第10話 告白(1)

 扁桃炎はすぐには治らず、その後二日間に渡って僕を苦しめた。熱はゆるゆると下がったが喉の腫れはすぐに治らない。トイレに行くのもしんどい有様なので当然会社には休みの連絡を入れ、自宅にて療養を続けることになった。


 その間、小夜子ちゃんは朝出勤前と夜帰宅後に僕の部屋を訪れ、お粥を作って看病してくれた。朝に訪れた際には昼食の分まで作り置きしてくれる気配り用で、しかもお粥の具材は毎回鮭フレークだったり大根だったりとテイストを変え、看病される側の僕を楽しませてくれた。


 幸い、彼女の献身のおかげで水曜日の夜には扁桃の腫れは目に見えて引き、翌木曜日の朝には体調はすっかり良くなっていた。


「今日から出勤するよ」


 その朝、昨日までと変わらず朝食を作りに来てくれた小夜子ちゃんに報告した。小夜子ちゃんは少し心配そうに眉を下げたが引き止めはしなかった。


「分かった。あんまり無理しないでね」


 今朝も今朝とてお粥の支度をしながら、昨日までと変わらぬ優しい口調で気遣ってくれた。


 今日のお粥は大根と菜葉が入った鰹出汁風味のものだった。病人に優しい薄味だが出汁と具材の風味が滲み出てるお陰でモリモリ食べてしまった。食後は抗生物質だけ飲み、身支度をしつつ、小夜子ちゃんとお喋りをしながら出勤時間まで暇を潰した。


 九時になると僕もいよいよ外出するため重い腰を上げる。玄関前で別れを告げ、小夜子ちゃんは自室へ、僕は駅へと向かった。


 僕の勤め先の始業時間は十時のためいつもこの時間帯に家を出る。勤務先の最寄り駅は横浜駅なので、電車と徒歩を合わせても通勤時間は三十分に満たず、これでもゆとりのある行動だ。お陰で通勤はかなり楽している。


 しかし道中、ふと小夜子ちゃんはどうなのだろうと思い至った。

 この数日、彼女にお世話になりっぱなしであったが、僕は彼女がどんな仕事をしているかまだ知らない。僕と同じく十時始業な市内の会社であれば通勤は楽だろうが、身支度をこれからして出勤となると今頃は大慌てなはずだ。


 そう考えると、やはり僕の看病はかなりの負担になっていたに違いないと痛感した。病苦に責められ彼女への遠慮がなかったが、快復してようやくそのことに思い至った。

 扁桃炎といい、打撲といい、大人になっても僕は昔のように小夜子ちゃんの好意を当然のように受け取っていた。


「お礼くらいはしないとな……」


 酒好きなようだしディナーでもご馳走させてもらおう。


 僕はそう思案し、これまで朱莉とデートで訪れたことのあるお店をあれが良いかこれは気にいるだろうかと想起しながら会社へ赴くのであった。出勤の足取りというのは常に重い物だが、今日は病み上がりにも関わらず軽やかであった。


 *


「先輩!? もう大丈夫なんですか?」


 出勤するとデスクについてメールのチェックをしていた松田は僕の顔を認めるなり大きな声を出した。気遣いはありがたいが、もう少し小さな声に抑えようね。


「お陰様で」

「いやぁ、それほどでも」


 松田は照れた様子で頭をさする。社交辞令だ、馬鹿野郎。


「おかえり、飛騨。扁桃炎だったそうだな。辛かったろう?」


 カラッと爽やかな微笑みを浮かべて復帰を喜んでくれたのは中洲だ。


「ほんと、しんどかったよ。熱は出るし、喉は痛いし、身体は怠いし」

「飯も喉を通らねぇって様子か?」

「いや、食事は……まぁ、なんとか」


 食事のことを聞かれて僕は言い淀み、コンビニで買ってきたホットコーヒーを啜りながら誤魔化した。うっかり作ってもらったなどと漏らせば確実に誰がと詮索される。そして彼らにとってはその誰かは一人しか思い浮かばないだろう。

 二人にはいずれ僕と朱莉の関係が本当に解消されたと改めて報告しなければならない。二人とも僕達の共通の友人なのだから、それが筋というものだ。それを思えば今は自前で用意したと嘘をつく他なかった。まして、当然お隣に引っ越してきた元カノが看病してくれましたとは口が裂けても言えない。


