第9話 扁桃炎
朱莉から正式に振られた翌日の気分は最悪だった。
気持ちとかフィーリングの話ではなく健康面の意味での話だ。
朝、目が覚めると身体が
当然六月の今はインフルエンザのシーズンではないため別の病気が疑われる。医学の知識など皆無に等しいがそれくらいの予想はついた。
時刻は九時過ぎ。身体が言うことを聞かないため、朝から寝たり起きたりを繰り返して現在に至る。
今日は出勤は無理だ。早々に見切りをつけた僕はスマホから社内チャットツールに病欠の連絡を入れ、内科を受診することに決めた。
気怠い身体を無理矢理起こし、パジャマから外着に着替え、財布とスマホを鞄に突っ込んで部屋を出る。今日も湿気が多く今にも雨が降り出しそうな曇り空で、体調と相まって最悪だ。
部屋の鍵を閉めながらゲホゲホと咳をした。喉の辺りが信じられないくらい痛い。イガイガして咳で嫌なものを吐き出したいが、咳をしたらしたで苦痛が増す。僕はこの苦痛から逃れたい一心でクリニックを目指すことにした。
よろよろと覚束ない足取りでアパートの廊下を歩む。普段ならものの十秒で移動する距離がひどく長く感じられる。角部屋を選んだことを後悔するレベルだ。
「航ちゃん?」
ガチャリ、と背後で戸が開く音がし、次いで僕の名を呼ぶ声がする。振り返るとヘアブラシを握って髪を
「あぁ……おはよう、小夜子ちゃん」
「航ちゃん、ひどい顔よ。大丈夫?」
「大丈夫じゃない。身体が激ダルで今から病院行くところ」
血相を変えて尋ねる小夜子ちゃんに体調を訴え、手をひらりと振って踵を返す。気の利いた挨拶の一つでもしたい所だが、とてもじゃないがそんな余裕はない。僕は早々に彼女の前を辞し、改めてクリニックを目指す。だが小夜子ちゃんはなおも引き止める。
「ちょっと待って! 私も付き添うからそこにいて!」
そう大きな声で告げると、小夜子ちゃんは部屋に引っ込み、ものの三十秒で再び飛び出してきた。服装こそ先日も見た七部丈のジーンズに薄手のパーカーと外着だが、髪は所々跳ね、顔はすっぴんとまさに取る物も取り敢えずな慌てようだ。
「小夜子ちゃん、仕事は?」
「私のことはいいから、行くよ」
「……はい」
月曜日なのだから彼女も仕事があるはず。にも関わらずそれを押して付き添わせるのは忍びない。故に断るべきだが高熱のあまり思考が上手く働かず、僕は「まぁ、いいか」くらいの軽い気持ちで彼女の好意に甘えてしまった。
*
内科の先生からは急性の扁桃炎と告げられたらしい。そして治療のため先生が抗生物質と解熱剤の処方箋を書いてくれたので、調剤薬局で薬を受け取ったら食後三十分以内に薬を飲み、安静にしろと指示されたらしい。
お医者さんからの指示が全てらしいと伝聞型なのは僕がその診断や指示を全く聞けてなかったためだ。では誰が聞いていたかといえば当然小夜子ちゃんだ。
僕を内科まで連れてきた彼女は、僕に代わって受付を済ませ、その後なんと診察室にまで付いてきた。
それを認めたお医者さんは病気の見当が付くと僕ではなく小夜子ちゃんに病名を告げ、次に処方する薬の説明と服用方法について指示をした。結局僕がお医者さんと話したのは感じている症状や気分について二言三言だけ。なんだかお母さんに付き添われる子ども時代に戻った気がした。
薬を調剤薬局で受け取るとまっすぐ自宅アパートに戻り、僕はまたパジャマに着替えてベッドに倒れ込んだ。熱で頭がぼんやりするし、喉が痛いし、おまけに歩いたせいで体力を使ったため怠さに拍車が掛かった気がする。
「うげー……気持ち悪い……」
夏用布団に潜り込み、身体を丸めた。
朱莉に振られ、全身打撲だらけになったその次は高熱を伴う扁桃炎とまさに泣きっ面に蜂。これは最早日頃の行いが悪いとかいうレベルではなく、前世で村を焼き払うくらいの悪事を働き、業を背負ったとしか思えない因果を感じた。神様、仏様、どうか僕をこの苦しみから救ってください。
