第12話 告白(3)

 土曜日の午前中、僕は室内を忙しなく歩き回り部屋を整理していた。


 整理しているのは当然朱莉の私物や思い出の品々だ。


 乳液やクリームなどの化粧品、ティッシュケースや小箱といった小物類、衣装ケースに収めていたパジャマ、そして出窓に飾っていた写真。


 彼女との思い出を想起させる物で溢れているこの部屋にいると気持ちがジェットコースターのようにアップダウンして落ち着かない。当然自分の家を家出するわけにもいかないので物を整理するというわけだ。


 しかし当然ゴミ箱にぶち込むということは出来ない。喧嘩別れをしたのであればフラストレーションを解消するためにそうした乱暴に出てみるのも良いが、彼女との別れは円満離別だ。……少なくとも僕はそう思っている。

 なので思い出の品はひとまず段ボールに収め、しばらくはクローゼットの奥に眠らせることにした。もしかしたら朱莉から返して欲しいというものがあるかもしれないから。


「女々しいな……」


 恩着せがましい考えを抱く自分に嫌気が差す。朱莉とは別れ話をした際に、部屋の私物は処分して構わないと了解を得ている。なので万に一つも返せという連絡は来るはずがない。プライドの高い彼女のことだから前言撤回してやっぱり、などということは考えられないのだ。それを理解しているのに、僕は処分という苦行から逃れる口実を得るために無駄に気を利かせている。


 物品が傷付かないよう一つ一つ優しく段ボールに詰めていく。

 のんびりと片付けをしていたおかげで目に付く品々が一掃されたのは二時間ほど後のことだ。


 見渡すと裸になったティッシュ箱や、箱に収められていた小物が剥き出しにされ、整理整頓が行き届いておらず雑然としている感が漂っている気がした。整理したはずなのに、なぜ散らかるのだろうか不思議に思うが、なんてことはない。


 自分では日頃から部屋をなるべく汚さず、散らかさず整頓しているつもりだった。その甲斐あって部屋はいつも綺麗さを保てていた。だがそれは僕一人で成し遂げていたのではなかったらしい。彼女の趣味で物の位置が決まったり、知恵によって収納され部屋は彩りと整然さを与えられ、快適な空間が出来上がっていたのだ。


 部屋を元のまま保っていれば彼女の痕跡を懐かしみ、片付けたら彼女が消え去ってしまったことを改めて自覚する。我ながらどっち付かずな空虚さを胸に抱き、僕は力尽きたようにベッドに寝そべり天井を仰いだ。奇妙なもので、今視界に収めている天井だけは引っ越した当初のままの姿をしている。されど、その天井にさえ今は懐かしさを禁じ得ない。僕も朱莉も良い大人だ。彼女は幾度となくこの部屋を訪れ、何度も肌を重ねて愛を確かめ、深めていった。そしてこの天井を眺めながら眠りにつき、目覚めてはこの天井を見ていた。


 我ながら未練たらしい考えだ。天井にまで思い出のタグをつけていては朱莉を忘れる日など来ない。


 僕はこの日を境に、朱莉のことをなるべく考えないよう生きることに決めた。出窓を飾っていた色とりどりの写真が消え去った虚しさから逃れるにはそうする他になかった。


 *小夜子 side*


 今日は待ちに待った土曜日!

 何があるかといえば航ちゃんとの中華街観光とお食事だ!


