第44話
1限目の数学の授業が始まる。
休憩時間の時とは違って静まり返ったその教室で、黒板に書く先生のチョークの音だけがやけに響いた。
雄二と仁内はその静寂の中で、ノートをとりながらもヒソヒソと話す。
「……おい、さっきの奴は大丈夫なのかよ?」
「さっきの奴って、みつりのことか?」
「何かやべぇ目して灯乃を見てたぞ」
「……いつものことさ」
雄二は少し寂しそうに囁くと、そっと灯乃の方を覗いた。
彼女は懸命にノートをとりながら、真面目に先生の話を聞いている。
こちらの視線には全く気づいていない。
それほど真剣なのだ。
「学校では俺、なるべく灯乃と話さねぇようにしてんだけどな」
「は? 何だそれ」
「それより、お前が気づくなんてな。早速何か起こるんじゃねぇか?」
「てめぇ、いい加減にしろよ。ぶっ殺されてぇのか?」
「何しに来たんだよ、ちゃんと情報収集しといてくれよ? 俺、昼休みはミーティングがあって動けねぇんだから」
「はあ!?」
雄二の言葉に、仁内は過剰に反応し、机をドンと殴るようにして立ち上がった。
「ふざけんなよ! 全部押し付ける気か!?」
「んなこと言ってねぇだろ。ただ昼は手が離せねぇっつんてんだ」
「一緒じゃねぇかよ!」
「一緒じゃねぇよ!」
――ゴホン
するとその時、何処からか咳払いする音が聞こえ、二人がギクッとしてそちらを向くと、クラスメイト達の視線の中、その前線に立つ不機嫌な数学教師がこちらをしっかりと睨みつけていた。
いつの間にか二人の音量が最大限にまで膨れ上がっていたことにようやく気付く。
灯乃が呆れてこっそりと溜息をついていた。
「さて雄二君。だいぶ余裕があるようだから、次の問題を解いてもらおうかな」
「う……」
嫌味をたっぷり込めた先生の言葉に、雄二はしまったとガックリ肩を落とした。
そういえば、今日は問題を当てられる日。
どのみち当てられていたのだからと思えば、諦めもつくか。
雄二がどんよりとした気持ちを表すように重い足を引きずって歩くと、側で仁内がゲラゲラ笑った。
「はっは! ざまあみろ! あっはっはぁ!」
まるで蔑むように気持ち良く哄笑する仁内。
数学の苦手な雄二が、その上灯乃から勉強を教われなかったことを知っているが故に、尚も機嫌が良くなっているのだ。
そんな仁内を見ると、馬鹿だなと灯乃はつくづく思う。
まさに彼女のその勘が的中したのか、彼は先生にポンと肩を叩かれる。
「そうかい。君の方が余裕が有り余っているようだね。それじゃあ雄二君と交代、君に問題を解いてもらおうかな、仁内君?」
「…………え」
その途端、教室中を爆笑が飛び交い、ニヤニヤしながら戻ってくる雄二に、どんまい。と囁かれた。
「お前、緋鷺の坊ちゃんなんだから、進学校にでも行かせてもらってんだろ? まさか凡人の俺よりお頭が弱い、なんてことねぇよな?」
「そっ、そんな訳ねぇだろ! 見てろ!!」
雄二の単純な挑発に、あっさり乗る仁内。
雄二がさも答えを解っているような言い方をしてきているのが、余計気に障っているのだろう。
いい加減大人しくして欲しいと灯乃は心から願うのだが、黒板へ向かう仁内の挙動不審な歩き方を見ると、どうにも収まりがきかないように思えた。
――多分、いや絶対答えを解っていない
チョークを握り締めたまま、なかなか書き出さない仁内に、灯乃は内心痺れをきらしていた。
「もぉ……答えはこうなのに……」
彼ではなく、当てられたのが自分であったなら、すぐ答えられたのに。
そう思うと歯痒くて苛々する。
――仁内ではなく、灯乃であったなら……
「……え……?」
するとその時、急に仁内の手が動き出した。
すらすらと止まることのなく、軽やかに流れるチョークの音。
まさか本当は賢い奴なのか?と、雄二は自身の目を疑ったが、何故か仁内ですら驚いた表情をしているのを見て、すぐにそうではないことにハッとした。
――これは、動かされている?
その考えが雄二の目を仁内の主である灯乃へと向けさせる。
すると、そんな彼女の双眸が翡翠色の、三日鷺の瞳の色に変わっているのを雄二は見た。
「……あいつ、まさか……命令なしで、操れるのか?」
書き終えた仁内もまたそれを感じていたようで、周囲が称賛する声を上げていても、まるで耳に入らず、ただ灯乃の瞳の色を密かに気にしているのだった。
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