第14話 長崎と横浜よりも遠い距離

 食後、録画した『月曜から夜更かし』を二人で見て大笑いした後、小夜子ちゃんは帰っていった。

 時刻は二三時を目前にしておりもうじき就寝する時間だ。残業が入ると帰宅時間がそれだけ遅れるのだから、当然家で余暇を過ごす時間も圧迫される。学生の頃なら夜更かしをして娯楽に興じることも出来たが、社会人になった今ではそうはいかない。翌日の仕事を考慮して定刻までに寝なければ朝に響く。そして仕事のパフォーマンスが低下すればタスクは進捗せず、さらに残業し、帰りが遅くなって余暇の時間が少なくなるという悪循環に陥ることは必至だ。良い生活を送るにはしっかり寝るというのは基本中の基本。そのために僕は一刻も早く就寝出来るようテキパキとシンクで二人分の食器を洗っていた。


 小夜子ちゃんは気を利かせ皿洗いまでしようかと申し出たが流石にそれは固辞した。皿洗いまでさせれば本当に上げ膳据え膳になってしまい面目が立たない。掃除や洗い物くらいは自分ですると断り、彼女を送り出すことにしている。


 茶碗を手に取りふと思う。これは彼女が使っていた茶碗。彼女というのは小夜子ちゃんであり、朱莉でもある。


 この朱色の模様が入った茶碗は朱莉が買ってきてこの部屋に置いていったものだ。学生の頃から朱莉は平日休日問わずこの部屋にやってきては僕に食事を作らせたり、逆に作ってくれてはテーブルに向かい合ったものだ。社会人になってもそれは変わらず、訪ねてきては美味しそうに僕が作った食事を食べてくれていた。なので茶碗だけでなくお椀や平皿、箸などもこの部屋には二人分が常備されている。


 僕が料理をするようになったきっかけは学生時代、生活費を浮かせるためだった。苦学生だったので外食や店屋ものはおいそれと手が出せず、少しでも食費を節約出来るよう自炊の習慣を身につけたのだ。そんな苦しい懐事情は自ずと朱莉とのデートにも影響した。日々の生活がひもじいのだからデートで奮発することなどもってのほかである。そんな彼女と食事を楽しむため、僕は弁当を作ったり、自宅に招いて夕食を振る舞ったりした。最初はレシピサイトを見ながらぎこちなく作っていたが、繰り返すうちに手際が良くなった。朱莉も美味しいと言って食べてくれた。


 さらに言えば残業しない主義も彼女のためだ。

 僕と違い朱莉は多忙で、朝昼晩三食を店屋もののお弁当などで済ませるほどだ。そのため栄養を心配した僕は定時きっかりで退勤し、夕食を準備して彼女の来訪を待つという生活を送っていた。無論毎日ではなく、週四くらいの頻度で日中にLINEし、夕食の予約があればご飯を作るというスタイルだ。

 これを聞いた中洲は


「もう同棲しろよ!?」


 と若干引き気味でツッコんできた。

 しかしそれはさもありなんな提案だった。朱莉の家は戸塚にあるので夕食にありつきに来た日にはほぼ必ず泊まっていくが、着替えのために帰宅することもしばしばあった。その手間を考えれば同棲はメリットがある。そのため彼女に提案したがさほど乗り気ではなく結局有耶無耶になってしまった。


 今思えば、僕との結婚に前向きになれない気持ちがあったから同棲も気が乗らなかったのだろうか。


「……ちゃんと食べてるかなぁ」


 もう彼女のことは考えないと決めていたのに、頑張り屋さんな朱莉のことを想いそんな心配を口にしていた。

 ただし涙はもう出ず、代わりに小さなため息が出ただけだった。


 ピンポーン。


 全ての洗い物を終え、キッチンに背を向けた瞬間にインターホンから来客を告げるチャイムがなった。こんな夜中に一体誰かと訝しみインターホンを覗く。しかしそこに人影はない。ますます変だと思った時、


