第5話 失恋症候群(2)
トイレで用を済ませ、洗面台で鏡を見ると酷い表情をしていた。ブサイクという意味ではなく、悲壮感を漂わせていたという意味だ。
「はぁ……二人には言わないとなぁ……」
鏡の中の僕は一層悲哀を溜め込んだご様子だ。
あの二人と朱莉はすでに友人同士だ。社会人になってから僕達二人に中洲と松田も加わって四人で遊びに行くことが度々あった。江ノ島の水族館や東京のテーマパーク、映画、果ては長野へスキー旅行にまで行った間柄。特に松田は朱莉と直接連絡を取り合い、僕を抜きにして遊びに行くほどの仲だ。黙っていてもあの後輩には必ず露見する。僕からきちんと報告するのが筋というものか。
だが今それを言う必要も無いし、覚悟も出来ていない。もう少し気持ちの整理が着いた頃にきちんと報告しよう。
ため息混じりに結論を出し、僕はトイレを出た。
「よう、遅かったじゃねぇか」
「中洲!?」
戸を開けてすぐに彼の顔と声が脳に飛び込んできたおかげで僕は素っ頓狂な声を上げてしまった。その横には松田もいる。二人とも心配そうな顔をしており、僕が出てくるのを待っていたらしい。
「先輩、本当に大丈夫ですか?」
松田は申し訳なさそうに尋ねてきた。雨に濡れた猫のような悲壮ある表情から、誘った手前僕が体調を崩していないかと案じてくれていることが分かった。
「金欠なんですよね? スカンピンなのに誘ってごめんなさい」
前言撤回。こいつは僕の気持ちなんて全く察していない。
「財布はともかく、ちょっと様子が変だったから見に来たんだ。お前、何かあったんじゃねぇか?」
松田とは違い、
「もしかして……朱莉さん?」
ようやくおバカの松田もピンと来たらしい。
そしてお見通しにされれば僕も沈黙を貫けない。壁に力無くもたれかかり、深呼吸をして告白した。
「朱莉とは別れた。昨日の晩にプロポーズをして、断られてさようならだ」
僕は蚊の羽ばたきの如きか細い声で、端的に報告をした。居酒屋のフロアから届く喧騒にさえ負けそうな弱々しい声だ。
中洲と松田は両目を見開き、無言のまま立ち尽くしていた。だが、
「えぇ!!? 飛騨先輩と朱莉さん別れちゃったんですか!!?」
松田は突如として叫んだ。そして僕が絶対に隠し通したかった事実を居酒屋中にお知らせしやがった。
「「バカ! 声がデカいわ!!」」
僕と中洲は一言一句同じ文言で彼女を叱り飛ばす。松田は謝罪しながら両手で口を押さえるが全ては後の祭り。
三人で通路の端から顔を出し、フロアの様子を伺う。するとどうだろう、先ほどまでどんちゃん騒ぎで溢れかえっていた金曜日の居酒屋は水を打ったような静けさに包まれていた。
そして僕達ハーバーソフトの面々が座っていたお座敷を見ると、一同がぽかんと口を開けてこちらに視線を向けていた。
「完全にバレたわ!」
思わず頭を抱え、壁に向かって項垂れた。
結婚は近いと周囲に言い触らしておきながら、実際はプロポーズ作戦大失敗でしたと知られた日には街を歩けない。恥ずかしすぎる!