「ご自分で用意したんですか?」


 こんな無礼千万な質問をしてくるのはもちろん松田。今明らかに誤魔化したんだから深掘りすんなや。


「そうだけど……何か?」


 椅子に腰掛け、僕は目を細めて彼女を見据える。これ以上の詮索は遠慮しろと目で伝えたつもりだが、彼女は止まらない。


「朱莉さんはなんと?」


 やっぱりそう聞いてきた。苦々しく思うあまり、唸るような低い声で返答してしまった。


「朱莉には言ってない。もう別れたんだから、看病してくれなんて言えないだろ」

「そういう問題ですか?」

「他に何がある?」


 身体が思うように動かず困り、病苦に苛まれ心細いから身近な人を頼るというのは分かる。近所に頼れる身内のいない僕なら、頼る相手は朱莉だけだ。

 しかしそれも過去の話。僕達はもう赤の他人同士なのだから今更手を貸して欲しい、そばにいてほしいとはいかない。


 僕はそう持論を述べ、松田との話を打ち切るように視線を逸らし、パソコンに向き直った。


「心細いとか、思わなかったんですか?」

「思ったよ」

「朱莉さんにそばにいてほしいとか、思わなかったんですか?」

「…………あぁ」

「その『あぁ』、ってどっちなんですか?」


 それでもなお松田は食らい付いてくる。僕は苛立ち始めたが、その実なんと答えたものかと思案し黙り込んだ。


「松田、その辺にしとけ。お前もいい歳なんだから遠慮を覚えろ。それに会社でそういう話題は慎め」


 しかし中洲が彼女を叱ったことで思考は乱され、とうとう答えは出なかった。


「そうやってお前がずけずけと踏み込むから飛騨も参ってるんだろうが」

「え〜……でもぉ〜」

「でもじゃない。この前の居酒屋でも迷惑かけやがって。案外、飛騨が寝込んだのはお前が暴露しちまったからじゃねぇのか?」

「うぐぅ……。中洲さん、ここでそれを言いますか?」


 痛いところを突かれ、松田は尻込みした。


「あ〜、マジであれは響いたなぁ〜。主に扁桃腺に来たよ」


 僕も意地の悪い笑みを浮かべながらそれに乗っかる。


「あ、あれは本当に申し訳ないと思ったんですよ? 飛騨先輩の恥ずかしいあられもない秘密を暴露しちゃって」

「人聞きの悪い言い方しないの」

「すみません。でも私も反省してますし、ちゃんと謝らないとと思ってました。その証拠に、私なりの誠意を持参したのでした」


 誤魔化し笑いを浮かべながら松田はデスクの下に身を潜り込ませ、何やら紙袋を引っ張り出した。


「私の地元、浜松名物のうなぎパイです。これでどうかひらに」

「お、サンキュー。地元に帰ったの?」

「いえ、デパートで買ってきました。本当にちゃんとお詫びしないとと思いまして」


 すみませんでした、とペコリとお辞儀をする松田。そういう殊勝な態度を取られるとこちらもこれ以上根に持つ気にはならない。

 松田直沙はお調子者なところがあり、僕と中洲は度々振り回されることがあるもののこうして素直に気持ちを表し筋を通そうとする健気なところがあってどこか憎めない後輩だ。


「ちょっと待て、俺にはないのか?」


 僕と松田の間が修復されたのをぼんやりと眺めていた中洲が不満げに尋ねる。


「俺も漫才させられて恥かかされたんだが」

「あ、忘れてました。中洲さんにはありません」

「この野郎」

「もう、そんなに食べたいんですか? 仕方ありませんね。先輩、その袋返してください。一二個入りなので半分ずつに分けます」

「「誠意は!?」」


 かくして僕への誠意の半分は中洲に向かった。いや、正確には二袋は松田がくすねたので僕達に回ってきた誠意は半分未満ということになる。

 誠意がお菓子五個というのはいささか安い気がするが、それを帳消しにするくらい甘くて美味しいパイに舌鼓を打ち、僕は仕事に取り掛かった。


 僕が休んでいる三日間の間にチャットツールのタイムラインには未読メッセージが堆積たいせきしており、その読み込みに優に三〇分を要した。発注元の担当者から設計の変更に関する相談や不備の問い合わせなどが数件届いており、全て中洲と松田が処理してくれていた。


 仕事の借りは仕事で返す。


 自らにそう喝を入れ、タスク管理ツールを確認し、仕事に着手し始める。


 しかしふと思う。


『朱莉さんにそばにいてほしいとか、思わなかったんですか?』


 松田がした質問に、僕はノーとは即答出来なかった。かと言ってイエスとも言い難い。

 僕はこの三日間、常に病苦のために心細さを感じていたが、小夜子ちゃんが看病してくれたおかげでその欲求は常に満たされていた。だが同時に、小夜子ちゃんがいない間、僕は朱莉が部屋に駆けつけてくれないかと虫の良い願望を抱き続けていたからだ。