 ガチャリ


 と解錠の音が玄関から響いた。


「お邪魔しま〜す……」


 続いてすっかり聴き馴染んだ小夜子ちゃんのおずおずとした声が隙間風のように届いた。


「小夜子ちゃん、どうしたの? 忘れ物?」

「ううん、そうじゃないの。あのね」


 申し訳なさそうに俯きがちな小夜子ちゃんは、胸に白い布のようなものを抱いていた。


「私の部屋のシャワーが壊れたみたいでお湯が出ないの。航ちゃんの部屋のバスルーム、貸してもらえないかな……?」

「え、風呂場!?」

「うん。ダメ……かな?」


 眉を八の字にし、上目遣いで訪ねてくる小夜子ちゃん。控え目で慎み深い大和撫子然とした雰囲気は正直グッとくる。そして今更気づいたが胸に抱えている荷物はバスタオル。かなり厚みがあるので中に着替えが包まれているのだろう。


 正直戸惑った。

 今更小夜子ちゃんに部屋の設備を使わせることをいとう理由はない。これまでもキッチンは言わずもがなリビングのテレビや本棚等も自由にしてもらっていたわけだから。

 しかし、お互い異性で大人ということもあって、その線引きを暗黙のうちにしていたためかお風呂はまだ使わせたことがない。


「う、うちで良いの?」


 確認のためおずおずと尋ねる。


「こんなこと航ちゃん以外に頼めないよ〜。お風呂屋さんもどこにあるか知らないし、近くにあっても閉まってるだろうし。買い物行ったりして汗かいちゃったからこのままじゃ眠れないし……」


 アセアセと本当に困った様子でそう訴えてきた。

 確かにこの辺りに銭湯があるという話は聞いたことがない。あったとしても彼女がいうように夜も更けてきたため営業時刻もとっくに過ぎているだろう。今からでは汗を流せる場所を探すのは難しいだろうし、何より女性一人の夜歩きなどさせられない。


 そう、これは紳士的な親切心であり、僕と彼女のギブアンドテイク。夕食を振舞ってもらった恩返しだ。妙なことを考える必要はない。


「そういうことなら構わないよ。好きに使って」

「えへへ、ありがとう。それじゃあ改めてお邪魔しま〜す」


 お行儀よく断りを入れながらサンダルを脱ぎ、几帳面に揃えた小夜子ちゃんであった。


「じゃあ、ここで着替えさせてもらって良い?」


 ここ、というのは玄関先であり、バスルームの戸の前。小さなアパートの部屋なので脱衣所などない。


「う、うん。僕はリビングにいるからお気遣いなく」


 可能な限り自然を装い僕は玄関からリビングへと去っていく。女性が自室でシャワーをするからといってオドオドするのは童貞丸出しで格好悪い。僕は真っ当な恋愛経験を積んだ紳士。小夜子ちゃんが不安なく汗を流せるよう飛騨航太郎はクールに去るぜ。室内は冷房が効いているのに暑く感じるが、きっと立ち仕事をしていたおかげだ。緊張のせいではない。


「覗いちゃダメなんだからね?」

「ののののののぞかないし!」

「それとも一緒に入る?」

「入らないし!」


 もー、茶化すからびっくりしちゃったじゃないか。

 ビクッと肩を震わせ、頬を紅潮させて動揺する僕は挙動不審そのもの。これでは女慣れしてない童貞そのものではないか。

 ボロが出る前にリビングへ退散し、戸を閉めて空間を遮断した。これで僕が緊張していることがバレるリスクは限りなくゼロに近づいた。緊張してなんかしてないけどね!


「よいしょ」


 と、扉の向こうから小夜子ちゃんの可愛らしい掛け声が聞こえてきた。休職の身とはいえ夕食の買い出しや調理などで疲れも溜まったことだろう。夜更けになり疲労がピークに達する頃合いの今、服を脱ぐのも一苦労といったご様子。


 パサり、と服が床に落ちる音がする。続いて、トン、トンと足踏みする音。きっとボトムスを脱いでいるところに違いない。なぜそこまで克明に分かるかというと、僕は現在息を潜め、耳をピッタリ扉につけて戸板一枚向こうの様子を窺っているからだ。


 ガタガタ、と浴室の戸の開閉音が扉の向こうに響き、続いてシャワーから流れ落ちた水が床に叩きつけられる音が響いた。


 あぁ、小夜子ちゃんが水浴びを始めた。つまり彼女は今裸ということだ。


 小夜子ちゃんの裸……是非見たい!

