第52話 遊女の涙 その2
みんなは、卑小な自分が、時として大きな流れに揺蕩う木の葉にしか過ぎないと感じた事はないだろうか?
この二日程の俺が、まさにそれであった。
その日俺は、ニュクスの宴亭の寮でのんびりと過ごしていた。ハズだった。
ここアラン連合王国は、
俺はカモ柄のTシャツに、OD色で七分丈のアウトドアパンツにアウトドアサンダルと、リラックスした服装でソファーでダラけていた。
ウチの嫁達アンド・エリーゼが、さっきから何かキャッキャウフフしている。なにをしてるかと言うと、明日に迫ったエリーゼの身請け道中のドレス選びだった。ベルちゃんが日本のウェディングドレスのネットデータを3Dデータに変換して、空中に投影して見せている。
しかし、ここに至るまでに、俺は陸上自衛隊自衛官の正装である常装冬服、そうこの暑さにも関わらず冬服!、を着る事を何度も何度も要求され、マネキンよろしく彼女達が満足するまで直立させられたのだった!儀仗兵か!
ここで彼女たちに一言逆らおうものなら、嫁達の機嫌が台風の様に急速に悪化する事を、俺は身を以て学んださ・・・。
俺は黙ってマネキンに徹したよ。
サーシャとエリクシアも同じく陸上自衛隊の女性自衛官用常装冬服を着て、俺と一緒に並んだりして何かを確認していたが、どうやらスカートの形が気に入らないとベルちゃんと一緒になってアーダコーダしていたよ。
俺は彼女達の賑やかな声を聞きながら、柔らかいソファーでシロをお腹の上に乗せて昼寝を楽しんだ。モフモフモフモフ・・・。
◇◇◇◇◇
そして、エリーゼの身請け道中当日となった・・・。
俺は昨晩、異世界転生モノの定番である化粧水をア〇ゾンで購入して、嫁達に出してあげたのが失敗だった。俺はあの時の自分をぶん殴ってやりたいよ!
化粧品なんて、知識も何もない俺は、ただただベルちゃんの言われるまま、命ずるままに商品をカートに入れる機械と化していた・・・。
手当たり次第に目につく化粧品をカートに入れさせられて、俺の功績ポイントがゴリゴリ削れて行った。
昨晩は遅くまで、ベルちゃん監修でメークアップの訓練に励んでいたよ。レンジャー養成訓練より厳しそうだった・・・。
そして当日の午後遅く、俺達はニュクスの宴亭の用意した馬車に乗って歓楽街に移動した。エリーゼがセレナにも一目見せてあげたい、と彼女も一緒に連れてきた。
セレナはあの後みるみる病状が良くなり、今では食事も普通のお粥が食べられるまでに回復していた。
俺達は、歓楽街唯一の入り口である南門の脇にある待合茶屋で馬車を降りた。
茶屋と言っても大きな館で、歓楽街の中見世や大見世で遊ぶ客が、馴染みの娼妓と待ち合わせる為の館で、娼妓が来るまで酒と料理を楽しむ所らしい。
大見世の客には、奥に個室が用意されている。
俺達はその個室に案内された。嫁達と俺は別の個室に通され、それぞれ化粧をして衣装に着替えて用意を整えた。
俺は通された一室で常装冬服に着替えた。そしてソファーに腰を下ろし、自分で紅茶を入れて窓から街の通りを見下ろして眺めた。
まだ空も明るいうちから、色町には灯りが灯され始めた。
するとカテリナ婆さんが、レースがふんだんに使われた白いシャツに黒い上着を着て、芥子色のスカート姿で部屋に入って来た。頭には白くて腰まで長く垂らしたレースを付けている。
「南門の水路の向こうに、柳の木が一本生えていたのをご覧になられたかい?皆が『見返り柳』と呼ぶ柳の木だよ。
この廓で遊んだ客が翌朝家に帰る際、皆があの柳の木の元で廓を振り返り、一夜の夢を偲ぶからその名が付いたと言われているよ。
まあ、世間では『親不孝柳』などとも呼ばれておるがね。はっはっはっ!
