秋の七草
増田朋美
秋の七草
秋のはずなのに暑い日だった。今日も、本当に暑いなあと言いながら、杉ちゃんはいつも通り、製鉄所で水穂さんの世話をしていた。もしかしたら、こんな暑い中で、不満もいわないで、水穂さんの世話をしてあげているのは、杉ちゃんだけかもしれない。みんな一日か二日水穂さんの世話をするのならいいのかもしれないが、毎日毎日なにかするとなると、嫌なきもちになって、何もしなくなってしまう。まあ、介護というのは、概ねそんなものだ。だからこそ、介護犯罪という言葉も生じてしまうのだろうし。
その日、杉ちゃんがいつもどおり、水穂さんにご飯を食べさせようと、躍起になって居る時。こんにちは、という声がして、浜島咲が、やってきたのがわかる。杉ちゃんがいいよ入れと言う前に、咲は、上がらせてもらいますと言って、どんどん四畳半に入ってきてしまった。
「あら、右城君、今日は何を食べているのかな。美味しそうな栗ご飯じゃない。いいわねえ、右城君。杉ちゃんにご飯を作ってもらって、食べさせてもらえるんなんて幸せよね。」
咲は、そう言いながら、水穂さんの隣に座った。お琴教室の帰りだったようで、年齢に合わないカーキ色の色無地着物を身に着けて、銀の作り帯を身に付けている。
「一体どうしたの?また着物のことで、わからないことでもあったんか?」
と、杉ちゃんが言うと、
「まあ、用事はそういうことなんだけどね。ちょっと教えてほしいんだけど、既婚の女性じゃないと、二重太鼓はしてはいけないのよね?」
と、咲は杉ちゃんに聞いた。
「ああそうだ。二重太鼓は、既婚者の礼装用に使う結び方で、若い女の子がするもんじゃないよ。」
杉ちゃんが答えると、咲はそうよねと言った。
「それじゃあ、やっぱり彼女の思い違いよね。いやねえ、若い女性のお弟子さんが居るんだけど、其の人が、みんな社中の人たちは、二重太鼓をしているんだから、自分もそうしなければ行けないかと聞いてきたのよ。未婚の女性は、二重太鼓ではなく、文庫とか、立て矢とか、そういう結び方をするものよね。」
「おう、其のとおり。まあ、たった一人で文庫ってのもおかしいように見えるかもしれないけどさ、一応、着物も帯も、年齢制限ってもんは有るからさ。それを、ちゃんと守るというのも大事だよね。日本の伝統文化だからね。」
杉ちゃんは、そういった。
「わかったわ。一人だけ文庫というのは、何もおかしなことじゃないのね。大勢の人たちが、二重太鼓をしているからって、未婚の女性が、二重太鼓で揃える必要は無いってことね。私、彼女にちゃんと言い聞かせるから。そういう事は、何もおかしな事ではないのね。」
咲は、手帳に、若い人は文庫でオッケーと書き込んだ。未婚の女性は、二重太鼓はしなくていいとも書き込む。
「浜島さんは、生徒さんへの面倒見がいいんですね、そうやって、着物のことを教えているんだから。」
と、細い声で水穂さんが言った。
「ええ、そうなんですよ。だって、誰も着物の事は教えないんだもん。誰かが教えてやらなくちゃ可愛そうよ。みんな、理想的な着物を着ても褒めることもしないわ。具体的に、こういう感じの着物を着ていけば理想的なんだって、誰も教えないのよ。ただ、それは格が低すぎるとか、そういう批判的な事ばっかり。じゃあ、何を着たらいいのかなんて、誰も教えない。だったら、誰かが教えなくちゃいけないわね。それなら、私がその役目になればいいと思ったのよ。まあ、私も、完璧な着物の知識があるわけじゃないけど。そういう人間がいないと、日本の伝統は、知っていて当たり前というわけじゃないという事を、偉い人たちは知らなすぎだわ。」
と、咲は、やれやれという顔をした。確かに、着物というものは、知っていて当たり前的なところがある。何も知らないで、頑張って気付けをしたのに、それでは、格が低い、だめ!といきなり批判されて着物を着るのがすっかりいやになってしまった女性を杉ちゃんも知っているから、咲のような人がいてくれると心強い。
「そうなんだね。はまじさんがそうなってくれたら、みんな嬉しいとおもうよ。日本の文化を知らない日本人が今多いから。そういう人が、お琴習いに来ることも、本当は大いに褒めてほしいことでも有るんだけど。」
杉ちゃんは、咲に言った。
「そういうことなんだから。あたしはね、そうやって何もわからないで入ってきちゃったお弟子さんたちに、教えてくれるちょっとした存在がいてくれたら、いいなあと思うのよね。」