 二六歳男性の性欲は猛烈に覗きへ傾いている。


 彼女の裸体をこの目に収めた経験はもちろんある。遠距離になったが大学生の頃まで恋人同士であったから、その間に当然恋人らしく性交渉をした。その時、同年代の女性の裸を初めて見たため興奮したことは今でも記憶に新しい。

 だが十八、九歳の身体などまだ子どものそれだ。十年弱の時を経て大人になった彼女の身体がどのような成長を遂げたのか大いに興味がある。

 ある学者曰く、女は二八歳が色気のピークだという。そして彼女は僕と同い年の二六歳なのでいわば完熟直前。女盛り真っ最中な小夜子ちゃんを妄想し、僕は無意識のうちに口角から涎を垂らしていた。紳士もへったくれもない。


 どうしよう……覗いちゃおうかな。


 覗くなと彼女は言ったが、冗談めかしたあの口ぶりはバラエティ番組でいうところのフリではないか、といささかご都合主義的だが解釈出来る。


 進路のために決別したことを今でも彼女は悲しみ、しかし上京して思いがけず再会したことを運命と感じ、焼け木杭に火がついた。そして本当は僕とヨリを戻したいが奥ゆかしい性格のため一歩を踏み出せず、シャワーが壊れたなどと嘘をついて据え膳し、僕が言い寄ってくるのを待っているのかもしれない。


「バカバカしい……。妄想が過ぎる」


 妄想の中で僕が迫り、小夜子ちゃんがふっと力を抜いて受け入れるところまで進んだところで我に返った。


 今の小夜子ちゃんはお友達だ。向こうもそう思っている。僕が盛って彼女に迫るというのは裏切り行為に違いなく、れっきとした罪だ。

 しかも相手はストレス性の神経症に悩んでいる。回復しつつある大事な時に心を傷つけるような真似は絶対にあってはならない。

 想うのは自由だが行動には代償が伴うのだぞ、航太郎。


 僕は口から入道雲が出てくるのではないかと思うような大きなため息をつき、ベッドにドサリと仰向けになった。そして元気になった下半身を鎮めるためスマホで電子書籍の技術書を開き意識を他所へ向けた。


 小夜子ちゃんの裸体を妄想して劣情に駆られる日が再び訪れるとは……成長してない証拠だ。


 *


「ふぅ、さっぱりした!」


 ご満悦な様子でタオルで髪を丁寧に拭きながら小夜子ちゃんはリビングルームへ入ってきた。

 着ている服はモコモコしたガーリーな部屋着……ではなく、白地のプリントTシャツに紺のハーフパンツという女性っぽさを感じさせない組み合わせだ。正直今の僕とほとんど変わらない服装だ。

 しかし露出したうなじや二の腕、太ももはぷるっと瑞々しさを含んでおり、見せられた側は堪らないほど色っぽい。


「航ちゃん、ドライヤーある?」

「あるよ。出してあげる」


 僕が収納から取り出したドライヤーを受け取ると、小夜子ちゃんは髪を乾かし始める。温風に髪が晒され、ひらひらと風まかせに揺れた。

 小夜子ちゃんは床に置いたクッションに座り、ベッドにもたれている。僕はベッドに腰掛け、後ろに手をついた姿勢でなんとなく彼女の後頭部辺りを眺めていた。眺めた、というよりは視線が釘付けになった。

 普段は髪が御簾みすとなって覆い隠されているうなじがドライヤーの風によって露わになり、そして一瞬の後にまた隠される。普段見えない女性の身体の部分を目に収める幸福を、僕は我を忘れて享受していた。


 しかし、それでもなお思ってしまう。

 朱莉以外の女性がこの部屋にいるということが未だに信じられない。しかもこんな無防備な姿で。

 思わぬ幸運が舞い込んできたからというのではない。自分が朱莉以外の女性とこれほど親密にしている節操の無さが信じられないのだ。


 失恋から一ヶ月弱が経ったし、朱莉に操立てをする義理もないのだからこの後ろめたさは筋違いだ。僕を振った女のことなんか忘れて、さっさと次の恋に漕ぎ出せばいい。例えば、目の前にいる小夜子ちゃんに真正面から向き合うとか。


 しかし小夜子ちゃんには友達だとはっきりと言ってしまった。そして言った手前、僕達は友人としての最後の一線を超えないよう距離を測りつつ過ごしている。その一線を越えるということはつまり、男女の仲を意識することに繋がる。


