第11話 告白(2)
復帰初日、自宅最寄りの二俣川駅に辿り着いたのは二一時前。スーパーで買い物を済ませたのは二一時過ぎで帰宅前に既にヘトヘトになっていた。休んでいる間、お客さんとの対応は中洲達が引き受けてくれていたが流石にコーディングや成果物のレビューは残されたままだった。当然ながら彼らにも同じように割り振られたタスクがあり、それで手一杯なのだ。本来感謝するのが筋なのだから不満を漏らせるはずはない。そんな負い目もあり、バーンダウンチャートと睨めっこした結果、渋々残業することにして今に至る。残業しない主義だがスケジュールを考えると致し方なし。
そんな無理をすると熱がぶり返さないかと不安視される。同時に天気もかなり傾いており早く屋根のあるところへ行きたい気分だった。せっかく扁桃炎が治ったのだ。身体を冷やして風邪を引いては笑えない。
雨に降られるが先か、帰り着くのが先かと曇り空と勝負しながら早足で歩き続け、ようやくアパートに到着。今日は僕の勝ちだ。
ついてるな、と内心ほくそ笑みながら階段を上がった。
「「あ」」
階段を登り切った角、人の気配がしたのでぶつからないように用心していた。先週はぼんやりしていたおかげで酷い目に遭ったのだからさすがに学んだ。そしてそれが奏功し、今日は事故には繋がらなかった。代わりに角から出てきた人と驚きの声を合唱させることになった。
声の主は小夜子ちゃんだった。小夜子ちゃんは先日と変わらぬすっぴんと外着の若い団地妻スタイルでこれから出かけるらしい。
「ただいま」
僕の口からは自然とその言葉が出てきた。
「うん、お帰りなさい」
小夜子ちゃんも微笑みを浮かべ、そう返してくれた。
「これから買い物?」
「うん、お夕食を。スーパーで見切り品のお惣菜でもと」
「そうなんだ。良かったら僕が買ったお弁当とお惣菜と冷食、一緒に食べる?」
スーパーのビニール袋を掲げ、彼女をディナーに誘う。半分は社交辞令だが、もう半分は今朝まで食事の世話をしてくれたことへの礼だ。
「それに、もうじき雨が降りそう。外出はやめといたら?」
欄干から顔を覗かせ、空を見上げる。雨が降りそうというか、本当に降ってきた。曇天はとうとう耐えきれなくなって小雨をさらさらと降らせ、雨足をあっという間に強めた。
「おいでよ」
改めて誘うが、内心プレイボーイみたいな口ぶりだなと恥ずかしくなった。恋人でもない女性に向かって『おいで』だなんて。小夜子ちゃんも元カレから誘われ戸惑いを隠せない様子だ。僕の顔を遠慮がちに窺い、次いで雨模様の空を眺め、また僕の方を見る。そしてコクリと頷いた。
「じゃあ、決まり」
そう言って回れ右をした小夜子ちゃんの背を追い、自室へ辿り着いた。
「お邪魔します」
「狭い我が家ですが」
「ふふ、知ってる」
そんなジョークを挟みつつ、小夜子ちゃんはお上品に脱いだサンダルを揃えて先に部屋へ上がった。ついで僕は郵便受けを確認して靴を脱ぐ。郵便受けにはチラシが数枚と意外なものが入っていた。
この部屋の合鍵だ。デフォルメされた朱色のシーサーのキーホルダーが付いているので間違いない。
「小夜子ちゃん、鍵、入れといてくれたんだ」
「え、えぇ。朝のうちに入れといたよ」
「うん、サンキュー」
リビングルームでビニール袋の中身を取り出してテーブルに配膳する彼女に礼を言う。
この鍵は僕から彼女へ渡したものだ。看病のために部屋を訪ねてくれる彼女だが、初日は訪問の度にインターフォンを鳴らし、僕が出迎えることになっていた。しかし僕も起こされるし彼女も待たされるしで非効率なので合鍵を渡し、好きに入って良いと言いつけておいたのだ。それも僕が快復したおかげで不要になったため、こうして返却してくれたらしい。そういうところをきっちりするのは彼女の美点だ。
「そのシーサー、可愛いね。沖縄で買ったの?」
リビングからキッチンへ出てきた小夜子ちゃんは、僕の手のひらのシーサーに視線を向けて訊く。
「うん……昔旅行に行った時にね」
その旅行は、当然というべきか朱莉と二人で行った。そしてこのキーホルダーは帰りに空港でお揃いで買ったものだ。彼女は青い色違いのキーホルダーを買い、お互い合鍵につけて交換したのだ。
そのことを思い出し、僕の声音は思わず小さくなる。小夜子ちゃんもそれに気付き、理由を察してくれたためか詮索はしなかった。その気遣いが無性にありがたく、でも情けなかった。
「冷奴食べる? 昨日、航ちゃんが寝てる間にお豆腐買っておいたの」
「うん、食べる」