「そうですか。浜島さんも、嬉しいですね。そういうふうに頼りになることを、してあげてるんだから、お弟子さんたちから尊敬されているのでは?」
水穂さんがそう言うと、咲は、
「いやねえ、右城君たら。私は、頼りになる存在じゃないわよ。まだまだ、着物の事は勉強中。杉ちゃんみたいな人がいてくれないと、何もわからないことが多すぎるわ。着物のことはまだまだよ。」
と、照れくさそうに言った。
「今、秋の七草っていう曲を手伝ってるんだけど、なかなか博信堂の楽譜が見つからなくてね。それで苑子さんの楽譜を借りて、やらせてもらっているんだけど。でも、コピー譜じゃ、やりにくいわよね。昔の楽譜は、貴重な楽譜だけど、使いにくいわ。それだけでは、やっぱり、昔の事を伝えていくのは、難しいわ。」
そのまま仕事の愚痴を漏らしてしまった咲に、杉ちゃんも水穂さんもしんみりとなった。しばらくして、水穂さんが少し咳き込んだ。杉ちゃんが急いで彼の口もとを拭いてやった。
「ああ、ごめんなさい、思わずぐちをこぼしちゃったわ。こんな事いうつもりじゃなかったのにね。右城君だって、ちゃんとやること有るんだから、いつまでも寝ていないで、早く良くなって。」
と、咲は杉ちゃんに口元を拭いてもらっている、水穂さんを見てそういう事を言った。
「ああほらほら、またやる。」
と、杉ちゃんが言いながら、水穂さんの口元を拭いてやっている。口元を拭いているちり紙は、真っ赤に染まってしまうのであった。
「右城君はいいわねえ。先日起きた、介護殺人の被害者は、そうやってもらうことすらできなかったのよ。」
咲は、思わずそれを見て言った。
「何?介護殺人なんてそんな事件があったのか?僕、新聞もとってないし、テレビも持ってないから、全然知らなかった。」
杉ちゃんが、ちり紙を片付けながらそうきくと、
「ええ。噂になってるわよ。吉原、あの富士の吉原なんだけど、そこの風俗店に勤めている母親が、重い病気を持っている子供を殺害したって言う事件。きっと、右城君と似たような症状を持っている子供だったのかもしれないけど、何でも、夜間に発作に襲われて、何もしてもらえないまま窒息死したんですって。」
と、咲がスマートフォンのニュースアプリを眺めながらそういった。ほら、ここにも書いてあるわ、と杉ちゃんにアプリを見せた。杉ちゃんが読んでくれと言ったので、咲は事件の概要を読んだ。確かに概要は彼女の言ったとおりだった。
「なるほどねえ、女郎が、子供を放置して、外出してしまったのか。全く、そういうことになるって、女郎は予測してなかったのかな。子供が一人居るって事は、そういうことなのにね。」
と、杉ちゃんが言った。
「そうですね。女郎というか、風俗をやっているという人は、ワケアリの人ばかりだから。もしかして、その子の事を思って、女郎をしていたのかも。」
やっと咳き込むのが止まった水穂さんが、杉ちゃんの話にあわせた。水穂さん、無理しなくていいと、杉ちゃんが彼を止めた。
「まあ、そういうことかもしれないな。そういうことなら、女郎は、やりきれないな。水穂さんも、あんまり無理はしないで、度を越さないで過ごしてくれよ。」
「そういうことじゃないかもしれないわよ。ほら、このニュースにも書いてあるんだけど、その女性は、なんでも、交際相手のところに遊びに行っていて、子供の事は、忘れていたと供述しているらしいわよ。全く、嫌な人が、親になっちゃう時代になったもんだわ。」
杉ちゃんがそう言うと咲がスマートフォンを見せた。
「まあ確かに、今の日本人はものを軽く考えている傾向があるからね。」
咲の話を聞いて、杉ちゃんはすぐに合わせた。
「でもどうして、子供をなんとかしようと思わなかったんですかね。子供が居るとしたら、子供が邪魔と思うことは、ほとんど無いと思うんですけど。それは、なかったんでしょうか。」
水穂さんが、そう呟いた。と、同時に、四畳半から西から強い風が吹いてきた。もう夏の風ではなく、秋の冷たい風だ。もう風はとっくに秋を告げている。こんなに暑い気候が続いているのに、風は秋を告げているということである。
「もう寒くなって来たわね。そんなペラペラの着物で、右城君も寒いんじゃないの?そろそろ羽織を着たら?」
と、咲が水穂さんにいうと、水穂さんはすみませんといって、枕元に置いてあった茶羽織をとって、急いでそれを着た。
ちょうど其時。
