第3話 夢のなごり

「航太郎、起きて! 遅刻しちゃう!」


 朝、僕は肩を揺さぶられて意識を覚醒へと引きられた。


「むにゃむにゃ……うん、起きてる」


 のそりと上半身を起こし、声の主へと視線を送った。


「うん、おはよう。


 エプロン姿がとてもキュートな町村朱莉に僕は寝ぼけまなこながらも上機嫌に挨拶をした。朱莉もおはようと挨拶を返してくれ、テーブルに着くよう促す。そこにはサンドイッチが二人分皿に載せられており、朝食の準備が整っていた。


「早く食べましょう」


 朱莉に催促され、四角いローテブルの彼女の隣に座り、手を合わせていただきます。


「うん、美味しい」


 朱莉はサンドイッチにかぶりつき、自らの腕前を率直にそう称賛した。


 黒髪のロングヘアー、前髪から覗く少し吊り目がちな双眸、クールな感じなのに笑うとすごく可愛い口とほっぺた。


 五年間見つめ続けてきた最愛の女性。僕は絵を描くのは苦手だけど、彼女の似顔絵を記憶を頼りに描けと言われればお茶の子さいさいだと胸を張れるくらい記憶に焼きついた朱莉の顔。

 でもその表情を見て、なぜか違和感を覚えるのだった。


 なんだか今日の朱莉はいつもより子供っぽく見えるのだ。


「航太郎! 何ぼんやりしてるの?」


 口をぽかんと開けて自らの顔を穴が空くほど見つめる僕を彼女は赤くなりながらも叱った。


「早く食べて出発しないと遅れちゃうよ、


 講義。あぁ、そうだね。早く食べて大学に行かないと、一限目の講義に間に合わないね。


 僕はそう言ってサンドイッチにかぶりついた。パンにマヨネーズを塗って、キャベツと生ハムを挟んだだけの簡単な料理だが、老舗パン屋のカツサンドなんかより全然美味しく感じられる。


 その最高に美味しいサンドイッチの味を噛み締めながら、どうかこの夢が醒めないで下さいと願っていた。


 *


 はっと目覚めた時、僕はタオルケットを噛み締めていた。


 朱莉の美味しいサンドイッチだと思っていたものは、僕の汗と涙とよだれが染み込んだ布切れだったというわけだ。ゲボが出そう。


 瞼を閉じ、夢の名残なごりを確かめる。


 多分あれは大学生の頃の記憶で構成された夢だ。朱莉と付き合い始めてしばらく時が経ち、随分と打ち解け合った頃だろう。

 三年生になると就職活動が忙しくなり、会える時間が少なくなった。その埋め合わせのように僕達はどちらかの家に毎週泊まる半同棲生活になっていた。

 当時は忙しく、将来への不安からギクシャクしたこともあったけど、今思うと大事な思い出の一ページと言えるくらい温かな記憶であった。


 時計を見やると、示す時刻は午前六時。平時の起床時刻は八時なので随分な早起きだ。いつもならここで二度寝をするところだがそんな気分ではなかった。


 幸せな夢から一転して現実に引き戻されたおかげで頭が混乱し、眠気が吹き飛んだ。おまけに身体のあちこちが痛み、動く度に意識がどんどん覚醒していく。とてもじゃないが二度寝出来る気がしなかった。


 仕方なし。無理に眠ることはない。とりあえず水でも飲んでテレビを見ようか。そう思ってベッドから立ち上がった時だ。


「痛っ!」


 背や擦りむいた腕ではなく、右の足の裏、かかとに鋭い痛みが走った。思わずベッドに腰掛け、足を上げて痛みの原因を探ると白っぽい小さな粒が踵にめり込んでいた。皮膚を突き破って血が出るということはないが、材質が硬く、形状は鋭いおかげで強い痛みを感じたのだ。


 痛みの原因の物体はプラスチック片だった。そしてその正体は足元に落ちていたフォトフレームを見て、すぐそれの欠片なのだと理解できた。フォトフレームを手に取って拾うと角が確かに欠けている。昨晩眠っている間に落っことしたらしい。その拍子に欠けてしまったのだろう。


