第4話 失恋症候群(1)

 かんぱーい!!


 居酒屋で十人分の歓声と共にグラスがぶつかり合う音が響いた。

 金曜日の一九時半。一週間心身共に疲れ果てたサラリーマン達で賑わう居酒屋で、僕は空元気と作り笑いを浮かべて仲間と共にテーブルを囲み、帰れば良かったと後悔しながら乾杯に加わった。


 ではなぜ、いつもは断る飲み会に今日は参加する気になったのかといえば、やはり寂しかったからだと言わざるを得ない。


 お昼に松田にバカにされたように今日はデートの予定などない。

 そもそももうデートをする相手もいない。

 今の僕の気分はただただ空虚で、惨めで、寂寥感の塊のようなものを腹の底に抱えているようなものだった。


 飲み会のどんちゃん騒ぎに参加して高揚感を味わえば少しはこの寂しさも晴れるだろうと思ったのだが、見当違いだった。

 今の僕は何をやっても心の底から笑える気がしない。そればかりか何かの拍子にプライベートなことを訊かれ、うまく誤魔化せなかったり、感情のコントロールが効かなくなってボロが出るのではないかと気が気でなかった。


 今日の飲み会のメンツは僕が所属するチームのメンバー七人と、飲み会の噂を聞きつけ乱入してきた総務部の三人で合計十人。


 チームメンバーの内、二人は後輩の松田直沙と同期社員の中洲省吾という。

 この二人とは朱莉を含め四人でスキー旅行にも行ったほどの深い交友関係がある。彼らがいれば楽しい飲み会になること間違いなしなのは幸いなのだが、うっかり朱莉の話になれば不幸のどん底。僕は内心焦りを抱きながら、どうか朱莉の話はしないで下さいと祈っていた。

 今の心境では朱莉の話題をのらりくらりとかわすことなど出来るはずがない。きっとその場で黙り込み、無言のまま泣き出してしまうことは確実だ。


 幸いにして現在は今年の目標が云々という話題が繰り広げられている。六月も終わりに近づきつつあるこの日に正月のようなテーマを話す理由は、つまり誰もが時間の早さを実感しているためであろう。


 社会人になって気付いた変化の一つに、とにかく時が過ぎるのが早いというものがある。

 毎日会社に出勤するというのは学校に通う高校生や大学生の頃と変わらないのだが、社会人になると常々時間に追われている。

 与えられた仕事には期限が設定され、時計とカレンダーを睨めっこして作業していると一日があっという間に過ぎてしまう。それが毎日続くのだから暦が過ぎるのもまたあっという間だ。光陰矢の如しとはまさにこのこと。


 そして多くの人は年末年始に今年の目標を設定したりするものだ。

 仕事で成果を上げるというこうの意欲もあれば、プライベートで何かに挑戦するというの願望もあるだろう。

 それが自発的なものなのか、あるいは誰かに迫られたものかは人それぞれだろうが、設定したからには達成したいと悲願を抱えるのが人間だが、生憎とここにいる面々は半年経った今も誇らしい成果を得ることは出来ていない。

 故に今年も半年が経ったこのタイミングで目標設定の話題を持ち出し、ビジョンの再確認をするというわけだ。


「今年こそはバイクの免許を取ろうと思うんですよ!」


 そして未だくすぶっている者の一人、松田はそう野望をブチ上げた。


「お前、新年会でも同じこと言ってたな。その様子だとまだスクールにも申し込んでないんじゃないか?」


 それに対し、すでに顔を赤くした中洲が意地悪そうな笑みを浮かべてつっこむ。


「いやぁ、お察しの通り教習所のリサーチさえしてないんですよねぇ。しかも教習費用はどこも二十万はするから、二の足踏んじゃいますよ」


 松田は苦笑しながら進捗報告をした。着手してさえいないから進捗もへったくれもないが。


「中洲さんの今年の目標はなんでしたっけ?」

「彼女を作る」

「ぶふーーっ! 大学生みたいで可愛いですね! まぁ、頑張ってください」

「うるせぇ!」


 先ほどまで松田のことを笑っていた中洲は、一転して笑われる立場になってしまった。


 中洲省吾の悩みは現在彼女がいないこと。現在というが高校二年生以来、恋人がいないらしい。

 颯爽とした短髪と顔立ち、高校球児だった頃の名残を残すスポーツマン然とした堅強そうな肉体は偉丈夫そのものでなかなかの色男だ。性格は至って真面目で社内での評判は良いものの、生憎と浮いた話はとんと聞かない。