 レストランをわざわざ予約してくれたというからさぞや美味しいご馳走が待っていると思うと胸が高鳴ってしょうがない。今の私はどうしようもないくらい浮かれていた。


 いつもなら男性と二人きりで出かける前というのは緊張してしまうが、相手が航ちゃんだからか不思議と気が楽だ。

 二年恋人として付き合った下積みと、再開してからも変わらず朗らかに接してくれた安心感が私から緊張を取り去り、ただただ楽しい気持ちにさせてくれた。


 何を着ていこうかな。


 衣服の段ボールから中身を引っ張り出し、布団にずらりと並べて俯瞰する。今日は梅雨の晴れ間のカンカン照りですごく暑いらしい。暑さと日焼け対策がばっちりのコーデにしたいところだ。


 私はトップスとボトムスを組み合わせては床に置き、服の組み合わせを思案する。この部屋にはまだ姿見がないので、こうして服を選んでは自分が着た姿を完成形としてイメージする他ない。これも違うそれも違うと迷いながら自分の姿を想像するのは、まるで難解なパズルを解くような気分だが不思議と嫌な気持ちはしない。


「よし、これでいこう!」


 何通りも組み合わせを考え、選んだのは白のワンピースに黄色のサマーカーディガンのシンプルコーデ。奇しくも最初に候補に上がった組み合わせだ。


 さて、服も決まったところでようやくシャワータイム。あくせくと服を取っ替え引っ替えしたおかげで身体は汗ばんでしまった。ひとまず身体の汗を流し、洗顔だけしてシャワーを終え、ピックアップした洋服に着替えたら次はお化粧。

 下地を丁寧に作り、その上からあまりけばく見えないナチュラルメイクを作っていく。

 それも終わったら髪の毛をかし、自然なストレートに整えていく。ヘアドライヤーもどこにあるのか分からない有様なので、これが今の私の限界。

 卓上ミラーを持ち上げ、様々な角度から隅々まで入念にチェックし、調整を入れ、ようやく出立の準備が整った。我ながら良い出来だ。


「さて、そろそろ時間か……な……」


 もう良い頃合いだろうと思って目覚まし時計を読む。そして言葉を失った。

 約束の時刻は一五時。しかし時計の針はそれより先の一五時半に迫っている。


「嘘ーー!?」


 またやってしまった。身支度に集中するあまり時間を忘れていた。毎度毎度、どうして私はこうなのだろう。自己嫌悪に陥りかけたが、はたと思い至り玄関に目を向ける。

 こんなことをしている場合ではない。すぐに出て航ちゃんの部屋へ行き、謝らないと。

 幸い待ち合わせではなく、定刻に航ちゃんの部屋を訪ねる約束になっているのでこれ以上遅れようはない。すぐに出て誠心誠意謝らないと。


 私はスマホやらの調度品を詰め込んだバッグを取り、脱兎の如く玄関へ足を向ける。しかし、


 ガツン――


「痛ーい!?」


 急ぐあまり足元を疎かにしてしまい、折り畳み式の丸テーブルに脚をぶつけた。しかも当たった場所は弁慶の泣き所とも言われるすね。骨に直に衝撃が走り、私はその場で脚を抱えながらピョンピョンと跳ね回った。体力と時間の無駄であることこの上ない。


 さらに悪いことに、脚をぶつけた拍子にテーブルの上に置いていた調剤薬局のビニールが床に落ち、中身をぶちまけていた。ビニールから私の名前――小夜子と書かれた紙袋が飛び出している。


「本当……何やってるんだろう……」


 年甲斐もなく浮かれて、はしゃいで、慌てて、ドジを踏む。誰もいない部屋で喜劇を演じる間抜けな自分にほとほと嫌気が差した。


 私は、こんな自分が嫌いだ。一人でくよくよ迷ったり、空回りする自分が。そんな自分を変えたいと思って上京したのに、二六歳の私は十七歳の頃の私と何も変わっていない。


「こんなんじゃ……ダメなのに……」


 私は変わりたい。現状を変えたい。


 そのために、私は今日、航ちゃんに秘密を打ち明けると決めていた。


 *


 出発予定時刻の一五時。定刻になったら彼女が僕の部屋を訪れることになっていたのだが、小夜子ちゃんは約束の時間には来なかった。

 それから三十分後の一五時半。ようやく小夜子ちゃんは出発の支度を終えた。


 小夜子ちゃんは身支度が延長戦に突入したことを深々と詫びたが、


「寝坊? はしゃぎ過ぎて眠れなかったんでしょ?」


 と笑って冗談を言えるくらい僕の心は仏の如く平静を保っていた。遅刻した女性をお迎えするには我ながら神対応だと言えるが、こんな対応を出来たのは僕が大人になった証左であり、小夜子ちゃんの元カレならではといえる。


