。女ですか?」
ずいっと一歩詰め寄り、肉薄される。僕を見上げる松田の端正な顔が、眉間に皺を寄せて強張っているのが暗がりでも分かるくらいに近い。松田はなかなか可愛らしい顔をしているが、そんな怖い顔をされると懸想も浮かばない。僕は
「なんでそんなこと聞くんだよ」
「否定しないってことは女なんですね」
じり、とまた松田が詰め寄る。それに反応して僕もまた一歩後退した。ジリジリと侵略と逃避が交互に繰り返され、僕と松田は円卓の周りをぐるりと一周することになった。周りから見るとさぞ滑稽だろう。
「おデートですか?」
「違うって。ただ遊びに来ただけじゃん」
「違わないです。日曜日、わざわざ予定を確保してみなとみらいまで来るだなんてデートじゃありませんか。どうして隠してたんです?」
そう言われると弱い。あまり気にしないようにしていたが、確かに異性と休日に予定を組んでイベントに来るというのは十分デートと言える。それを松田にはあえて伝えなかったのだから隠していたと言及されると立つ瀬が無かった。
「別にデートなんて可愛げのあるものじゃないって。お互い酒好きだから遊びに来たってだけだ」
「どうだか」
ジトッと非難がましい目で睨まれる。我ながら苦しい言い訳だと認めざるを得ないからやめろとは言えなかった。
「どこにいるんですか? せめて顔を拝ませてください。というか紹介してください」
「飲み物買いに行ってていない。ていうか紹介しないし。そういうお前は一人なのかよ?」
「一人じゃありません。連れがいます」
「へぇ、僕と中洲以外に休日を過ごす相手がいるんだな。お前もデートか?」
「なにおう!?」
反撃とばかりに僕は憎まれ口を叩くとすかさず反応が返ってくる。打てば響くというのはこのことだ。
見たところ松田は一人。ということは僕達と同様に別々の品を買うために一時的に別行動しているのだろう。遊びたい盛りの大型犬を放し飼いにするような無責任なそのお連れ様には一刻も早くこいつを引き取ってもらいたいものだ。
「航太郎?」
ドクン。
心臓が飛び跳ねるように一瞬、胸の中から大きな音が響いた。
ただ背後から名前を呼ばれただけ。しかしその一瞬の間、僕は雷に打たれたように頭が真っ白になり、周囲の喧騒の一切がシャットアウトされ、代わりにキーンと耳鳴りのようなものを感じたのだった。
目の前で松田がにんまりと笑っていた。僕は狐につままれたような気分になりながらも恐る恐る、振り返る。
「やっぱり……航太郎だ」
「あ、朱莉……。どうしてここに?」
声の主は最愛の女性だった町村朱莉その人だった。僕の背中から一メートルほど離れたところにドリンクのカップを持った朱莉が呆然と立ち尽くし、目をまん丸にしていた。
「直沙ちゃんが誘ってくれて遊びに来たの。美味しいお酒と料理が出るからって」
朱莉は切長な吊り目を細めて笑って答えた。そう、と僕は淡白な返事をしつつ、頬が緩むのをはっきりと自覚した。別れていようが関わりない。朱莉の笑顔はこの世の何よりも美しく、愛おしい。
「そうだったんだ。あ、そのワンピース、似合ってるよ。新しく買ったの?」
「うん、実は昨日買ったばかりの卸たて」
朱莉は服を褒められたことがよほど嬉しかったのだろう。今日のコーデは水色のワンピースオンリーなシンプルな服装だ。同素材のベルトでウエストをキュッと絞り、ワンピースでありながら身体のラインが強調されて魅力的だった。その裾を摘み、ひらりと披露して見せる姿が眩しい。
「航太郎は仕事の方はどう? 最近残業が続いたって聞いたけど」
「先月で落ち着いた。残業も大したことなかったよ、君に比べれば。……あ、皮肉じゃないよ」
仕事を優先するために別れた彼女に今の言い方は良くないな、と思いすぐに付け加える。朱莉もすぐにその気持ちを汲んでくれたようでクスリと笑った。
「朱莉の方は、どう? 仕事は相変わらず忙しい?」
「いいえ、最近少し落ち着いた。こうして遊びに出られるくらいにね」
