【3】


「姉ちゃん」

 ノッドが囁いた。暗闇のなか応えはなく、声は宙ぶらりんに漂って消えた。

 一日の終わり。固い寝台の上、疲れた身体を藁に横たえながらも、少年は一向に眠ることができなかった。

「姉ちゃん」

 もう一度、今度はいくぶん大きな声で呼び掛ける。隣では父がいびきを立てていて、その向こうで母も身じろぎ一つしない。余程のことがない限り、聞きとがめられる心配はなかった。

「だめだよ」

 背を向けたまま、ミーシェは答えた。

「森に入っちゃ、だめ」

「ノアルに会えるんだよ」

 自分でも思いがけないほど強い口調だった。反応したかのように父が唸り、寝返りを打った。寝台の木組みがが、がたり、とやけに大きな音を立て、二人とも慌てて口をつぐむ。やがて思い出したように再びいびきが響く中、二人の間に気づまりな沈黙が降りた。

 黒い猫だった。

 どこから現れたのかは分からない。今からふた月前、肌を過ぎる風の冷たさがほんのりと和らいできた頃、気がついたらそれは村の中にいた。

 ぴんと立った耳に、深く澄んだ水色の瞳。乱れひとつない柔らかい毛並みにきれいに研がれた爪。どこかから流れ着いたにしては、あまりにもその容姿は整いすぎていた。

 最初に目撃されたのは脱穀小屋で、以後もたいていはそこで寝そべっていた。時々気まぐれに村の中をとぼとぼと巡ることはあるが、しばらくするとまた小屋へ戻っていった。道中、何かをくすねようとする素振りもなく、村の鶏などには目をくれることさえなかった。

 村人が近づいても、猫はおそれる様子もなく泰然としていた。手を伸ばすとぺろりとなめ、なでると気持ちよさそうに目を細めた。すぐさま村の子どもたちの間で人気になったのは言うまでもないだろう。

 特に、ノッドだ。彼はひと目見た時からこの猫に魅せられた。

 ノアルと名づけたのも彼だ。この地域で「黒」を意味する言葉である。ただしそれはあくまでもおまけで、自分の名前と語感が似ているからという理由の方が大きかった。

 村の仕事がない時、彼はノアルの元へと足を運んだ。その姿を眺めるだけで時間は過ぎていった。時には見つからないよう、自分の分の食事をこっそり分けることもした。もっとも、これは村の子どもなら誰もがやっていたことだったが。

 ノッドが来たのを見つけ、ぴょんと立つ尻尾。雑穀をゆっくり咀嚼する小さな口。食べ終わった後に満足げに細まる目。そして、彼を見つめて発せられる「にゃん」というお礼の鳴き声。その仕草のひとつひとつが彼の心を掴んで離さなかった。

 一方、大人たちは近場の調査を行った。猫が人間に慣れているのは間違いない。だとすると、もしかする偉い貴族のペットかもしれない。村の近くを通った際、何らかの事故ではぐれてしまった可能性がある。

 けれど、馬車や馬が通った跡はなかった。よく考えると、そんなものが近くを通ればいくら何でも目につかないはずがない。いや、そもそもこんな辺鄙な場所を馬車が通るなどありえるのだろうか。

 猫が村にやって来て、七日目。長老の掛け声の元、その処遇を巡って集会が開かれた。

 翌朝。

 ノッドは脱穀小屋の前で立ち尽くした。

 小屋はもぬけの殻となっていた。

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