 冬木小夜子は昔から賢くて気配り上手な優しい女の子だったが、やや遅刻癖がある。高校生の頃の登校はいつもチャイムギリギリで、僕とのデートにも幾度となく遅刻していた。若かりし日の僕はそれに対してご機嫌斜めな態度を取ったりしたものだが、人間というのは慣れる生き物なので、いつしか彼女との待ち合わせは遅刻ありきになってしまった。今日、僕が三十分の遅刻に寛大になれたのはまだ彼女の遅刻に対する免疫が残っていたためと言える。


 そのおかげで今日のお出かけの滑り出しは好調。小夜子ちゃんもほっと一安心といった様子だ。出来れば予定通りに出発したいものだけどね。


 さて、と気を取り直しいざ行かん。今日の天気は梅雨の晴れ間のカンカン照りで気温は三十度を超える夏日だ。日差し対策に僕はキャップを、小夜子ちゃんはサマーカーディガンに日傘を装備して駅までの道のりを行く。

 二俣川駅から横浜駅へ、横浜駅からはみなとみらい線で終点の元町・中華街駅へ乗り継ぎ、あっという間に異国情緒溢れる中華街へ到着した。


「わぁ……すごい。人が多い!」


 駅から地上へ出て、街並みを眺めた小夜子ちゃんの第一声はそれだった。言葉からも分かるように彼女にとって一番の驚きは観光客の多さらしい。

 彼女にとっての中華街といえば間違いなく地元長崎のものだろう。長崎新地中華街も中華風の四つの門とお店が居並ぶ異国情緒のある町だが、アジア最大の中華街と言われる横浜中華街の規模は長崎のそれを遥かに凌ぐ。店舗数もさることながらアクセスの良さから多くの観光客が押し寄せるため段違いの賑わいを感じさせる。

 似ているようで似ていない、郷愁とも新発見とも取れる感情を抱いているであろう彼女の表情は明るかった。そんな顔を見れただけでも、今日は来て良かったと思えた。


 二人並んで街路を歩き出すとモクモクと蒸気を吹き出す蒸篭せいろが目に入る。


「あ、肉まんが売ってる。航ちゃん、食べる?」


 小夜子ちゃんもそれを目ざとく発見し、指差して尋ねてきた。


「これから食事に行くんだけど?」

「食べたくない? それにまだ時間あるだろうし」


 小夜子ちゃんは少し不服そうに頬を膨らまし、小首を傾げた。そんなに食べたければ一人でどうぞと思わぬでもないが、それは野暮というもの。観光なのだから同じ物を食べ感想を共有するのが醍醐味だ。

 それに彼女がいうようにレストランの予約は十八時なのでまだまだ時間はある。昼食から時間も経って小腹が空いてくる頃合いだから点心テンシンを摘むには丁度良いかもしれない。


「じゃあ、半分こでどう?」

「うん、そうしましょう」


 小夜子ちゃんは早くも満足げな様子で、足取り軽く店の前に出来上がった列に並んだ。順番はすぐに回ってきて店のおばさんに一つ分のお金を渡して肉まんを受け取った。


 包み紙の中で香ばしい湯気を吹く肉まんはそれだけで食欲をそそる。はやり観光に来たからには買い食いせねば損だ。

 約束通り二人で半分に分け、食べながらぶらぶらと店先を覗きながら散策した。


 こうして二人で歩いていると昔を思い出すようで、それでいて心地よい新鮮な違和感を覚える。


 今、僕と小夜子ちゃんははぐれないように出来るだけ近づき、それなのに互いに決して触れ合わないよう一定の距離を保ちながら歩いている。


 高校生の頃、初めて二人で出かけた時もそんな注意を払いながら歩いた。

 小夜子ちゃんにもっと近づきたい、手を握って肌の感触を確かめ、ぬくもりを感じたい。それでいて欲求とは裏腹に嫌われたくないという恐怖心から距離をなかなか縮められずにいた。