「分かった。準備するから向こうに行ってて」
小夜子ちゃんに促されるままに僕はリビングに入り、テレビボードに置いた小箱に合鍵を仕舞った。
朱莉との思い出の品を見るとやはり幸せだった時間を想起する。その度に僕は過ぎ去った時を惜しみ、ブルーな気持ちになってしまう。だからこうして鍵を蓋付きの小箱にしまう。思い出に蓋をするように。しかし皮肉なことにこの小箱もまた彼女が買ってきて置いていったものだ。
小箱だけではない。雑誌、小物、歯ブラシや化粧落としのような日用品、果てはお泊まり用の部屋着などがこの部屋には存在する。
この部屋には町村朱莉の痕跡が、彼女との思い出を手繰り寄せる
「そのうち片付けるかな……」
だが、このままではいけない。
彼女とは別々の道を歩むことに決めたのだ。幸せだったはずの現在を過去の良き思い出にするため、物理的にデトックスするのが今の僕にとって一番健全なのかもしれない。
「さぁ、冷奴出来たわよ」
小夜子ちゃんが豆腐を入れた小鉢を持ってリビングルームへ入ってきた。
その彼女を見て、やはりと思う。
かつて、冬木小夜子との日常を過ぎ去った思い出として割り切ったように、町村朱莉との日常もまた過去のものにしなければ僕は前に進めないのだと。
*
見切り品シールが貼られた幕の内弁当が一つ、同じく見切り品シールが貼られたコロッケが一パック、そして小夜子ちゃんが装ってくれた冷奴が一皿ずつと簡単な夕食の準備が出来たところでようやく食にありつけた。
「「頂きます」」
二人揃って口にし、箸を掴む。幕の内弁当はご飯とおかずを半分ずつ。コロッケは二つ入りなので一つずつ。こういう食事の時は晩酌するのが常だが、さすがに病み上がりということで我慢する。
「意外と美味しいわね」
コロッケを一口頬張りって飲み込んだ小夜子ちゃんが感想を溢す。確かに、いつも使っている駅近のスーパーはお惣菜がよく出来ていているので、度々お世話になっている。このコロッケも冷えている割に衣がサクサクでべちゃべちゃしていない。中身のジャガイモもまだ風味が良い。
「お酒に合うよ、こういうのは。一応冷蔵庫にあるけど飲む?」
「うーん……航ちゃんは飲まないのよね?」
「病み上がりだからね。でも遠慮しないでいいよ。今朝までお世話になったから、そのお礼も兼ねてさ」
本当はぐびっと景気良く飲みたい。だが我慢するのは病み上がりのためであり、同時に看病してくれた小夜子ちゃんへの遠慮のためでもある。献身的に看病してくれたのに、治った途端アルコールを摂取している姿を見せるのは忍びないからだ。
「どうしよっかなぁ? 看病の見返りが缶ビール一本か……」
チラリと小夜子ちゃんは視線をよこす。しかしその表情は遠慮とは程遠く、目を妖しく細め、僕の心を探らんとするサディスティックさを孕んでいた。
「お望みなら何本でも……」
「ただの缶ビールがお礼なの?」
「缶ビールは前払いです」
「あら、じゃあ他にも特典があるの?」
「しゅ、週末お食事でも……」
「ふふ、じゃあ頂こうかしら」
ふひー。見事に
「頂きまーす」
プシュ、と小気味良い音を響かせ、小夜子ちゃんはごくごくとビールを飲んでいく。相変わらず見ているこちらが気持ち良くなるような飲みっぷりだ。
「ぷはぁ、美味しい! 航ちゃんも飲む?」
と、小夜子ちゃんは挑発的な笑みで飲みかけの缶をぐいっと僕へ差し出してきた。その所作はさも当然のようだが、その誘いに乗るということはつまり、間接キスということになる。
「遠慮する」
「照れてる?」
「照れてない」
「ふふ、照れてるくせに。顔赤いよ。間接キスを恥ずかしがるような仲じゃないのに」
指摘されつい頬に触れてしまった。確かに皮膚がほんのり温かい気がする。
「病み上がりだから自粛してるだけ」
結局は言い訳がましく病気を盾に取り食事に意識を戻した。小夜子ちゃんも最初から冗談のつもりだったらしく、それ以上勧めてくることはなかった。後になって思うがこれは蕎麦屋で揶揄い過ぎたことへの仕返しのつもりかもしれなかった。だとすればお相子なのだが、どうもやられっぱなしな気がする。こちらからも何かネタを考えておこう。
「そういえば、航ちゃん。この部屋に越したのっていつ?」
部屋を見渡しながら小夜子ちゃんは何気なく訊いてきた。
「社会人になるのと同時期。どうして?」
「なんとなく聞いただけ。私と最後に過ごした部屋は引き払っちゃったんだな、って」
なんとなくと言いながらも、理由を付け加える口調は少し皮肉っぽく、目元は寂しさを湛えていた。
