第15章 女友達とデート(1)

 八月。関東の梅雨明けが発表されるとそれまでの長雨が嘘のようにカンカン照りが続いた。空の水源が枯渇したかのように連日晴れ模様が続いたが、時折思い出したようにゲリラ豪雨が降ってはアスファルトの道路を水浸しにするという気まぐれな空模様は本格的な夏の到来を実感させた。

 外に出れば蝉の大合唱が耳を刺激し、日差しがジリジリと肌を焦す。


 夏といえば夏休み。子ども達は平日の朝からプールバッグを担いで道路を走り、中高生は部活や受験勉強に精を出している様子が窺える。

 無邪気な子どもや目標に向かってひた走る中高生を見ると過ぎ去りし日々を懐かしんでは羨ましいと思ってしまう。

 自分が高校生の頃は部活で汗を流しては友達と駄弁だべったり、受験勉強にあくせくしたな、と無意識に過去を振り返らずにはいられなかった。そしてあの頃の、がむしゃらになって物事に打ち込めた日々に戻りたいと、あるいは夢中になれる何かが欲しいと羨んだ。


 そんなジリジリと陽光が肌を照らす季節、僕の心は約八年の歳月を隔て、徐々に小夜子ちゃんに引き付けられていた。


 *


「ビバレッジフェス?」


 例によって小夜子ちゃんが作った夕食を頂いている最中のこと。僕が発した単語を小夜子ちゃんは興味を抱いた様子でオウム返しに口にした。


「そう、ビバレッジフェス。今週末に赤レンガ倉庫で開催されるんだって。行ってみない?」


 お昼休みにSNSを眺めていた時、偶然そのイベントのことを知った。

 ビバレッジフェスは国内の大手酒類飲料メーカーが主催するイベントで、その名の通りメーカーが販売しているお酒やジュースが直販されるそうだ。そのほかにもお酒に合うスナックやお菓子、企業のノベルティのようなグッズの販売の他、展示やプロジェクションマッピングのショーが披露されるらしい。

 僕の一番のお目当てはもちろんお酒だ。主催者はグローバル企業なため海外でしか販売していないビールが振る舞われるらしい。濃い味のスナックなども一緒に販売されるそうなので是非とも食べたいものだ。


 小夜子ちゃんを誘ったのは酒飲み友達のよしみなのと日頃のお礼のためだ。

 彼女と再会して早一ヶ月。ほとんど毎日のように食卓を囲むお陰で分かったが、彼女も相当な酒好きだ。何が彼女をそうさせたのかは知らないが、きっとこのイベントに興味を持ってくれるだろうとすぐに思い至った。また平日はほとんど必ず夕食を作ってくれているので、いい加減お礼の一つでもせねばという負い目もありイベントを楽しんでもらおうという腹積もりだ。


「次の土曜日か日曜日とかどう?」

「うん、行く!」


 小夜子ちゃんは案の定、目をキラキラさせて大きく頷いた。


「でも行くなら日曜日が良いかな。土曜日は用事を入れてるから」


 オッケー、と返事をしてスマホのカレンダーに予定を書き込んだ。彼女の用事がなんなのかは深く詮索しない。把握している限りでは彼女は品川のメンタルクリニックへ診察を受けに行くことがしばしある。土曜日も営業しているクリニックのため、おそらくはそこへ行くのだろうくらいの気持ちであった。


 *


「ビ、ビバレッジフェス……?」


 その翌日の夕方、会社でのこと。プロジェクトのデイリーミーティングが終わり自席に戻る際に松田からそんな単語を聞かされた。


「はい! 今週の土日に赤レンガ倉庫で開催されるそうです。お酒や美味しいおつまみが売られたり、プロジェクションマッピングを使ったショーをしたり。日曜日に中洲さんと三人で遊びに行きませんか?」


 松田はニコニコ顔でイベントの詳細を語り誘いをかけてきた。毎度思うがこうして飲みや遊びに誘うときの松田は主人を散歩に誘う犬のようで愛嬌を感じる。ピンと立った耳とパタパタ振られる尻尾がそのうち飛び出してきそうだ。


 まぁ、耳と尻尾はさておき、僕はビバレッジフェスという単語を聞き背中に冷や汗を感じた。


 参った。日曜日は小夜子ちゃんと二人でそのフェスに赴く予定だ。その誘いに乗ることは出来ない。


「ごめん、日曜日は先約があるんだ。土曜日ならどう?」


 同じ場所へ行くのに誘いを断るのはチクリと罪悪感を覚えた。そのせいかもしれないが、半ば反射的に前日の土曜に行くことを提案した。土曜日なら僕もフリーだし、下見も兼ねて合流出来る。しかしそれは松田の方が難色を示した。