 二人の距離は常に一定間隔に保たれていた時期があり、そして現在それが再現されている。


 だが昔と違い今は異性への欲求も遠慮もなく、棒で連結されたように付かず離れずな距離を保つ。何かの拍子に近づき過ぎれば何事もなかったように離れ、離れ過ぎればはぐれぬよう慌てて近づく。


 今の僕達は片想いでもなく、秘めた両思いでもなく、そして相思相愛の間柄でもない。

 彼女とは昔と変わらず仲が良いはずなのに、その関係性は過去感じたものとは異質だ。異質で奇妙なのに、僕は居心地の良さを覚えていた。


 その楽な距離のまま、僕達は中華街を思うままに練り歩き、一通り楽しんだと感じたところで山下公園へ赴いた。


 山下公園といえば横浜屈指の名所として有名な臨海公園だ。海沿いにずらりと並んだベンチや薔薇園、氷川丸などが有名で誰しもが一度はテレビや雑誌で見たことがある名所として有名だ。

 夕暮れ前の今、スマホで写真を撮影する観光客や仲睦まじく手を繋いで歩くカップル、小さな子どもを連れた家族が和やかに行き交っていた。


「気持ちの良いところね!」


 海沿いの欄干に身体を預け、海を眺める小夜子ちゃんは波音に負けないような大きな声で言った。中華街の観光も楽しそうだったが、海を見ている今の方が胸を躍らせているような印象を抱かせる。


「小夜子ちゃん。君は海がよく似合うね」


 海の近くで育った少女。それが冬木小夜子。


「なぁに、そのセリフ? キザっぽい」

「えぇ〜。褒めたのに」


 先日彼女が言った、海の近くが良かったという言葉を思い出したこともあり世辞を言ってみるが笑われた。

 僕はお世辞を言えるくらい大人になり、彼女もそれを笑い飛ばせるくらい大人になったのだ。


 一際強い海風が一瞬、僕達に吹き付ける。

 その拍子に小夜子ちゃんは日傘をさらわれそうになり、慌てて両手で抑えた。日傘はなんとか守り抜いたものの、彼女の髪とカーディガンとワンピースの裾が風に弄ばれ、サラサラと、ヒラヒラと揺れた。


 昔長崎の港近くでデートをしたことがあるが、その時も髪やスカートが風に揺らされ、僕の視線を感じて照れ臭そうに笑っていた。彼女に海が似合うと感じるのは僕の郷愁ゆえのことなのだろう。


「海の近くだとやっぱり風が強いね」


 そう眉を八の字にしながらも笑う彼女の姿は昔のそれと何も変わらない。髪の長さや色が変わり、眼鏡を外した彼女の顔には女子高生だった頃の幼さは流石に面影すら残していない。だが、ふとした時に顔を覗かせる笑顔や仕草は昔のままなのだ。

 