「杉ちゃんいらっしゃいますか。隣の家の人に聞いて見ましたら、こちらに来ていると聞いたものですから、こさせてもらいました。」
誰だと思ったら、小久保さんの声だった。杉ちゃんたちは、これは驚いたという顔をして、それを聞いた。
「どうしたんですか。小久保さんがわざわざここに来るなんて。」
と、水穂さんが聞くと、
「ええ、実は、あの、子供を放置した女性の弁護を引き受けたのですが、ちょっと、杉ちゃんに聞きたいことがありましてね。実は彼女、弁護をするに当たって、何も口を聞いてくれないんです。そういう事はよくあることですが、弁護する材料が何も無いことにもなりますので、外部の人に聞いて情報を得るしか無いんです。それで、ちょっと、杉ちゃんにお尋ねしたいのですが、二重太鼓という結び方は、未婚者はつけては行けないのですよね?」
と、小久保さんは、弁護士らしく急いでそういった。ということは、先程話題にしていた女郎の弁護をしているのは小久保さんだったのか。その女性が、小久保さんと口を聞こうとしないので、それでは誰かに聞くしか無いと、小久保さんは思ったのだろう。
「ウン、確かに二重太鼓は、既婚者の礼装に結ぶ結び方だ。未婚者はつけないよ。それがどうしたの?」
と、杉ちゃんが言うと、小久保さんは、咲がしたのと同じ様に、手帳を取り出して、二重太鼓は既婚者のみがつけると書き込んだ。
「小久保さんどうしたの?もしかしたら、事件に関わりがあったとか?」
咲は、小久保さんが同じ質問をしたので、面白いと思ったのだろうか、そういう事を聞いた。
「実はですね、その事件が起きた日のことですけれどね。あの子供が死亡した時刻の一時間ほど前のことです。女が、あの親子の住む部屋の中へ入っていったのを、向かい側のマンションに住んでいた住人が目撃していました。これはまだ極秘では有るんですけれどもね。報道では、母親は子供が死亡した時、外出して留守だったということになっていますが、もしかしたら、母親以外の人物が、その部屋に入ってきたのかもしれません。目撃した住民の話によりますと、女はいつも母親がするリボンのような帯は結んでいなかったというものですからね。母親は、女郎ということもあって、戸外へ出るときは、いつも文庫結びをしていたというのです。文庫結びとは、あの蝶結びに似たような結び方ですよね。其時だけ母親が別の結び方をしていたということはあり得ることなのかなと思って、杉ちゃんに聞いてみました。」
小久保さんは、杉ちゃんたちにそういった。確かに、帯の結び方というのは、年齢制限が非常に厳しいものである。文庫結びと呼ばれる蝶結びによく似た結び方は、着物に詳しい人であれば、若い人の結び方であると言えるだろう。そして、対象年齢以外の結び方を誤ってしてしまったりすると、街灯で、お年寄りに、若いくせに年寄りの結び方をするのかなどと批判される事もある。それが嫌だから、着物を着るときは、ちゃんと対象年齢にあった着物を着なければならないし、対象年齢にあった帯結びをする。それが当たり前になっている。
「そうだねえ。着物を着るっていうのは、プライバシーというか、そういうものは全く皆無と言ってもいいかもしれないね。色で自分の年齢とか、未婚既婚とか、表していたんだし。」
と、杉ちゃんが言った。
「でも、今の時代ですと、情報網も発達していますし、予め、年を取ったら二重太鼓にする、ということを知ることもできるでしょう。それを予め知っていれば、年齢をごまかすことだって、今の技術ではできてしまうのではないでしょうか。」
水穂さんが、小さい声で言った。そうですね、と小久保さんも頷く。小久保さんは、自分も同じことを考えていましたといった。あの、母親が、別の着物と帯を付けて、子供を殺害するために一度戻ってきたのではないかと。
「そうなると、あの女性には、はっきりした殺意があったということになりますな。ただ、仕事に夢中で子供を放置してしまったという事にはならなくなりますね。それとこれとは、話が別です。また視点を変えて調べていかないといけません。彼女が何も、口を聞いてくれませんからね。こっちも、色々可能性を考えていかなきゃいけないな。」
そう、小久保さんは言った。水穂さんが、小久保さんも大変ですねという。確かに、悪事を行った人間の、処罰を少しでも軽いものにするようにしなければならない、という仕事はなかなか大変な事もある。それは同時に、良いところを探すということにも繋がっていく。