 本人はなぜ自分に恋人が出来ないのか全く理由が分からないのだが、僕にははっきりと分かる。


 彼は良い人すぎるのだ。

 女性に対して優しく、下心なく紳士的に接しようとするあまりに空振りに終わっている感がある。

 頼まれごとをされれば胸をドンと叩いて引き受けるし、何か相談をされれば建設的なアドバイスをしようとする。

 そうした彼のアクションは確かに頼り甲斐があるものの、残念ながら女性からは良き同僚や話し相手、お友達で終わるのが精々だ。

 彼の努力は人としては素晴らしいのだが、女性を楽しませたりドキドキさせる要素は皆無だ。

 漫画やラノベの世界では真面目一辺倒の主人公がヒロインから想いを寄せられるものだが、現実はそうはいかない。少しくらいは下心を持ってちょっとした意地悪やジョークを織り交ぜて接しないことには恋に発展しないものだ。

 彼がその現実に気づくのは一体いつになることやら。


「僕は今年こそは結婚したいなぁ〜」


 と、聞かれてもいないのにそんな大願を述べたのは飲み会に飛び入り参加した総務部長の足立さんだ。御歳四十歳と部長の肩書きにしては若そうだが、平均年齢が低い我が社においては長老の部類に入る。そんな足立さんは未だ独り身で現在絶賛婚活中だそうだ。

 顔やスタイルは決して悪くないし、仕事もかなり出来る人なのだが同時に相当の趣味人との噂で、気付けば四十路になっていたという。本人曰くお付き合いした人は何人もいたし、チャンスもあったそうだがそのことごとくを自ら手放し、仕事と自分らしさを追い求めていたというのが本人の弁。その彼がなぜ今婚活に精を出し、結婚したいと思っているのかは謎だ。


「ギャハハ、まずはお相手を探すところから始めないとですよ!」


 無邪気に笑い飛ばすのは松田。直属の上司でないとはいえ、平社員の分際で部長をコケにするとは良い度胸だ。どうなっても知らないぞと思いながら僕は笑いを堪えていた。足立さんの部下の女性社員達は苦笑を浮かべている様子からして内心冷や汗をかいていることだろう。


「ははは、これは手厳しいね。確かに、お相手を見つけるところから始めないとね」


 足立さんは朗らかさを装い苦笑していた。


「この際だから聞くけど、みんなはどうなの? プライベートのパートナーは? 結婚願望があるなら、早いうちから動いていたほうが良いと思うよ、おじさんは」


 二杯目のジョッキを空にしつつある足立さんは興味津々な様子で面々に目配せをして探りを入れる。

 酒の席とはいえ幹部が社員の恋愛事情を詮索するのは今のご時世グレーゾーンな気がしないでもないが、このメンツに限っていえば問題無い。むしろ恋バナを自分からしたがる様なオープンな心を持った人が集まっているため、盛り上がりはさらに煽られた感さえある。


 煽られ、盛り上がりを見せる場面と分かっていたのだが、当然僕はドキリとして生唾を飲み下した。


「自分はまだまだ先ですよ」


 中洲はとほほと嘆きながら答えた。


「私はまだまだ余裕ですし」


 松田はといえば言葉通り余裕綽々な態度で一蹴する。松田は恋バナは大好きな様子だが、一方で彼女自身の恋愛事情は聞いたことがない。そして本人の余裕ぶりからして結婚はまだ先と予想される。