 しかしふと思う。

 僕は彼女と話していると昔のことばかりを考える。出会ったばかりのこと、仲良くなり始めた頃のこと、付き合っていた頃のこと、別々の道に進んだ頃のこと。

 記憶の奥底に閉じ込めただけで、決して忘れることのない数多の宝物を僕は持っている。一方で、僕は彼女の今をほとんど知らない。


 別れた後、どんな男と付き合ったかとか情欲的な話を聞き出したいという次元の話ではなく、あくまで友人としての話だ。

 社会人になった今、どこで、どんな仕事をしているか。休日は何をしているか、友達は出来たか。そんなありきたりな事柄でさえ僕はまだ知らない。そして知りたいと思った。


 その好奇心が、僕達の関係を変えるきっかけになるとは思いもしなかった。


「ねぇ、小夜子ちゃんはなんの仕事してるの?」


 欄干に身体を預け、世間話のつもりで僕は訊いた。

 社会人になったら誰しも仕事をし、自分の食い扶持を稼ぐ。そんなことは当たり前で、社会人にしてみればありふれた話題だ。高校生同士が部活動は何をしているのかと尋ね合うのと大差ない。少なくとも僕はそう思っていた。しかして彼女の反応は奇妙なものであった。


「え……と……仕事は……何してるんだろうね、私……」


 歯切れが悪いなんてものじゃない。誤魔化されるでもなく、答えを知る唯一の人物から答えを聞かれるという不可思議な返答だった。

 その表情も何故だか固く複雑であった。笑み、戸惑い、苦しみ、悲しみ、そして怒り。そんな様々な表情が坩堝るつぼになったような顔だ。

 その心情は察するに、歯車が噛み合ったまま動かなくなったようなもので、こちらに視線を向けることなく足元のさざなみを見つめていた。


 きっと僕は今、触れてはならない話題を持ち上げてしまったのではないか。そう真っ先に予感し、後悔すると共にその理由を知りたいと強く願った。

 決して他人同士ではない。困っていることがあるなら話を聞いて上げたい。そう思ったものの、僕からその先を聞き出すことなど出来ず、両者の間には不自然な沈黙が漂った。


 やがて小夜子ちゃんが沈黙を払った。相変わらずこちらには視線を向けず、ベイブリッジを睨みつけて。


「仕事は……品川駅近くの会社で事務の仕事をしてるの」

「品川駅か。お洒落だね」


 小夜子ちゃんは苦々しげに話す。僕は少しでも気が紛れるようにとそんなお世辞を言う。


「会社はお洒落なんてものじゃないけどね。専門商社の総務部。おじさん達に顎でこき使われて、四十路しそじの独身お局様に嫌味を言われて……。格好悪いでしょ?」


 今度は自嘲気味に、吐き捨てるように言う。彼女の今の言葉と口ぶりからして思い通りにならない日々が続いていることが分かった。

 多くの新社会人がそうであるように、先輩や同僚と共に精力的に働く自分の姿を彼女もまた想像していたのだろう。忙しくも充実し、自身の成長と世の中へ貢献しているという手応えを感じたいと誰でも夢見るものだ。

 だが大人になるのは良いことばかりではない。自分の力量の無さ、あるいは他人と比較しての相対的な実力を知り、自分に幻滅することもある。あるいは常識を押し付けられたり、謂れのない悪意に晒され精神を擦り減らすことも。

 子どもの頃に想像した未来の自分と、その未来である現在の自分とのギャップを誰しもが感じる。僕だって感じる。


 小夜子ちゃんも同じなのだと思うと、申し訳ないが少し安心感を抱く。彼女は昔から大抵のことはそつなくこなす人と思っていたから。遅刻はともかく。

 それと同時に少しショックでもあった。素直で純粋だった少女はが少し擦れたような口ぶりをすることに。

 そしてその先に、違和感を覚える。彼女はまだ何かを伝えあぐねているという、もやのかかったようなもどかしさ。


「小夜子ちゃん、伝えたいことはそれだけ? 他に何かあるんじゃないの?」


 僕は努めて穏やかな口調で問う。

 一昨日からずっと引っかかっていた、『話したいことがある』との予告。

 正直に言うと浮かれていた気持ちがあった。朱莉に振られて穿たれた胸の空虚な穴に、彼女が入ってくるのではないかと。つまりは小夜子ちゃんからの愛の告白があるのではないかと。


