第13話 元カノとの食卓

 七月中旬。

 小夜子ちゃんの病気のことを知り、二週間余りが経った。


 梅雨の雨はその降る頻度と強さを増し、日中の気温も夏の訪れを感じさせるくらい暑くなってきた。湿気と暑さのダブルパンチで不快指数はグングン上昇し、電車に乗る人達の表情もずっと疲れっぱなしのように思えた。

 しかし世の人の不快感とは反比例して僕の気持ちは少しずつ明るい方向へ向かっていった。


 理由の一つは仕事だ。気温上昇のせいで自然発火したように、担当していた案件が炎上した。営業が客との交渉をミスったおかげでタスクが積み上がり、連日の残業を余儀なくされている。単純な疲労と残業しない主義を曲げることになった悔しさが、奇しくも朱莉との失恋を忘れさせてくれた。失恋の傷を癒すにはそれを忘れるくらい別の何かに没頭すれば良いと聞いた気がするが、図らずも実践する羽目になったというわけだ。


 もう一つの理由は言わずもがなというか、小夜子ちゃんだ。彼女に関しては『もう一つの問題』となって僕の気を煩わせている、などということはない。むしろ真逆で、彼女とコミュニケーションが毎日の楽しみになっていた。

 小夜子ちゃんは病気が原因で休職していることをひた隠しにして出勤したふりをしていたが、それが秘密でなくなったおかげか以前よりあっけらかんとした態度で僕の部屋を訪れるようになった。最初は再開した当初のように冷食や惣菜、時にはお手製料理で一緒に晩酌をしていたのだが、僕が忙しいことを知ると毎晩夕食を作ると申し出てきたのだ。恋人相手でも恐縮するような親切を申し訳ないと思い流石に遠慮したが、休職の身で日中することがないからと妙に乗り気なためお願いすることにした。


 そして今日も今日とて、小夜子ちゃんは部屋を訪れて夕食を作り、僕の帰りを待ってくれていた。


 *


「ただいま」


 自室の施錠を解き、玄関扉を開けた僕は部屋に向かって帰宅を告げる。一人暮らしなのだから不要な挨拶であるが、子どもの頃から染み付いた長年にわたる習慣というのはそうそう抜けるものではない。無意識に口から発せられていた。


「おかえりなさい、航ちゃん」


 しかしてそれは決して無駄なものではない。

 部屋の照明は灯り、キッチンから炊煙の香りが漂い、僕の帰宅を待つ人物が今日もいた。


「ただいま、小夜子ちゃん」


 靴を脱ぎ、リビングルームへ進むと小夜子ちゃんはスマホで音楽を流しながら僕の蔵書の小説を読んでいるところだった。床にクッションを置いて座り、ベッドにもたれていた。流れている曲はボーカルの声から『BUMP OF CHICKEN』と分かったが、曲名までは知らない。


「ご飯出来てるけど、すぐに食べる?」


 パタンと文庫本を閉じ、視線をこちらに向けて尋ねる。


「その前にシャワー浴びたい。今日も蒸し暑くて汗かいたよ」

「オッケー。じゃあ、私部屋に戻ってるね」

「うん。上がったらLINEする」


 僕がお願いするまでもなく小夜子ちゃんは立ち上がり、そそくさと隣の自室へ戻っていった。

 一人暮らし用のアパートのためこの部屋には脱衣所がなく、浴室は玄関とキッチンとに直接面している。そのため二人以上の人間が着替えをするにはどうしても不便で、うっかり男の裸をお目に晒すことになりかねない。向こうもそれを承知で、僕がシャワーや着替えをする際にはこうして遠慮してくれている。


 その遠慮に甘えながら僕はシャワーで一日の疲れと汗を手早く流し、着替えを済ませると小夜子ちゃんにLINEでメッセージを送る。メッセージはすぐに既読になるも返信はなく、代わりに少し間を置いて小夜子ちゃんがこの部屋に戻ってくる。これも二週間の間にお決まりとなっていた。