「どうするんだよ、これ。どんな顔で戻ればいいの?」
僕は泣きそうになりながら二人の顔を何度も交互に見て縋りついた。
「はい、不肖松田に策がございます!」
ビシッと挙手するトラブルメーカー。当てにならないと分かっていながらも、藁にも縋るつもりでその策を聞いた。
「袖から出てくる漫才師の真似をして意気揚々とした笑顔で手拍子しながら出ていく他ありません!」
「お前、何言ってるの?」
不可思議な作戦に中洲は眉を顰めて嗜める。
確かに意味不明だ。意味不明なのだが、
「試す価値はあるな」
「お前も何ってるの!?」
僕はその作戦に一理あると光明を見出していた。その思考もまた我ながら意味不明だ。
「じゃあ、中洲さん! 飛騨先輩と一緒に元気良く行ってみましょう!」
「しかも相方俺!?」
「中洲、頼む! もうお前しかいなんだわ!」
「くそっ! そう言われちゃやるしかねぇ! 行くぞ、飛騨!!」
僕に頼まれ、ようやく中洲も腹を括った。僕達はハイタッチをし、深呼吸をして通路からフロアに飛び出した。
「「はい、どうも〜〜!!」」
パチパチパチ、と二人揃って拍手をしながら駆け出し、衆人環視の中、一気にハーバーソフトのお座敷にまで迫った。目の前では足立さんを始めとした皆様が呆気に取られてこちらを凝視していた。
「「…………」」
そして訪れる沈黙。僕達は本当にネタ見せをする芸人さんよろしくの愛想の良い笑顔を浮かべたまま立ち尽くした。
やばい、出てきたは良いがこの先を考えていない。
「おい、中洲。なんかネタないの?」
「あるか! 漫才なんてやったことねぇって!」
僕達はこそこそ話し合い、打開策を探ったが当然ながら妙案など浮かんで来ない。かくなる上は思いつきの一発ギャグをするか。
「飛騨くん、彼女に振られたの?」
「はい……まぁ……」
しかしその決意が固まる前に、足立さんがおずおずとした声で尋ねてきた。その質問で僕の意識は一気に
「二人とも、とりあえず座りましょうか?」
後から何事も無かったように追ってきた松田に言われるがまま、僕と中洲は赤面し無言で元の席に戻ったのだった。
*
その後の飲み会は悲惨なものだった。
和気藹々としていた宴会は一転しお通夜のような沈んだ空気に包まれ、誰もがちびちびと酒を飲んで時間が過ぎるのを待っている様子であった。
たまに誰かが発言しようとするも、口を開いた途端に視線を集めてしまい、怖気付いて黙ってしまう。そんなことが何回か続き、最後には誰も言葉を発しなくなった。最後に聞いた言葉は足立さんの
「じゃあ、一人三千円で」
とお勘定のための業務連絡。なんだ、この飲み会。
*
「いやぁ、恐ろしい飲み会でしたね」
居酒屋を出て各々が帰路に着く中、僕と松田は横浜駅構内を横断し、相鉄線の改札を目指した。僕達二人は相鉄線沿線に住んでいるため、同じ電車に乗る。
「九割方お前のせいだけどね」
僕はむすっとした態度で松田に毒づいた。能天気な彼女も流石に責任を感じているらしく、沈んだ顔で謝ってきた。
「それにしても、どうしてダメだったんでしょうか、プロポーズ」
「そりゃこっちが聞きたいよ」
改札を通過し、ホームまでの階段を登りながら言葉を交わす。時刻は九時手前で、周囲には僕達と同じようなほろ酔いのサラリーマンがちらほら見られた。
「ご飯食べている時はいつも通りの楽しそうな朱莉だったのに、いざプロポーズしたら急に顔が凍りついてさ。そしたらごめんなさいと来たもんだ」
「サプライズだったんですか?」
「と言うより思いつきに近い」
ホームで電車を待つ間、僕は松田に昨晩のことのあらましを語った。
昨日の木曜日は朱莉から食事の誘いがあった。朱莉は僕と違い名の知れた大きなSIer(システムインテグレータのこと)に勤務しており多忙を極めるので平日に誘いが来るのは珍しい。ましてや当日の午前に誘われるとは社会人になって初めてのことだ。僕は上機嫌で承諾し、お互い足を運ぶに都合の良い横浜駅周辺の店をチョイスした。
失敗の原因は店選びを間違えたことかと訝しんだが、その線は薄い。訪れたのは以前からお世話になっているカジュアルなイタリアンレストランで朱莉もお気に入りの店だ。実際に食事中は白ワインと料理に舌鼓を打ちながら談笑していた。ここまではいつも通りだった。
「それで、どうして急にプロポーズしようだなんて思ったんです?」
「……を見たから……」
「はい?」
丁度電車の到着を告げるアナウンスが流れたお陰で肝心の理由は彼女の耳に届かなかった。
僕はその後無言を貫き、電車の到着を待った。足に力が入らないような気がし、プロポーズを決意した理由を口にした途端、力無く倒れてしまいそうな恐怖に駆られ口を引き結んだ。