「良かった。ちゃんと食べてる? 少し痩せた気がするけど」
「サブウェイばっかり食べてる。ヘルシーなのに、体重は一キロプラスよ」
「お菓子とお酒が多いんじゃない?」
「あたり」
皮肉っぽい僕の質問に自嘲気味な小さなため息を吐き返答する。予想通り、彼女はファストフードばかり食べているようだが、概ね健康そうだ。少しアンニュイな風だが、ついひと月ほど前となんら変わらない朱莉に僕は心底安堵した。
だがその後、両者ともに言葉が尽き、距離を詰めるでもなくただ沈黙が漂った。しかし不意に朱莉がそれを打ち破る。どこか意を決したような強さを秘めた眼差しが僕に向けられ、思わず息を呑んでしまった。
「ねぇ、航太郎。良かったらこの後――」
「航ちゃん、お待たせ! 列に二つも並んじゃったから時間食っちゃった! さぁ、乾杯しよ!」
しかして朱莉の声は突如割り込んできた元気な声に遮られる。
僕は何が起こったか分からなかった。不意に僕の斜め前方、至近距離に人影が踊り出し、僕の注意をあっさり奪った。
視界には両手にカップを持った小夜子ちゃんが申し訳なさ半分嬉しさ半分な笑顔を浮かべて立っていた。
僕はその彼女の顔を鳩が豆鉄砲を食ったようなバカ丸出しの唖然顔で見ていた。そして恐る恐る彼女から視線を外し、朱莉の様子を窺う。朱莉は笑みを浮かべたまま、しかしてぽかんと口を開けて
「航ちゃん、どうしたの? そんな顔し……て……」
怪訝に思った小夜子ちゃんはこちらの様子を窺い、僕の視線を辿るように振り返る。そしてその先にいる人物をついに彼女も認めた。
両者の視線は交錯し、不自然な沈黙がまたしても生じる。きっと今、朱莉の瞳には小夜子ちゃんが映り、小夜子ちゃんの瞳には朱莉が映り、そして鏡像の中の瞳にも互いの姿が映ってと合わせ鏡のように像が幾重にも重なり、両者の思考はハングアップしているのではなかろうか。
僕も緊張のため身動きも発言も叶わず、心臓が早鐘を打つのを感じながら荒い息を口から吐き、硬直する両者の様子を窺うことしか出来なかった。
カツン。
朱莉が一歩を踏み出した。夏らしいミュールのヒールが床材をノックし、一歩二歩と小夜子ちゃんとの距離を詰める。そして数秒の後に両者は手の届く間合いにまで迫っていた。
「以前、どこかでお会いしましたっけ?」
朱莉がコテン、と小首を傾げて問う。
その口調、その表情に僕は背筋が凍りついた。声音はどこまでも冷たい印象を与えるほど低く平坦で、つり目がちな目元はいつになく柔らかなのにその実全く笑っていない。
以前も僕が何かヘマをして彼女を怒らせたことは何度かあったが、このレベルの怒りの予兆を見せたことは一度しかない。何をやらかしたか忘れてしまったが、その時の朱莉も今のように冷血な態度を露わにし、直後、人が変わったかの如く僕を灰燼に帰さんばかりに憤怒をぶちまけたのだ。
「あなたは、町村朱莉さん」
小夜子ちゃんの口から声が出る。恐怖や焦りのようなものはなく、少し驚いただけの落ち着いた口調だ。
「ご無沙汰しています。以前、荷物を運ぶのを手伝って頂いた者です。彼の――航太郎くんの隣人です」
ピクリ、と朱莉の眉が痙攣する。怒りのボルテージが今どの程度か分からないが、確実に上昇している。小夜子ちゃんは至って冷静で恭しいが、今の朱莉は何を言われても刺激にしかならない。
「……私も思い出しました。そうですよね、航太郎のお隣さんですよね」
すっと朱莉の目が細められ、視線が動く。小夜子ちゃんの頭から爪先までを観察しているように見られた。
「え、ちょっと飛騨先輩、なんですかその人? どういうご関係? 本当に女と来てたんですか!?」
ギョッとして振り返った。直後、松田の戸惑いと不信を浮かべた顔が目に入った。その様子からして松田は先ほどのやりとりをコントか何かのつもりで受け止めていたらしい。
前門の虎、後門の狼。
どういうわけか、僕は知らぬ間に絶体絶命の危機に瀕していた。