息子が『見返り柳』で振り返らなくなったら、立派な親不孝者の出来上がりだそうだよ!ふっふぅふっ!」
初めて婆さんの笑い声を聞いたよ。メチャ恐いんだが・・・。
「『ワタリ』の子が初めてこの廓に連れられて来た際、皆必ずあの柳の木の元に立ち止まって、連れてきた女衒にこう言われるるのさ。『ここより先は地獄の一丁目。この世の全ての苦悩がここにある。だが、年季を無事に勤め上げこの柳に立った時、お前はこの地獄に全てを捨て去り、新しく生まれ変わる事が出来る。この柳は地獄から浮かび上がれなかった女も見てきたし、新しく生まれ変わって出て行った女もまた見てきた』とね。」
婆さんが遠い目をしてそう語った。すると廓中から一斉にリュートの音が鳴りだし同じ曲を奏でた。単調な音色だったが、歓楽街にはふさわしくないどこか悲し気な曲に俺には聞こえた。
「始まりの唄が奏でられたね。
この国の法で歓楽街は午後六時から十二時までの営業と定められておるが、この始まりの唄はその営業開始を告げる時告げの曲なんだよ。でも今はまだ午後の五時。そして終わりの時告げは午前一時さね。時間通りに営業しては商売にならないので、こうして一時間早く商売を始めて一時間遅く商売を終えるんだよ。その分、国にはたっぷりと鼻薬を効かせているからね。
『色町は、時告げ鳥まで嘘を鳴く』と堅気の衆は上手い事を言うもんさね。
さっ、時間だ。
アネモネ一世一代の大見栄を始めるよ!」
―・―・―・―
待合茶屋前にはたくさんの男衆と芸妓たちが並んでいた。
そして、それ以上の観衆が既に通りには溢れていた。
男衆も芸妓たちも皆カテリナ婆さんの衣装と似た服を着ており、男衆は黒いパンツにブーツを履いている。
先頭は年配の男衆三人。歌うように口上を述べた後、手にした横笛を口に当てて、ゆったりとした曲を奏で始めた。
横笛を吹いている年配の男衆がゆったりと歩き始めると、それに続いて若い芸妓が五人、男衆の笛に合わせてリュートを奏でながら行進する。
そしてその後ろには三人の男衆が黒竜ヴァリトラの鱗を紐で背に担いで進みだした。
黒竜ヴァリトラの鱗を見た見物人達の間からどよめきの声が上がる。皆これが上臈アネモネの身請け代である事を、廓の噂で知っているようだ。
五人の芸妓に続いて、ニュクスの宴亭が抱える中臈四人が、それぞれ長いドレスの裾を持つえんじ色のドレスを纏った
中臈に続いてまた男衆と芸妓が曲を奏でながら行進した。
そして、次に続いたのが、ニュクスの宴亭が誇る二人の上臈。上臈はそれは煌びやかで宝石のちりばめられたドレスを纏い、豪華な髪飾りを揺らしていた。上臈には朱塗りの傘をさす屈強な男が付いており、白いドレスで上臈の裾を持つ禿もそれぞれ四人付いていた。
続いて、また男衆と芸妓が楽曲を奏で行進に続く。
その後ろには他の男衆と同じ衣装だが、立派なマントを羽織った亭主のホルトスが、十人の年配の男衆を引き連れて行進した。皆風格がある。
そして、次がエリーゼの番だった。
エリーゼは美しく結い上げた蒲色の髪に鼈甲の櫛を二枚だけ刺している。これまでも彼女を美しいと思っていたが、ベルちゃんマジックで化粧したエリーゼは、どこか神々しい慈母の美しさがあった。
ドレスは肩を大きく露出した深紅のマーメードドレスで、エリーゼの白い肌を際立たせている。
観衆は初めて見る意匠のドレスに皆どよめきの声を上げ、エリーゼに歓声を送っている。
二人の禿が籠から花びらを撒きながらエリーゼを先導する。
エリーゼは胸をはり、顎を上げて、堂々と道の真ん中を進んでいく。これが『張』ってやつか!
