第89話



 「――雄二、いる訳ないのにね」


 部屋の中に入ると、誰もいなかったことを示すように静寂が広がっていて、何処かひんやりとした寒さが灯乃の身体を冷やした。

 雄二には仁内ほどの散らかし癖はないが、使用人による清掃が入った後なのだろう、最初から雄二はいなかったかのように、綺麗に片付けられていた。


 「あ……」


 そんな時、ふと机の隅にハサミが置いてあるのを見つける。

 ハサミ――そういえば、女子生徒たちに絡まれているところを雄二は助けてくれたっけ。

 そんなことを思い出しながら、何気なくそれを手に取る。

 

 ――雄二はもう、私を助けてくれないのだろうか?


 そんな考えが頭をよぎると、灯乃は何故かその鋭い刃を自身に向けたくなった。

 今傷を負えば、駆け戻ってきてくれるだろうか?

 そんな安易な考えに灯乃は動かされ、刃先を腕に向けると、傷を作ろうとそれを振りかざした。

 が、それはすぐに止められる。


 「何をしている?」

 「斗真……」


 斗真に腕を掴まれ、灯乃はポツリと呟く。


 「私が怪我をすれば、命令で雄二が帰ってくるかもって思って」

 「朱飛だって馬鹿じゃない、それを阻止する為に欠片を雄二に握らせているだろう。お前が無駄に傷つくだけだ、やめろ」

 「……」


 灯乃の腕から力が抜け、斗真はそっと離すと、それはだらんと垂れ落ちた。


 「ごめん、斗真。私勝手なことばかりで、何の為にここにいるのか分かんないね」

 「お前は十分よくやってくれている」

 「そう思うのは、斗真だけだよ」


 灯乃は弱々しく音を吐き捨てると、力なく座り崩れた。

 さし込んでいた陽の光が雲に遮られたのか、部屋中が暗く陰り、更に冷え込む。


 「私、頑張ろうと思ってたけど、空回りばっかり。皆の足引っ張って、雄二にもいなくなられちゃった。ちょうどいいのかな、私がいなくなるのって」

 「いつもにも増して自虐的だな」

 「だっていいところないんだもん。潮時ってやつなのかも。高望みしちゃったからバチが当たったのかな」

 「高望み?」

 「皆に必要とされること」

 「……確かに贅沢な望みだな」


 彼女の言葉をそのまま肯定するように斗真がボヤくと、やっぱりかと灯乃は両膝を抱え込んだ。

 どんなに慰めの言葉を並べても、彼の本心もきっと想像通りの考え。

 何処かで彼だけはと、期待していたのだろうか?

 何だか、より惨めな気持ちを灯乃は覚えたような気がして項垂れた。

 ……だが、その時。


 ――こつん


 突然背中に何かが触れ、灯乃はドキリとした。

 斗真の背だった。

 彼女の背に合わさるように片膝をおって座り、優しい温もりを与える。

 温かい、とてもホッとする。

 

 「……一人じゃ、駄目か?」

 「え?」

 「俺はお前を必要としている。俺だけじゃ不服か?」


 斗真は訊ねながらも、半ば強要するように囁いた。


 「前にも言ったな。俺には力が必要だと、星を助け出す為に」

 「うん……。でもそれは私じゃなくて、紅蓮の三日鷺の方で……」

 「俺には勇気がない。現実と向き合う勇気が」

 「斗真……?」


 彼の声音が、はっきりとした口調でありながらも、灯乃には心なしか頼りなく聞こえた。

 背中合わせでは表情を見ることはできず、どんな顔をして言ったのかは分からないが、以前目的を語っていた斗真はもっと迷いなくまっすぐだったと、強い意思を持った顔をしていたと、灯乃は覚えていた。

 それなのに。


 「無様なものだな。力を失くすと、気持ちまで弱くなるなんて。考え方も先に進もうと焦っているだけで、結局目の前の現実から逃げているだけだった。おかげで状況は悪くなる一方だ」

 

 斗真は苦しそうに眉を顰めながらも、微笑する。


 「でも。お前は言ってくれた、一緒に行こうと。俺と星が話し合えるように沢山チャンスを作ると。その言葉に俺は救われた。力を貰った気がしたんだ。お前がいれば逃げずにあいつと向き合える、取り戻せる、そう思った」


 斗真から吐き出された想いに、灯乃はつい引き寄せられるように振り返ると、同じように振り返った斗真と目が合った。


 ――そして俺は、お前を手放せなくなったんだ。だから……


 「お前がいなくなるなんて、そんなことさせない。絶対に」


 そう呟いて向けられた彼の瞳はまっすぐで、灯乃の心をまるで貫くように真摯に映った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る