「朱莉さんに振られてひと月しか経ってないのにもう他所の女捕まえてデートですか? ちょっと早すぎません?」
最初に噛み付いてきたのは松田だ。松田は僕と朱莉に気を利かせたつもりなのか、先ほどまで立っていた位置から一歩引いた所に立っていた。しかしカツンとヒールを鳴らして僕に詰め寄った。その顔は今まで見たことがないくらい
「待て、松田。お前はとんでもない誤解をしてる」
「どんな誤解なの? きちんと説明して」
背後から冷気の如き声が響く。振り返ると怒りを必死に押さえ込みながらも、今にも泣き出しそうな朱莉の顔が至近距離に迫っていた。彼女がこんな複雑そうな顔をするのは珍しいことなので、その心情は窺い知れない。
「航ちゃん、これどういう状況?」
最後、この場で唯一の癒しである小夜子ちゃんはビールを両手に持ったままキョトンとして尋ねてきた。正直彼女には助け舟を出してもらいたいところだが、連れが見知らぬ女二人に挟まれ危機的状況に陥っていたら対処不能になるのも理解出来る。
こうして僕は三人の女性に囲まれるという男性なら一度は味わってみたそうなシチュエーションに見舞われた。ただし面々の表情はネガティブ一色で人生で一度たりとも願い下げであった。
*
「ほっほーう。つまり冬木さんは飛騨先輩の同窓のご友人で、五月に偶然先輩の隣人になり、失恋を慰めた後に旧交を温め始めたと?」
その後、背高テーブルを四人で囲み、各々が購入したビールを飲みつつ、小夜子ちゃんがこれまでの経緯を話してくれた。
朱莉に振られた夜、階段からすっ転んで全身打撲に見舞われ彼女に手当てしてもらい、お互いの身元に気付いた。その後は友人として旧交を温めているという具合だ。
小夜子ちゃんは自身と僕の病気に関すること、その後ほとんど毎日夕食を作ってくれていること、僕達が元恋人同士であること等は伏せてくれた。近況を伏せてくれたことは正直ありがたいが、昔の関係性を秘密にしたことに罪悪感がないといえば嘘になる。
「まぁ、概ねその通りですね」
だが僕はその罪悪感から目を背けて松田の要約を肯定し、話を締めくくろうとする。
「いや、おかしいでしょ!?」
だが松田は全く納得しない様子で八重歯を剥き出しにして食ってかかった。
「昔馴染みの男女がアパートの隣同士になって、その後デートだなんて出来過ぎでしょう!? どこのラブコメ!?」
「いや、デートじゃないし。お互い暇だから遊びに出てきただけじゃん」
「独り身の男と女が休日にわちゃわちゃ遊んでたらそりゃデートだら!?」
クワッと一層目尻を釣り上げて詰める松田。制御が出来ずに遠州弁が出てる。
しかしそう詰問されるとこちらも立つ背がない。
以前小夜子ちゃんに言ったような気がするが、恋のパートナーのいる者が他の異性と約束して遊びに行くのはデートに相当し浮気であると。今の僕は独り身なので浮気には相当しないが逢引きには違いない。
「朱莉さん! どうなんです、これ? 五年付き合っておいて、別れたらさっさと他に女作るとか不誠実じゃありません!?」
松田は我がことのように怒り狂い、朱莉に意見を求める。当の朱莉はこれまで沈んだ顔でビールをちびちびと飲んで一言も言葉を発していない。そして話を振られても僕を睨みつけたまま、無言であった。
「一つ確認させて。私と付き合っている間、その人とは一切交流が無かったのかしら?」
どうにかこうにか絞り出したらしい言葉はそれだった。つまりは浮気を疑っているということだ。
「無いよ。さっきも言った通り、引っ越しの挨拶もなかったからお互い顔を合わせることもなかった。それは嘘じゃない」
「そう……なら、これ以上私にあなた達の関係をとやかく言う権利は無いわ」
「朱莉さん!?」
ギョッとして松田が朱莉を見やる。
「だって、別れた後のことなんだもの。航太郎の彼女でもなんでもない私が何を言えるの?」
「信じるんですか、こいつのこと」
「おい」
こいつ、とはなんだ。先輩に向かって。
