第8話 孤悲(こい)する男(12/19更新)


 別れようと言われて僕は目の前が真っ暗になった。

 何も見えず、何も聞けず、何も考えられず、何も話せず、朱莉と淡々と会話をした。


 離別をはっきりと切り出され、僕はコクリと頷いた。そしてお互い部屋の合鍵を返却し合い、自分の酒の代金を置いて彼女の前を去った。


 去り際、一緒に店を出て最後に赤レンガ倉庫へ行かないかと誘われたが、僕は遠慮した。別れた後にまで彼女といると、自棄やけを起こして彼女を抱いて深い水底に身を沈めかねない。そんな物騒な予感を抱え、最後はまっすぐ家に帰るよう気障きざったらしい一言を残し、一人きりになった。


 ランドマークタワーを出た後、そのまま家に帰る気にはなれず結局一人で赤レンガ倉庫まで歩いた。

 店を出る直前に手付かずのジントニックを一気飲みしてやった。お陰で足取りが覚束ず亡霊のように頼りなく歩を進め、湿った空気が肩を撫でるのを感じていた。


 夜の赤レンガ倉庫にはカップルがそこかしこを歩いていて、独り身は自分だけだ。皆、月曜日を憂鬱に思いながらもどこか楽しげなのが羨ましい。一方の僕はといえば、朱莉との未来を失い、明日どころか一時間先でさえどうしていいのか考えられなくなっていた。


 倉庫の間を抜け、埠頭まで達すると柵沿いをぼんやりと歩いた。柵の向こうには狭い東京湾が広がっており、水平線の代わりに港湾地帯の明かりが煌々と輝いている。恋人と眺めるにはムードのある景色だが、一人で見ていると群れからはぐれたような、あるいは皆から忘れ去られたかのような寂寥感を感じざるを得ない。


 港湾地帯の夜景を見ると、思い出すのは二つの町、二人の女性、二つの記憶。


 一つ目は当然町村朱莉だ。同じ横浜市立大学に通う学生で、二年生の時に縁が生まれた女性。生まれ故郷横浜の街を共に過ごした輝かしい記憶。


 二つ目は長崎の街。親が離婚したおかげで僕は母の地元の長崎へ引っ越した。慣れ親しんだ横浜を離れることになった僕はそれまで当たり前だと思っていた全て――それこそ名前さえもが変わり、居心地の悪さを感じながら異国で過ごす気分だった。そんな僕の十代の日々を青春の色に染めてくれた少女の記憶。


 長崎の思い出を呼び起こしてしまい、無性にあの女性ひとに会いたくなった。会って、今日起こった出来事を話したかった。同情や慰めが欲しいのではなく、ただ僕の虚しい今の心情を見守ってほしい。辛い気持ちを聞き届け、それと向き合うだけの勇気をくれる人を側に置いておきたかったのだ。


「航ちゃん?」


 突然名を呼ばれ、首を左に向けた。


 果たしてその願いが届いたのだろうか。

 夜景を臨む埠頭のベンチに、かつての僕の想い人――冬木小夜子が腰掛けていた。


 *


「そっか……別れることになっちゃったんだね」


 埠頭でばったり小夜子ちゃんと遭遇した僕は彼女に断り、ベンチの隣に座らせてもらった。なので今、人一人分の距離を置いた左隣に彼女は座っている。


「うん……お酒を飲みながら愚痴を聞いたりしていつも通りだったのに、最後は急展開だよ。なんとか思い直してもらおうとか、もっとよく話し合いたいと思ってたけど、結局何も言えなかった……」


 月が雲を照らす夜空を仰ぎながら僕は魂が抜けるような力無い声でことの顛末を話した。

 こんな情けない話を元カノにするのは正気の沙汰じゃないと思いながらも、彼女と話を始めるとなく言葉が湧いてきた。


「僕は、自分の家族を持ってこの町で暮らしたいと思ってた。妻がいて、子供がいて、アパートかマンションの部屋を借りて、毎日働いて、家に帰って、ご飯を食べて、おやすみと言って眠って、また起きる。幸せは人それぞれというけど、僕は絵に描いたような家族団欒こそが幸せに思える。だからその未来を思い描き、僕達はそこに向かって歩いているつもりだった。でも、彼女は違った」


 朱莉はいつからか僕が描く未来予想を見透かしていた。そしてそれが彼女自身の夢の障害となりうると危惧しており、いつか僕たちの前に二本の別れ道が現れると予知していたに違いない。そう思うとそれきり言葉が出てこなかった。