 実際、僕達の仲は良好……なはずだ。別れたのも理由は遠距離恋愛の寂しさに耐えられないからであり、建設的な決心のためだ。再開した後も酒盛りをしたり蕎麦屋に行ったり、果ては甲斐甲斐しく看病をしてくれたりと別れたカップルとは思えない時間の過ごし方をした。

 今カノと別れた直後に元カノと再会。辛い試練であったが、これは運命なのではないかと予感めいたものを感じ、浮ついた気持ちがあった。


 もしかすると、僕の初恋が十年弱の時を経て目を出すのではないかと。


 だが今の彼女の様子からして、今日打ち明けようとしているのは愛ではないと確信に近い予感を得た。


 やがて彼女は逡巡と沈黙を打ち破り、その胸中を明かす。


「私、病気なの」


 ともすれば岸に打ち付ける波音に飲み込まれてしまいかねないほど小さくか弱い声。


 病気。その言葉に頭を揺さぶられた。

 とてもではないが信じられない。よく笑い、よく食べ、よく飲む僕の元カノは健康そのものにしか見えない。少なくともそんな素振りは見せなかった。その彼女が病だなんて信じられない。


「病気……悪いの?」


 深刻な面持ちで言うものだからさぞ重たい病なのではと不安になったが、僕は気持ちを落ち着かせて訊いた。

 その問いに対し、小夜子ちゃんはかぶりを振って答えた。


「全然。むしろお医者さんからは良くなってるって言われてる」

「そうなんだ! 安心したよ。それでなんていう病気なの?」

「……自律神経失調症。ストレスと不規則な生活が原因だろうって……」


 小夜子ちゃんは次第に俯きがちになり、また足元の波に視線を落とした。

 対する僕は病気が死に直結するものではないと知るとともに心底安堵した。その病名に因果を感じた。


 自律神経失調症というのはその名の通り、身体の機能のバランスを整える自律神経が正常に働かなくなる病だ。自律神経には、主に器官を活発化させる交感神経とそれと真逆に沈静化させる副交感神経がある。この二種の神経が交互に優位になり、興奮と安静のバイオリズムを作る。

 しかし何かの理由で自律神経の働きを乱し、動悸や息切れ、不眠症を発症することがある。これらを総称して自律神経失調症という。

 原因は一概には言えないが、不規則な生活習慣や季節の変化、そして仕事や人間関係が端となるストレスが指摘される。察するに小夜子ちゃんは慣れない都会と職場の環境に参ってしまったのではなかろうか。


「それでね、ずっと言わなきゃって思ってたことがあるんだ……」

「何?」

「航ちゃんが病気で寝込んでいる間、私ずっと働いてるふりをしてたんだ」

「ふり?」

「うん。私、今休職してるの。病気が原因で。でも、航ちゃんにはずっと黙ってた。航ちゃんに朝ごはんを作って、夜にまた部屋を訪ねてお夕食を作る。その合間、実は日中は何もしてなくて、部屋でぼんやりしたり、ポルタをブラブラしたり、カフェで時間を潰したり。お昼の間は見栄張って働いてるふりしてたの。……嘘ついてて、ごめんね」


 そこまで言って彼女はようやくこちらに向き直り、俯いたまま謝罪の言葉を述べた。今にも泣き出してしまいそうな面持ちに僕も背中に緊張が走り、欄干から体を離して彼女と真正面から向き合った。


「そっか……気を遣わせてたんだね。こちらこそ申し訳ないよ。看病で散々時間を使わせたのに」

「……もう少し、続けてもいい?」

「もちのろん。座ってから話そう」


 僕はベンチを指差し、彼女は頷く。そして言葉通りベンチに腰掛け続きを促す。


「おじさんとおばさんは? 知ってるの?」

「お父さんとお母さんには話せてない。お姉ちゃんにも……。話したら心配かけちゃうと思って……どうしても言えなくて……」


 小夜子ちゃんはご両親のことに話が及ぶととうとう涙を流し始めた。心配かけまいとする一方で隠し事をしている後ろめたさに苛まれてのことと容易に共感出来た。


 小夜子ちゃんと両親の仲は決して悪くなかったはずだ。お姉さんや妹さんも雰囲気の良い人達で、冬木家は絵に描いたような仲良し一家だった。部活の大会には家族総出で応援に来ていたし、高校の卒業式にもご両親が揃って来校して門出をお祝いしていたくらいだから愛情たっぷりに育てられたと今でも印象に残っている。