「栄養を摂って、薬を飲んで寝る。治すにはそれしかないそうよ。でも良かった、原因不明の奇病とかじゃなくて」
ポジティブだな、君は。
「航ちゃん、お腹空いてる?」
「空いてる……」
「お粥、食べる?」
「食べる……」
「じゃあ冷蔵庫借りるわよ」
「好きに使って……」
僕を部屋まで送り届けてくれた小夜子ちゃんは本当にお母さんみたいな口振りで安静にするよう言いつけ、そのままキッチンで炊事を始めた。学生になってからは節約目的で料理をするようになったため、調理器具や保存の効く食材は家にある。それをフル活用してもらえばお粥は出来るだろう。かれこれ半日ほど食事をしていないので腹ペコだ。
……って何ナチュラルにお粥をお願いしているのだ、僕は。
病院に付き添ってもらっただけで飽き足らず、お粥まで作らせている。いくらなんでも甘え過ぎだ。さすがに申し訳なさを抑え切れず、首だけを起こして彼女を呼んだ。もう大丈夫だからと伝えるために。
しかしいかんせん喉の痛みがひどく声が上手く出ない。なんとか声を絞り出しても米を研いでいる小夜子ちゃんの耳には入らず、全く返事がない。
「今お米炊き始めたから出来上がりまで時間が掛かりそう。それまで寝てて」
パーカーの袖を
「小夜子ちゃん、ありがとう。でもそこまでしてくれなくていいよ」
ベッドにもたれてかかって座った小夜子ちゃんにようやく意思を伝えられた。本当はお世話してくれることに安心感を覚えているくせに、いなくなってほしくないくせに、強がらずにはいられない。
小夜子ちゃんは首だけをこちらに振り向けて、少し困ったように眉を八の字にした。
「病人は大人しく看病されてて。変なところで意地張るところ、昔と変わってない」
「しゅん……」
しかし僕の強がりはあっさり撃退された。
慈悲を感じさせる優しい声音と言葉、そしていかにも元カノっぽい口ぶりは安心感と郷愁を呼び起こした。健康体なら笑って済ませるところだが、病苦に苛まれて弱った心身はあっさりノックアウトされた。うーん、反則だ。
「お粥が出来るまで時間が掛かるから、それまで寝てて」
「……うん。ありがとう」
「どういたしまして」
さらりと言うや、小夜子ちゃんは僕から視線を外して俯いた。見ると彼女の手元には女物のファッション誌が握られている。きっと朱莉がこの部屋に持ち込んで置いていったものだ。
小夜子ちゃんもそれが僕の私物ではないことは察しているはずだ。
独り身の男の部屋にある、女の痕跡。
それを見つけられたことに、僕は何故だか後ろめたさのようなものを感じながら意識を落としていった。
*
目を覚ましたのは鼻腔をくすぐる香ばしい匂いに誘われたからだ。
視線を部屋中に巡らせるが小夜子ちゃんの姿はないが、気配はしっかりキッチンから感じられた。
「よし、出来た」
彼女の独り言がドア枠の向こうから聞こえる。その一言を待ってましたと言わんばかりのタイミングでぐぅと腹の虫が鳴った。先程まで強がっていたのに、現金なものだ。
「あ、起きたんだ。お粥出来たけど食べる?」
「うん、食べたい。僕、どれくらい寝てた?」
「一時間くらいじゃない? あ、そうだ。ご飯食べる前にイソジンでうがいして。せっかく買ったんだから使わないと」
小夜子ちゃんはローテーブルに置いた薬局の袋からイソジンのうがい薬のボトルを取り出し、僕にキッチンへ行くよう目で促した。うがいより飯の気分だが、決して譲らなそうなお母さんっぽい毅然とした雰囲気を感じ、意見はしなかった。
言われた通りうがいをすると心なしか喉のイガイガが無くなりスッキリした。こんなことなら帰って一番にうがいすれば良かったと反省した。辛くなったらまたすぐにしよう。
「さぁ、小夜子さん特製の卵粥。召し上がれ」
僕がうがいをしている間に小夜子ちゃんはテキパキと食事の支度を整えてくれた。ローテーブルの中央、鍋敷の上に置かれた片手鍋からはほわほわと湯気が立ち上り、出汁の香りを漂わせている。小夜子ちゃんは茶碗にお粥を