やがて電車が到着し、我先にと乗り込む乗客に紛れ乗車した。幸いにも二人並んでシートに座ることが出来たので先程の話の続きをすることにした。
「ドレスを見たからなんだ」
「ドレス? ウェディングドレスですか?」
「うん」
僕が急にプロポーズをした理由。それはどこかのブライダル店が出展していたショーウィンドウの中のウェディングドレスを二人で見てしまったからだ。
マネキンに着せられた純白のドレスはえも言われぬ美しさを誇っており、僕は自ずと朱莉がこのドレスを着て目の前に立っている姿を想像してしまった。
そして朱莉もまた同じはずだった。綺麗な瞳はドレスに釘付けにされ、普段の
その様子からしてきっと彼女は、このドレスを自分もいつか着れるのだと夢見ているのだと僕は推察した。
ウェディングドレスは女の夢。
ブライダルカタログの古臭い押し文句のようなフレーズが僕の頭の中に響き渡る一方で、僕は彼女が心中不安に思っているのではないかとも思案した。
飛騨航太郎は自分との将来を本気で考えているのだろうか。
自分を妻として迎え入れる気持ちがあるのか。
僕達もいい大人で、年齢は二十台後半に差し掛かった。そろそろ、心構えをしないといけない年齢だとこの時ほど痛感したことはなかった。
学生の頃は仕事に就く。新社会人なら仕事を覚える。人は人生の要所要所でそんな何かしらの心構えを持っているものだ。
では社会人として落ち着いた今は何を心構えとするか。
それこそ人それぞれに分岐することだろう。
出世、独立、転職し全く異なる新たな人生を歩み出す。
選択肢は十人十色。
そして僕には、朱莉との結婚こそが次なる目標に相応しいと
「このドレスを僕のために着てほしい。僕と結婚してください」
そう思いの丈を彼女に告白した。
「朱莉は一瞬嬉しそうな顔をしてくれた。でも次の瞬間には表情が消えて、ごめんなさいと僕に言って去っていったよ」
それが昨晩の出来事。それが、僕の五年間の恋の終わり。
語るうちに涙が溢れ、僕は泣きじゃくっていた。周りの乗客達が好奇の目線を向けているがそんなものはお構いなしに。
女々しい僕の語りを松田は黙って聞いてくれた。
「先輩、ハンカチをどうぞ」
「うん、ありがとう」
僕は松田から差し出された桜色のレースのハンカチをありがたく受け取り、涙を拭いた。ついでにチーンと鼻水をかんだ。
「ありがとう、返す」
「洗って返してください」
僕は涙と鼻水まみれになったハンカチをジーンズのポケットにねじ込む。
「僕の何がダメなんだろう……」
口から出てくるのはそんな自己嫌悪にも似た感情の具現だけだ。理由を告げられず、ただ一方的に拒絶されたとの被害者意識は彼女の理不尽さを恨むのではなく、僕自身を傷つける剃刀となり自傷行為を繰り返す責め句。
誰かから心配してほしいわけではない。自らの至らなさに嫌気が差す想いであった。
「先輩、それが分かるのは朱莉さんだけです」
自分を責めないでください。
松田は僕の膝をぽんぽんと優しく叩き、励ましてくれた。いつもは先輩いじりをして楽しんでいる悪戯っ子のような後輩の存在は無性にありがたかった。
「朱莉さんと一度ちゃんと話し合ってください。きっと朱莉さんもそれを望んでいるはずです」
「朱莉も……?」
「えぇ、きっと。朱莉さんなりに思うところがあって断ったはずです。でも逆に言えばそこを解決すればお二人はやり直せるはずです」
やり直せる。それ一条の光明となって暗黒に転じた精神を優しく照らすようでいて、なんとも残酷な響きに聞こえた。
「お二人がこのままお別れになるだなんて、私悲しいです。だから、踏ん張ってください」
松田は最後にそう鼓舞してからは何も言わなかった。
いや、無言なのは僕の方だった。僕はそこで何かを返さなければならなかったのに、礼も恨み節も出てこなかった。
やがて電車は二俣川駅に到着した。僕は松田に別れの挨拶をし、よろよろ立ち上がって下車した。
出発する電車を背に改札へと続くホームへの階段を登る。普段よりも長く感じ試練を与えられた旅人のような気持ちになった。
そしてようやく登り切り改札へつま先を向けた時、真正面から誰かの肩とぶつかって後ろに転んだ。その人は軽く詫びただけでそのまますれ違い、尻餅を着いて転んだ僕を放ったらかして行ってしまった。
頑張る、ではなく踏ん張るか。
億劫になりながらも立ち上がって改札を抜ける時、松田の言葉を思い出した。
「自分の足で歩くことさえ面倒なのに、踏ん張れないよ……」
全身に力が巡らず、思考はどんどん暗くなり、心には一切の勇気が湧いてこない。
生きるために必要な気力を得られない病にかかった僕は、今夜もまた幽鬼のごとく覚束ない足取りで帰路を歩んだ。
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