「朱莉……本当にさようならなの?」


 写真の中で笑う朱莉は何も言ってくれない。代わりに輝かしい思い出が刃となって僕の心を切り裂くだけだった。


 ため息と共にテーブルにフォトフレームを伏せて置き、着替えを済ませてスマホで調べ物をする。

 調べるのは近所の整形外科。身体の打身はともかく、頭も強く打ったので念の為そこを調べてもらおうというわけだ。


 頭の怪我には怖いイメージがある。今はなんともないが実は脳に深刻なダメージを負ってしまい、時限爆弾のように突然死するというのは時々聞く話だ。

 あまりネガティブに捉えたくないが、でも身体を気遣うことで朱莉のことを考えずに済んだので結果オーライだ。


 ひとまず駅近の整形外科にオープンと同時に行くことに決めた僕はスマホを放り出し、伸びをしながら洗面所へ足を運んだ。

 指先とつま先を見えない腕に引っ張ってもらうように背筋を伸ばすと一気に意識がクリアになり、ようやく覚醒したと実感した。

 だがこの瞬間だけは覚醒感だけでなく、全身――主に背面の打撲箇所が痛み、昨夜の間抜けな自分への恨みを抱いた。なんであんな転け方をするのかなぁ、と呆れ混じりに記憶を遡り、ふとある女性の顔が浮かび上がる。


「小夜子ちゃん……」


 身体に湿布を貼ってくれたかつての恋人、冬木小夜子。


 今更ながら信じられない思いでいっぱいだ。というかこんな偶然があるのだろうか?


 五年間付き合った今カノにプロポーズした挙句振られ、しかしその一時間ほど後に初めて付き合った女性と再会。そして酒盛りし、過ぎ去りし日々に思いを馳せて語り合う。


 出来過ぎたくらいの偶然は、自身の記憶に猜疑心を抱くには十分であった。

 あれは僕が朱莉に振られてしまったショックで見た妄想ではないか。

 いや、そもそも朱莉に振られたなどという悲劇も夢であり、小夜子ちゃんは今もどこかで元気に暮らしているのではないか。


 そうと考えると少し寂しい気もする。小夜子ちゃんはすっかり綺麗な大人の女性になって、僕に笑顔を見せてくれた。そして過去の男性の中で一番であったとまで評価してくれた。それも全て夢の出来事で、無かったことだと思うと虚しさを覚える。


 だが考えようによってはそれが最善の結末とも思えた。

 小夜子ちゃんはここには現れなかったし、僕の手当てもしなかった。さらに僕は階段から転げ落ちることもなければ、当然ながら朱莉に振られたというのもまた事実でなくなる。つまりは全て悪い夢オチでした、ちゃんちゃん。という具合に安堵することができるはずだ。


 しかし振り返れってリビングを見やれば、昨晩の痕跡はしっかりと残っている。ローテーブルの上に転がる凹んだビールと焼き鳥の空き缶と二膳の箸、そして見慣れぬ木製の救急箱。これらは昨晩の出来事が全て事実であることを物語る証拠に他ならない。


 僕の心と身体の痛みは現実であり、そして彼女が僕の前に現れたのもまた現実。


 僕と朱莉の五年間の恋が終わったことは事実であり、小夜子ちゃんを素っ気無く追い出してしまったこともまた事実なのだ。


 *


 急遽午前休を取る連絡を会社に入れ、整形外科で診察をしてもらった。CTで頭の撮影をしたところ、全く問題ないとの診断が降った。良かったと胸を撫で下ろす一方、このまま死んでも良いのになと希死観念を抱いてしまった。