「食べさせて上げようか?」
「だ、大丈夫だし」
小夜子ちゃんは心配そうな顔で申し出たが、さすがに固辞した。彼女にあーんをしてもらえるのならこの数日間の、失恋以外の全ての不幸が帳消しになるほどの幸福だがさすがに照れ臭さが勝った。悪戯のノリなら僕も意趣返しにお願いしただろうが、彼女には邪気が無く本心から心配している様子なので甘え続けるわけにはいかないと良心も加わっていた。
お粥をスプーンで
「んまい」
自ずと感想が漏れ、匙が進む。
「良かった。お口にあったみたい」
「本当に美味しいよ。料理得意なの?」
「えぇ。学生の間中、ずっと実家暮らしだったから炊事を手伝わされたの。花嫁修行だって」
「へぇ。じゃあこれは冬木家の味?」
「ふふ、どうかな。冷蔵庫にあった顆粒出汁を適当に使っただけよ」
小夜子ちゃんは謙遜気味に言うが、「適当に」というところに凄みを感じた。
節約のため、僕も出来るだけ料理をするようにしているが大抵はレシピサイトやレシピ本を見て、きっちり分量通りに作る。分量を見誤って失敗するのを嫌ってのことだ。料理上手な人の中には分量を図らず経験に裏打ちされた勘で調味料を調整し、美味しい料理を作ってしまう人がいる。僕の母もまさにその一人だが、そう言う人を見るとキャリアの違いを思い知らされ尊敬してしまう。
「料理上手なんだね」
そして今も、尊敬の念を抱き、僕なりの称賛の言葉を口にしていた。
「ありがとう。これで喜んでくれる人がいれば良いのにね……」
小夜子ちゃんは鍋に残ったお粥をおたまでかき集め、追加で茶碗に装ってくれた。空腹なのに食欲はさほどなかったものの、一度食べ始めると何杯でも食べられそうなくらい美味しいお粥が無くなってしまい少し残念に思う。
「そういう人は、いないの?」
「…………いない、かな」
不躾を承知で突っ込んだ質問をした。つまりは恋人はいないのか、と。
それに対して小夜子ちゃんは視線を逸らし、伏し目がちに答えた。印象的だったのは、その時の表情が独り身を不甲斐なく思うと言うよりは別な、苦々しい思いを滲ませていたことだ。多分、今はあまり詮索しない方が良いのだろうとすぐに察せられた。
「いないってことはないよ。少なくとも一人、ここにいる」
しゃくしゃくしゃく、とお粥を掻き込み、僕は両手を合わせてご馳走様と謝辞の意味も込めて言った。
「小夜子ちゃんのお粥で元気になれそうだし、手間暇かけて作ってくれてすごく嬉しいよ」
我ながら臭いセリフだが、それが本心だ。彼女へ感謝を伝えるにはこれくらい言葉を尽くさなければ全く足りない。
「航ちゃん……。ありがとう、そんなに美味しそうに食べてくれたら作った甲斐があったよ」
「礼を言うのはこっちだよ。すごく美味しかった。もう元気満々」
「もう、気が早いんだから。さ、ご飯も食べたことだし、お薬飲んで寝なさいな」
「えー、お薬やー」
「我が儘言わないの」
「そういえば小夜子ちゃん。今日仕事は?」
「……気にしないで。今日は元々有給なの」
「そうなんだ。用事があったんじゃないの?」
「いいえ、これといって。映画見てショッピングでもするつもりだった。息抜きってやつよ」
「そっか……。せっかくの息抜きなのにごめんね」
「病人が気遣いしないの。薬も飲んだし、もう寝なさい」
「はーい」
食べてすぐに寝ると牛になるというが、空腹を満たしたら今度は眠気を感じた。彼女の言う通り、病人らしく眠るとしよう。
「そうだ、航ちゃん。お夕食もお粥作りに来てあげるね」
ベッドに横になると、小夜子ちゃんは片付けをしながらそう告げた。もはや僕は遠慮する心など忘れ、彼女の好意を素直に受け取った。
『禍福は
度重なる不運でズタボロになった今の僕にとって彼女の親切は幸福に他ならず、申し訳なさよりもそれを享受したいとの渇望が勝っていた。
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