初恋の日に、戻れたら
紅ワイン🍷
プロローグ
「ごめんなさい。あなたとは結婚出来ないわ」
六月の、久々に晴れた木曜日の夜。
僕は大学生の頃からおよそ五年間付き合っていた彼女にプロポーズしたが、あっさり振られた。
なぜと訊いたが答えてくれなかった。
投げかけられたのは「さようなら」という淡白な別れの挨拶。
追いかけて、縋り付いて、もう一度「お願いします」と懇願したかった。だが足に根っこが生えたみたいに僕は立ち尽くし、だんだん小さくなっていく彼女の背中を見つめることしか出来なかった。
その後しばらく棒立ちになり、通行人から邪魔者扱いされていた僕はとぼとぼ歩き出した。
どこに行こうかなど考えもせず、真っ直ぐ慣れた道を歩き、自宅へと向かった。
しかして目的は睡眠を取るなどという当たり前なものではない。
死にたい。
頭の中は自殺の方法ばかりがぐるぐる巡り、それ以外のことは全く考えられなかった。
家にロープはないから首吊りは無理だ。包丁があるから頸動脈を切ろう。でも頸動脈って首の右と左どちらにあるのだろう? まぁ、手首を切ればいいか。
電車を降りてはたと気づく。
あ、線路に飛び込めば良かったな。
時すでに遅しだが、こんな時ばかりポジティブに「まぁいいか、家で死ねば」と思い直し、またとぼとぼと歩いた。
程なくして自宅アパートに到着し、二階角部屋の自室を目指す。
階段を一段一段登る様子はまるで死刑台に上がる死刑囚のように見えたのではなかろうか。
この時の僕はそれくらい絶望していた。
もう生きる意味はない。
明るい未来など全く想像出来ず、明日何を食べようか、明後日何をしようか、来週恋人とどこへ遊びに行こうかなど、生きていれば連続的に湧いていた、望みらしい望みが湧いてこなかった。
望みが絶たれる。それ即ち絶望。
だが神はまだ、死ぬのは早いと思ったのだろうか。
階段を登りきり、いよいよ死刑台に上がったという時だった。
「きゃあ!?」
「えっ?」
階段と廊下の角を曲がる時、聞き馴染みのない女性の声――否、小さな悲鳴が上がる。
あまりにも突然のことに虚をつかれ、項垂れて歩いていた僕は反射的に首を上げて声の主を見遣る。だがその拍子に足元がぐらついた。廊下と階段は今日未明まで降り続いていた雨のおかげで濡れており、僕は体勢を立て直すことができず、そればかりか後頭部を引っ張られるようにすっ転んだ。
これが廊下なら尻餅ついてあぁ痛い、で済むだろう。だが生憎と僕の真後ろは階段だ。僕は、階段を真っ逆さまに落ちていく。
あぁ、これで自殺する手間が省けた。
そう思っているにも関わらず、咄嗟に右手が真正面に突き出され、何かを掴もうとする。未練がましく命綱でも手繰りたかったのかもしれないが、虚しく
すうっと身体が踊り場に吸い寄せられる間、僕を振った彼女の顔が浮かんできた。走馬灯だ。
大学で仲良くなったばかりで友達だった頃の親しみを感じた顔、初めてデートした時のぎこちない笑顔、付き合い始めて緊張の解れた笑顔、喧嘩したときの膨れっ面と泣き顔。
色彩豊かな仮面をつけた死神が僕をお迎えに来てくれた。
だが最後に見たのは元恋人の顔ではなく、別な女性だった。
曲がり角から飛び出してきたあの女性は確か、少し前に引っ越してきたお隣さんではなかろうか。
お隣さんは僕の右手に向かって手を伸ばし、必死にこの世に引き戻そうとしてくれていた。
*
「痛ーい!!」
ずこっ、と落下の衝撃と共に目が覚めた。
肩から落ちた衝撃が頭を突き抜け、状況を把握させようと無意識のうちにフル稼働する。
ここは僕の部屋。
見慣れた家電、家具、机にノートPC。
「なんだ、夢か……」
昨晩、階段から落っこちたような気がする。そしてそのまま死んだ記憶がある。
死んだ記憶があるとは奇妙な言い回しだが、僕は確かに昨晩死んだはずなので覚えているものは仕方がない。
だが現実は違う。
布団に包まれていたやけに高い体温と肩の痛みがはっきりと、これが現実であり、お前はまだ生きているぞと言っていた。僕の死は夢であり、まだ生きているのが現実。
「はぁ……夢じゃ仕方がない」
待てよ、と思う。
あれが夢なら僕が振られたのも悪い夢?
むむむ、と考えてみるが、妙にリアルだ。
「うっ……痛い。なんだろう……?」
記憶を掘り起こしていたのだが、背中や腰に鈍い痛みが走った。切られたような痛みではなく、どちらかといえば何かがぶつかったための疼痛と感じられた。それに気付かなかったが左腕の外側がひどく
なんだ、この痛みと傷は。
「あ、あの……大丈夫?」
おずおずとした優しい声が、廊下の聞こえてくる。1Kアパートのこの部屋はリビングルームと水回りの他にはキッチンと玄関しかない。そのキッチンとリビングを隔てる扉の側に人がいる。
立っていたのは女性。先日引っ越してきたお隣さん。
あるいは、首に括られていた縄を断ち切った救いの女神様。
その人が、青春の思い出を飾ってくれた少女の面影を残す女性であることにはすぐには気付けなかった。
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