 小夜子ちゃんはそれを喜ぶだろうか。

 彼女は僕と友情を気付けたことを、言葉では喜んでくれた。その言葉通りなら、現状維持こそが僕が取るべき最善策であろう。

 果たして彼女と正面から向き合うというのは如何様に振る舞うべきなのか、僕は逡巡した。


「ねぇ、航ちゃん」


 ドライヤーのスイッチを切った小夜子ちゃんがこちらを振り向く。瑞々しいほっぺたがクイッと釣り上がっていた。


「私と遠距離してた時、浮気した?」

「……えっ!?」


 なんだ、その問い。出し抜けな質問に僕は鶏を絞め殺したような声を出してしまい、その後数秒沈黙した。


「してたんだ、浮気」


 ジトッと非難の念をいっぱいに込めた視線を向けられる。


「し、してないしてない!」


 一方の僕は胸にチリチリとした焦燥を感じ、慌てて否定した。


「本当?」

「本当だよ! 嘘じゃない」

「もう時効なんだからそんなに取り繕わなくても良いよ?」


 僕の必死の弁明を小夜子ちゃんは眉間に皺を寄せた苦笑で受け止め、そして優しく自供を促した。あっけらかんとした口ぶりと、子どもの悪戯を優しく咎めるような柔らかな表情を見ているとつい口元が緩みそうになるが、僕は彼女の意図が分からずひたすら口をつぐんだ。


「航ちゃんに学生時代からの恋人がいると知って、最近思うんだ。私が長崎で寂しくしている間、航ちゃんは朱莉さんに目を奪われて楽しくしてたのかなぁ〜って。もしくはもう二人でご飯に行ったりしてさ」


 小夜子ちゃんは僕から視線を外し、ぼんやりと天井を見上げて胸中の疑念を明かす。その声は精一杯に茶目っ気を持たせていたが、抑えきれない揺らぎがあった。


 それはある意味当然の疑念だろう。単身上京した彼氏が他の女に目移りしているのではないかと、遠距離恋愛をしている女性はヤキモキするのは男の僕でも想像にかたくない。

 寂しさを押し殺し、きっと相手も自分を想って同じように寂しさを感じていると信じながらも、人肌恋しく他の異性に目を奪われているのではと疑うのは自然だ。


 それは僕も同じだった気がする。長崎に残した小夜子ちゃんがどんな人と出会い、どんな会話し、どう感じたのか。その全てが気になったものだ。


「浮気なんか、してないよ」

「本当?」

「うん、本当。朱莉と話すようになったのは二年生の春なんだ。だから小夜子ちゃんとは被ってないし、別れた後もしばらくは彼女が出来なかった」

「そう……」


 多少誤魔化しがあるものの、僕は努めて事実を明かす。小夜子ちゃんはドライヤーの表面を指で所在なさげに撫で、それきり沈黙した。


 よく知っているもの同士とは思えないほど居心地の悪い沈黙だ。


「ねぇ、小夜子ちゃん。浮気ってどこからが浮気なのかな?」


 その末に、僕はこんなとち狂った質問をしてしまった。


「……今このタイミングで聞くってことは思い当たる節があるってことじゃないの?」


 小夜子ちゃんは当然、ジトッと疑わしきを見る目で逆に問い詰める。


「違う違う。他意はないよ。ただ、小夜子ちゃんとこんな恋愛談義をする機会がなかったから興味本位だよ」


 付き合っていた頃は高校生の時期。お互い恋に恋する少年少女で他の異性など目もくれなかった。自分達の絆こそ純愛と信じて疑わず、浮気の『う』の字も浮かんでこないほどだった。

 そのおかげか浮気についての真剣議論をしたことがない。


「あくまで参考までにさ」

「そうねぇ……航ちゃんはどこからが浮気だと思うの?」

「え、僕? そうだなぁ……他の男とお出かけしてたらもうデートだと思う」

「ちょっとした食事とかも?」

「そのくらいなら文字通り『日常茶飯事』じゃない? 帰り道でお腹空いたからご飯を一緒に食べるくらいなら……まぁ、許容範囲かな。でも休日をわざわざ別な男と過ごすってことは、自分よりもそいつといた方が楽しいと思ってのことでしょ?」