エリーゼにも朱傘をさす男衆が付いているが、エリーゼを際立たせるために、エリーゼのドレスの裾を持つ四人の禿の後ろに控えている。
そしてやっと俺の番。
自衛隊の正装に身を包み、これも女性自衛官の正装に身を包んだサーシャとエリクシアを従えて行進した。
サーシャとエリクシアは常装冬服のスカートをタイトスカートにお治ししたのね。
二人ともよく似合っているよ。惚れ直したよ!
そして俺達の後ろには、カテリナ婆さんがこれも十人の男衆を引き連れて行進する。
婆さんが引き連れた男衆は、それぞれエリーゼの嫁入り道具を持っていた。分厚い真綿の絹布団や、精巧な作りの針箱だったり、豪華な絹織物など多くの品が廓の目抜き通りに集まった観衆に披露された。
そして、この身請け道中の最後尾は笛とリュートを奏でる、男衆と芸妓が続いた。
この広い色町の真ん中を通る目抜き通りの左右には、娼館が立ち並んでおり、娼館の入り口には娼館の主がそれぞれ男衆を率いて並び、俺が通ると皆お辞儀をして俺に敬意を表してくれた。
そして、娼館の広い格子越しには、美しく着飾った娼妓がずらりと並んでおり、その前をエリーゼが通りかかると、娼妓達が皆一斉に胸を張り、左手を腰に当て、右手を下ろして手のひらをエリーゼに向けて見せた。
初めて目にする仕草であったが、娼妓たちの態度にはエリーゼに対する敬意に溢れ、娼妓達は皆誇らしげな顔をエリーゼに向けていた。
この町の娼妓達は皆、自分たちの仲間が莫大な金額で身請けされ、この遊郭から巣立っていくことが分かっているんだな。
エリーゼにもその気持ちが伝わっている為か、瞳に涙をたたえているが、決して涙は流さず、一層凛とした態度で一世一代の『張』を廓中に披露し、進んで行った。
エリーゼの身請け道中は廓の中を一周して、最後にニュクスの宴亭にたどり着いた。
俺とエリーゼはこの大見世一番の広間に案内された。
すると身請け道中に参加した者が全員、上臈から芸妓、男衆から禿、更には見世の料理人にいたるまで祝儀の包まれた紙包を手に入室して来て、俺には礼とエリーゼには祝福を述べて出て行った。
そして最後に亭主のホルトスとおかみのカテリナが挨拶をしてから、出て行った。
カテリナは最後に「おしげりなさんせ」と告げてから、ドアを閉じた。
俺とエリーゼと禿が二人この豪華な一室に残された。
禿達は部屋の灯りを落としてゆき、俺とエリーゼが座っている豪華なソファーの周りの四つの灯りを除いて全ての灯りが落された。
だが、ランタンの淡い灯りの絶妙な加減によって、深紅のドレスを纏ったエリーゼの肌が美しく浮かび出される。エリーゼは言葉では言い表せない程色っぽくて美しかった。
エリーゼからは、何の香りかは分からないが、本能をやさしく刺激する様な甘い香りが漂ってくる。
灯りを消した禿が俺とエリーゼに盃を手渡し、葡萄の美酒を注いでくれた。
「
エリーゼが艶のある声で語りかけてきた。
「本来であれば、
ですから、私は先日エリクシア様とサーシャ様にお許しを請いました。今晩一晩だけは、遊女の『アネモネ』に主様のお情けを頂戴するお許しを。」
そう言ってエリーゼが俺の胸に手を当て、潤んだ瞳で俺を見つめた。
「素晴らしい奥様方ですね。お二方はしがない遊女に過ぎない私に黙って頭をお下げになり、一言『お頼みします』と仰いました。」
エリーゼはそう言うと少し身を離して、どこか悲し気な色を瞳に映しながら続けた。
「トーマ様。いえ、主様。どうか今宵は遊び女の『アネモネ』をお抱きを下さいませ。
この色町二百余年の歴史で培われて、磨き上げられてきた遊女の技をご堪能くださいませ。
これは
エリーゼはそう言うと、盃の葡萄酒を口に含み、俺に口移しで飲ませてくれた。
そして二人はお互いを激しく求めあい、深い快楽に溺れていった。
エリーゼの頬を涙が一筋流れていった。俺にはそれが悲しみの涙なのか、喜びの涙なのか、尋ねる勇気はなかった・・・。
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