 診察室を出る間際、お医者さんが


「湿布の処方箋を出しておきますね。貼りづらいと思うので彼女さんにでも貼ってもらいなさい。お大事に」


 と冗談混じりに言った時は本気で腹が立った。そのおかげと言うべきか、死んでも良いなどとネガティブな感情はすぐに引っ込んでしまった。


 調剤薬局で湿布を貰った後、会社の最寄駅の横浜駅まで向かい、駅構内のカフェでランチがてらに時間を潰して一四時きっかりに会社へ出勤した。


「おはようございま〜す」


 昼過ぎに出てきて朝の挨拶をするのは奇妙なことだが、なぜか「こんにちは」とは言えない。昼でも夜でも出勤したらおはようございますなのは日本社会の不思議だ。

 対して、カフェ風インテリアのモダンオフィスで働く同僚たちも条件反射的におはようと返してくれるので違和感を感じることもない。これもまた不思議。


「おはようございます、先輩。病院に行ったそうですけど大丈夫ですか?」


 席に着くと隣の席の女性社員――松田直沙なおさが挨拶ついでにそう気遣ってくれた。

 勤務先企業――『ハーバーソフト』ではチャットツールが導入されており、休暇の連絡も基本的には全員が閲覧可能なこのチャットツールで行うことになっている。僕も午前休の連絡はこのツールで診察のためと理由を添えて報告したため、松田も知っているというわけだ。


「ありがとう。大丈夫だよ。昨日階段で転んで身体を打ったから、それを見てもらったんだ」

「そうだったんですね。痛みます?」


 松田は口元に手を当て、本当に心配そうに気遣ってくれた。良い後輩だ。


「うん、あちこち。背中と腰と、あと頭と」

「頭打ったんですね。頭大丈夫ですか?」

「CTを取ったところ、異常はないとさ」

「へぇ〜、元々先輩の頭は異常なのに? その医者ヤブじゃありません?」

「……お前の神経もいっぺん診てもらえ」


 前言撤回。悪い後輩だ。そして太過ぎてそのまま入院してろ。


 クリッとした瞳に子供のような丸顔で無邪気に笑う松田の挑発にこのあまと内心毒づきながらも、その実怒りは湧いてこない。


 松田とは学生時代に知り合ったため、彼女ともかれこれ五年の間柄になる。といっても知り合ったのはキャンパスではなくこの会社で共々インターンとして働いたことがきっかけだ。そもそも通っていた大学は別々なのだ。


 僕は大学二年生の頃、就職活動のための学ちかエピソード(学生の頃に力を入れた活動のエピソード)を作るためにこのハーバーソフトに長期インターン生として迎えられた。

 そして一歳年下の松田も一年遅れでインターン生としてやってきた。

 一年遅れでインターンとしてやってきた当時は慇懃に接してくれていたのだが、僕に対してはいつの間にか無礼が追加されていた。他の社員に対しては人懐っこいキャラなのだが、僕ともう一人の同僚の中洲なかすには毒が強い。学生ノリが残っていてナメられているような気がして癪だったが、今ではすっかり慣れてしまった。


「それはそうと先輩、今日終業後に飲みに行こうって話してたんですけど、一緒に行きません?」


 PCにログインし、起動を待つ僕に松田はそんな誘いを寄越してきた。


「君ね、出社したばかりの人をもう飲みの誘いかい?」


 呆れながらそう皮肉を言う。


「硬いこと言わず。酒を楽しみに遅刻した分を取り返せばチャラですよ!」

「ふむ。一理ある。じゃあ、行こうかな」

「先輩、そこをなんとか! 是非先輩も参加して下さい」

「いや、だから行くって」

「え……」


 先ほどまで拝んでお願いしていた松田は一転、目を点にして僕を見つめていた。


「えぇ!? 先輩が二つ返事で参加なんて珍しい! 雪でも降るんじゃありません!?」

「降ってたまるか」


 そんなに驚かれるとは心外だ。

 確かに僕は時間外勤務もしなければ飲み会も断りがちだ。忘年会などの席は参加するものの、突然のお誘いに乗ることは少ない。


「先輩、本当に良いんですか? 無理して参加することありませんよ?」

「誘った本人が言うセリフじゃないぞ」

「金曜日ですけど、デートのご予定は無いんですか?」

「無い無い」

「あ、朱莉さん忙しいからキャンセルされちゃったり?」

「もともと無いの」

「もしかしてとうとう振られちゃったとか?」


 こいつは本当にお喋りだな。余計な詮索をペラペラと。そして容赦なく傷に塩を塗りたくってくる。


「ふ、振られてたまるか。さっさと仕事しないと、残業する羽目になるぞ」


 対する僕はひたすら見栄を張ることでしか心を守ることが出来なかった。

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