 男にしてみれば、貴重な休日を自分ではなく他所の男に費やされると言うのは納得がいかない。さながら自分との時間の価値を否定されたようなものではないか。きっとそれは女性も同じなはず。


 この時僕は、朱莉が休日に他所の男とわざわざ予定を立てて出かけたらと想像して無性にムカムカしてしまった。彼女がそれをしたら僕は絶対に浮気だと咎めるだろう。


「小夜子ちゃんは?」

「そうねぇ……私に堂々と言えないようなことをしたら浮気、かしら」


 それは随分と当たり判定がでかいな。


「じゃあ、『異性の先輩から誘われてご飯に行きました』とかも浮気になるのかい?」

「それを私に報告してくれればセーフ。内緒にしていたらアウト。まして、『誰と行ったの?』『先輩とだよ』『それって女?』『いや、男だよ』だなんて嘘の会話をしようものなら、例え何もなくても打首」

「ひぇ」


 背筋がゾゾっと冷える感覚を覚えた。小夜子ちゃんがこれほど嫉妬深い人だとは子どもの頃には気付きもしなかった。


「ねぇ、航ちゃん」


 今度は顔だけでなく、身体ごとこちらを向き直り、身を寄せてくる。ベッドに腰掛ける僕の尻の横の辺りに両手を着き、ぐいっと自分の身体を持ち上げ、中腰になって顔を近づけてきた。顔同士の距離はおよそ二〇センチ。シャンプーの残り香をふわりと漂い、僕を身じろぎさせた。


「私と付き合ってる時、私に言えないようなことしてた?」

「……地下カジノに出入りしたことは口が裂けても言えないかな」

「ふぅん。他にはどんな悪いことしてたのかしら?」


 にっこりと妖しげな笑みを浮かべ、僕を決して逃すまいと距離を詰めてくる。それでも僕はなんとか逃げ出そうとベッドの上で後退するが酔いもあって上体を支えられず、首だけを上げて仰向けに倒れてしまった。


「ねぇ、教えてよ」


 小夜子ちゃんは四つん這いの姿勢になり、押し倒すような格好で僕を見下ろす。シャツの襟が重力に引かれ、首との間に広い隙間を作っていた。瑞々しい肌の下からくっきりと姿を浮かばせる鎖骨と地味なデザインのナイトブラに包まれた豊かな胸が僕の目に飛び込んできた。


「今、見たでしょ?」

「……見てないし」


 恥ずかしくて目を背ける。我ながらバレバレな反応をしてしまい未熟さを痛感した。


「私と付き合ってる間にこういうことあった?」

「無かった」


 必死に否定する僕と、くりっと愛嬌のあるまんまるな目で僕の心を覗き込む小夜子ちゃん。僕は悪戯の痕跡を必死になって隠そうとするわらべになった気持ちでどうか勘弁してくれと祈っていた。


「じゃあ、朱莉さんと付き合ってた時は? 東京や横浜の素敵な女の人と彼女に言えないことはした?」

「してないよ!」


 これは本当だ。


「大丈夫だよ。朱莉さんに告げ口なんかしないし、出来ないよ」

「本当にしてないってば」

「正直に言ったらご褒美上げる」

「えっ!?」


 急に餌をぶら下げられ、素っ頓狂な声を上げてしまった。


 ご褒美。一体何かと思案するが一つしか思い浮かばない。それを妄想と切って捨てることは容易いが、有り得ないことではない。かつて恋人同士だった頃、僕達はそのような関係を持った。その時はまだ行為に及ぶには心があまりにも幼くぎくしゃくしてしまったが、今は心身共に成熟した大人だ。お互いよく知る相手同士で想いがまだ腐れてないのなら身体の関係になっても不思議ではない。我ながら短絡的だが、仕方ないではないか。


 薄いがぷるっと柔らかそうな唇、滑らかな鎖骨、服の上からでも分かる豊かな胸とお尻。大人になった元カノを性的な目で見れぬはずがない。今すぐにでも彼女と上下の位置を逆転し、めちゃくちゃに犯してしまいたい欲求がむらむらと胸の内に渦巻いた。