「それなら、こういうことになるのかな。その女性は、子供さんを放置して外出し、別の帯を締めて戻って、子供さんを殺害して、また外出してしまったということですねえ。」
「しかし、本当に殺害する理由なんかあったんでしょうか?私は、そこが変だと思うんです。だって、いくらなんでも実の母親ですし、子供を放置して当たり前だという環境ではなかったと思うし、、、。」
咲は、小久保さんの話に、そう割って入った。一応同じ女性として、咲はそう思うのであった。いくらなんでも、子供を放置して外出するとか、また変装までして戻ってきて殺害するとか、そういう心情が理解できなかったのである。
「まあねえ、はまじさん。今の時代、何でもボタン一つでできちまうからさ。おっきなストレス抱え込むと、対処できなくなっちまう人も居るんだよな。それは、何というのかなあ。ちょうど良すぎるというか、そういう時期が多くなりすぎちまったということでも有るんじゃないの。」
杉ちゃんが、いきなり哲学的な事を言ったので、咲はびっくりするが、なるほどと思い直した。確かに杉ちゃんの言うことも間違いではないのかもしれなかった。
同時に、またニュースアプリが音を立ててなった。咲が見てみると、アプリは先程の事件の事を伝えていた。それによると、女郎だった母親は、自分の犯行であることを隠すため、わざと既婚者の着る着物を着て、自宅に戻ったのではないかという事が関係者への取材でわかったという。全くマスコミってなんでこんなに、行動が速いんだろうなと咲は思わず言ってしまった。もうちょっと、事件がわかるまで待っててくれればいいのに。なぜか知らないけど、小さな事でも嗅ぎ取って、大きく報道してしまう。それがマスコミだ。
「まあ、そのうち、マスコミは、女郎の、子供を殺害した動機も嗅ぎ取ってしまうのではないかな。」
と、杉ちゃんが言う通り、マスコミがそれを感づくのは、時間の問題だった。
「だけど、どうしてこんなに早く報道するんでしょうね。そんな事、報道しなくたっていいじゃないかと思うんですが。」
水穂さんが、そういう通り、咲も同じことを思っていた。
「もう報道されちゃいましたか。まあ、仕方ないですね。我々との情報合戦ですから。それよりも、杉ちゃん、帯の結び方について教えて頂きありがとうございました。これで留置所に戻ります。また続けなければなりませんので。ありがとうございました。」
小久保さんはよいしょと立ち上がって、カバンをとって、四畳半を出ていった。そういう事件に関わりのある人であれば、なんとかできるのかもしれないが、杉ちゃんも水穂さんも咲も、一般聴衆には何もできないのだった。ただ、ニュースを聞いて、ああだこうだと言い合うしか無い。そういうことしかできないのに、ニュースはものすごく大げさに報道するから、余計に不安を煽るだけである。それでは、なんだかニュースの意味が無い気がする。なんのために、そういう大げさな事を報道するのだろう。咲は、そこがわからなくて、大きなため息を付いた。
「結局さ、二重太鼓は、若いやつとか、未婚のやつがする結び方じゃないんだな。それを、今回わかってくれればそれでいいや。」
杉ちゃんが、でかい声でそういう事を言う。確かにそうかも知れなかった。それ以外
咲の生活に結びつくものはない。でも、何故か、何回も繰り返して行われる報道のせいで、咲は、あたかもその事件を目撃した人のように、心が動いたのであった。そうやって、心を動かすということは、多く行われているだろうが、肝心の生活に結びつくものが、ほとんど無いのが今の社会なのかもしれなかった。そういう社会に生きている。だから、そういうときは、耳栓をしっかりしておくことが、肝要なのかもしれなかった。
外は、いつの間にか、赤い空になっていた。空は秋に特有の夕焼けである。もうすっかり空は秋になっていることを示していた。でも、どこかまだ暑くて、夏の趣が残っている。季節が変わっていくというより、だんだんめちゃくちゃになっている。そして、人間たちに残っていくものは、気候のおかしくなった事による不調と、変わることへのおそれと、大量の情報を浴びすぎた、疲れた心しか無いのかもしれない。
秋の七草 増田朋美 @masubuchi4996
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