第38話
「やれやれ、とんだ災難だった」
道薛は頂いたばかりの紺色の着物にやむを得ず着替え、水道水で髪の汚れを洗い流し、白のフェイスタオルで丁寧に拭いて乾かしていた。
彼の黒い短髪は、少し太くかたい。
最近は密かに抜毛を気にしているようで、タオルで乾かす手がより慎重に動いている。
するとその時、またもや先程と同じ慌しい足音が道薛の方へと近づいて来た。
「ふふ。二度も同じ手に引っかかる道薛ではありませんぞ!」
自信満々の笑みで、道薛は荒々しく走ってくる雄二を見定めると、探している春明のことを考えて撒き散らす土埃を避わすだけでなく、直接彼の腕を掴み上げて止めた。
「オッオッサン!?」
「雄二殿。先程から春明様がお探しになってま……」
しかし。
――ドカッ!!
その瞬間、道薛の後頭部を朱飛の足が蹴り上げた。
どうやら彼女は雄二を狙ったつもりだったようだが、間が悪いことにそこへ道薛がたまたま割り込んでしまったのだ。
そして更に間が悪いことに、道薛は程良くして池に飛び込む羽目になった。
「ちっ、外しましたか。申し訳ありません、道薛殿」
雄二以上に心のこもらない謝罪を吐き捨て、朱飛はその隙に逃げ去った雄二を追いかける。
数秒後、遺棄された者のように底から静かに浮き上がってくる道薛を気にかけたのは、池でのんびり泳いでいた鯉達だけかもしれない。
「雄二君、何処へ行ったのかしら?」
そして、またも行き違いになった春明が通り過ぎようとしていたところでそれを発見し、吃驚する。
「アンタ、さっきから何やってんの?」
彼がどうしてこうなったか分からないが、春明は辺りを見回して更に頭を悩ませた。
ひびが入り今にも折れそうな柱に、幾つもの穴が開いた床。襖は破れ、ガラス戸もわれているのがある。
敵襲かとも思ってしまうが、そんな気配は感じられない。
けれど雄二に危機が迫っているような気配は感じ、春明は捜索を急ぎ、その場を離れた。
もちろん、道薛は放ったまま。
するとその後でやって来た仁内が、その惨状を見て拳を震わせた。
「……あいつら、ひとん家で……!」
そしてそれは邸内でも騒ぎになり、脱衣所にいた亜樹にも報らせが走る。
「亜樹様っ、大変でございます! 邸内が!」
「何事なの?」
「仁内様がお連れになった――」
そこまで使用人が言うのを聞くと、亜樹は最後まで聞かずに怒りを沸騰させ、ドスッと重みのある音で立ち上がった。
「あの馬鹿息子がまた何かやらかしたのっ!!」
「えっ、いえっあのっ」
「何処なの!? 早く案内なさい!」
亜樹は荒ぶった声を上げると、使用人を引っ張って走っていった。
バタバタと騒ぎ立てるその音をガラス戸の向こうで灯乃は聞き、視線がそちらを向く。
「何かあったのかな?」
「えっ……あぁ……何だろうな」
灯乃の気が亜樹の様子に逸れたことで、斗真はハッとした。
――俺は今、何を訊こうとした……?
どうかしている。
余計に恥ずかしさが増して、斗真は真っ赤な顔を俯かせた。
灯乃と雄二の関係なんてどうでもいい筈なのに、突発的なこの状況に対処出来なくて、調子が狂ってしまう。
女性の、灯乃の肌を見てしまうと……
斗真は自身が見た光景を忘れようときつく目を閉じた。
しかしそんな思いとは裏腹に、たった一瞬見ただけなのに瞼の裏側で思い描いてしまう。
彼女の白い肌を。思った以上に華奢なその肩を。
――何を考えているんだ、俺は……っ!
「先に出るぞっ」
居た堪れなくなって、斗真はザバッと湯船から勢い良く立ち上がった。
亜樹がいなくなり、出て行くなら今がチャンス。
そう思ったのだがそれは灯乃も同じで、互いに立ち上がった瞬間に身体がぶつかり、体重の軽い灯乃の方が弾かれた。
「わっ!」
「灯乃っ」
斗真は咄嗟に手を伸ばして彼女を引き寄せると、自らが下敷きになるよう身を挺して湯の中に倒れていった。
バシャンという音と共に、一斉にたくさんの空気の泡が立ち上り、二人の身体が重なる。
すると、灯乃の目の前に斗真の鍛え上げられた胸板が現われ、まるで火を噴く程の赤い顔で、彼女は思わず悲鳴をあげた。
「きっ……きゃぁぁぁっ!!!!」
それは邸内に響き渡り、雄二が逸早くビクッと反応する。
「――灯乃?」
しかしその瞬間、まさに朱飛が地面を強く蹴って高く飛び上がり、上から雄二を狙っていた時だった。
それに気づくのが僅かに遅れて、雄二は回避出来ずに目を瞑る。
――もう駄目だ、終った……
朱飛の殺気がビリビリと頬に刺さり、次にやって来るであろう激痛に備えて彼は覚悟を決めた。
が、その時。
「――朱飛」
ギリギリのところで春明が雄二の前に立ちはだかり、朱飛は瞬時に角度を変えて二人から攻撃を逸らした。
「春明様……!?」
「何をしてるの? らしくもなく暴れちゃって」
「これはそのっ……申し訳ありません」
睨んでくる春明の目に強い威圧感を感じて、朱飛は思わず頭を下げる。
まるで悪戯を怒られた子供のようにシュンとして俯く朱飛を見て、雄二はホッと肩を撫で下ろし座り込んだ。
春明が一緒なら、もう攻撃はして来ないだろう。
「春明さん、助かったぜ。いや、それよりも今灯乃の声が!」
先程耳にした悲鳴を思い出して、雄二は急いで声のした方へ走り出す。
春明と朱飛も続いて追いかけるが、そんな時、怒りを露にした仁内もその場に合流する。
「テメェら、いい加減にしろよぉっ!」
所々破壊された箇所を目にして文句をぶちまけてやろうと思っていたが、見向きもせずに走り去っていく三人と入れ違いに全力疾走してくる
「仁――っ!!!! また家をメチャクチャにしてぇぇっ!!」
「俺じゃねぇぇぇっ!!!!」
悲痛の思いで叫ぶ仁内だったが、亜樹は聞き入れることなく般若顔で彼に突進していく。
この状態になったら、もう何を言っても無駄だ。
仁内は意を決して戦斧を構えるが、すでに気合い負けし腰が引けている彼に、勝てる要素は一つもなかった。
素早く亜樹に腕を掴まれると、まるでハンマー投げのようにぐるぐると回され、空の彼方へ仁内は放り投げられた。
するとそこへ、たまたま一人の男性が通りかかる。
「まったく。一度とならず二度までも酷い目に遭うとは」
再び着替えを終えた道薛が何も知らずにゆったりと歩き、更に髪をタオルで丁寧に拭って乾かすことに集中していた。
タオルに数本毛が抜け落ち、彼から一層深い溜息がもれる。
そんなところへ、仁内の手から離れた斧が弧を描きながら飛んで来て、道薛の頭上ギリギリを掠めるようにして通過していった。
それはまるで髪の稲刈り――ちょうど頭部の真ん中の髪を刈り取っていき、道薛は何が起こったかすぐに理解出来ず立ち止まる。
「……頭の上が、急に涼しくなった?」
彼にとても優しい風が吹いた。
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