 しかしそれ故に打ち明けられなかった。


「誰かに話したいけど東京に仲の良い友達もいないから、誰にも相談出来なくて……私……不安で……。だからせめて航ちゃんには知ってほしかったの……」


 背中を丸め、しくしくとしゃくり上げながら彼女は想いを絞り出し、それきり言葉を紡ぐことが出来なくなった。

 僕は躊躇ったが、決心して彼女に身体を寄せ、背中を優しくさすった。なんの解決にもならない慰めだが少しは効果があった。小夜子ちゃんは段々と平静を取り戻し、丸めていた背中を伸ばしてこちらから顔が見えるようになった。


「話してくれてありがとう。小夜子ちゃん、昔と変わらず明るくてよく笑ってくれたから全然気が付かなかった」


 ありがとうなどというが、内心罪悪感がある。

 蕎麦屋に行った朝、彼女は僕からつっけんどんな態度を取られたことを気に病み、涙を流した。言い訳をするならあれは事故のようなものだったと思っているし、後に彼女に謝罪しそれを受け入れてもらったのだから解決したものだとも思っていた。

 しかし心が脆くなった彼女にそんな仕打ちをしてしまったことは迂闊だったと悔やまれる。再び謝るべきかと思案するが、今それは不適切とも思えた。僕の罪悪感は晴れても、悩める小夜子ちゃんのためになるとは限らない。最終的にはまた別の機会に詫びようと結論付けた。


「僕で良ければいくらでも話を聞くよ。一人で悩まないで」

「……ありがとう。迷惑じゃない?」

「僕にそれ聞く? 扁桃炎といい、打撲といい、脚の怪我といい、小夜子ちゃんにはずっとお世話になりっぱなしなんだから、それくらいの恩返しはさせてもらわないとバチが当たる。僕達……友達でしょ?」


 ポロポロと涙を溢す瞳に向かって僕は出来る限りの誠意を込めて伝えた。それで彼女の気持ちが少しでも楽になればと思ってのことだ。

 それと同時に『友達』という言葉を使って自分達の関係を明言したことに我ながら驚いた。


 僕達の関係は元恋人同士。両者が別れる理由など、大抵は互いの想いが損なわれたか信頼を失ったかのどちらかで、関係が解消された後は嫌悪感や気まずさが先に立って顔を見るのも嫌だと思うのが普通だろう。無論それは一般論であって、円満に別れた僕達には当てはまらない。さりとて別れ話をした際に「友達に戻ろう」と合意したわけでもない。


 それでも彼女を友達と呼んだのは、それ以外にしっくりくる表現が無かったからに他ない。


 そしてその言葉は彼女の心にしかと届いたらしい。さめざめとした彼女の涙は滂沱となり、僕の肩にしがみついて胸に顔を埋め、とうとう大きな声を上げて泣き始めてしまった。


 その間僕は、小夜子ちゃんの胸中でに湛えられ渦巻いていた複雑な感情が枷を切って濁流の如く流れ出しているのをひしひしと感じていた。


「大丈夫だよ、小夜子ちゃん。ちょっと足を怪我して歩きづらくなったようなものだよ、きっと。後のことは治ってからゆっくり考えればいい。迷うことがあれば遠慮なく相談して」


 *


 その後、僕達は予定通り中華レストランへ足を運んで食事をした。

 悩みを打ち明け泣いた後だったため、明るい会食とはいかなかった。だが美食に舌鼓を打つ彼女の表情は幾分か朗らかであった。

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