「ご飯の準備するから、座ってて」

「何か手伝おうか?」

「大丈夫。座ってていいよ」

「そう、じゃあ遠慮なく」


 テーブルにはすでに二人分の食器が並べられ、あとは器に装うだけ。それもすぐに終わり、あっという間に夕食の支度が整った。

 本日の献立は鯖の味噌煮、インゲン豆のお浸し、ひじきの煮物、加えてご飯と味噌汁がついて一汁三菜が見事に揃っている。そこに二人分缶ビールを並べれば完璧な夕食が出来上がりだ。


「「いただきます」」


 二人揃って合掌して箸を取り食事を始める。僕は真っ先に主菜のさばに箸をつけ、身を摘んで口に運んだ。ふっくらした身に味噌の風味が染み込んでおり、食べれば食べるほど食欲が増す。また、青魚独特の嫌な臭みがなくきちんと下拵えをしたことが伺えた。


 彼女が作る料理を食べるといつも思う。

 どうしたらこんなに上手に作れるのだろうか。

 僕も男にしては料理をする方だと自負があったが、とてもじゃないが小夜子ちゃんには敵わない。この鯖の味噌煮にしても、僕が作った時は身はパサパサで煮汁はスープのようにシャバシャバ。湯通ししたおかげで臭みは抜けたが納得のいく出来ではなかった。同じ料理なのに何故ここまで差が出るのかと不思議でならない。

 なのでコツを訊いてみたところ、


「ズボラをせず、奇をてらわず、基本を学ぶ」


 とどこぞの師匠のような格言を与えられた。料理の奥深さを物語ると同時に、彼女の真面目で思いやりに富んだ性格を表すような言葉だった。


「今日も美味しいよ、小夜子ちゃん」

「ありがとう。その鯖、結構上手に出来たと思うんだ」

「いつもすまんのう、小夜子さんや」

「航太郎さん、それは言わない約束ですよ」


 感想を言うと同時に老夫婦のようなやりとりをして楽しみながら、次々におかずを食べていく。ひじきの煮物も味が染み込んでいてご飯によく合うし、おひたしもあっさりしてパクパクとあっという間に食べてしまった。


「本当に負担になってない? 毎日こんなにたくさんおかずを用意して疲れてない?」


 いつもならここらで談笑に突入するが、今日はそんな疑問を口にした。

 彼女はここのところ毎日夕食を作って振る舞ってくれる。曰く、病気のせいもあって引っ越しの片付けが未だに満足に済まず、調理器具類も揃っていないらしい。そのため僕から合鍵を預かり、キッチンを使ってもらっている。彼女はそのことに感謝している様子だがそれはひどく奇妙なことだ。実際のところ、彼女は自宅のこともままならないほど病気の療養に心を砕いているのに、それに加えて僕の世話を焼いていることになる。食費は自分の分に色をつけて渡してあるので金銭面ではともかく、時間や体力面で負担をかけているのではと心配になった。


「全然。前も言ったでしょ、休職してやることないから気晴らしになってるって。それにおかず揃えてると言っても作り置きとかして時短出来るところはしてるし」

「へぇ、作り置きか」

「冷蔵庫見てないの? ジップロックの容器にお浸しとかひじきとか入れてあるのに」

「……気がつかなかった」


 このところ小夜子ちゃんが食事の世話をしてくれて、まさに上げ膳据え膳な状態だ。それこそ自分で冷蔵庫を見る必要もないくらい。


「それにたくさん作っているように見えても大したことはしてないよ? 副菜は四つか五つくらい作り置きして、日によって組み合わせを変えてバリエーションを演出してるんだ」