 *小夜子 side*


 品川駅近くにあるクリニックから自宅に戻ったのは十四時頃のこと。


 部屋に戻るや私は化粧も落とさず、上着のカーディガンを脱いでそのまま万年床の布団に横になった。


 明かりは灯さず、カーテンは閉め切っているので隙間から入り込む陽光だけが光源になっている。そのお日様の光もどんよりした雲に遮られているため、この部屋は日没間近のように薄暗い。


 唐突にため息が部屋中にこだました。一人きりの部屋で、平日真昼間の静かな住宅地という環境のためか、自分のため息は存外大きく聞こえる。引っ越してきた当初は自分の小さな生活音さえも誰かが立てた物音のように思え、自らの心をざわつかせた。


 この部屋に引っ越してからもうすぐ二ヶ月が経つ。環境には良い加減慣れたし、病気もよくなって来たおかげで以前ほど心に波風が立つことはなくなり、体調も良くなっている自覚がある。つい一時間ほど前にも、お医者さんから回復傾向にあると嬉しい言葉をもらったので間違いはなさそう。


 それでも今ひとつ、胸の中にもやもやした引っ掛かりを感じてならない。


 気怠い身体を起こし、折り畳み式の丸テーブルに置かれたキーホルダー付きの鍵を握って玄関を出た。そして隣室、航ちゃんの部屋の扉を開錠して開けた。


「お邪魔します……」


 主人不在の部屋に無断で入ることに後ろめたさはあったものの、どうしても自分を抑えきれず彼の部屋に忍び込んだ。昨日までの三日間で何度も出入りした部屋だけに、すでに景色には見慣れてしまった。


 こぢんまりしたローテーブル。

 ITの本や小説が並ぶ小さな本棚。

 ゲーム機や小物が無秩序に並ぶテレビボード。


 一人暮らしの男性の部屋というともっと雑然と散らかっているイメージがあったが、良い意味で予想外れだ。航ちゃんは昔から几帳面な性格だったため、この部屋は十分なくらいに清潔さが保たれている。しかし部屋の隅には埃が溜まり始めているのが認められた。


 しかしそれも無理からぬこと。彼はつい一週間前に五年間付き合った恋人から別れを告げられ、失意の底に沈められた。さらに身体に怪我を負うは病気に罹るわと不運の連続で掃除する体力も気力も失っていた。


 そんな彼への同情心からか、はたまた不法侵入への罪悪感からか、私はおもむろに部屋の隅の掃除機を取り、スイッチを入れて掃除を始めた。目立つところはもちろん、部屋のへりや角は念入りに、でも物を動かさないといけないところは目を瞑り、納得がいくまで部屋を綺麗にした。


 一通り掃除が終わると私はすっかり満足し、彼のベッドに腰掛け部屋を見渡した。努力の甲斐あってか室内は心なしか清潔さを回復させた気がする。


 しかしこうして部屋を眺めるとやはり目につくものがある。

 この部屋に残された、自分ではない別な女の痕跡。


 彼の蔵書に混ざる不似合いなファッション誌、テーブル上のフェミニンなティッシュケース、テレビボードに置かれたこれまた可愛らしい小物の数々。極め付けは、この角部屋にしかない出窓。そこには観葉植物が一つとたくさんの写真が飾られていた。背面についたイーゼルのような脚で自立するコルクボードには数多くの写真が可愛らしい押しピンで止められ、この部屋に立ち入る権利を有する女性が誰なのかをはっきりと表明していた。


 それだけではない。写真を見れば、彼の五年間がいかに充実した時間であったかが伝わってくる。

 撮影した場所、季節は様々。両者の髪型や服も時々刻々と移り変わり、その分だけ思い出を積み上げ、絆を築いてきたと推察出来る。


 私はそれが、ただただ羨ましかった。

 私との恋を終えた彼は、その後も現在に至るまでを胸を張って生き続けて来たのだろう。

 その生き方を想像し、私は憧れを抱いた。


「私には……出来ないな……」


 ばさりとベッドに背中から倒れ込む。すると頭を沈めた枕から男性の匂いがし、薬でも嗅がされたように意識がぼんやりとした。


 このまま眠りに落ちてしまいたい。


 病気のおかげで睡眠が不規則になった私にとって、自然な睡眠欲というのは貴重な感覚だった。しかし最後は理性が勝ち、はたと思い直して立ち上がる。流石にこれ以上罪を重ねるわけにはいかない。遅すぎる気もするが、早々に立ち去ろう。


 後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にし施錠すると、預かっていたキーをドアポストに入れた。ガチャリとキーが落ちる音がし、名残惜しさを感じながら自室に戻った。


「また、来て良いよね?」


 良いはずがないのに、彼が愛想良く首肯してくれる姿を妄想しては睡眠薬代わりとし、自室の布団で眠りに落ちたのであった。

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