第2章 orbital period〜高校生編〜

第18章 眼鏡っ娘な女の子

 僕の両親は仲が悪かった。それはもう水と油で、二人が喧嘩をしているところを見ると童心ながらに「なぜこの人達は結婚したのだろう?」と訝しんでいた。


 その両親が離婚したのは僕が中学二年生の頃。僕が十四歳の時なので二〇〇四年の話だ。

 原因は父の暴力だ。両親が喧嘩をしていたのは知っているが、父が母に暴力を振るっているところは見たことがない。男が女を殴るのは最低のことだと思っていたから、まさか手を上げるようなことはしていないだろうと父を盲信していた。その一方で、DVがあったことを知っても僕はさほど驚かなかった。


 後になってみると、僕は暴力の痕跡を第六感で感じていたと想起される。感じていて、止めなかった。父の大きくて硬い拳が僕に向けられるのではと恐れるあまり、父が一線を越えることなどないと盲信し、母のSOSに耳を塞いでいたのだ。


 暴力が原因と言ったが、今にして思うと家族はそれ以前に破綻しており、末期に起こった何かが楔となって決定的な崩壊に繋がったのだと思う。その決定打が何なのか、僕は生涯知ることはない。


 その後、母に引き取られた僕は中学三年生に進級するタイミングで長崎の中学校に転校することになった。それがきっかけで僕の全てが変わってしまった気がした。

 住む土地、通う学校、飛び交う方言。そして名前さえも。


 でも思春期の僕はその変化にどうにかして抗おうと無駄な抵抗を続けていた。


 新しい学校で流行っている制服の着崩しは絶対に真似しなかった。長崎の田舎者と同じ流行に乗っかることがダサかったから。

 長崎や九州の方言が口から出てこないよう、常に意識して会話していた。田舎者っぽい言葉遣いなど死んでもごめんだったから。

 自分は大都会横浜の人間なんだと知らしめるため、友好的にしつつも関東の方言で会話をした。それでも地元のことは聞かれた時に答えて自ら自慢はせず、なるべく彼らとの日常を共有したのは、こちらの生活に溶け込んでも魂までは溶かされないと見せつけたかったから。


 だがそんな抵抗が無意味で誰も気にも留めないとそのうち知り、引っ越しから一年が立って高校生になる頃、ようやく僕は長崎で生活する気になったのだった。


 そんな風に気が向いたのは、高校入学時に入ったバドミントン部で冬木小夜子と出会ったのが理由ではない。ただ、虚しくなったからだ。


 彼女との仲が深まるのは、もう一年先の話。それは僕達が二年生に進級して間もない春の頃であった。


 *


 桜の花が散り、葉桜に衣替えした四月下旬の土曜日のこと。

 三週間ほど前に高校二年生に進級した僕は部活動のため、長崎市街地にほど近い公共の体育館へ赴いていた。


「それでは、本日はここで解散する! 各自、寄り道せず真っ直ぐ帰宅するように。解散!」

「「ありがとうございました!!」」


 時刻は十五時。朝から練習試合が続いてヘトヘトになった僕達、長崎肥前高校バドミントン部の面々は最後の気力を振り絞り、顧問の先生の解散の号令に合わせて声を張り上げ、緊張の糸を緩めた。


「やっと終わった〜」「眠い〜」「帰りどっか寄ってくやろ?」


 顧問が引っ込むや否や、あちこちで制服姿の男女のダラけた会話の声が上がり、和気藹々とした笑い声が響く。この日は朝早くから現地集合し、複数の学校の部が集まる合同練習会が開催されていた。

 他校の生徒と練習をする緊張感を皆抱いていたことだろうが、この後市街地でハメを外す期待もまた然り。各々、仲の良い者同士で集まり、この後の予定を話し合っていた。


「航太郎。この後二年の何人かでカラオケ行くけどお前も来いよ!」

「もちのろ〜ん。他に誰が来る?」


 僕に声をかけてきたのは同学年の赤木涼介という男子だ。僕と赤木は部で一番の友達で、この春からはクラスメイトにもなった。一年生の頃から一緒に遊んでいたので今日も今日とてという具合。しかし違うところもある。