「土曜日はもう予定を入れてあるんですよね。私、ついにバイクの免許取るために教習所に通うことにしたんです! 土曜日の夕方は最初の技能教習が入ってるから無理なんです」


 しゅん、と項垂れる松田。予定が合わないのは残念だが、彼女が教習所に入ったことの驚きが勝った。大人になってあれをしたいこれをしたいと口にはするが実現しない人がほとんどだというのに、彼女は挑戦の一歩を踏み出したらしい。彼女の長所である行動力が発揮されたと言える。


「仕方ありません。中洲さん、日曜日どうですか? 私がデートして上げますよ?」

「なんでちょっと上から目線なんだよ」


 水を向けられた中洲は苦笑を浮かべた。


「悪いが、俺も日曜日は予定が入ってるんだ。誘うなら他を当たってくれ」


 そしてあえなく振られた。松田はポカンと口を開け僕と中洲の顔に交互に視線を向けた。


「お二人、私をハブにしてお出かけですか?」


 そして不服そうに、また悲しそうに訊く。どうやら僕達が男二人で休日を満喫すると思い込んでいるらしい。


「誤解だよ。僕と中洲はまるっきり別行動。僕は学生時代の友達とお出かけ」


 嘘はついていない。小夜子ちゃんとは大学生の頃まで付き合っていたが今は友達だ。目的地が松田が誘うビバレッジフェスと同じなのがどうにも申し訳ないが、出かけるというのも嘘ではない。ひどい誤魔化し文句だが、なんとなく松田と小夜子ちゃんを会わせるのは躊躇われたための苦肉の策だ。


「俺は合コン」

「「えっ!?」」


 中洲の予定に僕と松田は揃って驚愕した。


「な、なんでい」


 その意外感丸出しな反応に中洲は少し紅潮してべらんめえ口調で応じる。ちなみに中洲は葛飾の下町育ちで江戸っ子だ。


「あ〜そうですかそうですか。まぁ、せいぜい頑張って下さいねぇ〜」


 松田がニタニタといやらしい笑みを浮かべながら言う。普段なら野次や揶揄いを入れるところだが、あえて激励する辺りに皮肉っぽさが際立っている。嫌な性格だ。


「こん畜生め……絶対連絡先交換してやるよ!」


 今度こそ顔を真っ赤にする中洲とプークスクスと笑いを堪えるふりをする松田。それも長続きせず、彼女は数秒後には中洲から興味を失ったように、空白になった日曜日の予定を思案していた。

 いつも通りなやりとりだが、二人は確実に自分の目標に向かって歩き出していた。


 *


 平日と土曜日が過ぎ去って日曜日。

 僕の部屋でランチに冷凍食品を食べた後、十四時頃にアパートを出立することになった。今日の小夜子ちゃんは珍しく遅刻せず予定通りの時間に身支度を整えていたので少し意外。

 本日の彼女のコーデはノースリーブのカットソーとお馴染みの七部丈のジーンズと夏っぽい装い。日傘とキャスケットで日差し対策もバッチリだ。


 準備も出来たところで例によって二俣川駅まで歩く。その後は電車を乗り継いでみなとみらい駅で下車し、歩いて赤レンガ倉庫へ向かう。いつものように、腕一本分の距離を確保したままイベントのことを楽しくにああだこうだと話しながら。


 赤レンガ倉庫前の広場では週末らしく多くの来場者を惹きつけたイベントが開催されていた。出店や特設ライブ会場でのパフォーマンスなどが盛況で来場者は暑さに負けない興奮を顔に浮かべて闊歩している。赤レンガ倉庫では週末には大抵いくつかのイベントが同時に開催されているため、どれかをお目当てにした人々がどっと押し寄せ活気を極めるのが常だ。


 特設ステージで歌っているアーティストに目を奪われつつ広場を横切り、赤レンガ倉庫一号館へ入った。お目当てのビバレッジフェスは一号館の三階で開催されている。


 館内はたくさんの間接照明でムードいっぱいに照らされている。視界は鮮明だが薄暗さを感じさせるその照明のおかげで『倉庫』の名残を演出しているが、フロアにはお土産のショップが占めており不気味さは全くない。かつて貿易拠点に過ぎなかった赤レンガ倉庫は、過去と現在を繋ぐ文化拠点となっているのだ。


