Side: S

第8話 海の神

「もう行かなきゃ。ローラ、今までありがとう。……さよなら」


 わたしは、船のデッキから海に飛び込む。振り向くことは、しなかった。

 海水に触れた途端、わたしの身体は色とりどりに光る泡に捉えられた。足がもつれて、動けなくなる。


『おかえり、サラ姫よ』


 海の底から、海鳴りと混ざったような低い声が聞こえる。


「海神さま……ですか?」

『そうだ。小娘の魂は今、返した。さあ、我々の住処へ帰ろう』


 頭の中に直接響いてくるその声を聞けば、全身が凍り付くような恐怖を感じないものはいないだろう。

 逆らえるわけがない。これが、神、というものなのだろう。


 なんだか、息が苦しくなる。


 しかし、そのときだった。



「サラ、待って!!!!」


 どぼんっっっと、音がして、何かが降ってくる。何かなんて確認する必要もない。

 ウエディングドレスのまま、海の中に落ちてきたローラだった。


「ローラ……? ちょっと、何やってるの?」


 急いでローラを助けようと近寄る。しかし、ドレスが絡みついてきて、思ったように動けない。

 どうしてまた、こんなことを。

 

 初めて会ったときのことを思い出す。

 本当に、ローラはめちゃくちゃな子だ。


『サラ姫よ、何をしているのだ』


 低い声が鳴る。海神さまが怒り出す前に、なんとかローラを逃がさないと。

 そう思っていると、急にローラの声が聞こえ出した。


「海神さま。せっかく、私に魂を返していただいたのに、ごめんなさい」

「……ローラ、何を言っているの?」

「たとえ神様が相手でも、サラは、渡しません」

「だめ……ローラ、そんなこと言ったら……」


 その瞬間、雷が落ちた。空は雲に覆われて真っ黒になり、強い風をともなった雨が降り注ぐ。


『なんと愚かな』


 海神さまは言うまでもなく、怒っているようだった。

 契約を何度も反故にされそうになったのだ。今度こそ、もう許してくれないかもしれない。

 

 そのときだった。


「お待ちください」


 わたしたちの目の前に現れたのは、海の魔女、リリスだった。


「海神さま。どうかお許しください。契約を違えたのは、この私、リリスの責任でございます」


『どういうことだ』


「ご覧ください。サラ姫はもう、人魚ではありませぬゆえ。海神さまのところへ遣るわけにはゆきませぬ」


……そうか。そういうことか。どうりで、息が苦しかったわけだ。


わたしはそこで初めて、自分の身体がまだ人間だということに気がついた。


「サラ、こっちに来て。はやく」


 いつのまにか、ローラはわたしの身体を泡から引きずりだし、船に向かって泳ぎだした。

 ローラ、いつの間に、こんなに泳ぎが上手くなったの。

 こんなときなのに、ちょっと笑ってしまう。


「ローラ……ありがとう、来てくれて」

「サラってば、嘘が下手すぎるんだもの」


 船のデッキにたどり着いたところで、二人して笑い合う。こんなときだけど、ローラの笑顔を見ると安心してしまう。


「リリスさん、大丈夫かな……?」


 ローラが心配そうに見つめる先には、魔女リリスと、そのすぐそばに、今にも全てを飲み込んでしまいそうな大きな渦があった。


『愚か者どもが……!』


 低い低い、うなり声が聞こえる。わたしたちが逃げたことで、海神さまが怒り狂っているのだろう。

 だけど、魔女が杖を振り、何かを叫んだ後は、それも、すぐに止んだ。


 魔女はわたしに「人魚を人間にする薬」を渡した。そして「配合を変えた」とも言っていた。


 魔女はわたしに、「人魚を【本当に】人間にする薬」を渡したのだ。

 それをわたしにも黙っていることで、海神さまをも、騙した。

 わたしが身を投げて、ローラが魂を取り返すのを待っていた。


 きっとそういうことなのだ。


 でも、だとしたら、彼女は一体、それを何と引き換えにしたのだろう。


「リリス!!!」


 精一杯叫んで、再び海に飛び込もうとするも、わたしはローラに止められる。


「サラ、行かないで……」

「ローラ……でも」


 時は既に遅かった。

 魔女は大きな渦の中に飲み込まれ、雷も雨も止み、あたりは静かになった。


「リリス……」

「リリスさん……」


 わたしたちは、抱き合って泣いた。

 魔女はわたしたちを守って死んだ。私たちのせいで、その命を落とした。

 それは明らかだった。


 そのとき、大きな風が一吹き、私たちの髪を揺らして通り過ぎていった。


『大丈夫さ。儂はもう充分生きたよ』


 魔女の声だった。


『こちらこそ、感謝したいくらいだよ。これで、ようやく、終われる』

「リリス……どうして、そこまで」

『幸せになりなさい……私と、あの子の分まで』


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