「私もまだ先かと」

「私は今の彼と結婚して良いのか検討中です〜」


 ついで総務部の淑女二人も困った様子で告白する。


「と言うことは、ゴールインが一番近いのは飛騨ってことかな」


 と、中洲はにかっと真夏の太陽のような笑みを浮かべて僕に水を向けた。


 あぁ、最悪だ。


「あ〜そうですよね。先輩は今年二六で結婚には早いような気がしますけど、朱莉さんは同い年だから丁度良い歳ですもんね。こりゃみんな、来年に向けてご祝儀準備した方が良いですよ!」


 松田もそれに乗っかる。そして悪気のない彼女の言葉にみんなが色めき立ち始めた。

 誰も直接は言葉に含ませず茶化したり嫉妬の言葉を向けつつも、早すぎる祝福の気持ちを送ってくれていることが分かった。


 みんなの心優しさに胸打たれた。

 だがそれは当然ながら感動するという意味ではなく、胸に五寸釘を散々に打たれるような、悲惨な思いだった。


 いやぁ、残念ながらプロポーズは失敗に終わってしかも破局したんですよ。だから僕も振り出しからスタート。結婚は当分先です。


 それが真実。そう伝えなければ嘘になる。


「け……結婚はまだ先だよ! プロポーズまだだし、ゼクシィだって家に持ってきたことなんだからさ」


 自覚しながらも僕は嘘を吐くことにした。検討中、でもなく昨晩のプロポーズを無かったことにする嘘。罪悪感など感じない。ただただ逃げることに必死になっていた。


 空虚な笑いでお茶を濁し、何か別の話題をと思案する。だが如何せん動揺したこの頭では無難なテーマが思いつかない。

 強引に話題を変えれば松田と中洲はすぐに気づくだろう。なんとか悟られないような滑らかな話題変更が出来ないものか。いや、誰かやってくれ! もう一巡したし。


 窮地に立たされるとなぜかさらに不運が見舞うものだ。テーマは各々の結婚から僕と朱莉の将来に変遷しており、いよいよ逃げ場がなくなった。


「ゼクシィだかギャラクシーだかなんて構うこったねぇ! 男らしく朱莉さんにずばっとプロポーズしちまいな!」


 そう男気に溢れるアドバイスをするのは中洲だ。すごく格好良いし頼もしいことこの上ない兄貴的な助言だが、君今彼女いないよね?


「中洲のアドバイスはあてにならんな」

「な、なにおう!?」


 僕が鼻で笑うと中洲は顔を真っ赤にし、歯軋りして悔しがった。


「中洲さんじゃありませんけど、私もスパッと結婚してくださいってストレートに言うのがベストな気がしますよ?」


 撃沈した中洲の屍を踏み越え、松田が追い縋る。お願いだからもうやめて!


「誕生日とかクリスマスとか特別な日だと逆にハードル上がるから、なんでもない日にいきなりプロポーズするでも良いと思います!」


 鼻息荒く力説する松田。


 松田さん。松田直沙さん。僕は昨日という平日の何でもない日にプロポーズして失敗したのです。


「なんでもない日、ですかい……」

「そうですよ! その方が二人の記念日が増えるから逆に嬉しいはずです、松田的には!」


 なるほど。図らずも僕は松田的成功パターンを実践してしまったために失敗したのか、こん畜生。


「ま、まぁ……検討します。ちょっとおトイレ」


 僕はそれ以上言葉を並べることが出来ず、苦笑を浮かべ逃げるようにトイレへと立った。話題の核を失ったお座敷は次なる話題を見つけ、ペラペラと花を咲かせ始めた。


「おい、飛騨」

「何?」


 お座敷を出る間際、中洲に呼び止められ振り返る。彼は眉を八の字にして心配そうな顔を浮かべていた。


「気分でも悪いのか?」

「うん、ちょっとね」


 気遣いに礼を述べ、僕はよろよろと一団から離れていった。

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