 イベント参加者用の順路を進み、エレベータで三階へ昇る。このエレベーターというのがなんともおかしい。というのも昔は貨物用として使われていたであろう旧式で、大人が五十人はゆうに乗れるほど大きいのだがとにかくのろい。あまりにものろ過ぎて僕と小夜子ちゃんは話題が尽きて沈黙するほどだった。

 ようやくエレベーターが三階に到着して扉が開くと、僕達も含めて乗客が少し安堵した様子で苦笑とため息を浮かべながらぞろぞろと降りる。きっと皆、このまま止まってしまったらどうしようと不安だったに違いない。


 三階フロアも一階同様、間接照明で薄暗く照らされていた。

 いや、一階よりもやや暗い。だが壁や床、天井のそこかしこにプロジェクションマッピングで波模様やくじらなどの海の生き物、帆船やクルーズ船が投影されていた。


「すごい。綺麗だね」


 小夜子ちゃんはうっとりした様子で投影に目を奪われ、そんな感想を漏らした。黒い瞳には投影の光が反射して輝き、さながら小さな小さな海原のようであった。


「っと、小夜子ちゃん。前見て歩かないと」


 天井を見上げる彼女は前を疎かにするあまり、コースを仕切るロープに突っ込んでいきそうになった。僕は咄嗟に彼女の反対側の肩に手を回し、抱き寄せるようにして列へと引き戻す。


「きゃっ。ご、ごめんなさい」

「こ、こちらこそごめんね」


 しかしそれも勢い余って僕達は大接近してしまい、薄暗いフロアでもお互いの表情がはっきりと分かるほど距離を詰めてしまった。


 慌てて彼女の小さな肩から手を離す。小夜子ちゃんも一瞬の間に半歩ほど距離を開け、僕達の距離は元通りになった。


 居た堪れなさの中にありながらも僕は胸の高鳴りを感じずにはいられなかった。


 密着した時に目に焼きついた彼女の顔を思い出す。

 細い眉、眠そうな奥二重の目、すっと高い鼻梁。

 小さな顔の輪郭は宝箱で、顔のパーツはその中の宝物。


 若かりし頃、手放したくないと思っていた宝物を自らの成長のための必要な決断と判じて手放した。

 それが今、僕のすぐ真横にある。

 それがついさっき、僕の腕の中に収まっていた。


 抱き寄せられた時、小夜子ちゃんは抵抗する素振りを見せなかった。肩に手を置かれても、引き寄せられても、腕に収まっても、振り払ったり反発したり逃れようとしなかった。

 もちろんそれは僕の思い過ごしということもある。小夜子ちゃんは展示に夢中になり意識を明後日な方角へ向けていたおかげで咄嗟に行動出来なかっただけかもしれない。

 その真偽が気になった。


 その真偽以外も気になった。


 自分のことをどう思っているのか。

 大人になった彼女の手の感触。

 髪の触り心地。

 胸やお尻の大きさ。

 セックスする時、どんな声を上げるのか。

 少女から大人に成長しどんな変化を遂げたか。


 この五年間、朱莉が占領していたが空白になりつつある脳の本棚に、小夜子ちゃんの情報の全てを記録して収めたいとの衝動に駆られた。大人になった彼女のことをもっと知り、そして僕のことももっと知ってほしいと願った。


「航ちゃん、どうしたの? 難しい顔して」


 小夜子ちゃんが心配そうな顔で僕を見上げ、声を掛ける。我に返って周りを見るといつの間にか列が進み、会場入り口の受付に到達していた。


「う、ううん。なんでもない。ちょっとぼんやりしちゃって」


 僕は慌てて作り笑いを浮かべて誤魔化した。あなたの裸を想像してましただなんて冗談でも言えないのでそうする他ない。

 小夜子ちゃんは心残りな様子だが「そう」とだけ言い残し、受付を済ませて来場者特典のノベルティのステッカーを二人分受け取った。主催者企業のロゴであるライオンのステッカーだった。その片方を僕にひょいと差し出す。


「楽しみだね」


 小夜子ちゃんはワクワクした様子で順路を進んで行く。僕も後ろから人が途切れることなく続く気配を感じ、小夜子ちゃんを追った。


 *


 僕達は、どんどん近づいている。

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