 だがそれにはまだ時が浅すぎた。僕の脳裏に朱莉の不安げな顔が浮かんだのだ。いつの時だったか、僕が他の女の子と親しく話している所を目撃した不安顔が。


「小夜子ちゃん、まだ酔ってるでしょ? お酒臭いよ」


 努めて真顔で指摘し、僕は彼女の細い肩を優しく押した。思いがけず呼気のエチケットを咎められ、慌てて顔が離される。口元に手を当てて呼気を自ら吸い確かめていた。しかし悲しいかな、酒臭さというのは自分では分からないものだ。


「お酒に酔って男との距離感が分からなくなるだなんて、おっちょこちょいじゃん。本当、意外だよ」


 カラカラと笑い飛ばす。彼女は頬を染め、非難がましい鋭い視線を僕に向けた。


「冗談のつもりですよーだ。航ちゃんにそんな勇気あるわけないって分かっててやりました」

「へぇ、じゃあ今のは絡み酒ってこと。おじさんに似たんじゃない?」

「なっ!? お父さんはこんな絡み方しないし!」

「じゃあ小夜子ちゃんの悪いところってことじゃん」


 その軽口に小夜子ちゃんはさらに食い下がって抗議した。されど売り言葉に買い言葉というか、軽口と反論の応酬が続き、とうとう彼女は臍を曲げて帰ってしまった。だが去り際はきちんと玄関まで見送り、お互いにまた明日と笑顔で別れを口にしたのだった。


 彼女が去った玄関で大きなため息をついた。梅雨の空気より湿気を孕んだ思いため息だ。


 高校生の頃、こんな風にじゃれたり軽口を言い合ったことがあっただろうか。こんな風にドキドキしたことがあっただろうか。

 お互い他人の目もしがらみもない自由な身の大人となり、両者を阻むものなど何もない。本当に、何もないのだ。にもかかわらず、僕はその決意をするには至らなかった。


 その後、僕は小夜子ちゃんの裸体を想像して自らを慰めた。いやらしく股を広げる彼女を真正面から、それから四つん這いになって尻を振り、僕を誘う彼女を後ろから、欲望のままに犯す妄想をした。

 あぁ、とてもじゃないが朱莉には言えっこない。これは浮気になるのかな。


 *小夜子 side*


 夜も更け、長居を遠慮する時間になったので航ちゃんの部屋を後にし、私は自室に戻った。

 戻って一番に給湯器のスイッチを入れ、水道から出てきたをコップに汲んでコクコクと飲んだ。そしてそのまま照明をつけず敷きっぱなしの布団に横になった。


 今夜は眠れそうにない。だが不眠の理由は病気ではない気がしたので睡眠薬は飲まずにいよう。


 壁の向こうに航ちゃんが寝そべっているところを想像し、胸がギュッと締め付けられるような思いがした。


 感じているのは自己嫌悪。


 自分の気の小ささと卑怯さが嫌になった。


 嘘をついて部屋を訪れ、彼を焚き付けたつもりだった。直接誘う勇気なんてないから扉を隔てて裸になり、彼が迫ってくることを期待していたのだ。


 航ちゃんが迫ってきたら驚いたふりをして、無抵抗のまま手篭めにしてもらう。

 それが私の稚拙な作戦。


 こんなことを考えるあたりは昔とちっとも変わってない。

 色気のない身体を使って航ちゃんの気を引き、身も心も自分のものにしようとする。

 それでもきちんと想いを伝えることが出来ず、最後には私の手をするりと抜けて遠くへ行ってしまう。


 好きだと言えても、そばにいてほしいとは言えない。

 好きだと言えても、抱いてほしいとは言えない。

 好きだと思っても、好きだと言えない。


 航ちゃんは昔から『自分はこうありたい』と思って生きている。

 大きな目標を持っているのとは違うけど、少し先の将来にどうしたいかをよく話してくれた。

 そんな人だから、私のような芯のない女には手に余るのだろう。私なんかの想いや言葉では彼の人生を左右するには大きすぎるし、私にはその覚悟もない。


「すごいなぁ……航ちゃんは」


 私の恋心は別れた後に尊敬に昇華され、彼のように自分と向き合って生きていきたいと思い続けていた。

 でも実際は流れに流され今がある。


「航ちゃん……もう少しだけ、私の話をさせて」


 アルコールの酔いは引きつつあったが心地よい眠気が訪れた。

 酒がなくても、薬がなくても、彼がそばにいると思うと不思議と眠れる。

 私の話をもっと聞いてほしいけど、出来ればもっと長くそばにいたいな。

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