「すごい主婦力!」


 自慢げに種明かしをする小夜子ちゃんに僕は舌を巻いた。


「ちなみに鯖は二日分作ってあるので、明日も同じメニューになります。ご承知おきください」


 と、小夜子ちゃんは申し訳なさそうな苦笑を浮かべ、ペコリと会釈した。


「もちろん構わないよ! この鯖美味しいし、ビールによく合うから文句なし! 明日がもう楽しみだよ!」


 僕は本心から気持ちを伝え、ぐいっと一口缶ビールを飲む。

 料理上手で器量良し。昭和的な言い方をすれば良妻そのもの。小夜子ちゃんを妻にもらう旦那さんはさぞ幸せだろうな。


「ふふ、ありがとう。ちなみに明日は木曜日で休肝日だから飲んじゃダメだよ?」


 小夜子ちゃんはうっとりするような優しい笑顔で、しかし最後にはきっちり釘を刺した。

 お互い揃って酒好きなおかげで連日晩酌していたが、彼女の提案で毎週火曜と木曜は休肝日にすることになったのだ。僕としてはビールがないのは寂しいが、最近お腹周りが気になってきたこともあり苦渋の決断を下し、受け入れたのだった。


「ジムでも通うかなぁ……」


 自らの怠惰の象徴である脇腹の肉を摘みながら独りごちる。小夜子ちゃんはカラカラと笑ってビールを飲んだ。


「昔はもっとぎゅっと引き締まってたのにね」

「歳取ると代謝が下がって脂肪がつきやすくなるそうだからね。歳は取りたくないものですな」

「いや、加齢じゃなくて生活習慣が全ての原因だと思うよ。運動してお酒を飲まなければ解決でしょ?」


 ごもっともな正論。


「運動はしようと思うけど、お酒は飲み続けたい」

「好きねぇ、お酒」

「僕はお酒のために生きてるんだなぁ。こーたろー」

「相田みつを風に言ってるうちは絶対痩せないよ」


 我が自堕落のポエムは心に染み込み、ダイエットの決意は肝臓で代謝されて消えていった。僕はきっと今後も太り続けるだろう。


「小夜子ちゃんは運動とかしてるの?」


 と、今度はこちらから健康事情の水を向ける。小夜子ちゃんは女性らしい曲線的な身体をしているが、手足はスラッとしておりお腹周りも今の所心配はなさそうだ。そんな彼女は視線を少し上に向けて思案している。


「ストレス発散も兼ねてウォーキングを。日中やることがないから図書館まで歩いたりしてるかな。この頃は暑くてサボってるけどね」


 と最後に自嘲気味に付け足す小夜子ちゃん。

 この近辺の図書館といえば旭図書館になる。徒歩だと一駅分の距離と少しだから中々ハードな運動だろう。しかし小夜子ちゃんは山がちな長崎の生まれで日常的に足腰が鍛えられている上に、運動部所属だったこともあり体力面の心配はなさそうだ。


「通りで昔より痩せた気がしてた」

「というよりもやつれた?」


 お世辞半分本音半分な感想を伝える。一方小夜子ちゃんは微笑みを浮かべながらも言葉は自虐的。病気とその原因であるストレスのおかげで食が細くなったとも言ったことを思い出した。


 しかし言葉とは裏腹に、表面上は彼女が病気である様子は感じられない。ブラウンに染めた髪は艶やかで、肌はもちっと張りが見て取れる。曲線的なルックスは唸るほどの健康美を形作り、十分魅力的だ。


「いやいや、ご謙遜を。すらりとしてお綺麗ですよ?」

「あら、お上手」

わしがあと十歳若ければほっとかないのじゃがのう」

「おじいちゃん、揶揄うのもその辺にね」

「お姉さん、芸能人とか興味ない?」

「すみません、もう事務所所属してまして」


 完璧なスルースキル。僕の口説き文句を余裕綽々に笑顔を浮かべて回避した。


 あぁ、小夜子ちゃんも大人になったな。


 友人の成長をしみじみと感じながら、僕はずずっと味噌汁を啜るのだった。

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