「誰か女子呼ぶ?」


 僕はひそひそと赤木に相談する。いつもは男ばかりで遊ぶが、今日は女の子も誘う絶好の機会だ。


「あったり前やろ。お前も誰か誘えよ」

「りょーかい!」


 うちの学校のバドミントン部は男子と女子が分かれており、学内の練習はともかく校外に出る場合は別個になることもある。しかし今日は女子バドミントン部も一緒に合同練習会に来ている。そのため、男女両陣営に心無しかそわそわと落ち着かない空気が流れているようだ。


 さてさて。誰を皮切りに誘うか。


 同学年の女子部員とは基本的に全員知り合いだが、大して仲が良い相手はいない。部活の帰りが被れば会話をするが、気安く遊びに誘えるような人はいない。誰か声をかけやすそうな人はいるかな……。


 そう思案し、あのしかいないな、と白羽の矢を立てた。そして周りを見渡し、その人物を探す。


 いた。他の女子二名とすでに体育館の敷地から出る門へと足を向けている女の子――冬木小夜子さんの姿を認めると、僕は声を上げて彼女を呼び止めた。そして三名の女子グループに駆け寄り誘いをかけた。


「ねぇ、冬木さん。これから赤木と他何人かでカラオケに行くんだけど一緒に行こうよ!」


 他の二名の女子にも目を合わせて一緒に誘った。


 三人は驚いた様子だが嫌がる素振りはなく、むしろ顔を少し赤らめてどうしようかとひそひそ相談を始めた。会話の内容からこの後スポーツ用品店にシューズを見に行くつもりらしいが、その予定をキャンセルするかどうかと話し合っていた。


「折角だし行こうかな」


 と、最終的に冬木さんがおずおずと三人の意見を取りまとめて応じた。


「よっしゃ、決まりだね! 赤木、冬木さん達来るって!」


 振り返り、赤木に手を振りながら大声で報告した。赤木はまだ女子に声をかけてない様子で、男子ばかりを誘っている。自分で女子を誘うのが照れ臭くてらくしてたな、あいつめ。


 こうして僕達は男四人、女三人のメンツでカラオケに繰り出すことになった。これが僕と冬木小夜子の実質的なファーストコンタクトだった。


 *


 冬木小夜子とは一年生の頃から部活動を通しての顔見知りだった。

 黒い艶やかな髪をうなじの高さで二つ結びにし、赤いセルフレームの眼鏡をかけた彼女を見た時は「可愛いけど地味な女の子だな」と失礼な第一印象を抱いた。実際彼女は控え目な性格であまり強く意思表示をすることはなく、人前に立つこともない。普段は仲の良い女子と団子になってラケットを振っているか、先輩に指示されるがまま練習をしている真面目な女の子だ。

 その彼女になぜ真っ先に声をかけたかといえば、単に二年生から同じクラスになったからという理由でしかない。クラス替えの内訳が分かった時、談笑する僕と赤木の所へ足を運び、「一年間よろしくね」と律儀に挨拶をしてくれた。何をよろしくすれば良いかは分からなかったが、ともあれ今日は同じ部のよしみということで僕は真っ先に誘ったわけだ。


「ねぇ、冬木さん。前から気になってたんだけどさ」


 カラオケボックスへの移動中、一行は二列縦隊で歩道を歩く。僕の隣には冬木さんがいて、その彼女に質問をしていた。


「そのバッグにつけてるストラップ、クラスの女子皆つけてるよね?」

「あぁ、これ?」

「流行ってるの?」


 問われ、冬木さんは背負っていたリュックサックからぶら下がっているぬいぐるみのストラップに目を向けた。

 うちの学校では、学校指定のカバンの他に体操着等を入れるサブバッグとしてリュックサックの使用が認められている。冬木さんはバッグにチューリップを模したキャラクターのぬいぐるみのストラップをつけているのだ。また最近気づいたのだが、クラスの女子生徒の半数近くがそのストラップを鞄かサブバッグにつけている。

 そしてそのキャラクターなのだが、花を模しているものの大して可愛くはない。にも関わらず多くの女子がつけていることを僕はずっと疑問に思い、心の片隅で気に留めていた。


「これはチュリリンだよ」

「チュリリン?」


 それがこのキャラクターの名前らしい。


「流行ってるわけじゃないの。うちの女子ってさ、二つのグループに分かれてるじゃない?」

「そうなの?」


 知っての通り、という語調だがそれは初耳だ。


「知らないんだ。チア部の松本さんと、演劇部の日下部くさかべさんがリーダーのグループがあるんだよ。二人とも超綺麗だし超可愛いけど、超仲が悪いんだ。二人とも同じサッカー部の先輩が好きなんだって」