大学生になって最初の夏休み、小夜子ちゃんは長崎から上京し僕に会いに来てくれた。滞在中はお互い大学生ということであまりお金に余裕がなく、当時僕が住んでいたアパートを宿代わりにして過ごしたものだ。そしてその間、観光だけでは当然我慢ならず恋人らしいことをたくさんした。
「隣に変な奴が引っ越して来たから、逃げるように出て行ったの」
僕は最後にそう付け足す。そして今度はこちらから質問をした。
「小夜子ちゃんこそ、五月なんて半端な時期にどうして引っ越しを?」
「……そんなに半端かな?」
「普通四月とかじゃない?」
小夜子ちゃんは僅かだが、なぜかムッとした様子で訊き返してくる。こちらに揶揄う意図など全くないのだが、あまり聞かれたくなかったのかもしれない。
「色々あって引っ越しがずれ込んじゃったの。ほんと、それだけ」
「そっか……。前はどこに住んでたの?」
「埼玉よ」
出た、彩の国埼玉。関東最強のベッドタウン。地方出身者が東京に就職するとなると居住地候補として真っ先に上がる町だ。
にしし、と意地悪な笑みが溢れてしまうが、他意はない。
「へぇ、じゃあお洒落な横浜に憧れてこっちまで?」
「……バカにしてる?」
「してないしてない」
「別に横浜に憧れたとかじゃなくて……なんとなく、海沿いな街に来たかっただけ。ほら、私って海の町長崎生まれだから、海を見てないと調子が狂うんだよね」
小夜子ちゃんは照れ隠しにそんな苦しい理由を並べる。稚拙な言い訳だが、海が好きだというのは妙な説得力があった。しかし引っ越した先が横浜では内陸の旭区というのは皮肉な話だ。そこを突けば面白そうだが、機嫌を損ねるかもしれないのでやめておこう。
「観光はもうしたの?」
「えっと、みなとみらいと赤レンガ倉庫くらいかな。元町の方はまだ行けてない」
「へぇ……。じゃあ次の土曜日か日曜日に一緒に中華街の方に観光も兼ねて食事に行かない?」
観光、という言葉を使って話の流れを作り、僕は出来るだけ自然を装って食事に誘った。先程は見返りがどうとか言ったものの、根は控え目な性分だからはっきりとお礼と言うと彼女は遠慮するだろう。なのであくまで観光という
この誘いは彼女は満更でもないらしい。唇を引き結び、少し目を見開いて驚いた様子で逡巡した後、やはり遠慮がちに頷いた。
「じゃあ、決まり。土曜日でも良い?」
「うん、良いよ。時間とかは任せても?」
「オッケー。何か考えとく」
僕はにっこり笑みを浮かべ、食事を再開した。愛想笑いではない。彼女とまた行動を共にすると考えると自然と心が温かくなり、頬が緩んだのだ。
先日の蕎麦屋の時はあまり意識しなかったが、昔は二人で長崎の町で佐世保バーガーを食べたり、公園でお弁当を食べたりしたものだ。彼女との思い出はその全てが尊く、唯一無二の宝物だ。
その宝物をまた一つ積み重ねられる。そのことが今はとにかく嬉しかった。
*小夜子 side*
航ちゃんと元町中華街へ行くことになった。観光も兼ねてというが、きっと今朝までのお礼のつもりなのだろう。
お礼と明言されたらなんと答えたかな。きっと第一声で申し訳ないからと遠慮しちゃったに違いない。
嬉しいはずなのに、飛びつきたいくらいのご褒美なはずなのに、今の私にはその勇気さえも無かった。
だから幸福を与えられ、子どものようにただ喜ぶ。そしてこれが夢じゃありませんようにと願った。
「ねぇ、航ちゃん」
食後、二人で横並びにベッドを背もたれに座り、彼の同僚がくれたといううなぎパイをデザートにした。御相伴に預かりる中、私は彼を呼ぶ。
二人の距離は腕二本分くらい。他人同士な男女が同じ部屋にいるにしてはややぎこちない距離。恋人同士とは言いがたく、互いに遠慮し合って保たれる距離。
「土曜日、楽しみにしてる。そこで話したいことがあるんだ」
彼は怪訝そうな顔をしたが、この場では詮索せず微笑みを浮かべて頷いた。
彼はいかにも、私が期待する言葉や優しさを向けてくれる。
それは、彼と別れてから付き合った男性達が与えてくれた優しさとは異なるぬくもりだ。
愛とは呼べぬ、言うなれば郷愁。
無邪気で、未熟さを許された若かりし頃を思い起こさせてくれる幻覚のようだ。
お医者さんに処方されたどの薬よりも私に安心を与えてくれて、でも油断すると心があっという間に
流されるだけの生き方はやめようと決めたのだ。
だから、こちらからはっきりと伝えたい。
助けて、と。
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