 医療分野の科学技術が進歩した現代でも、男が子どもを作りたければ女に産んでもらうしかない。こればかりはどうしようもないのだから跪いて頼む他にないのだ。

 一方で産む女性にとっては大問題だ。男が望んでいるからと言って承知しましたと二つ返事をする女性はそうそういないだろう。


 子どもを授かり産まれるまでに要する歳月は約十ヶ月。その間、女性はつわりなど身体的、精神的な変化に直面するという。子どもが産まれた後も油断は出来ない。赤ちゃんは親がいなければ生きていけないのだから付きっきりで育てることになる。僕がどれだけ協力しようとしても、お乳を与えられるのは朱莉だけだなのだから。

 近年は国の後押しもあって育児休暇や産前産後休暇の制度が徐々に浸透しつつあるという。反面、社会は仕事よりも育児を優先する人にまだまだ冷たい。育児休暇を終え職場復帰したら自分の居場所がなくなっていたという悲劇を耳にすることがある。それはキャリアを重視する人にとっては最悪のシナリオだ。


 そして朱莉もそれを危惧する一人であった。朱莉は自分のキャリアを育てるにあたってはまだ社会に信用を寄せていないと言った。

 いずれ社会も子育てをする就労者への支援の重要性に気付くかもしれない。しかしその変化がいつ訪れるのかは分からないし、訪れる保証さえない。


 朱莉は自分こそが飛騨航太郎の夢を実現するためのファクターであると責任を感じてくれていた。それ故に、期待に応えられる保証はないと明言した。


 そう考えると彼女が僕のプロポーズを断ったのは、ある意味彼女の最後の優しさなのかもしれない。男は望めば父親になれる生き物ではない。最後には女性の承認を得て初めて子を授かることが許される無力な存在だ。その無力な僕が叶わぬ夢を見続けることに心を痛めていたのだろう。


 その心情に僕は気づいて上げられなかった。優しくて真面目な朱莉のことだ、きっとプロポーズされる以前から家庭と仕事のどちらを取るかと悩み、葛藤し続けていたに違いない。僕と二人で出歩く時、僕がすれ違う幼い親子連れを目で追っているとその横で彼女はチクチクと針で心を突かれたような痛みを感じ、葛藤していたのだ。そう思うと自分が酷く情けなく、目頭がつんとする。


 そして一人で悩み続けた彼女は、その末に自分とは別の女と結婚して夢を叶えろと僕の背中を押したのかもしれない。


「また同じ失敗をしちゃった。前も同じようなことがあったよね。僕から一方的に想って、でも向こうはそんなことない。君とはぶつかって、朱莉とは擦れ違った。ほんと、ダメな奴だよ」


 先ほどよりも酔いが回り、つい弱気な思いが口をついた。遥か上空では星がポツンと一つだけ弱々しい輝きを放っているが、僕の気持ちはそれよりもずっと弱い。


 昔、大学進学にあたって小夜子ちゃんとは上京するしないで大いに揉めたことがあった。首都圏についてきてほしい僕と、地元に留まりたい彼女。結局二人の想いは合致せず、それぞれの進路選択をして遠距離恋愛をすることになったのだ。


「そんなこともあったね。今ではなんでそんなことで揉めたんだろうって思う。結局こうして上京しちゃったのに」


 コロコロと彼女は微笑んだ。昔から彼女はそうやって揺れる草花の如くたおやかに笑う女性だった。


「でも、航ちゃんは最後には相手のことを思って尊重してくれる優しい人だよ。私の時も、地元に残る決断を受け入れて恋人の関係を続けてくれた。そのことは今でも本当に嬉しかったよ。だからダメな人なんかじゃない。これからは朱莉さんのこと、陰から応援してあげなよ」


 僕は幾分かその笑顔に救われた気持ちになる。だが果たしてそんな資格がそもそも僕にあるのだろうか。

 もう恋人でもなんでもない女性に心を癒されるなど、情けなく浅ましい。


 そして彼女の言葉は僕の良心を苛んだ。


 かつて彼女の決断を受け入れたのは結果論であった。本心ではひたすらに受け入れ難かった。だが当時の僕は彼女に迫ると拒絶され、何もかもを失うのではないかと不安になったのだ。その不安から逃れるため、僕は理解ある男を振る舞い、彼女の決断を聞き届けたに過ぎない。

 それは小夜子ちゃんと別れた時も同じだ。僕は自分が傷つくことを恐れ、彼女を遠ざけることにした。


 そして今回の朱莉との破局も同じだ。本当は朱莉の気持ちをもっと確かめたい。結婚、出産、ライフスタイルについてしっかりと話し合い、気持ちを確かめ合い、互いに納得し合える答えを出したかった。

 そうしなかったのは単に恐怖があったためだ。


 答えを出そうとしても、出なかったら?


