第1章 三叉路

第1話 傷だらけ

「どちら様ですか!?」


 ベッドの脇に尻餅着いたまま、僕は目を白黒させて部屋の戸口に立つ女性に尋ねた。見覚えがあるものの、名前を思い出せない。うぅむ、確か彼女は……


「冬木です。隣の部屋に越してきた冬木と申します」


 そうお隣さんだ。お隣に越してきた冬木さんは狼狽する僕の様子に少し戸惑ったような顔をしてそう自己紹介してくれた。


 冬木さん。彼女は先月あたりに引っ越してきて新たな隣人だそうだ。

 今時分は物騒なので、一人暮らしを始める女性は引っ越しの挨拶をしないよう不動産屋さんから勧められるという。おかげで何となく引っ越してきたことだけを察知し、交流もなく廊下ですれ違った時に挨拶をした程度の仲だ。


 その程度の間柄に過ぎない女性が、なぜか僕の部屋に勝手に入っている。これ如何に。


「あの、念のために断りますが、私がこの部屋に入ったのはあなたを救護するためですよ?」


 冬木さんの弁明。どうやら訝しむ様子が顔に出ていたらしい。


 それから冬木さんは簡単に経緯を話してくれた。

 僕が階段からすってんころりんと落下すると彼女はすぐに助けに駆け寄ったという。その時、僕は朦朧もうろうとした様子であったが意識はかろうじてあったらしく、肩を貸してもらいながら部屋まで帰り着いた。だがその直後ベッドに倒れるように横たわり、そのまま眠りについたとか。呼吸は落ち着いていたため大事ないと判断したようだが、念の為少し休ませてから起こし、怪我の具合を確かめようと思っていたらしい。それがかれこれ二十分ほど前のこと。さほど時間は経っていないようだった。


「そうだったんですね。ご迷惑をおかけしました。お気遣いありがとうございます! 自己紹介が遅れましたが、飛騨ひだ航太郎こうたろうと申します」


 真正面に正座し、事情を話してくれた冬木さん。僕は正座し、改めて彼女に向き直ると頭を下げてお礼を言った。


「航太郎……やっぱりそうなんだ……」


 その僕を見て、ぽつりと冬木さんは呟いた。霧雨のような小さな声は淑やかさを感じさせたが、その心中を伝えるには弱すぎた。


「いたた……」


 一方の僕の方はというと、お辞儀をした拍子に背中がズキっと痛んだ。背中だけでなく、腰や肩、頭のてっぺんの少し後ろあたりもズキズキ痛む。階段から落ちた時にぶつけたらしい。ついでに左腕は擦りむいててヒリヒリする。


「まぁ、大変。忘れるところだった。さぁ、飛騨さん、シャツを脱いでください」

「へ?」


 その要請に僕はまた目を点にして言葉を失う。

 シャツを脱ぐ? つまり裸になれと?

 なぜそんなことを言うのだ、この女性は?


「手当てしますね!」


 そう明るく宣言する彼女はローテーブルの上に置いてあった見慣れない物体に手を伸ばした。

 緑の十字マークが意匠された、茶色い木箱。どこからどうみても救急箱だ。こんなものは我が家にはないので間違いなく冬木さんの私物だ。わざわざ自室から持ってきてくれたのだろうか。優しいな。


「打ち身に湿布を貼って、腕の傷は消毒をしておきましょうね。血はあまり出てないようだから、ガーゼと包帯はしないでおきますね」


 冬木さんは救急箱から市販品の湿布と消毒液、脱脂綿を取り出しテキパキと手当ての準備をしていく。

 大したことないので結構ですと断ろうかと思ったが、使命感のようなものを目に宿らせた彼女を見ていると断るに断れず、言われた通りにTシャツをスポンと脱いだ。


 まず脱脂綿にイソジンを染み込ませ、腕の傷に満遍なく塗ってくれた。


「いてて……みる……」

「我慢してくださいね。男の子でしょう?」


 などとベタなやりとりをしつつ傷の手当てをしてもらった次は、背中を向けて湿布を貼ってもらう。

 痛む場所はどこかと最初に冬木さんが指で触れ、そこに湿布を貼っていく。彼女の指はひんやりしていて、湿布はもっと冷たい。


「頭を打ったんですよね? 頭は大丈夫ですか?」

「あはは、元々バカなんで大丈夫ですよ。なんつって」


 背後を取られた上、つむじより少し後ろあたりを覗かれたために恥ずかし紛れにそんな冗談を言ってみる。


「そんなこと言ってられるなら心配ありませんね」


 冬木さんも呆れ混じりに笑ったところで手当ては完了。片付けをする冬木さんに向き直り、改めてお礼を言った。


「助けてもらった上に手当てまでしてもらって、なんだか申し訳ないです」


 深々と頭を下げる僕をクスリと笑い、冬木さんは


「いいのよ、航ちゃん」


 そう優しい声音で呟いた。


 僕はそう呼ばれてギョッとした。

 航太郎だから航ちゃん。

 昔からその愛称で呼ばれたことは数え切れないほどある。だが大人になった今でも口にするのは母と祖母を始めとした身内くらいのものだ。ましてや初対面の女性に呼ばれる覚えはない。


 だが、ふと親類以外でそう呼んでくれていた女の子がいたなと想起した。そして冬木という耳馴染みのあるはずの名に、どうしてあの顔を結びつけられなかったのだろうか。


「私のこと、もしかして忘れちゃった?」

「……忘れてないよ。随分変わったから分からなかっただけだ」


 彼女の容姿を見て、驚きとともに懐かしさを感じた。


 黒いロングヘアーに赤い縁の野暮ったいメガネ、化粧気のない幼い顔立ち。当時のセーラー服姿の少女が僕の網膜に投影され、今目の前にいる別人になった女性と重なっていく。


 暗い茶髪に染めたセミショート、眼鏡のないスッキリした顔にとろんと目尻の垂れた愛嬌のある双眸。化粧をしていないのは相変わらずだが、きっとオフだからという理由のすっぴん。


 ちゃんと顔を見るのは初めてなはずのこの女性は、かつて僕が好きだった少女だった人。


小夜子さよこちゃん、なんだよね?」

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