「へ、へぇ……。それで?」

「それでね、超仲が悪い二人が中心になっていつの間にかグループが出来てたの。それで私は日下部さんのグループで、こっちのグループは仲間の証ってことでバッグにこのチュリリンを付けることになっちゃったの。別に私は好きじゃないけど、これがないと仲間外れにされるかもしれないから」


 冬木さんは複雑そうな顔で首を捻り、歩みに合わせてピョコピョコ跳ねるチュリリンを見つめた。その視線には愛らしいという気持ちが米粒ほどもなく、むしろ疎ましげでさえあった。


「つけたくないなら松本さんのグループに行けば?」

「無理無理! 今からあっちのグループなんて行けないよ! 絶対仲間外しにされるし、行こうとしたのがバレたら日下部さんにイジメられる!」


 僕の何気ない提案を冬木さんは血相を変えて拒んだ。その狼狽ぶりから女子グループ同士の確執ははっきりと見て取れたし、日下部さんの陰湿さが窺えた。


 件の日下部というのは演劇部のホープと言われ、クラスはもちろん学年随一の美貌を持つ女の子だ。演劇部の練習の賜物か生来の授かり物か、声はハキハキと快活でよく通り、授業中教科書を読み上げる声に僕はうっとりしてしまったくらいだ。ルックスと所作のおかげでとにかく目立つ女子で、まさにクラスのクイーンに相応しく、なかなか気軽に話しかけられない存在でもある。かくいう僕も、女子とは緊張せずに話せる性格なはずだが、日下部さん相手だと少し緊張してしまう。


 その日下部さんの陰湿で、センスの欠片もないメンバーシップを強要する性格を知り、僕は勝手ながら幻滅した。


 対する松本さんはチアリーディング部の所属で、こちらもなかなかの美人だ。スポーツ万能で体育の授業中に女子に号令をかける姿は遠目にも目立ち、クラス内での男子人気は日下部さんと双璧を成す存在である。日下部さんとは対照的に松本さんはスポ根気質で土臭いところがあり、それがかえって親しみやすいと好感を抱く男子は多数いる。かくいう僕もどちらかといえば松本派だ。


「それに同じグループには友達のまーちゃんとみぽりんもいるから、離れ離れになりたくないんだ」

「はぁ……」


 どうやら二つのグループは冷戦態勢にあり、両者の間にはベルリンの壁並みに分厚い隔たりがあるらしい。

 僕は今日この日、女子の社会が一筋縄ではいかないと知ったのであった。


「男子はそういうの無いの? 航太郎くんはいつも赤木くんと話してるけど」


 こてん、と首を傾げて尋ねる冬木さん。

 ちなみに僕は部とクラスの中では苗字ではなく名前で呼ばれている。というのも部の先輩に一人苗字被りの人がいるため、その先輩に忖度して苗字呼びは彼に譲っている。なので部員は全員僕を『航太郎』と呼ぶ。女子からは専ら君付け、後輩は先輩付けという具合だ。また二年生になって最初の自己紹介の折も、『航太郎』と名前で呼んでほしいと皆にお願いしたためクラス内でもそちらで通っている。僕にとってもそれは好都合だ。母の旧姓で呼ばれることは苦手だから。


「無いんじゃない? 仲良い奴同士で固まってるけど、別に喧嘩してるとかもないし」

「ふぅん、そうなんだ。男の子ってなんだか楽しそう。羨ましい」


 冬木さんは苦笑混じりに言う。お世辞ではなく本心から男子のしがらみの無さを羨んでいるようだった。

 そんなにストレスになるのならいっそ割り切って好き勝手に生きれば良いのではと思うが、それは男の考えというものだろう。女子には女子の理屈や習慣があり、気安くアドバイスなどすべきでない。この瞬間に少しだけ大人になった僕はそう結論付け、それ以上は何も言わなかった。


「ま、今日は楽しく歌って発散しよう! 今日は冬木さんの美声を披露してもらうために前々からカラオケを計画してたんだ」

「え、初耳!? 私音痴だから自信ないよ〜」


 はわわ、と僕の冗談に慌てふためく冬木さん。顔を赤らめ本気にする彼女は可愛らしい。

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