 その不安が脳裏をよぎり、僕は立ち往生してしまった。

 彼女のキャリアを阻まず、温かな家庭を築く最適解があるのかもしれない。だがもしもそれを見つけられなかったらと思うと不安でならなかった。なぜならその時こそ僕達の絆は破滅するだろうからだ。


 ――それが現実なのよ、航太郎。


 そう悲しげに朱莉が告げることが怖かった。結局のところ、僕はその恐れから逃げたのだ。


 それはただ世知辛さを痛感するだけに留まらないだろう。自分の幼稚さ、無力さを自覚させられることになる。そのことに耐えられる自信がなかった。


 虎の尾を踏んで逃げ非情な現実を突きつけられ、木っ端微塵に吹き飛ばされるくらいなら、せめて綺麗な形でこの恋を終わらせようと守りに入ったに過ぎない。飛騨航太郎は弱くて逃げ足の速い、ずるい大人なのだ。


「航ちゃん、少し疲れたでしょ? 顔色悪いよ」


 小夜子ちゃんの小さくて柔らかな手が僕の肩に乗った。優しい人のぬくもりがシャツを通して肌に伝わり、心に染み込んでくるようだ。だが今の僕にはそれさえも恐ろしかった。その優しさに絆され、自らの卑怯さを晒してしまうのではないかと疑心暗鬼に駆られた。

 未練たらしいことこの上ない。元カノに格好つけたいがため、僕は去勢を張るのだ。


「そうだね、ちょっと色々あったから頭がフラフラしてる。喉もちょっと痛いし。今日のところは明日に備えて帰るよ」

「それがいいよ。今日はもう帰ろう。明日からのことは、また明日から考え始めれば良い。明日は明日の風が吹く、だよ!」


 小夜子ちゃんはにっこりと笑って勢いよく立ち上がった。僕も追うようにベンチから腰を上げる。


 その後、電車に乗って真っ直ぐ自宅へ帰った。道中、僕は一言も話さず、彼女の方からも何も言ってこなかった。傷心の僕を慮ってのことだろう。


 僕はその優しさに感謝を思わず、感涙に心を揺るがさない。あえてそのように自らの心を律し、気丈な自分を作り出した。


 これ以上朱莉のことを想うと僕の心は壊れてしまう。

 これ以上小夜子ちゃんの優しさに触れると彼女に依存してしまう。


 そう考えると空恐ろしくてならず、自分で自分を拘束して平静を保つのがやっとであった。


 そうしてまた僕は自分の気持ちに蓋をして、見て見ぬふりをして生きていく。


 *小夜子 side*


 航ちゃん、まだ朱莉さんのことが好きなんだよね?

 そりゃそうだよ。男の人って別れた女にいつまでも未練たらたらになる生き物だもの。


 だから別れた女を想って悲しそうな顔をしてるんだ。

 だから別れた女に優しくしてくれるんだ。


 でも私は嬉しいよ。航ちゃんがこんな私に昔と変わらず素敵な男の子として接してくれて、私は本当に救われてるの。


 ねぇ、航ちゃん。本当はいけないことなんだ。あなたとこんな風に二人きりで会うだなんて、許されない。あなただけは絶対にダメ。


 分かってるのに、私は期待している。

 あなたに秘密を抱えているうちは、際限なく優しさを与えられ、きっと幸福な気持ちにしてくれるものだと期待している。


 麻薬の快感は一度覚えるとどんどん深みにハマっていく。そしてハマったら最後、自分の意思で抜け出すことなど不可能だ。悪事が白日の元に晒され、断罪されるに至ってようやく断ち切れる。だが一度覚えた快感を忘れることは出来ず、一生病みつきになったまま。


 私はもう、彼から抜け出せない。目の前の辛い現実を忘れさせてくれる航ちゃんに依存したい……。


 ねぇ、航ちゃん。私の秘密、知ったら怒るかな?

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