「信じるわよ。航太郎は一度も浮気をしたことなんてなかった。それは私が一番よく知ってる」
「朱莉……」
不意に信頼を言葉に表され、僕は胸が熱くなった。
男の浮気など疑い出したらキリがない、などという淡白な口ぶりではない。その口調には紛れもない信頼が宿っているように思えた。別れたはずなのに、彼女の中にそれほどの想いがまだ残っていることが素直に嬉しかった。
「でも、別れた後なんだから何してようと航太郎の勝手よ。元カノ如きがあれこれ口出し出来ないわ」
朱莉は肩をすくめ、自嘲気味に零した。乾いた笑い声と作り笑顔が僕には妙に痛々しく見られ、こちらの胸が張り裂けそうな思いだった。
同時に『勝手』との言い草に僕の胸中はざわめきを感じた。
朱莉はヤキモチ焼きで独占欲の強いところがある。はっきりと浮気の疑いを口にしたことはないが、以前は言動に僕への強い執着を感じさせることが度々あった。痛くもない腹を探られているような気がして不快になったことはあるが、だがその不安を拭うことこそが愛情表現だと肝に銘じ、不安にさせまいと努力した。僕にとって町村朱莉とは、そうまでして信頼を得たい相手であった。
その彼女が、僕が他の女性と一緒にいるところを見ておいて勝手だと言って野放しにしたことが妙に寂しかった。いや、むしろ腹立たしくさえあった。
もっと嫉妬してほしい。
もっと怒ってほしい。
そんなにその女が良いのかと小夜子ちゃんのことを罵り、喚き散らしてほしい。
そんな僕の寂寥とも焦燥とも取れる感情は、誠意という皮を被り口をついたのだった。
「朱莉、小夜子ちゃんのことで黙っていたことがある。彼女は今は僕の良き友人だけど、元はと言えば恋人なんだ」
「「「っ!?」」」
女性陣は揃って言葉を失い、視線を巡らせていた。
松田は鳩が豆鉄砲を食ったように目を白黒させた。
小夜子ちゃんは居心地が悪そうに虚空に視線を向け、ビールを一口だけ含む。
朱莉はいつもの怜悧な面持ちのまま、僕をじっと睨んでいた。だがその目は怒りと不信感を宿しており、ゆらゆらと水面のように揺らいでいた。
その動揺をフォローすることなく、僕は淡々と続けた。
「昔、話したことがあったよね。高校生の頃に付き合ってて、進学して遠距離になった彼女がいるって」
「えぇ……聞かせてもらった」
「それがこの冬木小夜子さんなんだ。だからどうってことないけど、一応、朱莉には隠し事は無しにしておく」
そこで僕は一度言葉を区切り、購入した黒ビールをゴクゴクと口に流し込む。濃厚なコクと苦味が痺れるようで美味しいが、すっかり
視線を落としたおかげで僕の視界に朱莉と小夜子ちゃんの顔は無い。自分が発端なのに、二人がどんな表情をしているのか想像するのも恐ろしくまさしく顔向け出来ない状況だった。
「どうってことない、ですか?」
松田が唸るような低い声で僕の言を繰り返した。
「所謂『焼け木杭に火がついた』ではなく?」
「そうだよ。言った通り、友達」
疑惑を孕んだ松田の双眸を僕は見つめ返す。今まで見たことがないくらい鋭利な視線は恐怖のあまり顔を背けてしまいそうだった。
「冬木さんも同じ気持ちなんですか?」
ついで眉間に皺を寄せたまま小夜子ちゃんに問う。小夜子ちゃんも松田の形相につい息を呑み言葉に詰まってしまった。
それを朱莉が嗜めた。
「直沙ちゃん、よして。二人の関係に私達が立ち入っちゃダメ」
「でも、朱莉さん。あなた本当は――」
「私のことは良いから!」
朱莉は押し殺した声で松田を制した。大きな声ではないが強い口調なため、松田は意表をつかれてそれきり押し黙った。
「松田さん、町村さん。今の質問ですが、私も航太郎くん――いいえ、航ちゃんとはお友達なつもりです。松田さんが思ってるような関係じゃありませんよ。だから、何も心配しないで下さい」
小夜子ちゃんは小さく溜息をついた後、眉を八の字にして苦笑気味に答えたのだった。
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