第37話
その頃灯乃は、亜樹に腕を引かれたまま脱衣所に来ていた。
まるで大浴場のロッカールームのように広いそこは、洗面台やメイクスペース、そしてたくさんのタオルや籠などが仕舞われている大収納スペースがあったが、それ以上に亜樹の趣味となる衣服が大量にハンガーにかけられているのを見て、灯乃は顔を引きつらせる。
「あっあの、亜樹様……」
「灯乃ちゃんのサイズに合ったものを幾つか持って来させたの。さぁ、綺麗にして来なさい。その間に着て貰うもの、選んでおくから」
そう言って、亜樹は手際よく灯乃が着ている物全てを剥ぎ取り、白いバスタオルでその裸体を巻くと、押し出すように浴場へと追いやった。
「あのっちょっとぉ!」
パシャリとガラス戸が閉められ、やれやれと諦めたように灯乃は伸ばす手を引き戻す。
辺り一面に広がった真っ白な湯気が快晴の空へ上っていく――露天風呂だった。
曇った戸の向こうは亜樹のシルエットが忙しなく動いているのだけが映り、いったい何を着せられるのかと灯乃はゾクッと身震いしながらも、とにかく露天風呂の縁から入り、湯に浸かった。
「……はぁ、気持ちいい」
徐々に身体が温まって、疲れがじんわり取れていく。
後のことはさておき、今はゆっくりするのも良いかと、灯乃は縁の岩に背を預け、瞼を閉じた。
――ここ数日で、ガラリと変わってしまった日常。
朝から学校へ通い、授業が終われば家で母と過ごす。
そんな平凡な日々だった筈なのに
瞼の裏側に、柔かに微笑むトキ子の顔が浮かぶ。
――今は何処にいるのかさえ分からない。 帰る家も、もう無い。
そもそも、私は私なの?
私は誰? これからどうしたらいい?
――私は、誰に頼ればいい……?
唇が震えていた。
怖い。先のことを考えるのに、灯乃は恐怖を感じた。
泣きたくて、叫びたくて仕方がない。
――誰か、助けて……!
「誰かいるのか?」
ハッと、その時灯乃は目を見開いた。
今の声は、よく知っている。
視界いっぱいの湯気の向こう側から一つの人影が近づいて来た。
――この声は……
「斗真?」
「灯乃!?」
ぼんやりと灯乃が振り向く反面、斗真は頬を紅潮させてすぐさま背を向けた。
そんな彼の様子に、灯乃も現状を思い出して真っ赤になった顔を逸らす。
「ごっごめん! えっと私、斗真がいるなんて知らなくて……」
「いい。俺はもう、出るところだから」
そう言ってお互い見ないようにして、斗真はさっさと脱衣所の方へ歩いていく。
しかしそんな時、ガラス戸の向こうから亜樹の楽しそうな声が聞こえてくると、途端に斗真の進む足が止まった。
「何で叔母上が……!?」
「えっと、亜樹様が入って来いって、私をここに」
「なっ!?」
事情はどうあれ、彼にとって亜樹は苦手の部類に入るのか、出るに出れない様子で再び湯船に沈んだ。
そんな斗真をちらっと横目で見ながら、灯乃は呟く。
「もしかして、斗真も遊ばれたことがあるの?」
「変な言い方をするな。……昔の話だ」
どうやら図星のようで、亜樹の迷惑な趣味の餌食になっているのは女の子だけではなさそうだった。
可愛い子、と言っていたから、幼い頃の斗真はきっと可愛かったに違いない。
「まったく。油断するなと忠告しておいたのに」
やむを得ず斗真はその場に留まり、愚痴をこぼす。
二人とも気まずそうに背中合わせで浸かりながらも、とりあえず湯気のおかげで視界が悪く、互いが見えにくいことだけには内心ホッとしていた。
しかしそれでも、バクバクと心臓の音が聞こえてしまうのではないかと、二人は気が気でない。
「だって、雄二を学校に行かせてあげたくて。亜樹様にお願いしたら、何とかしてくれるんじゃないかなって」
灯乃はぶくぶくと水面で唇を震わせ、申し訳なさそうに身体を縮こませた。
――雄二の為、か
斗真は心の中で何かがチクリと刺さる感覚を覚えた。
雄二の為だったら、灯乃は簡単に忠告も忘れてしまうのだろうか。
――俺の言葉は、届かないのか……?
「なぁ、灯乃。雄二とは幼馴染みと言ったな?」
「え? うん、そうだけど?」
斗真の鼓動が高鳴っていく。
「……それだけなのか?」
「え……?」
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