【2】
それは、ひとつの塊だった。
その巨大さだけではなく、境界のはっきりしていることが余計にそう感じさせるのだろう。テーベ村の北へほんの半里といったところ、さながら天から降って湧いたかのように突如としてその森は広がっていた。
鬱蒼と茂った葉は頭上高く折り重なり、昼間でも中を見通すことはできない。うねるような枝がなまめかしく絡まり合い、岩盤質の大地に突き立った根は異常に太かった。正確なところは分からないが、五十戸ほどの集落であるテーベ村の百や二百は余裕で収まるだろう。
それほどの広さがあるのだから、多くの獣が闊歩していようものだが、森の外に出てくることはないようだった。少なくとも村人が野獣を目にすることはなかったし、家畜が襲われることもなかった。
ならば、少々の木々を伐採してもさほど危険はないのではないだろうか。
木材はいくらでも必要だった。ことに薪は命綱だ。
大陸の北東に位置するこの地域の冬は厳しい。陽は早く沈むし、雪は降らないものの山おろしの冷たさは絶筆に尽くしがたい。麦を割る前に薪を積め――村の長老が好んで使うことわざだった。
けれど一方、村人を尻込みさせる語り伝えがあった。語り伝えといっても、酒場で交わされる噂話と大差ないものだったが。
いわく、かつて森を開拓しようとした者たちはみな、体中に腫れ物ができて死んでしまった。いわく、それは疫病のように広がり村は全滅、その後数十年にわたり不浄の土地となった――
それらが真実かどうかは定かではない。おそらくは後代にこしらえられた作り話だろう。
だからといって、森を切り開こうと提案する者はいなかった。森には近づいていはいけない。誰も口にはしないが、それは村人の間での不文律となっていた。そのためにわざわざ大森林と逆方向、数里向こうにある小さな森へと足を向けなければならなくなったとしても。川に水を汲みに行くついでだ――大人たちはそう軽口を叩いて笑い合った。
けれど――
「みんな、臆病なんだ」
テトが言った。日に焼けた肌に、まっすぐな黒い瞳。十になったばかりで髪はまだ短く、結わいも入っていない。痩せた身体を覆うのは、使い古された無地のチュニックにズボン。小さな革靴も履きくたびれてよれが目立っている。
「あんなの、ただの森なのに」
村の外れから、遠く大森林をにらみつける。半里先からでも捉えることのできる黒い異容。晴れ渡った空の下、それはまるで地平から暗雲が湧き上がっているかのようだった。
「でも、入ったらみんな死んじゃうって」
ミーシェがおずおずおと口を挟む。小麦色の肌に、とろんと丸い大きな目。肩まで伸びる長い黒髪は頭巾に覆われている。身につけた赤のチェニックは色落ちが激しく、ほつれが目立った。背は彼女の方がいくぶん高かったが、いつもどこか遠慮するように肩を竦めているため、並べばむしろ小さく見えた。
テトが馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「あんなの、嘘に決まってるだろ」
「そうなの!?」
そう驚いたのは、ノッドだった。年は一つ下。二人と服装は似たり寄ったりだが、いくぶん身体の輪郭がふっくらとしている。そのせいで、食料を余分に食べているのではないかとあらぬ疑いを掛けられたこともあったが、幸いにも潔白は証明された。肉がつきやすい体質なのだ。
「何で嘘だって分かるの?」
「だって、みんな死んじゃったんなら、誰があの話を伝えるんだよ」
「あ」
考えてもみなかった、という顔で二人が声をあげた。ノッドが勢い込んで尋ねる。
「じゃあ、あの話は嘘なの? 森に入ってもだいじょうぶなの? それなら――」
「でも」
ミーシェが上目遣いに遮る。
「きっとお父さんに怒られるよ」
「まったく!」
テトが声を張り上げた。
「自分たちが臆病だからって、こっちにまで掟を押し付けるなって話だよな!」
そう言うと、これで終わりとばかりに村の中へとさっと踵を返す。一瞬見えた横顔には、どこかほっとしたような表情が浮かんでいた。
ミーシェが後を追う。二人の背と黒い森を代わる代わる見た後、後ろ髪を引かれつつもノッドはとぼとぼと後に従った。
空は相変わらず高く、雲ひとつなかった。
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